ロナウド単語


ニコニコ動画でロナウドの動画を見に行く
ロナウド
1.4万文字の記事
  • 6
  • 0pt
掲示板へ

ロナウドRonaldo)とは、ポルトガル語圏の代表的な人名である。ロナウドは慣用的な表記であり、ポルトガル語でホナルド、ブラジルポルトガル語だとホナウドに近い。

本記事では、ホナウド・ルイス・ナザリオ・ヂ・リマ(Ronaldo Luís Nazário de Lima)について記述する。


ロナウドRonaldo、1976年9月22日 - )ことホナウド・ルイス・ナザリオ・ヂ・リマとは、ブラジルの元サッカー選手、実業界である。元サッカーブラジル代表

現役時代のポジションはFW。183cm82kg。利き足は右足。

概要

ブラジルリオデジャネイロ出身。1990年代後半から2000年代前半にかけて世界最高のストライカーと評され、ブラジル代表として98試合62得点記録し、FIFAワールドカップに4度出場。MVPに選ばれた1998年フランス大会では準優勝得点王になった2002年日韓大会では優勝に貢献し、ワールドカップ通算15得点実績を持つ。ストライカーポジションに新たな次元をもたらした多機ストライカーと呼ばれ、後続の世代のストライカーに多大なを与えている。

記録バロンドール2回(1997年2002年)、FIFA最優秀選手賞3回(1996年1997年2002年)。な所属チームはクルゼイロ、PSVアイントホーフェンFCバルセロナインテルレアル・マドリードACミラン、コリンチャンス。ちゃっかりワンクッション置いてライバルチームを行き来している。

ナザリオ・ヂ・リマで一つの姓(双方の姓を合わせた複合姓)である。ちなみに現地では彼もロナウジーニョ(ホナウヂーニョ)と呼ばれることがあるが、これは「ロナウドくん」といった意味の一般的な愛称なので(英語ならロンとかロニーとか言う所)、少しややこしいが仕方がい。

その爆発的なスピードを活かした得点力からポルトガル語超常現象怪物を意味する「フェノーメノ (femeno)」と呼ばれる。サッカーファンの中ではクリスティアーノ・ロナウドと区別する際、「元祖の方」「怪物の方」「太っている方」「イケメンじゃない方」で通じる。場合によっては怒られるので注意

が多く、キャリア前半が全盛期の為に実際は長年活躍しながらもなんだか惜しまれている選手である。怪の多さは個人力が高すぎてDFが厳しいことと、身体力そのものに体が付いてこなかったというちょっと何言ってるか分からない理由が原因と言われている(彼の力の高さを評する言葉に「戦術はロナウド」がある。意味は言葉通り)。

また、度重なる怪甲状腺ホルモン病気(病気自体はミランに所属している時に発覚しているがなぜか引退時まで多くの人が知らない、仮に知っていても言い訳扱いという涙目)が原因でキャリア後半は体重が増加しており、キャリアの前半と後半ではプレースタイルが違うがどっちもすごい。彼を史上最高の選手として挙げる人も多いが、プレースタイル変えてもやっていける点とどの所属クラブでも活躍するという点から適応力に優れていると言える。

2011年、惜しまれつつも体の限界ということで引退引退後はサッカークラブオーナーに就任するなど、事業として活動している。

経歴

生い立ち

1976年9月18日リオデジャネイロ郊外にあるベント・リベイロにおいて3人兄弟の末っ子として生まれる。なお、出生届が遅れたため戸籍上の生年月日1976年9月22日になっている。

生まれ育ったベント・リベイロはブラジルでも有数のスラム街とされており、ロナウドの父親電話会社で働き計を支えていたが、毎日食べていくだけで精一杯という貧しい庭であり、靴を買う金すらなく裸足生活をしていた。そんなスラム街においてサッカー一の希望であり、幼少期のロナウドはリオデジャネイロに本拠地を置くCRフラメンゴの英雄ジーコに憧れ、物心ついたときからボールを蹴っていた。そしていつかジーコのような偉大なサッカー選手になりたいという標を抱いていた。

