ロナウジーニョとは、ポルトガル語圏の愛称で小さなロナウドというような意味である。
本項では、ブラジルのサッカー選手、ロナウジーニョ・ガウショ(ロナウド・ジ・アシス・モレイラ)について記述する。
ロナウジーニョ(Ronaldinho, 1980年3月21日 - )ことロナウド・デ・アシス・モレイラとは、ブラジルの元サッカー選手である。元サッカーブラジル代表。
現役時代のポジションはFW、MF。180cm83kg。利き足は右足。
概要
ブラジル、ポルト・アレグレ出身。兄であり代理人を務めるロベルトは元Jリーガーだったりする。2004年と2005年の2年連続でFIFA最優秀選手賞、2005年にはバロンドールを受賞。リオネル・メッシの前のFCバルセロナの10番であり、エースとして2度のリーガ・エスパニョーラと14年ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝の立役者となる。
ブラジル代表には1999年にデビューし、FIFAワールドカップには2002年と2006年に出場。2002 FIFAワールドカップではロナウド、リバウドと共に「3R」を形成し、ブラジルを5度目の世界王者に導く。
代表での通算成績は97試合33得点。
バンダナと笑顔がトレードマーク。プレー中もいつもニコニコしている。
トリッキーで創造性溢れるプレーを持ち味としており、プレースキックの精度も高い。
全盛期(バルセロナ時代)はスピードに乗ったドリブル突破も多く見られた。2005年のエル・クラシコでは対面のセルヒオ・ラモス(当時19歳)とマッチアップし、何度も置き去りにしていた。その試合で自身の2ゴール目を決めた際、敵地サンチャゴ・ベルナベウのレアルサポーターからロナウジーニョに対するスタンディング・オベーションが起こった事は現在も語り草となっている。
当時はフィジカルコンタクトも非常に優れており、CLチェルシー戦では屈強なDFとして知られるジョン・テリーを正面から弾き飛ばしてドリブル突破しゴールを決めた。
そのスター性はファンのみならず対戦相手をも魅了し、2013年FIFAクラブワールドカップでは試合終了と同時にカサブランカの選手達に取り囲まれ、ユニフォームとスパイクを脱がされた後お持ち帰りされるという追い剥ぎのような光景が見られた。
愛称のロナウジーニョは「小さなロナウド」を意味しており、フェノーメノと呼ばれたロナウドと区別をつけるためにこの呼び名で定着した。また、南米のカウボーイを意味する「ガウショ」という愛称もついており、ロナウジーニョ・ガウショと呼ばれることもある。
経歴
生い立ち
1980年3月21日、ブラジルのポルト・アレグレで父・ジョアンと母・ミゲリーナの3番目の子供として生まれる。父親のジョアン・モレイラは元サッカー選手で造船所で溶接工として働いており、母は化粧品の販売員をしながら看護師となるために勉強をしていた。それでも一家の暮らしは貧しく、両親が共働きだったため幼少期は祖母や姉や親戚が面倒を見ていた。
父が元サッカー選手だったことに加え、9歳年上の兄・ロベルトが地元グレミオFBPAでプレーしていたこともあり、サッカーに囲まれて育つことになる。生後10か月の頃には父からサッカーボールとサッカーシューズを買い与えられ、以降サッカーに夢中になり、家の中や中庭で兄や4匹の飼い犬を相手にサッカーの技術を高めていたという。幼少期のロナウジーニョにとって憧れの選手は兄であり、独創的なテクニックは兄からインスピレーションを得たという。
7歳となった1987年に兄の後を追うようようにグレミオの下部組織に入団し、本格的にサッカーを始める。この頃、チームで最年少なうえに一番体が小さかったことから「ロナウジーニョ」というあだ名で呼ばれるようになる。
8歳のとき、兄のロベルトがグレミオとプロ契約を結んだことで家族はクラブから豪華な家が提供され、裕福な地域へと引っ越すことになる。ところが、その直後の時期にロナウジーニョの才能を早くから見抜いていた父・ジョアンがプールでの事故により溺死してしまう。これ以降、兄のロベルトが父親代わりとなり、ロナウジーニョの人生に深く関わるようになる。
さらなるスキルアップを目指し、サッカーのみならずフットサルでもプレーするようになる。このフットサルで後の独創的なスタイルの礎ともいえる狭いスペースでのボールコントロールの技術を身につけ、才能が開花されるようになる。13歳のときには1試合で23得点という驚異的な数字を叩き出してメディアに取り上げられ、ブラジルでもっとも期待されるユース選手となるのだった。
グレミオ
