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ロナウジーニョ
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ロナウジーニョとは、ポルトガル語圏の愛称で小さなロナウドというような意味である。

本項では、ブラジルサッカー選手、ロナウジーニョ・ガウショ(ロナウド・ジ・アシス・モレイラ)について記述する。


ロナウジーニョRonaldinho, 1980年3月21日 - )ことロナウド・デ・アシス・モレイラとは、ブラジルの元サッカー選手である。元サッカーブラジル代表

現役時代のポジションはFW、MF180cm83kg。利き足は右足。

概要

ブラジルポルトアレグレ出身。であり代理人を務めるロベルトは元Jリーガーだったりする。2004年2005年の2年連続でFIFA最優秀選手賞2005年にはバロンドールを受賞。リオネル・メッシの前のFCバルセロナの10番であり、エースとして2度のリーガ・エスパニョーラと14年ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝の立役者となる。

ブラジル代表には1999年デビューし、FIFAワールドカップには2002年2006年に出場。2002 FIFAワールドカップではロナウドリバウドと共に「3R」を形成し、ブラジルを5度世界王者に導く。
代表での通算成績は97試合33得点

バンダナ笑顔トレードマークプレー中もいつもニコニコしている。
トリッキー創造性溢れるプレーを持ち味としており、プレーキックの精度も高い。

全盛期バルセロナ時代)はスピードに乗ったドリブル突破も多く見られた。2005年エル・クラシコでは対面のセルヒオ・ラモス(当時19歳)とマッチアップし、何度も置き去りにしていた。その試合で自身の2ゴールを決めた際、敵地サンチャゴ・ベルナベウのレアルサポーターからロナウジーニョに対するスタンディング・オベーションが起こった事は現在も語りとなっている。
当時はフィジカルコタクトも非常に優れており、CLチェルシー戦では屈強なDFとして知られるジョン・テリーを正面から弾き飛ばしてドリブル突破しゴールを決めた。

そのスター性はファンのみならず対戦相手をも魅了し、2013年FIFAクラブワールドカップでは試合終了と同時にカサブランカの選手達に取り囲まれ、ユニフォームスパイクを脱がされた後お持ち帰りされるという追い剥ぎのような光景が見られた。

愛称のロナウジーニョは「小さなロナウド」を意味しており、フェノーメノと呼ばれたロナウドと区別をつけるためにこの呼び名で定着した。また、南米カウボーイを意味する「ガウショ」という愛称もついており、ロナウジーニョ・ガウショと呼ばれることもある。

経歴

生い立ち

1980年3月21日ブラジルポルトアレグレでジョアン・ミゲリーナの3番子供として生まれる。父親ジョアン・モレイラは元サッカー選手で造所で溶接工として働いており、化粧品の販売員をしながら看護師となるために勉強をしていた。それでも一家の暮らしは貧しく、両が共働きだったため幼少期は祖母戚が面倒を見ていた。

が元サッカー選手だったことに加え、9歳年上のロベルトが地元グレミオFBPAでプレーしていたこともあり、サッカーに囲まれて育つことになる。生後10かの頃にはからサッカーボールサッカーシューズを買い与えられ、以降サッカー中になり、の中や中庭でや4匹の飼い犬を相手にサッカーの技術を高めていたという。幼少期のロナウジーニョにとって憧れの選手はであり、独創的なテクニックからインスピレーションを得たという。

7歳となった1987年の後を追うようようにグレミオの下部組織に入団し、本格的にサッカーを始める。この頃、チームで最年少なうえに一番体が小さかったことから「ロナウジーニョ」というあだ名で呼ばれるようになる。

8歳のとき、ロベルトがグレミオプロ契約を結んだことで家族クラブから提供され、裕福な地域へと引っ越すことになる。ところが、その直後の時期にロナウジーニョの才くから見抜いていたジョアンプールでの事故により溺死してしまう。これ以降、ロベルト父親代わりとなり、ロナウジーニョの人生に深く関わるようになる。