学校では勉強についていけず落ちこぼれだったことから、サッカーは彼にとって全てとなっていた。中で靴下を丸めてボールを作り、毎日ストリートサッカーに日が暮れるまで中になっていた。11歳のとき、両離婚。一人で子供を養わなければならなくなった母親はウエイターの仕事を休みなく毎日12時間こなしていたという。その後まもなく学校中退し、サッカー選手としてのキャリアを本気で追及するようになる。

12歳になると、フットサルチームソーシャルラモスに入団し、ブラジル子供によくある5人制のフットサルで技術を磨こうとする。路上で磨いた才の片鱗を速発揮し、ユーリーグで166ゴールというとんでもない記録を作り出す。後にフットサルが自分のスキルを成長させたと振り返っており、当時のコーチは当時のロナウドについて「まるでから来たようだった」と評している。

15歳となった1990年サンクリスヴァンFRの下部組織に入団。本当はファンであるフラメンゴのトライアルを受けたかったが、フラメンゴの本拠地まで通うバス代が支払えなかったため断念し、自宅から一番近いクラブを選んだらしい。ここでも彼は飛び抜けた才を発揮しており、15歳ながらU-17、U-20チームに混じってプレーしても驚異的なゴール感覚を見せていた。この神童の噂を聞きつけた元ブラジル代表であり、1970年ワールドカップペレと共にブラジルに3度優勝をもたらしたジャイルジーニョが視察に訪れ、ロナウドの才に惚れ込み、名門クルゼイロに推薦するのだった。

クルゼイロ

1993年16歳にしてミナスジェライス州の強ルゼイロECへ入団し、トップチームプロ契約を交わす。入団してから3か後の5月25日、ミナスジェライス州選手権のAAカウデンセ戦で念願のプロデビューを果たす。その後すぐにレギュラーに定着すると、コパ・ド・ブラジルではチーム優勝に貢献。この年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは13試合12ゴール記録。さらにコパ・リベルタドーレスではコロコロ戦でプロキャリア初のハットトリック記録するなど12試合10ゴールマークし、大会の得点王にく。プロ1年とは思えない活躍ぶりに、ロナウドの名前ブラジル中に知れ渡るのだった。

1994年も勢いは止まらず、ミナスジェライス州選手権では、最大のライバルアトレチコ・ミネイロとの一戦ではハットトリックを決め、3-1の勝利優勝に貢献。この年の2月11日には初めて来日し、ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチハットトリックを達成。クルゼイロでの圧倒的なパフォーマンスによりプロになってわずか1年でブラジルを離れ、活躍の場を欧州へと移すことになるのだった。

PSVアイントホーフェン

1994年7月オランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍。この移籍にはPSV1988年から1993年までプレーしていたロマーリオの後押しがあったという。8月28日のフィテッセ戦で欧州デビューを果たすと、この試合で2ゴールを決めてみせる。続くゴー・アヘッドイーグルス戦でも2ゴールを決め、あっという間に新地でエースの座に君臨する。UEFAカップでもバイヤー・レヴァークーゼン戦でハットトリックを達成し、ドイツ代表のルディ・フェラーを震撼させる。その圧倒的なスピード、ドリブルテクニックによってオランダでも異次元プレーを連発し、1994-95シーズンエールディヴィジで32試合30得点という驚異の数字を残し、得点王のタイトルを獲得。々しい欧州でのデビューシーズンとなった。

1995-96シーズンでは膝の怪によって途中離脱したことで13試合のみの出場となったが、それでも12ゴール記録UEFAカップではミパ戦で1試合4ゴール記録。このシーズンには欧州での初タイトルとなるKNVBカップ優勝にも貢献。次代の世界最高プレイヤーを手に入れようと、欧州ビッグクラブ触手を伸ばすようになる。

