ロナウド(Ronaldo)とは、ポルトガル語圏の代表的な人名である。ロナウドは慣用的な表記であり、ポルトガル語でホナルド、ブラジル・ポルトガル語だとホナウドに近い。
- ロナウド"フェノーメノ"(ホナウド・ルイス・ナザリオ・ヂ・リマ) - ブラジルのサッカー選手
- クリスティアーノ・ロナウド(クリシュティアーノ・ホナルド・ドシュ・サントシュ・アヴェイロ) - ポルトガルのサッカー選手
- ロナウジーニョ・ガウショ(ホナウヂーニョ、ホナウド・ヂ・アスィス・モレイラ) - ブラジルのサッカー選手。→ロナウジーニョ
- ロナルド(ホナウド・ギアロ) - ブラジルのサッカー選手
- ロナウド・アパレシド・ロドリゲス(ホナウド・アパレスィド・ホドリゲス) - ブラジルのサッカー選手。登録名はナウド
- ロナウド・アンジェリン(ホナウド・スィモンエス・アンヂェリン) - ブラジルのサッカー選手
- ロナウドン(ホナウド・ホドリゲス・ヂ・ヂェズス) - ブラジルのサッカー選手。ロナウドン(ホナウダンオ)は大ロナウドという意味。
- ロナウド・ダ・コスタ(ホナウド・ダ・コスタ) - ブラジルのマラソン選手。10年ぶりに世界新記録を更新(しかし翌年にモロッコの選手に破られる)
本記事では、ホナウド・ルイス・ナザリオ・ヂ・リマ(Ronaldo Luís Nazário de Lima)について記述する。
ロナウド(Ronaldo、1976年9月22日 - )ことホナウド・ルイス・ナザリオ・ヂ・リマとは、ブラジルの元サッカー選手、実業界である。元サッカーブラジル代表。
現役時代のポジションはFW。183cm82kg。利き足は右足。
概要
ブラジル・リオデジャネイロ出身。1990年代後半から2000年代前半にかけて世界最高のストライカーと評され、ブラジル代表として98試合62得点を記録し、FIFAワールドカップに4度出場。MVPに選ばれた1998年フランス大会では準優勝、得点王になった2002年日韓大会では優勝に貢献し、ワールドカップ通算15得点の実績を持つ。ストライカーのポジションに新たな次元をもたらした多機能ストライカーと呼ばれ、後続の世代のストライカーに多大な影響を与えている。
主な記録はバロンドール2回(1997年、2002年)、FIFA最優秀選手賞3回(1996年、1997年、2002年)。主な所属チームはクルゼイロ、PSVアイントホーフェン、FCバルセロナ、インテル、レアル・マドリード、ACミラン、コリンチャンス。ちゃっかりワンクッション置いてライバルチームを行き来している。
ナザリオ・ヂ・リマで一つの姓(父母双方の姓を合わせた複合姓)である。ちなみに現地では彼もロナウジーニョ(ホナウヂーニョ)と呼ばれることがあるが、これは「ロナウドくん」といった意味の一般的な愛称なので(英語ならロンとかロニーとか言う所)、少しややこしいが仕方が無い。
その爆発的なスピードを活かした得点能力からポルトガル語で超常現象、怪物を意味する「フェノーメノ (fenómeno)」と呼ばれる。サッカーファンの中ではクリスティアーノ・ロナウドと区別する際、「元祖の方」「怪物の方」「太っている方」「イケメンじゃない方」で通じる。場合によっては怒られるので注意。
怪我が多く、キャリア前半が全盛期の為に実際は長年活躍しながらもなんだか惜しまれている選手である。怪我の多さは個人能力が高すぎてDFが厳しいことと、身体能力そのものに体が付いてこなかったというちょっと何言ってるか分からない理由が原因と言われている(彼の能力の高さを評する言葉に「戦術はロナウド」がある。意味は言葉通り)。
また、度重なる怪我と甲状腺のホルモンの病気(病気自体はミランに所属している時に発覚しているがなぜか引退時まで多くの人が知らない、仮に知っていても言い訳扱いという涙目)が原因でキャリア後半は体重が増加しており、キャリアの前半と後半ではプレースタイルが違うがどっちもすごい。彼を史上最高の選手として挙げる人も多いが、プレースタイル変えてもやっていける点とどの所属クラブでも活躍するという点から適応力に優れていると言える。
2011年、惜しまれつつも体の限界ということで引退。引退後はサッカークラブのオーナーに就任するなど、事業家として活動している。
経歴
生い立ち
1976年9月18日、リオデジャネイロ郊外にあるベント・リベイロにおいて3人兄弟の末っ子として生まれる。なお、出生届が遅れたため戸籍上の生年月日は1976年9月22日になっている。