1998年、17歳でグレミオFBPAのトップチームに昇格し、プロ契約を結ぶ。この年のコパ・リベルタドーレスでプロデビュー。プロ1年目は公式戦48試合8ゴール2アシストという記録を残す。
本格的にブレイクを果たしたのは1999年シーズンだった。攻撃的MFとして才能を大きく開花させると、6月20日のカンピオナート・ガウショ決勝ではグレミオにとって最大のライバルであるインテルナシオナルとのダービーマッチで試合を決定づけるようなプレーを連発し、試合を決定づける目覚ましい活躍を見せる。特に前年までブラジル代表のキャプテンを務めていたドゥンガとのマッチアップで彼の頭上を越すフリックパスを通すなど、終始レジェンドを翻弄したことで話題となる。この年はグレミオにカンピオナート・ガウショに加えてコパ・スルの2つのタイトルをもたらす。この年は公式戦48試合23得点という数字も残す。
2000年には得点力が飛躍的に向上し、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは21試合14得点、公式戦全体では49試合41得点を記録。
2001年にはイングランドのアーセナル、スコットランドのセント・ミレンなど欧州のクラブへの移籍が浮上するも、労働許可証やパスポートの不備で頓挫。
パリ・サンジェルマン
2001年、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCに5年契約で移籍する。移籍金は500万ユーロ。1年目の2001-02シーズンの前半はスタメンと途中出場を繰り返す起用法で、第10節のオリンピック・リヨン戦でPKを決め、ヨーロッパでの初ゴールを決める。ウィンターブレイク明けからチームにフィットするようになると、第20節から23節まで4試合連続ゴールを記録。2002年3月16日のトロワ戦では1試合2ゴールを決め、最終的に28試合9ゴール7アシストとまずまずの成績を残す。一方、故郷を離れてパリでの生活で夜遊びを覚えてしまい、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しないことも含め、ルイス・フェルナンデス監督との確執が生じていた。
2002-03シーズンは先のワールドカップで価値を高めたこともあって背番号10を与えられる。2002年10月26日、宿敵オリンピック・マルセイユとのル・クラスィクでは芸術的な直接FKを含む2ゴールの活躍で勝利に貢献する。さらにアウェイでのル・クラスィクでのゴールを決めており、マルセイユ相手のシーズンダブルを成し遂げる。2003年2月22日のギャンガン戦では1人目の相手を抜いてワンツーでもう1人を抜き、3人目の相手を抜いてボールをリフトし、さらにステップオーバー(肩を落とし、右に移動しながら左に進む)で4人目を抜き、GKの頭上を越えるシュートでフィニッシュするシーズン最高のゴールと称されるゴラッソを決める。クープ・ドゥ・フランス準決勝のボルドー戦ではGKユルリク・ラメの頭上を鮮やかに抜いたチップキックシュートを含む2ゴールの大活躍を見せ、サポーターからスタンディングオベレーションでの称賛を受ける。本人は2年目も公式戦38試合12ゴール8アシストと中心選手として活躍するが、チームがリーグ11位と低迷し欧州カップ戦への出場権を逃した事から移籍を希望する。
バルセロナ
2003年、マンチェスター・ユナイテッドによる獲得競争の末にスペイン・リーガ・エスパニョーラの名門FCバルセロナに移籍金3000万ユーロで入団。当初、バルサのジョアン・ラポルタ会長はデイヴィッド・ベッカムの獲得を公約にしていたが実現せず、代案として白羽の矢が立った形となった。
移籍初年度の2003-04シーズンは、2003年9月3日のリーガ・エスパニョーラ第2節セビージャFC戦で早くも移籍後初ゴールを決める。シーズン前半戦は怪我によって負傷離脱し、その間にチームは12位に低迷してしまう。しかし復帰後は優れたテクニックとインスピレーションでクレを魅了しながら結果を残していく。フランク・ライカールト監督から左ウイングで固定されると水を得た魚の如く、圧倒的なパフォーマンスを見せていた。2004年4月25日、レアル・マドリードとのアウェイでのエル・クラシコでは芸術的なパスでシャビの決勝ゴールをアシストし、「バルサ台頭のはじまり」とされた勝利をもたらす。最終的にリーグ戦15ゴール11アシストとキャリアハイの成績を残し、それまで『暗黒期』と呼ばれていたチームをリーグ2位に押し上げる。