バルセロナ

1996年7月17日スペインリーガ・エスパニョーラの名門FCバルセロナに移籍。移籍金は当時の史上最高額となる1700万ドルとなった。第3節のラシンサンタンデール戦で移籍後初ゴールを決めると、スペインでも異次元の活躍を見せつける。10月11日のコンポステーラ戦では約60メートルをドリブルで相手DFに厳しく引っられながらもゴールへと向かっていき、最後はPA内でDF二人を麗なステップでかわしてからのゴールを決める。伝説ともいわれるこのゴールは当時ナイキCMに使用されたこともあり、ロナウドを世界的なスーパースターへと押し上げるきっかけとなった。飛躍的に知名度が上がっても圧倒的すぎるプレーを連発。バレンシアCF戦でハットトリックとなる3点を決めた際は、バルササポーターがその並外れたパフォーマンスを称えてハンカチを振ったという逸話も残っている。バルサのボビー・ロブソン監督が戦術がないと批判されたときに「私の戦術はロナウド」という名言を残したのもこのときである。この年のバルサリーガタイトルこそ逃したものの、コパ・デル・レイとUEFAカップウィナーズカップの二冠を獲得。自身はリーガで37試合34得点記録し、ピチーチ(得点王)のタイトルを受賞。
このシーズンでの驚異的な活躍により、1996年1997年の2年連続でFIFA世界最優秀選手賞を受賞。さらにはブラジル人選手では初となる1997年バロンドールも獲得し、20歳の若さ世界最高選手へと登り詰めるのだった。しかし、伝説的となったバルサでの時間はわずか1年で終えるのだった。

インテル

1997年イタリアセリエAインテル・ミラノへの5年契約での移籍が発表される。移籍金は前年に自ら打ち出した記録を塗り替える、当時の史上最高額である1900万ポンド。この驚きの移籍劇の背景には契約延長交渉の際のバルサ側との不合意があったとされている。加入当初、守備が強固なセリエAではこれまでのような活躍はできないのではというもあったが、そんな疑念はすぐに払拭させてしまう。第2節ボローニャFC戦でセリエAゴールを奪うと、これまで多くの名だたるストライカーを泣かせてきたセリエAにすぐに順応し、第21節レッチェ戦ではハットトリック記録。この時期にはフリーキックからの直接ゴールを覚えるなど、屈強なセリエAのDFに対応するためプレーの幅を増やしていた。結局インテルは熾なスクデット争いの末にアレッサンドロ・デル・ピエロジネディーヌ・ジダンを擁したユヴェントスに屈するが、ロナウド自身はリーグ戦25ゴール記録し、セリエAにおける1年外国人選手の最多得点記録立し、1997-98シーズンセリエA最優秀選手に選出される。UEFAカップでは決勝のSSラツィオ戦でゴールを決め、タイトル獲得に貢献。公式戦通算で34ゴール記録し、現地のメディアから「イルフェノーメノ超常現象)」と渾名されるなど、キャリアピークといえる時期であった。

1998-99シーズンからはチームキャプテンに任命される。先の1998 FIFAワールドカップの疲労を抱えていたこともあって負傷によって離脱してしまい19試合の出場にとどまったが、それでも出場した試合では異次元超常現象を起こしており、14得点と高い決定率を記録。しかしインテルはロナウドへ依存したチームとなっており、ロナウドがフル稼働できなかったチーム優勝争いから遠ざかっていた。

1999-00シーズンロベルト・バッジョクリスティアン・ヴィエリが加わったの攻撃に大きな期待が寄せられたが、1999年11月21日のUSレッチェ戦で右膝靭帯部分損傷の大怪を負い、手術とリハビリのために長期の離脱を強いられる。2000年4月12日コッパ・イタリア決勝ラツィオ戦で復帰するが、出場してわずか7分で同じ個所が全断裂してしまい、今後のキャリアに大きなを落とす大怪を負う。2000-01シーズンには復帰することができず、一部からは再起不能が囁かれるほど深刻な状態にあった。