さらなるスキルアップし、サッカーのみならずフットサルでもプレーするようになる。このフットサルで後の独創的なスタイルの礎ともいえる狭いスペースでのボールコントロールの技術を身につけ、才が開されるようになる。13歳のときには1試合で23得点という驚異的な数字叩き出してメディアに取り上げられ、ブラジルでもっとも期待されるユース選手となるのだった。

グレミオ

1998年17歳でグレミオFBPAのトップチームに昇格し、プロ契約を結ぶ。この年のコパ・リベルタドーレスプロデビュープロ1年公式戦48試合8ゴール2アシストという記録を残す。

本格的にブレイクを果たしたのは1999年シーズンだった。攻撃的MFとして才を大きく開させると、6月20日カンピオナート・ガウショ決勝ではグレミオにとって最大のライバルであるインテルナシオナルとのダービーマッチ試合を決定づけるようなプレーを連発し、試合を決定づける覚ましい活躍を見せる。特に前年までブラジル代表のキャプテンを務めていたドゥンガとのマッチアップで彼の頭上を越すフリックパスを通すなど、終始レジェンドを翻弄したことで話題となる。この年はグレミオカンピオナート・ガウショに加えてコパ・スルの2つのタイトルをもたらす。この年は公式戦48試合23得点という数字も残す。

2000年には得点力が飛躍的に向上し、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは21試合14得点公式戦全体では49試合41得点記録

2001年にはイングランドアーセナルスコットランドのセント・ミレンなど欧州クラブへの移籍が浮上するも、労働許可パスポートの不備で頓挫。

パリ・サンジェルマン

2001年フランスリーグ・アンパリ・サンジェルマンFCに5年契約で移籍する。移籍金は500ユーロ。1年の2001-02シーズンの前半はスタメンと途中出場を繰り返す起用法で、第10節のオリンピック・リヨン戦でPKを決め、ヨーロッパでの初ゴールを決める。ウィンターブレイク明けからチームフィットするようになると、第20節から23節まで4試合連続ゴール記録2002年3月16日トロワ戦では1試合2ゴールを決め、最終的に28試合9ゴール7アシストとまずまずの成績を残す。一方、故郷を離れてパリでの生活遊びを覚えてしまい、ブラジルでの休暇から予定通りに帰しないことも含め、ルイスフェルナンデス監督との確執が生じていた。

2002-03シーズンは先のワールドカップで価値を高めたこともあって背番号10を与えられる。2002年10月26日、宿敵オリンピック・マルセイユとのル・クラスィクでは芸術的な直接FKを含む2ゴールの活躍で勝利に貢献する。さらにアウェイでのル・クラスィクでのゴールを決めており、マルセイユ相手のシーズンダブルを成し遂げる。2003年2月22日ギャンガン戦では1人の相手を抜いてワンツーでもう1人を抜き、3人の相手を抜いてボールリフトし、さらにステップオーバー(肩を落とし、右に移動しながら左に進む)で4人を抜き、GKの頭上を越えるシュートでフィニッシュするシーズン最高のゴールと称されるゴラッソを決める。クープ・ドゥ・フランス準決勝のボルドー戦ではGKルリク・ラメの頭上を鮮やかに抜いたチップキックシュートを含む2ゴールの大活躍を見せ、サポーターからスタンディングオベレーションでの称賛を受ける。本人は2年公式戦38試合12ゴール8アシストと中心選手として活躍するが、チームリーグ11位と低迷し欧州カップ戦への出場権を逃した事から移籍を希望する。