2004-05シーズン、チームはデコやエジミウソン、ベレッチ、シルビーニョといったブラジルにルーツを持つ選手を多く揃え、ロナウジーニョを中心としたチーム作りに着手する。シーズンが始まると3トップを形成するサミュエル・エトー、リュドヴィク・ジュリと共にスペクタクルな攻撃陣を実現させ、チームは近年にないスタートダッシュに成功する。毎試合楽しそうにプレーするロナウジーニョの姿はバルサにスピリッツと笑顔を取り戻すのだった。2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ ラウンド16のチェルシーFC戦ではアウェイでつま先でのスペクタクルなゴールを含む2ゴールの活躍を見せる。チームはこの試合で敗れたが、ロナウジーニョのプレーは世界中のサッカーファンから称賛された。5月1日のアルバセテ戦では当時18歳のリオネル・メッシのリーガ初ゴールをアシスト。リーガでは追いすがるレアル・マドリードを振り切り、6シーズンぶりの優勝を成し遂げる。
このシーズンの活躍により、ロナウジーニョは2年連続でのFIFA最優秀選手に加えてバロンドールを受賞するなど個人タイトルを総なめにし、世界最高プレイヤーへ飛躍するのだった。
2005-06シーズンも世界最高選手にふさわしい眩いばかりの輝きを放ち、バルサに勝利をもたらしていく。2005年11月19日、レアル・マドリードとのアウェイでのエル・クラシコでは2ゴールを決め、銀河系軍団に事実上終わりをもたらす3-0の大勝に貢献。この試合の2点目を決めた際には、なんとレアル・マドリードのサポーターからスタンディングオベレーションが贈られる異例の事態となった。CLでは準々決勝のベンフィカ戦2nd legで先制ゴールを決めれば、準決勝のACミラン戦ではジュリの決勝ゴールをアシスト。そして5月26日のアーセナルとの決勝に勝利し、自身初となるビッグイヤー獲得を経験。バルサにとってはヨハン・クライフ監督時代以来14年ぶりの欧州王者戴冠だった。その2週間前にはリーガ連覇を成し遂げており、シーズン二冠を獲得。公式戦46試合25得点23アシストという記録を残し、キャリアでも最高の時期を過ごすこととなった。
2006-07シーズンのバルサは開幕直後こそ好調を維持していたが、CLグループステージでチェルシー相手に敗戦、直後のレアル・マドリードとのクラシコでは0-2で敗れ、雲行きが怪しくなっていた。2006年11月25日ビジャレアルCF戦では、シャビのクロスを胸でフリックすると、体を180度回転させた華麗なオーバーヘッドキックによるゴールを決め、リーガ通算50ゴールを達成。2006年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ2006では、準決勝のクラブ・アメリカ戦で1ゴール1アシストの活躍を見せるが、決勝のインテルナシオナル戦では徹底マークによって封じ込められ、チームも準優勝に終わる。個人としてはリーグ戦でキャリアハイとなる21ゴールをマークしたが、チームは無冠に終わる。
2007-08シーズンは度重なる負傷によって欠場が相次ぎ、また明らかな体重オーバーによるコンディション低下が顕著となってしまい、メディアからは一向に改善されない夜遊び癖を厳しく糾弾されてしまう。不摂生の他にも練習への遅刻など問題行動がクローズアップされ、同胞からの「黒羊」発現もあって散々なパフォーマンスに終始。ついには彼を慕っていたメッシへの悪影響を不安視する声も出るようになる。低調な戦いが続くチームの中でロナウジーニョのチーム内での立場は大きく揺らいでいき、空中分解となったバルサは2年連続の無冠に終わる。
ライカールト監督の後任として2008年夏に監督に就任したジョゼップ・グアルディオラはメッシを中心とした新たなスタイルを模索するようになり、それに伴い構想外となったロナウジーニョは5年間を過ごしたバルセロナから追われるように退団することになる。
ミラン
2008年7月15日、イタリア・セリエAのACミランへ3年契約で移籍。移籍金は1850万ユーロと伝えられている。9月28日、セリエA第5節インテル・ミラノとのミラノ・ダービーで決勝ゴールとなるイタリアでの初ゴールを決める。10月19日のサンプドリア戦で2ゴールを決めるなど、チームにフィットし前半戦は期待通りの活躍を見せていた。しかし、徐々にコンディションの低下から調子を落とすようになり、シーズン終盤にはスタメンの座を失い途中出場がメインとなる。公式戦32試合10得点8アシストとまずまずの数字は残したが、シーズンを通しての活躍はできず、トータルで見るとネガティブな印象となった。