2002年ワールドカップに間に合わせるために20かに及ぶ長く苦しいリハビリ生活を経て、2001-02シーズン終盤のブレシア戦でついにピッチに復帰。1年半のブランクがあったことから「ロナウドは終わった選手」と言われることもあったが、この試合チームを救う2ゴールを決めてみせる。その後のシーズン残りの試合でもゴールを決め、10試合7得点記録している。
シーズン後の2002 FIFAワールドカップでは奇跡的ともいえる復活劇を見せ、インテリスタは新シーズンへの期待を膨らませたが、エクトル・クーペル監督との確執があったロナウドは再びネッラズーリのシャツを着ることはなかった。

レアル・マドリード

2002年7月スペインリーガ・エスパニョーラレアル・マドリードへ移籍。移籍金は4600万ユーロ。当時のマドリーはフロレンティーノ・ペレス会長のもと、毎年スター選手を獲得して「銀河系軍団」と呼ばれており、ロナウドもその一員に加わることとなった。怪のためデビュー10月まで遅れたが、デビュー戦となったアラベス戦で途中出場から1分も経たないうちにボレーシュートを決め、初ゴール記録。その後もう1ゴールを決め、鮮デビューを飾る。この頃のロナウドは膝の怪爆発的なスピード発力を失っていたが、シュートの精度やテクニックゴール前での嗅覚は変わらず一級品であり、依然として世界トップクラスストライカーであり続けた。優勝がかかった最終節のアスレティック・ビルバオ戦では2ゴールの活躍を見せるなど、リーグ戦23ゴール記録し、チームリーガ優勝に貢献した。また、UEFAチャンピオンズリーグでも準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではオールド・トラフォードハットトリック記録し、相手サポーターからスタンディングオベーションを受けるなど、12試合7得点記録している。

背番号を慣れしんだ9番に変更した2003-04シーズンも決定力の高さを見せ続け、巨人スコアラーとして機する。2023年12月3日ホームアトレティコ・マドリードとのマドリード・ダービーでは試合開始15ゴールネットを揺らし、クラブ史上最速ゴール記録チームは守備的な選手を放出したことでバランスが悪くなり、リーガでは4位、CLでは準々決勝で敗れて敗退。そんな中でもロナウドはコンスタントゴールを奪い、前年を上回るリーグ戦24ゴール記録バルサ時代以来2度となるピチーチ(得点王)のタイトルを獲得する。

2004-05シーズンも21ゴール2005-06シーズンは14ゴール数字そのものは残していたが、チーム冠が続いていたこともあって銀河系軍団終焉が囁かれ、運動量の低下や体重の過、度重なる怪による離脱で批判が集中するようになり、本人にとってもメディアからのバッシングストレスを感じるようになっていた。しかも2005年ブラジル選手を中心にゴキブリカンガルーゴールパフォーマンスをおこなったことにより、相手監督メディアだけでなくレアル・マドリードファンチームメイトからも批判されるようになる。ゴールを決められない試合ではまるで存在感がなくなることも少なくなく、ブーイングを浴びせるサンティアゴ・ベルナベウの観客に対し、「まるでアウェイでの試合みたいだ」と心情を吐露することもあった。2005-06シーズンを最後にペレス会長会長職から退いたこともあり、レアル・マドリード内での立場は確実に揺らいでいた。

2006-07シーズンに就任したファビオ・カペッロ監督からは体重問題とフィットネス不足が不評を買い、ルート・ファン・ニステルローイの加入もあって構想から外され出場機会が減。カペッロ監督との対立も修復不能なものとなり、出場機会をめて移籍を希望するようになる。

ミラン

シーズン途中の2007年1月30日イタリアセリエAACミランへ移籍金805万ユーロで移籍。加入当初のミランは、アンドリー・シェフチェンコ放出によって得点力不足に陥り、不振に陥っていたが、移籍後初スタメンとなった2月17日のシエナ戦で1ゴール1アシスト記録勝利に貢献。シーズン途中の加入で14試合の出場ながら7ゴール記録し、一時は危ぶまれていたCL出場権獲得に貢献する。また2006-07シーズンミランCL優勝しているが、マドリーですでにCLに出場していたことから出場資格かった。それでも彼の加入はカカら中心選手にとっていいを与えたと言われている。