バルセロナ

2003年マンチェスター・ユナイテッドによる獲得競争の末にスペインリーガ・エスパニョーラの名門FCバルセロナに移籍金3000ユーロで入団。当初、バルサジョアン・ラポルタ会長デイヴィッド・ベッカムの獲得を約にしていたが実現せず、代案として白羽の矢が立った形となった。
移籍初年度の2003-04シーズンは、2003年9月3日リーガ・エスパニョーラ第2節セビージャFC戦でくも移籍後初ゴールを決める。シーズン前半戦は怪によって負傷離脱し、その間にチームは12位に低迷してしまう。しかし復帰後は優れたテクニックインスピレーションでクレを魅了しながら結果を残していく。フランク・ライカールト監督から左ウイングで固定されるとを得たの如く、圧倒的なパフォーマンスを見せていた。2004年4月25日レアル・マドリードとのアウェイでのエル・クラシコでは芸術的なパスでシャビの決勝ゴールアシストし、「バルサ台頭のはじまり」とされた勝利をもたらす。最終的にリーグ戦15ゴール11アシストとキャリアハイの成績を残し、それまで『暗黒期』と呼ばれていたチームリーグ2位に押し上げる。

2004-05シーズンチームデコエジウソン、ベレッチ、シルビーニョといったブラジルルーツを持つ選手を多くえ、ロナウジーニョを中心としたチーム作りに着手する。シーズンが始まると3トップを形成するサミュエル・エトー、リュドヴィク・ジュリと共にスペクタクルな攻撃を実現させ、チームは近年にないスタートダッシュに成功する。毎試合楽しそうにプレーするロナウジーニョの姿はバルサスピリッツ笑顔を取り戻すのだった。2005年3月8日UEFAチャンピオンズリーグ ラウンド16のチェルシーFC戦ではアウェイでつま先でのスペクタクルなゴールを含む2ゴールの活躍を見せる。チームはこの試合で敗れたが、ロナウジーニョのプレー世界中のサッカーファンから称賛された。5月1日アルバセテ戦では当時18歳リオネル・メッシリーガゴールアシストリーガでは追いすがるレアル・マドリードを振り切り、6シーズンぶりの優勝を成し遂げる。
このシーズンの活躍により、ロナウジーニョは2年連続でのFIFA最優秀選手に加えてバロンドールを受賞するなど個人タイトルを総なめにし、世界最高プレイヤーへ飛躍するのだった。

2005-06シーズン世界最高選手にふさわしいいばかりのきを放ち、バルサ勝利をもたらしていく。2005年11月19日レアル・マドリードとのアウェイでのエル・クラシコでは2ゴールを決め、銀河系軍団事実上終わりをもたらす3-0の大勝に貢献。この試合の2点を決めた際には、なんとレアル・マドリードサポーターからスタンディングオベレーションが贈られる異例の事態となった。CLでは準々決勝のベンフィカ2nd legで先制ゴールを決めれば、準決勝のACミラン戦ではジュリの決勝ゴールアシスト。そして5月26日アーセナルとの決勝に勝利し、自身初となるビッグイヤー獲得を経験。バルサにとってはヨハン・クライフ監督時代以来14年ぶりの欧州王者戴冠だった。その2週間前にはリーガ連覇を成し遂げており、シーズン二冠を獲得。公式戦46試合25得点23アシストという記録を残し、キャリアでも最高の時期を過ごすこととなった。

2006-07シーズンバルサは開幕直後こそ好調を維持していたが、CLグループステージチェルシー相手に敗戦、直後のレアル・マドリードとのクラシコでは0-2で敗れ、行きが怪しくなっていた。2006年11月25日ビジャレアルCF戦では、シャビクロスを胸でフリックすると、体を180回転させた麗なオーバーヘッドキックによるゴールを決め、リーガ通算50ゴールを達成。2006年12月日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ2006では、準決勝のクラブ・アメリカ戦で1ゴール1アシストの活躍を見せるが、決勝のインテルナシオナル戦ではマークによって封じ込められ、チームも準優勝に終わる。個人としてはリーグ戦でキャリアハイとなる21ゴールマークしたが、チーム冠に終わる。