2009-10シーズン、同じブラジル人であるレオナルドが監督に就任。レオナルド監督はバルサ時代で輝きを放った4-3-3の左WGで起用し、退団したカカに代わるチームの中心としての役割を期待する。開幕直後はベンチからのスタートが多かったが、左WGで起用されるようになってから調子を取り戻し、2010年1月10日のセリエA第19節ユヴェントス戦では2ゴールを決め、アウェイでの勝利に貢献。1月17日の第20節シエナ戦では移籍後初となるハットトリックの大活躍で完全復活をアピールする。5月15日、セリエA最終節となったホームのユヴェントス戦でも2ゴールを記録しており、リーグ戦で12ゴール18アシストと前年を大きく上回る成績を残す。しかし、ロナウジーニョを信頼し、復活のために尽力したレオナルド監督がこの年で退任。これが大きな影を落とすことになるのだった。
2010-11シーズンにマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任。守備の意識とバランスを重視する新指揮官はフォーメーションをWGを置かない4-3-1-2を採用し、居場所を失うことになる。さらにまたもやミラノでの夜遊びが取り沙汰され、規律を重んじるアッレグリ監督の折り合いは悪かった。序列も大幅に低下し、ベンチで試合を見守る時間が長くなど、存在感を失っていた。契約最終年だったこともあり、冬の移籍マーケットでの放出が取り沙汰されるようになる。
フラメンゴ
2011年1月11日、ブラジルのCRフラメンゴと3年契約を結び、31歳となり10年ぶりに母国へ復帰することになる。入団発表会には2万人のサポーターが詰めかけるなど大きな期待を寄せられることになった中、2月6日のボアヴィスタSC戦で初ゴールを記録。2月27日、タッサ・グアナバラ決勝のボアヴィスタ戦では直接FKによる決勝ゴールを決め、チームにタイトルをもたらす。 2か月後にはカンピオナート・カリオカ、その後にタッサ・リオも優勝。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエでも7月27日のネイマールを擁するサントスFC戦で0-3のビハインドを背負った状況からハットトリックを達成し、大逆転勝利を演出するなど14ゴール7アシストを記録し、新天地で復権を果たす。
2012年シーズンもフラメンゴの中心として活躍するかと思われたが、5月12日にクラブとの契約を一方的に解除してしまう。
アトレチコ・ミネイロ
2012年6月、ブラジルのアトレチコ・ミネイロとシーズン終了後までの契約を結ぶ。6月23日のナイティコ戦ではPKから移籍後初ゴールを記録。自己中心的な行動が増長し始めはしたが、加入後好調なチームを牽引。9ゴール15アシストの成績でチームをリーグ2位に押し上げる。
2013年もチームと契約を結び残留すると、カンピオナート・ミネイロ優勝に貢献。コパ・リベルタドーレスでもコパ・リベルタドーレスでチームを決勝に導くと、7月25日の決勝でPK戦の末にオリンピアを破り、初優勝に貢献。ヨーロッパと南米の両方で王者となるのは史上8人目となる快挙だった。すでに全盛期は過ぎていたものの、コパ・リベルタドーレスでは6ゴール7アシストの成績を残し、この年の南米最優秀選手に選出される。12月にはモロッコで開催されたFIFAクラブワールドカップ2013に選出。準決勝では開催国のラジャ・カサブランカ戦でゴールを決めたが、チームはまさかの敗戦。2006年のリベンジとはならなかった。なお、3位決定戦の広州恒大戦でもゴールを決めている。
2014年1月にアトレチコ・ミネイロとの契約を1年更新。レコパ・スダメリカーナで優勝するが、その後の7月に双方合意で契約を解除し、退団する。
ケレタロ
2014年9月5日、メキシコ・リーガMXのケレタロFCに2年契約で加入。デビュー戦となったティグレス戦ではPKを失敗するが、続く9月18日のグアダラハラ戦ではアシストした後にPKから初ゴールを記録。2015年4月18日には前年のリーグ王者であるアメリカFC戦では2ゴールを決め、大勝に貢献。このとき、アウェイにも関わらず集まった観客の多くがロナウジーニョのゴールに涙を流しながらスタンディングオベレーションで祝福。この光景に本人も歓喜極まったコメントを残している。メキシコの地では充実した日々を過ごし、チームをプレーオフ決勝にまで導く。しかし、決勝で敗れてタイトルを逃した後の2015年6月、1年で退団することを表明し、母国ブラジルへ戻ることになる。
フルミネンセ
2015年7月11日、ブラジルのフルミネンセFCに入団。しかし怪我や年齢的な問題もあって満足するようなプレーができず、公式戦9試合に出場したのみで9月にクラブと契約解除で合意する。
無所属時期
フルネンセ退団後は無所属の期間が続く。2016年7月にはインドのフットサルチームのゴア5'sでプレー。2試合に出場した後、夏のリオデジャネイロオリンピックのアンバサダーになるためにインドを離れる。