2007-08シーズンは、マドリー時代と同じように度重なる怪と体重過の問題によって欠場が多く、思ったようなプレーをできずにいた。そして2008年2月13日のリヴォルノ戦においてクロスに飛び込んだジャンプした際に左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまう。実にキャリア3度となる大怪により今度こそ引退危機まで囁かれ、そのまま6試合2得点シーズンが終了。オフには契約満了となり退団となる。

コリンチャンス

ミランを退団後はしばらく所属が続き、その間ブラジルへ戻り4かの間CRフラメンゴでリハビリ練習に励んでいたが、結局フラメンゴから獲得オファーは来ず、2008年12月9日オファーを受けたコリンチャンスへ加入。2009年3月4日、コパ・ド・ブラジルのイトゥンビアラ戦で約1年半ぶりに実戦に復帰。同時に15年ぶりにピッチに立つこととなった。3月8日のサンパウロ州選手権・パルメイラス戦では約14かぶりとなるゴールを決める。サンパウロ州選手権では9試合8得点記録復活アピールすると、決勝第1戦のサントスFC戦では王様ペレが見守る中で2ゴールを決め、コリンチャンスの優勝に貢献。さらに、コパ・ド・ブラジル決勝のインテルナシオナル戦でゴールを決め、またもチームタイトルをもたらす。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでも20試合11得点記録し、低迷期に差し掛かっていたチーム救世主となる。

2010年2月、コリンチャンスと2011年末まで契約を延長し、その後引退すると発表。しかし、2010年シーズンは度重なる怪と体重過によって離脱を繰り返すことになる。2011年2月14日記者会見にて、甲状腺に問題を抱えていたことを明らかにし、体力限界を理由に予定よりもく現役から退くことを表明。批判もされてきた肥満問題については、代謝低下で体重のコントロール困難だったことを明かし「ドーピングになるためを摂取できなかった」とながらに訴えた。

ブラジル代表

1994年3月23日アルゼンチンとの試合17歳にしてブラジル代表デビューを果たす。5月4日ワールドカップ直前のアイスランドとの試合において代表初ゴール記録。そのまま6月アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップメンバーにもチーム最年少で選出される。大会でのブラジル代表はロマーリオベベットの2トップって好調だったこともあって出場機会は訪れなかったが、24年ぶりの優勝に立ち合い、共に歓喜することとなった。

1996年7月に開催されたアトランタオリンピックU-23ブラジル代表の一員として出場。なお、このとき他にロナウドという選手がいたため登録名は「ロナウジーニョ」だった。オーバーエイベベットが出場したことからスーパーサブとしての起用となったが、初戦で日本相手に敗れた後のグループリーグ第2戦ハンガリー戦でブラジルの初ゴールを決める。優勝補とされたブラジルは準決勝でナイジェリアに敗れ銅メダルに終わるが、この大会でチーム最多となる5ゴールを決めている。

その後、移籍したバルセロナでの活躍で選手としての地位が飛躍的に高まり、代表でもゴールを量産するなど中心選手に成長。1997年6月ボリビアで開催されたコパ・アメリカ1997ではロマーリオとの「RoRoコンビ」と呼ばれた強力2トップで大暴れし、圧倒的な攻撃力を見せつけての優勝に貢献。決勝のボリビア戦でゴールを決めるなど通算5ゴールを決めたロナウドは大会の最優秀選手に選ばれる。同年12月サウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1997でも「RoRoコンビ」は猛威を振るい、決勝のオーストラリア戦ではハットトリックを達成し、優勝に貢献している。