2007-08シーズンは度重なる負傷によって欠場が相次ぎ、また明らかな体重オーバーによるコンディション低下が顕著となってしまい、メディアからは一向に改善されない遊びを厳しく糾弾されてしまう。不摂生の他にも練習への遅刻など問題行動クローズアップされ、同胞からの「」発現もあって散々なパフォーマンスに終始。ついには彼を慕っていたメッシへの悪を不安視するも出るようになる。低調な戦いが続くチームの中でロナウジーニョのチーム内での立場は大きく揺らいでいき、空中分解となったバルサは2年連続の冠に終わる。
ライカールト監督の後任として2008年監督に就任したジョゼップ・グアルディオラメッシを中心とした新たなスタイルを模索するようになり、それに伴い構想外となったロナウジーニョは5年間を過ごしたバルセロナから追われるように退団することになる。

ミラン

2008年7月15日イタリアセリエAACミランへ3年契約で移籍。移籍金は1850万ユーロと伝えられている。9月28日セリエA第5節インテル・ミラノとのミラノ・ダービーで決勝ゴールとなるイタリアでの初ゴールを決める。10月19日サンプドリア戦で2ゴールを決めるなど、チームフィットし前半戦は期待通りの活躍を見せていた。しかし、徐々にコンディションの低下から調子を落とすようになり、シーズン終盤にはスタメンの座を失い途中出場がメインとなる。公式戦32試合10得点8アシストとまずまずの数字は残したが、シーズンを通しての活躍はできず、トータルで見るとネガティブな印となった。

2009-10シーズン、同じブラジル人であるレオナルド監督に就任。レオナルド監督バルサ時代できを放った4-3-3の左WGで起用し、退団したカカに代わるチームの中心としての役割を期待する。開幕直後はベンチからのスタートが多かったが、左WGで起用されるようになってから調子を取り戻し、2010年1月10日セリエA第19節ユヴェントス戦では2ゴールを決め、アウェイでの勝利に貢献。1月17日の第20節シエナ戦では移籍後初となるハットトリックの大活躍で復活アピールする。5月15日セリエA最終節となったホームユヴェントス戦でも2ゴール記録しており、リーグ戦で12ゴール18アシストと前年を大きく上回る成績を残す。しかし、ロナウジーニョを信頼し、復活のために尽力したレオナルド監督がこの年で退任。これが大きなを落とすことになるのだった。

2010-11シーズンにマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任。守備の意識とバランスを重視する新指揮官フォーメーションをWGを置かない4-3-1-2を採用し、居場所を失うことになる。さらにまたもやミラノでの遊びが取り沙汰され、規を重んじるアッレグ監督の折り合いは悪かった。序列も大幅に低下し、ベンチで試合を見守る時間が長くなど、存在感を失っていた。契約最終年だったこともあり、の移籍マーケットでの放出が取り沙汰されるようになる。

フラメンゴ

2011年1月11日ブラジルのCRフラメンゴと3年契約を結び、31歳となり10年ぶりにへ復帰することになる。入団発表会には2万人のサポーターが詰めかけるなど大きな期待を寄せられることになった中、2月6日のボアヴィスタSC戦で初ゴール記録2月27日、タッサ・グアナバラ決勝のボアヴィスタ戦では直接FKによる決勝ゴールを決め、チームタイトルをもたらす。 2か後にはカンピオナート・カリオカ、その後にタッサ・リオ優勝カンピオナート・ブラジレイロ・セリエでも7月27日ネイマールを擁するサントスFC戦で0-3のビハインドを背負った状況からハットトリックを達成し、大逆転勝利を演出するなど14ゴール7アシスト記録し、新地で復権を果たす。

2012年シーズンもフラメンゴの中心として活躍するかと思われたが、5月12日クラブとの契約一方的に解除してしまう。

アトレチコ・ミネイロ

2012年6月ブラジルのアトレチコ・ミネイロシーズン終了後までの契約を結ぶ。6月23日のナイティコ戦ではPKから移籍後初ゴール記録自己中心的行動が増長し始めはしたが、加入後好調なチームを牽引。9ゴール15アシストの成績でチームリーグ2位に押し上げる。