2017年2月2日、10年契約でFCバルセロナの公式アンバサダーに就任。
2017年9月から10月初旬までは再びインドのフットサルチームでプレー。
2018年1月16日、代理人である兄ロベルトから現役引退が発表される。
ブラジル代表
1997年にU-17ブラジル代表に選出。9月にはエジプトで開催したFIFA U-17選手権1997に出場し、初戦のオーストリア戦と準決勝のドイツ戦でいずれもPKでゴールを決め、決勝のガーナ戦に勝利し、ブラジルの初優勝に貢献。大会のブロンズボールに選出されている。
1998年からはU-20ブラジル代表に選出され、この世代でも中心選手となっていた。1999年4月にはナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999に出場。グループリーグ第3戦のザンビア戦で先制ゴールを決め、ラウンド16のクロアチア戦では2ゴールの活躍でチームを勝利に導いている。しかし準々決勝のウルグアイ戦でチームは敗れ、ベスト8敗退となっている。
1999年6月にフル代表にコパ・アメリカ1999の出場メンバーとして初選出され、6月26日のラトビアとの大会直前の親善試合で19歳でのブラジル代表デビューを果たす。グループリーグ初戦のベネズエラ戦では途中出場から後半40分に代表初ゴールを決めている。このときはまだ期待の若手という立ち位置でグループリーグ3試合と準決勝の4試合に途中出場のみとなったが、優勝メンバーとなる。
その1週間後にサウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1999では若手主体のチーム編成で挑んだことでレギュラーとして起用されると、グループリーグ全3試合でゴールを決める。準決勝の開催国サウジアラビアとの試合では代表で初のハットトリックを達成。決勝でメキシコに敗れてブラジルは準優勝に終わるが、6ゴールを記録し大会最優秀選手と得点王のW受賞を果たす。
2000年前半はU-23ブラジル代表での活動が中心となり、1月に開催されたシドニーオリンピック南米予選では5ゴールを決め、オリンピック出場権を獲得。9月に開催されたシドニーオリンピック本大会では準々決勝のカメルーン戦で初ゴールを決めるが、この試合でブラジルは敗れて失意の大会となった。
その後はブラジル代表で定位置を掴めずにいたが、2002年6月に日本と韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに選出。大会ではロナウド、リバウドと共に「3R」と呼ばれた強力な攻撃陣を形成する。グループリーグ第2戦の中国戦でPKを決め、ワールドカップ初ゴールを記録する。準々決勝のイングランド戦ではリバウドの同点ゴールをアシストすると、後半5分にはゴールから35mほどの位置からの直接FKでデイヴィッド・シーマンの意表を突いたゴールを決める。その7分後に退場となり、準決勝のトルコ戦は出場停止となるが、決勝のドイツ戦には復帰しブラジルの5度目の優勝に貢献。この大会ではチャンスメーカーとしてブラジルの攻撃陣を牽引し、2ゴール3アシストと数字を残した。
2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003では、自身もチームも低調なプレーに終わり、よもやのグループリーグ敗退となる。その後はバルセロナでの活躍もあって選手としての地位がさらに高まり、リバウドが代表に呼ばれなくなった2004年以降は背番号10に定着するようになる。2005年6月、ドイツで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2005ではキャプテンとして出場。この大会では攻撃の中心として期待通りの活躍を見せ、グループリーグ第3戦の日本戦と準決勝のドイツ戦でゴールを決める。決勝のアルゼンチン戦ではチームの4点目を決め、ブラジルは2度目の優勝を果たし、決勝のMOMとブロンズボールに選出。ところが、このアルゼンチン戦を最後に長く代表でゴールから遠ざかることになる。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。ロナウド、アドリアーノ、カカと共にカルテット・マジコの一員となり、前年のバロンドール獲得ということもあって期待を背負って大会に挑んだが、5試合全てにスタメンで出場しながら0ゴール1アシストと期待外れに終わり、チームもジネディーヌ・ジダンが最後の輝くを放ったフランスに準々決勝で敗れ連覇はならず。この敗退によってファンやメディアから大バッシングを受け、母国では勝手に建てられた彼の彫像が勝手に破壊されるという悲劇も起こった。さらに敗退した2日後にバルセロナの自宅でアドリアーノを招いてのパーティーを開き、ナイトクラブで夜遊びを続けていたことが発覚。さらにファンからの怒りを招くのだった。