生まれ育ったベント・リベイロはブラジルでも有数のスラム街とされており、ロナウドの家も父親が電話会社で働き家計を支えていたが、毎日食べていくだけで精一杯という貧しい家庭であり、靴を買う金すらなく裸足で生活をしていた。そんなスラム街においてサッカーは唯一の希望であり、幼少期のロナウドはリオデジャネイロに本拠地を置くCRフラメンゴの英雄ジーコに憧れ、物心ついたときからボールを蹴っていた。そしていつかジーコのような偉大なサッカー選手になりたいという目標を抱いていた。
学校では勉強についていけず落ちこぼれだったことから、サッカーは彼にとって全てとなっていた。街中で靴下を丸めてボールを作り、毎日ストリートサッカーに日が暮れるまで夢中になっていた。11歳のとき、両親が離婚。一人で子供を養わなければならなくなった母親はウエイターの仕事を休みなく毎日12時間こなしていたという。その後まもなく学校を中退し、サッカー選手としてのキャリアを本気で追及するようになる。
12歳になると、フットサルチームのソーシャル・ラモスに入団し、ブラジルの子供によくある5人制のフットサルで技術を磨こうとする。路上で磨いた才能の片鱗を早速発揮し、ユースリーグで166ゴールというとんでもない記録を作り出す。後にフットサルが自分のスキルを成長させたと振り返っており、当時のコーチは当時のロナウドについて「まるで月から来たようだった」と評している。
15歳となった1990年サンクリストヴァンFRの下部組織に入団。本当はファンであるフラメンゴのトライアルを受けたかったが、フラメンゴの本拠地まで通うバス代が支払えなかったため断念し、自宅から一番近いクラブを選んだらしい。ここでも彼は飛び抜けた才能を発揮しており、15歳ながらU-17、U-20チームに混じってプレーしても驚異的なゴール感覚を見せていた。この神童の噂を聞きつけた元ブラジル代表であり、1970年ワールドカップでペレと共にブラジルに3度目の優勝をもたらしたジャイルジーニョが視察に訪れ、ロナウドの才能に惚れ込み、名門クルゼイロに推薦するのだった。
クルゼイロ
1993年、16歳にしてミナスジェライス州の強豪クルゼイロECへ入団し、トップチームとプロ契約を交わす。入団してから3か月後の5月25日、ミナスジェライス州選手権のAAカウデンセ戦で念願のプロデビューを果たす。その後すぐにレギュラーに定着すると、コパ・ド・ブラジルではチームの優勝に貢献。この年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは13試合12ゴールを記録。さらにコパ・リベルタドーレスではコロコロ戦でプロキャリア初のハットトリックを記録するなど12試合10ゴールをマークし、大会の得点王に輝く。プロ1年目とは思えない活躍ぶりに、ロナウドの名前はブラジル中に知れ渡るのだった。
1994年も勢いは止まらず、ミナスジェライス州選手権では、最大のライバルアトレチコ・ミネイロとの一戦ではハットトリックを決め、3-1の勝利と優勝に貢献。この年の2月11日には初めて来日し、ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチでハットトリックを達成。クルゼイロでの圧倒的なパフォーマンスによりプロになってわずか1年でブラジルを離れ、活躍の場を欧州へと移すことになるのだった。
PSVアイントホーフェン
1994年7月、オランダの名門PSVアイントホーフェンに移籍。この移籍にはPSVで1988年から1993年までプレーしていたロマーリオの後押しがあったという。8月28日のフィテッセ戦で欧州のデビューを果たすと、この試合で2ゴールを決めてみせる。続くゴー・アヘッド・イーグルス戦でも2ゴールを決め、あっという間に新天地でエースの座に君臨する。UEFAカップでもバイヤー・レヴァークーゼン戦でハットトリックを達成し、ドイツ代表のルディ・フェラーを震撼させる。その圧倒的なスピード、ドリブル、テクニックによってオランダでも異次元のプレーを連発し、1994-95シーズンのエールディヴィジで32試合30得点という驚異の数字を残し、得点王のタイトルを獲得。華々しい欧州でのデビューシーズンとなった。
1995-96シーズンでは膝の怪我によって途中離脱したことで13試合のみの出場となったが、それでも12ゴールを記録。UEFAカップではミパ戦で1試合4ゴールを記録。このシーズンには欧州での初タイトルとなるKNVBカップ優勝にも貢献。次代の世界最高プレイヤーを手に入れようと、欧州のビッグクラブが触手を伸ばすようになる。
バルセロナ