2013年チーム契約を結び残留すると、カンピオナート・ミネイロ優勝に貢献。コパ・リベルタドーレスでもコパ・リベルタドーレスチームを決勝に導くと、7月25日の決勝でPK戦の末にオリンピアを破り、初優勝に貢献。ヨーロッパ南米の両方で王者となるのは史上8人となる快挙だった。すでに全盛期は過ぎていたものの、コパ・リベルタドーレスでは6ゴール7アシストの成績を残し、この年の南米最優秀選手に選出される。12月にはモロッコで開催されたFIFAクラブワールドカップ2013に選出。準決勝では開催のラジャ・カサブランカ戦でゴールを決めたが、チームはまさかの敗戦。2006年リベンジとはならなかった。なお、3位決定戦の広州恒大戦でもゴールを決めている。

2014年1月にアトレチコ・ミネイロとの契約を1年更新。レコパ・スダメリカーナで優勝するが、その後の7月に双方合意で契約を解除し、退団する。

ケレタロ

2014年9月5日メキシコリーガMXのケレタロFCに2年契約で加入。デビュー戦となったティレス戦ではPKを失敗するが、続く9月18日のグアダラハラ戦ではアシストした後にPKから初ゴール記録2015年4月18日には前年のリーグ王者であるアメリカFC戦では2ゴールを決め、大勝に貢献。このとき、アウェイにも関わらず集まった観客の多くがロナウジーニョのゴールを流しながらスタンディングオベレーション祝福。この光景に本人も歓喜極まったコメントを残している。メキシコの地では充実した日々を過ごし、チームプレーオフ決勝にまで導く。しかし、決勝で敗れてタイトルを逃した後の2015年6月、1年で退団することを表明し、ブラジルへ戻ることになる。

フルミネンセ

2015年7月11日ブラジルフルミネンセFCに入団。しかし怪年齢的な問題もあって満足するようなプレーができず、公式戦9試合に出場したのみで9月クラブ契約解除で合意する。

無所属時期

フルネンセ退団後は所属の期間が続く。2016年7月にはインドフットサルチームゴア5'sでプレー。2試合に出場した後、リオデジャネイロオリンピックアンバサダーになるためにインドを離れる。

2017年2月2日、10年契約FCバルセロナ公式アンバサダーに就任。

2017年9月から10月初旬までは再びインドフットサルチームプレー

2018年1月16日、代理人であるロベルトから現役引退が発表される。

ブラジル代表

1997年U-17ブラジル代表に選出。9月にはエジプトで開催したFIFA U-17選手権1997に出場し、初戦のオーストリア戦と準決勝のドイツ戦でいずれもPKでゴールを決め、決勝のガーナ戦に勝利し、ブラジルの初優勝に貢献。大会のブロンズボールに選出されている。

1998年からはU-20ブラジル代表に選出され、この世代でも中心選手となっていた。1999年4月にはナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999に出場。グループリーグ第3戦のザンビア戦で先制ゴールを決め、ラウンド16のクロアチア戦では2ゴールの活躍でチーム勝利に導いている。しかし準々決勝のウルグアイ戦でチームは敗れ、ベスト8敗退となっている。

1999年6月フル代表にコパ・アメリカ1999の出場メンバーとして初選出され、6月26日ラトビアとの大会直前の試合で19歳でのブラジル代表デビューを果たす。グループリーグ初戦のベネズエラ戦では途中出場から後半40分に代表初ゴールを決めている。このときはまだ期待の若手という立ち位置でグループリーグ3試合と準決勝の4試合に途中出場のみとなったが、優勝メンバーとなる。
その1週間後にサウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1999では若手体のチーム編成で挑んだことでレギュラーとして起用されると、グループリーグ全3試合ゴールを決める。準決勝の開催サウジアラビアとの試合では代表で初のハットトリックを達成。決勝でメキシコに敗れてブラジルは準優勝に終わるが、6ゴール記録し大会最優秀選手得点王のW受賞を果たす。