ドイツW杯後も代表に呼ばれ続け、2007年3月25日のチリ戦でゴールを決め、2年近くにも及んだ連続無得点期間を終わらせる。2008年8月に開催された北京オリンピックにU-23ブラジル代表のオーバーエイジ枠として出場。当初、所属するバルセロナはロナウジーニョの出場を認めていなかったが、その後ACミランへ移籍したことで出場が実現した。グループリーグ第2戦のニュージーランド戦では2ゴールを決める。しかし準決勝ではリオネル・メッシがいたアルゼンチンに0-3で完敗。3位決定戦で勝利し、銅メダルは獲得したが、シドニーオリンピックのリベンジとはならなかった。
その後、コンディション不良が続いたこともあって代表から遠ざかってしまう。2010年に入ってミランで調子を取り戻し、ブラジル代表への復帰を待望する声も出るが、ドゥンガ監督は2010 FIFAワールドカップの候補30人に選出するが、結局本大会に出場する23人のメンバーにロナウジーニョを選出しなかった。
2011年9月5日のガーナ戦で10か月ぶりに代表に復帰。10月11日のメキシコ戦ではフル代表では4年ぶりとなるゴールを決める。2012年に一度呼ばれなくなるが、2013年1月になって復帰。4月24日のチリとの親善試合ではキャプテンに任命される。しかし、この試合を最後に代表から呼ばれなくなり、ブラジル代表でのキャリアに幕を閉じる。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | グレミオ | カンピオナート・セリエA | 14 | 1 | |
| 1999 | グレミオ | カンピオナート・セリエA | 17 | 6 | |
| 2000 | グレミオ | カンピオナート・セリエA | 21 | 14 | |
| 2001 | グレミオ | カンピオナート・セリエA | - | - | |
| 2001-02 | パリ・サンジェルマン | ディヴィジョン・アン | 28 | 9 | |
| 2002-03 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 27 | 8 | |
| 2003-04 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 15 | |
| 2004-05 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 9 | |
| 2005-06 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 29 | 17 | |
| 2006-07 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 21 | |
| 2007-08 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 17 | 8 | |
| 2008-09 | ACミラン | セリエA | 29 | 8 | |
| 2009-10 | ACミラン | セリエA | 36 | 12 | |
| 2010-11 | ACミラン | セリエA | 11 | 0 | |
| 2011 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 31 | 14 | |
| 2012 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 2 | 1 | |
| アトレチコ・ミネイロ | カンピオナート・セリエA | 32 | 9 | ||
| 2013 | アトレチコ・ミネイロ | カンピオナート・セリエA | 14 | 8 | |
| 2014 | アトレチコ・ミネイロ | カンピオナート・セリエA | 2 | 0 | |
| 2015 | ケレタロ | リーグMX | 25 | 8 | |
| 2016 | フルミネンセ | カンピオナート・セリエA | 7 | 0 |
個人タイトル
引退後
2015年にブラジルの環境保護区内の湖に無許可で桟橋を作ったとして有罪判決を受け、罰金刑を科せられていたが、850万レアル(約2億円)以上の罰金の支払いが滞った上、税金の未納もあり、国外逃亡を防ぐため2019年7月にブラジルとスペインのパスポートを押収される。