1998年6月フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。ところが、ロマーリオは直前でまさかの落選となってしまい、一人でエースの重責を背負い、前年のバロンドール獲得ということで大会の玉選手として注もされていた。それでもグループリーグ第2戦のモロッコ戦でワールドカップゴールを決めれば、第3戦のチリ戦で2ゴール記録闘となった準決勝のオランダ戦でも先制ゴールを決めており、4ゴール3アシストエースの重責を立に果たし、ブラジルを2大会連続での決勝へと導く。しかし、決勝当日のに痙攣発作を起こして一時は意識不明となり、試合への出場が危ぶまれる緊急事態となる。最終的にマリオ・ザガロ監督の判断により決勝に強行出場するが、満足プレーができないままフランス相手に0-3で敗し、ブラジルは準優勝に終わる。それでも、大会を通じての活躍が認められ、MVPに該当するゴールデンボールを受賞する。もっとも、決勝の強行出場については様々な物議を醸すこととなった。

1999年6月パラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999では、大量7ゴールを奪った初戦のベネズエラ戦で2ゴールを決める。決勝のウルグアイ戦ではチームの3点を決め、通算5ゴールリバウドと共に大会の得点王となる。しかし、この年の11月に負った右膝靭帯の重傷によって2000年から2年間代表から遠ざかることになる。2002年ワールドカップ出場も絶望的と見られていた。

2002年6月日本韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップメンバーに選出され、これが2年ぶりの代表復帰となった。実戦に復帰間もないこともあってコンディションを不安視するも多かったが、ルイスフェリペ・スコラーリ監督はロナウドを信頼し、エースとして起用。するとグループリーグ初戦のトルコ戦でゴールを決めると、リバウド、ロナウジーニョと「3R」と呼ばれた攻撃トリオを形成し、グループリーグから決勝トーナメントまでゴールを量産。準決勝のトルコ戦ではトーキックでの決勝ゴールを決め、ブラジルを3大会連続での決勝へと導く。横浜国際総合競技場でおこなわれた決勝のドイツ戦では、突如大五郎カットで登場し世界中を驚かせるが、試合では名GKオリバー・カーンから2ゴールを奪い、見事ブラジルを2大会ぶり5回優勝に導く。この大会では最終的に準々決勝以外の全ての試合ゴールを決めており、大会8ゴール得点王にく。表式ではペレと抱擁を交わし、世界中がロナウドの復活劇を称えることとなった。さらに、この年自身3度となるFIFA最優秀選手賞と2度バロンドールを受賞

ワールドカップ後は体重過や怪の多さからコンディションに不安を抱えていたが、2006年ワールドカップ南米予選では2004年6月2日アルゼンチン戦でPKのみのハットトリック記録するなどチームトップの10ゴール記録している。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。アドリアーノ、ロナウジーニョカカと共に「マジックカルテット」として注されたが、グループリーグ最初の2試合では運動量の少なさと動きの重さから低調なパフォーマンスもあって批判される。グループリーグ第3戦では憧れだったジーコ監督を務める日本を相手に2ゴールを決めて周囲の雑音を黙らせる。ラウンド16のガーナ戦ではW杯通算15得点となるゴールを挙げ、ゲルト・ミュラーが残した14得点の大会得点記録を32年ぶりに更新。しかし、準々決勝のフランス戦では低調なプレーに終わり、敗戦。ドイツW杯後は代表に招集されず、この試合ブラジル代表での最後の試合となった。

現役引退した後の2011年6月7日試合ブラジルvsルーマニアがロナウドの引退試合として行なわれ、前半30分から15分間ピッチに立った。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1993 ルゼイロ カンピオナート・セリエA 14 12
1994 ルゼイロ カンピオナート・セリエA - -
1994-95 PSVアイントホーフェン エールディヴィジ 32 30
1995-96 PSVアイントホーフェン エールディヴィジ 13 12
1996-97 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 37 34
1997-98 インテル セリエA 32 25
1998-99 インテル セリエA 19 14
1999-00 インテル セリエA 7 3
2000-01 インテル セリエA 0 0
2001-02 インテル セリエA 10 7
2002-03 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 31 23
2003-04 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 32 24
2004-05 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 34 21
2005-06 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 23 14
2006-07 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 7 1
ACミラン セリエA 14 7
2007-08 ACミラン セリエA 6 2
2009 リンチャンス カンピオナート・セリエA 20 12
2010 リンチャンス カンピオナート・セリエA 11 6
2011 リンチャンス カンピオナート・セリエA - -