2000年前半はU-23ブラジル代表での活動が中心となり、1月に開催されたシドニーオリンピック南米予選では5ゴールを決め、オリンピック出場権を獲得。9月に開催されたシドニーオリンピック本大会では準々決勝のカメルーン戦で初ゴールを決めるが、この試合ブラジルは敗れて失意の大会となった。

その後はブラジル代表で定位置を掴めずにいたが、2002年6月日本韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップメンバーに選出。大会ではロナウドリバウドと共に「3R」と呼ばれた強力な攻撃を形成する。グループリーグ第2戦の中国戦でPKを決め、ワールドカップゴール記録する。準々決勝のイングランド戦ではリバウドの同点ゴールアシストすると、後半5分にはゴールから35mほどの位置からの直接FKでデイヴィッドシーマンの意表を突いたゴールを決める。その7分後に退場となり、準決勝のトルコ戦は出場停止となるが、決勝のドイツ戦には復帰しブラジルの5度優勝に貢献。この大会ではチャンスメーカーとしてブラジルの攻撃を牽引し、2ゴール3アシスト数字を残した。

2003年6月フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003では、自身もチームも低調なプレーに終わり、よもやのグループリーグ敗退となる。その後はバルセロナでの活躍もあって選手としての地位がさらに高まり、リバウドが代表に呼ばれなくなった2004年以降は背番号10に定着するようになる。2005年6月ドイツで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2005ではキャプテンとして出場。この大会では攻撃の中心として期待通りの活躍を見せ、グループリーグ第3戦の日本戦と準決勝のドイツ戦でゴールを決める。決勝のアルゼンチン戦ではチームの4点を決め、ブラジルは2度優勝を果たし、決勝のMOMブロンズボールに選出。ところが、このアルゼンチン戦を最後に長く代表でゴールから遠ざかることになる。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。ロナウド、アドリアーノ、カカと共にカルテット・マジコの一員となり、前年のバロンドール獲得ということもあって期待を背負って大会に挑んだが、5試合全てにスタメンで出場しながら0ゴール1アシストと期待外れに終わり、チームジネディーヌ・ジダンが最後のくを放ったフランスに準々決勝で敗れ連覇はならず。この敗退によってファンメディアから大バッシングを受け、では勝手に建てられた彼の彫像が勝手に破壊されるという悲劇も起こった。さらに敗退した2日後にバルセロナの自宅でアドリアーノを招いてのパーティーを開き、ナイトクラブ遊びを続けていたことが発覚。さらにファンからの怒りを招くのだった。

ドイツW杯後も代表に呼ばれ続け、2007年3月25日チリ戦でゴールを決め、2年近くにも及んだ連続得点期間を終わらせる。2008年8月に開催された北京オリンピックU-23ブラジル代表のオーバーエイとして出場。当初、所属するバルセロナはロナウジーニョの出場を認めていなかったが、その後ACミランへ移籍したことで出場が実現した。グループリーグ第2戦のニュージーランド戦では2ゴールを決める。しかし準決勝ではリオネル・メッシがいたアルゼンチンに0-3で敗。3位決定戦で勝利し、銅メダルは獲得したが、シドニーオリンピックリベンジとはならなかった。