2018年7月15日、モスクワのルジニキ・スタジアムで行われた2018 FIFAワールドカップの閉会式に登場し、アフリカの太鼓でロシア民謡「カリンカ」を数小節演奏した。
2020年3月4日、慈善イベントや自著の出版記念イベント参加を目的に実兄のロベルトと共に偽造のパラグアイパスポートと身分証明書を使用してパラグアイに入国したため、宿泊先のアスンシオンのホテルで現地の警察に逮捕される。同年8月に釈放され、ブラジルに戻る。
プレースタイル
攻撃的なポジションであればどこでもこなせるが、能力を活かせるのは左ウイングもしくはトップ下。自由な発想と高度なテクニックを組み合わせた「ファンタジスタ」であり、歴代最高ともいわれるテクニックと誰も考えつかない独創的なプレーが特徴。エラシコやノールックパスなどのブラジル人らしい高度なテクニックを多用し、遊び心のあるプレーで世界中のサッカーファンを魅了した。
ボールを持つと瞬時にスピードに乗った直線的なドリブルを開始することが多い。タッチ数が異常に多く左右に横揺れしており、相手に対して常に後出しジャンケンをおこなえる。ドリブル突破の際にフェイントを多く使用するタイプだが、その選択肢が尋常ではないほど多く、その中でも彼の代名詞ともいえるエラシコのキレ味は凄まじく、相手DFを幾度も翻弄している。ブラジル人の中にはいわゆる舐めプとして高等テクニックを使用するものもいるが、彼の場合は引き出しの多さもあって効果的に作用しており、1vs1の局面で相手を置き去りにしゴールに近づく手段として利用していた。
キックの精度も非常に高く、フリーキックやペナルティキックのスペシャリストでもあった。パスセンスも非常に優れており、左サイドの低い位置から対角線上に鋭く放つ正確なロングパスや顔を明後日の方に向けながら放つノールックパスを得意としていた。また、特に全盛期は得点力も高く、彼のシュートは股下だけを振り抜いて放つためモーションが少なく、GKに反応しづらいものだった。中でも右足で巻き込むようにカーブをかけてゴールに吸い込まれるようなシュートが得意だった。
敵DFが引き付け多種多様なパスで周りの選手を引き出し、相手が近づいてくればドリブルで抜いていき、離れればモーションの少ないパスやシュートで局面を打開する。あるときは至極のソリスト、またあるときはオーケストラの指揮者と評され、他に類のないプレーの数々を生み出して、誰も近づきえない存在であった。
欠点は守備意識の低さで、自由にプレーしたがるため持ち場を離れることが多く、戻る意識も低かったため守備のタスクを担わせることが困難で、彼のポジションが守備の局面になると穴になっていた。逆に何かに縛られ自由を失うと能力を発揮できないどころかモチベーションを落としてしまう。そのため、自分の戦術に選手を当てはめるタイプの監督や規律を重視する監督とは相性が悪かった。
人物・エピソード
- 試合中もサッカーを楽しむことを忘れない選手であり、たびたび笑顔をちらつかせプレーしている。これほど笑顔を絶やさずプレーする選手は、かつてのセレソンの英雄ガリンシャとロナウジーニョをおいて他にいないと言われている。
- 9歳上の実兄であるロベルトも元プロサッカー選手であり、1999年にアシスという登録名でJリーグのコンサドーレ札幌に在籍していた。引退後はロナウジーニョの代理人となり、絶大な信頼を寄せていた。
- これまで正式に結婚したことは一度もないが、若い頃から奔放な女性関係で知られ、2005年2月にダンサーの女性との間に長男ジョアン・メンデスが生まれている。ジョアンは14歳になった2019年4月にクルゼイロECとプロ契約を結び、プロサッカー選手となった。
- 現役時代から折に触れて「いずれは音楽の世界に身を投じたい」と語っており、 ヒップホップ、ラップ、パゴッジ(サンバをメロディアスにしたジャンル)などのミュージシャンのビデオクリップで歌を歌ったり楽器を演奏し、ステージで共演したこともある。
- 大の負けず嫌いで、勝負事では手を抜かないことは有名だが、反面 燃え尽き症候群のようなことも多々見られる。日韓W杯優勝、05-06CL優勝後のロナウジーニョの言動の変貌ぶりは周りの人間を驚かせたという。
- 2020年に刑務所に収監された際、務所内でのフットサル大会に出場し5ゴール6アシストと躍動。囚人たちの間でも大人気で、出所する際は囚人たちが涙を流して別れを惜しんだという。
- 夜遊びが好きなことで有名であり、2002年にTBS系列の『サンデージャポン』の企画でブラジル全土を対象に行われた「抱かれたくない男ランキング」では堂々の1位を獲得。
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