個人タイトル

引退後

引退後は代理人事務所スペインスポーツマーケティング会社を設立。代理人として活動すると同時にTV解説者映画出演の仕事も受けている。

2011年ブラジルで開催される2014 FIFAワールドカップの組織委員会理事に就任。

2014年12月北米サッカーリーグフォートローダーデイルストライカーズの共同オーナーに就任。しかしクラブ2016年9月財政難によって活動休止に追い込まれている。

2016年レアル・マドリードのアドバイザー兼南米地区グロバル大使に就任。

2018年8月10日スペインのイビサにある別荘でバカンスを楽しんでいた最中に肺炎によって入院。一時はICUで治療を受けるほど重篤だったが、数日後に退院している。

2018年9月3000ユーロラ・リーガレアル・バリャドリード株式51を取得し、クラブオーナーとなる。
オーナー就任後のチームは1部に長く定着できないエレベータークラブとなっており、サポーターからは次第にロナウドの退任をめるが強まっていた。2024-25シーズンに1部からの降格が決まると、2025年5月23日投資家グループに経営を売却する。

2021年12月、古巣であるクルゼイロECの買収に合意し、経営権を取得。当時、約10億レアル負債を抱え、2部降格と低迷期にあったクラブに対して4億レアル投資。翌年に1部へ復帰している。
2024年4月、経営権を実業に5億レアルで売却。なお、引き続きクラブ取締役会に留まっている。

プレースタイル

ポジションセンターフォワード1999年に膝の靭帯の大怪を負う前の全盛期は史上もっとも完成度の高いストライカーと評され、歴代最高の9番の呼びもある。得意なプレーは、バイタルエリア付近でボールを持つとそこから単独でドリブル突破しゴールを奪うというシンプルなものだったが、全盛期は1人で試合を決め切るだけの力があり、ハーフウェイラインが1人でボールを運んでゴールを決めたこともあった。一番多いゴールパターンは裏へ飛び出してGKと1vs1になるパターンでこれは怪スピードを失ってからも同じだった。DFにとっては何を仕掛けてくるのか分かっていても止められない、ファウルしても止められないという理不尽なストライカーだった。

最大の特徴は爆発的なスピードであり、トップスピードに到達までが異常なまでにく、一で相手を置き去りにすることができた。トップスピードの状態を長く維持することもでき、急ストップ&ゴーでで方向転換も可。さらにそんな異常トップスピードでも正確なボールコントロールが可で、しかもシザースや足裏を使った細かいボールタッチを自在に使いこなせていた。

フィジカルも強でDFがタックルを仕掛けてきたり、ユニフォームを掴んできても簡単に吹き飛ばすだけの力があり、相手からすればまるでダンカーが突っ込んでくるかのようだった。

シュートも抜群にうまく、スピードに乗った状態でも高精度なシュートを決めることができた。シュートの蹴り方が独特で膝下にボールを置き、シュートをするまでのモーションが少なく、GKは反応できないタイミングで打たれてしまう。

右膝の負傷を負って以降はプレースタイルを変化させ、短い距離限定の一スピードと持ち前の得点感覚、そして前述のシュート技術の高さはそのまま維持できたことから依然として世界トップレベルストライカーであり続けた。しかし、そのために運動量を落とさなければならず、試合から消えてしまうことも増えたためフィニッシュワークだけに特化した選手となっていた。

人物・エピソード

関連動画

関連項目

関連記事

親記事

子記事

兄弟記事

  • 6
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

天外魔境II (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ズンドコベロンチョ
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