その後、コンディション不良が続いたこともあって代表から遠ざかってしまう。2010年に入ってミラン調子を取り戻し、ブラジル代表への復帰を待望するも出るが、ドゥンガ監督2010 FIFAワールドカップ補30人に選出するが、結局本大会に出場する23人のメンバーにロナウジーニョを選出しなかった。
2011年9月5日ガーナ戦で10かぶりに代表に復帰。10月11日メキシコ戦ではフル代表では4年ぶりとなるゴールを決める。2012年に一度呼ばれなくなるが、2013年1月になって復帰。4月24日チリとの試合ではキャプテンに任命される。しかし、この試合を最後に代表から呼ばれなくなり、ブラジル代表でのキャリアに幕を閉じる。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1998 レミオ カンピオナート・セリエA 14 1
1999 レミオ カンピオナート・セリエA 17 6
2000 レミオ カンピオナート・セリエA 21 14
2001 レミオ カンピオナート・セリエA - -
2001-02 パリ・サンジェルマン ディヴィジョン・アン 28 9
2002-03 パリ・サンジェルマン リーグ・アン 27 8
2003-04 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 32 15
2004-05 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 35 9
2005-06 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 29 17
2006-07 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 32 21
2007-08 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 17 8
2008-09 ACミラン セリエA 29 8
2009-10 ACミラン セリエA 36 12
2010-11 ACミラン セリエA 11 0
2011 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 31 14
2012 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 2 1
アトレチコ・ミネイロ カンピオナート・セリエA 32 9
2013 アトレチコ・ミネイロ カンピオナート・セリエA 14 8
2014 アトレチコ・ミネイロ カンピオナート・セリエA 2 0
2015 ケレタロ リーグMX 25 8
2016 フルミネンセ カンピオナート・セリエA 7 0

個人タイトル

引退後

2015年ブラジル環境保護区内の許可で桟を作ったとして有罪判決を受け、罰金刑を科せられていたが、850万レアル(約2億円)以上の罰金の支払いが滞った上、税金の未納もあり、外逃亡を防ぐため2019年7月ブラジルスペインパスポートを押収される。

2018年7月15日モスクワのルジニキ・スタジアムで行われた2018 FIFAワールドカップの閉会式に登場し、アフリカの太鼓でロシア民謡カリンカ」を数小節演奏した。

2020年3月4日、慈善イベントや自著の出版記念イベント参加を的に実ロベルトと共に偽造のパラグアイパスポートと身分明書を使用してパラグアイに入したため、宿泊先のアスシオンホテルで現地の警察逮捕される。同年8月に釈放され、ブラジルに戻る。

プレースタイル

攻撃的なポジションであればどこでもこなせるが、力を活かせるのは左ウイングもしくはトップ下。自由な発想と高度なテクニックを組み合わせた「ファンタジスタ」であり、歴代最高ともいわれるテクニックも考えつかない独創的なプレーが特徴。エラシコやノールックパスなどのブラジル人らしい高度なテクニックを多用し、遊び心のあるプレー世界中のサッカーファン魅了した。

ボールを持つと時にスピードに乗った直線的なドリブルを開始することが多い。タッチ数が異常に多く左右に横揺れしており、相手に対して常に後出しジャンケンをおこなえる。ドリブル突破の際にフェイントを多く使用するタイプだが、その選択肢が尋常ではないほど多く、その中でも彼の代名詞ともいえるエラシコのキレ味は凄まじく、相手DFを幾度も翻弄している。ブラジル人の中にはいわゆる舐めプとして高等テクニックを使用するものもいるが、彼の場合は引き出しの多さもあって効果的に作用しており、1vs1の局面で相手を置き去りにしゴールに近づく手段として利用していた。

キックの精度も非常に高く、フリーキックやペナルティキックのスペシャリストでもあった。パスセンスも非常に優れており、左サイドの低い位置から対線上に鋭く放つ正確なロングパスや顔を明後日の方に向けながら放つノールックパスを得意としていた。また、特に全盛期得点力も高く、彼のシュートは股下だけを振り抜いて放つためモーションが少なく、GKに反応しづらいものだった。中でも右足で巻き込むようにカーブをかけてゴールに吸い込まれるようなシュートが得意だった。

敵DFが引き付け多種多様なパスで周りの選手を引き出し、相手が近づいてくればドリブルで抜いていき、離れればモーションの少ないパスやシュートで局面を打開する。あるときは至極のソリスト、またあるときはオーケストラ揮者と評され、他に類のないプレーの数々を生み出して、も近づきえない存在であった。

欠点は守備意識の低さで、自由プレーしたがるため持ち場を離れることが多く、戻る意識も低かったため守備のタスクを担わせることが困難で、彼のポジションが守備の局面になるとになっていた。逆に何かに縛られ自由を失うと力を発揮できないどころかモチベーションを落としてしまう。そのため、自分の戦術に選手を当てはめるタイプ監督や規を重視する監督とは相性が悪かった。

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ロナウジーニョ

18 ななしのよっしん
2012/11/02(金) 12:39:27 ID: +vxJ2kcm8V
ロナウジーニョってすごいを通り越して変態レベルだと思う
ほんと驚嘆した
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19 ななしのよっしん
2013/03/25(月) 19:02:56 ID: wSZCnxl63e
だれか
2013年3月現在、アトレチコ・ミネイロに所属

2005年にはバロンドールを受賞、
2004年2005年には二年連続でFIFA年間最優秀選手賞を受賞
を追加してくれ~
👍
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20 ななしのよっしん
2016/02/18(木) 13:06:51 ID: pVSx45EmTa
個性あふれるいい時代だったな
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21 ななしのよっしん
2017/01/09(月) 21:37:08 ID: oxlMJa8Sqf
マドリーサポがスタオベした試合って、どっちかというとエトーの先制点にして決勝点の方が面プレーだと思う
メッシと交錯して電光石火の右足
ジーニョの得点は凄いんだけど、どフリーで前向かせててマドリー何しとんの印の方が濃い
👍
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22 ななしのよっしん
2018/01/08(月) 16:03:04 ID: WdE+qwInEl
チェルシー戦の例の時を止めたゴールを生で観たときは、ガチマガジン漫画の1コマみたく「!?」ってなったの覚えてる。直後のチェフのドン引きした顔も含めて
👍
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23 ななしのよっしん
2020/03/05(木) 17:06:06 ID: P6im1S+Oaj
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24 ななしのよっしん
2020/03/19(木) 02:56:29 ID: Jeo/krp7pD
刑務所でも技術は健在らしいな
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25 ななしのよっしん
2020/04/27(月) 22:49:53 ID: ArmnSQwpYL
自分もまさかこんなの見る羽になるとは思わなかった。まぁ最低限の常識身につけて戻ってきて。

ロナウジーニョ逮捕後初めて口を開く。「こんなことになるなんて思ってもみなかった」
https://www.sanspo.com/soccer/photos/20200427/sci20042719510005-p1.htmlexit
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26 ななしのよっしん
2024/03/05(火) 00:38:14 ID: ksugFTXj2x
刑務所サッカー大会で無双して
「助っ人がバロンドーラーは反則だろ」「メッシクリロナも持っていないトロフィー
「ガゼッタ・デロ・スポルトの採点はまだか?」
「対戦相手が物足りないからアドリアーノ辺りをぶち込んでおけ、罪状?探せば何かやってるだろ」
と皆が笑顔になってた辺りはほんと現役時と変わらねえなあとが緩んだ
はたから見ると稼いだ金はすっからかんで前科まで付く始末だけど本人は案外人生楽しんでるんだと思いたい
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27 ななしのよっしん
2026/07/05(日) 14:26:57 ID: 7ZTQi3ovYM
3部とはいえ現役復帰してたってのには驚いた

個人的にエピソード遊びで絶倫っぷりが暴露されたり、二人とも好きなんだで事実婚ハーレム作っといてこっそり3人浮気してブチ切れられたり
名だたる名手でも10回行けば上等な目隠しリフティングで44回クリアーしたり、上がってるけどナイキCMCGか問われたけど「再現してみようか?」と返した逸話とかは追加してほしい
もう視野というかボール感覚が逸脱してたよね
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