ロナウド

43 ななしのよっしん
2018/04/08(日) 19:19:30 ID: +KLd6OlnKc
CL優勝したことないのも意外だけも得点自体がめっちゃくちゃ少ない
👍
高評価
0
👎
低評価
44 ななしのよっしん
2018/05/24(木) 23:59:57 ID: sBzkDEcZe4
もし全盛期ロナウドが今のjリーグに来たら年間何得点位行けるかな?
試合連続ハットトリック
試合得点を達成する事も出来るかな
👍
高評価
0
👎
低評価
45 ななしのよっしん
2018/06/15(金) 11:37:30 ID: wAZR+tKc6C
クリロナの記事はあるけど、大五郎単体の記事はなかったのか・・・。ウィキペも表記は「ロナウド」だからそんなもんかもしれないが。

いつの間にか見ない間にデブってたな。少し前に見た時もデブだったけど。2018年ワールドカップの事件の1つ。
👍
高評価
0
👎
低評価
46 ななしのよっしん
2018/06/27(水) 15:40:12 ID: x/vehRYZTm
>>sm33430259exit_nicovideo
👍
高評価
0
👎
低評価
47 ななしのよっしん
2019/03/03(日) 07:20:10 ID: g9S5UUtF40
文句なしの実績及び活躍をしたのに評価(というか好感度)が低い悲運の人・・・
私的な意見だが、あまり頭が良くないというか自らの発言の重みというのをいまいち理解してなかったって感じ
ペレの時代なら2000ゴール以上は決めてた」とかそりゃかれるに決まってる
あとレアル在籍中も自分が加入したせいでモリエンテスが出番くなった事に頓着過ぎた
その上高給どりでピッチ上での運動量も少ないとかだったし・・・
もっとも本人からすれば「何でほどの実績持ちがこんなに冷遇されるんだよ!?」と屈しまくってたろうけど・・・
👍
高評価
0
👎
低評価
48 ななしのよっしん
2020/06/05(金) 13:00:17 ID: ldZG3oh3ZQ
サッカーにもしは禁物だが
この人が大怪しなければ
ロナウジーニョ遊びせずにクリロナ並にストイックだったら
と思わずにはいられない
👍
高評価
0
👎
低評価
49 ななしのよっしん
2020/06/05(金) 13:03:59 ID: LU5rdIPAwI
もしでいえばこの人やロナウジーニョイケメンだったなら…の方が気になるな
もしそうなら間違いなく好きな選手だったろうし世界規模で人気になってただろう
👍
高評価
0
👎
低評価
50 ななしのよっしん
2021/07/07(水) 04:10:31 ID: ldZG3oh3ZQ
膝怪する前はムバッペスピードロナウジーニョテクニック融合させた異次元の選手だったんだよな
大怪しなければバロンドールを合計6回ぐらい受賞していてもおかしくはなかったろうに

メッシイブラが憧れるのも分かるわ
👍
高評価
0
👎
低評価
51 ななしのよっしん
2022/06/11(土) 17:44:44 ID: LIwGOFUMlU
>>47
そんな感じで、愚鈍なイメージあるのに、引退後は自分の会社を起こして財を成し、レアル・マドリード南米大使を務め、ラ・リーガレアル・バジャドリード会長になり、古巣であるクルゼイロの経営再建にも乗り出すという堅実な実業へと転身。
ロナウジーニョが借金まみれで逮捕されたりしてる中、かなり対照的なセカンドキャリアを送っている。
👍
高評価
0
👎
低評価
52 ななしのよっしん
2022/12/26(月) 00:17:03 ID: ldZG3oh3ZQ
個人的にはロナウド歴史上最高の9番だと思ってる

ロナウド以前の9番はも彼に敵わない
ゲルトミュラーファンバステンも含めてね

ロナウド以後だが

メッシは10番
クリロナは7番(レアル後期から9番化したが元々ウイング)
エムバペは左サイドの選手
イブラベンゼマは9.5番
ロナウド以後の攻撃面で世界最高クラスの選手達のほとんどはプレースタイルが9番ではない
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
👍
高評価
0
👎
低評価

ニコニコニューストピックス