1996年7月17日、スペイン・リーガ・エスパニョーラの名門FCバルセロナに移籍。移籍金は当時の史上最高額となる1700万ドルとなった。第3節のラシン・サンタンデール戦で移籍後初ゴールを決めると、スペインでも異次元の活躍を見せつける。10月11日のコンポステーラ戦では約60メートルをドリブルで相手DFに厳しく引っ張られながらもゴールへと向かっていき、最後はPA内でDF二人を華麗なステップでかわしてからのゴールを決める。伝説ともいわれるこのゴールは当時ナイキのCMに使用されたこともあり、ロナウドを世界的なスーパースターへと押し上げるきっかけとなった。飛躍的に知名度が上がっても圧倒的すぎるプレーを連発。バレンシアCF戦でハットトリックとなる3点目を決めた際は、バルササポーターがその並外れたパフォーマンスを称えて白いハンカチを振ったという逸話も残っている。バルサのボビー・ロブソン監督が戦術がないと批判されたときに「私の戦術はロナウドだ」という名言を残したのもこのときである。この年のバルサはリーガのタイトルこそ逃したものの、コパ・デル・レイとUEFAカップウィナーズカップの二冠を獲得。自身はリーガで37試合34得点を記録し、ピチーチ(得点王)のタイトルを受賞。
このシーズンでの驚異的な活躍により、1996年と1997年の2年連続でFIFA世界最優秀選手賞を受賞。さらにはブラジル人選手では初となる1997年のバロンドールも獲得し、20歳の若さで世界最高選手へと登り詰めるのだった。しかし、伝説的となったバルサでの時間はわずか1年で終えるのだった。
インテル
1997年夏、イタリア・セリエAのインテル・ミラノへの5年契約での移籍が発表される。移籍金は前年に自ら打ち出した記録を塗り替える、当時の史上最高額である1900万ポンド。この驚きの移籍劇の背景には契約延長交渉の際のバルサ側との不合意があったとされている。加入当初、守備が強固なセリエAではこれまでのような活躍はできないのではという声もあったが、そんな疑念はすぐに払拭させてしまう。第2節ボローニャFC戦でセリエA初ゴールを奪うと、これまで多くの名だたるストライカーを泣かせてきたセリエAにすぐに順応し、第21節レッチェ戦ではハットトリックを記録。この時期にはフリーキックからの直接ゴールを覚えるなど、屈強なセリエAのDFに対応するためプレーの幅を増やしていた。結局インテルは熾烈なスクデット争いの末にアレッサンドロ・デル・ピエロやジネディーヌ・ジダンを擁したユヴェントスに屈するが、ロナウド自身はリーグ戦25ゴールを記録し、セリエAにおける1年目の外国人選手の最多得点記録を樹立し、1997-98シーズンのセリエA最優秀選手に選出される。UEFAカップでは決勝のSSラツィオ戦でゴールを決め、タイトル獲得に貢献。公式戦通算で34ゴールを記録し、現地のメディアから「イル・フェノーメノ(超常現象)」と渾名されるなど、キャリアのピークといえる時期であった。
1998-99シーズンからはチームのキャプテンに任命される。先の1998 FIFAワールドカップの疲労を抱えていたこともあって負傷によって離脱してしまい19試合の出場にとどまったが、それでも出場した試合では異次元の超常現象を起こしており、14得点と高い決定率を記録。しかしインテルはロナウドへ依存したチームとなっており、ロナウドがフル稼働できなかったチームは優勝争いから遠ざかっていた。
1999-00シーズンはロベルト・バッジョ、クリスティアン・ヴィエリが加わった夢の攻撃陣に大きな期待が寄せられたが、1999年11月21日のUSレッチェ戦で右膝靭帯部分損傷の大怪我を負い、手術とリハビリのために長期の離脱を強いられる。2000年4月12日のコッパ・イタリア決勝ラツィオ戦で復帰するが、出場してわずか7分で同じ個所が完全断裂してしまい、今後のキャリアに大きな影を落とす大怪我を負う。2000-01シーズンには復帰することができず、一部からは再起不能が囁かれるほど深刻な状態にあった。
2002年ワールドカップに間に合わせるために20か月に及ぶ長く苦しいリハビリ生活を経て、2001-02シーズン終盤のブレシア戦でついにピッチに復帰。1年半のブランクがあったことから「ロナウドは終わった選手」と言われることもあったが、この試合でチームを救う2ゴールを決めてみせる。その後のシーズン残りの試合でもゴールを決め、10試合7得点を記録している。
シーズン後の2002 FIFAワールドカップでは奇跡的ともいえる復活劇を見せ、インテリスタは新シーズンへの期待を膨らませたが、エクトル・クーペル監督との確執があったロナウドは再びネッラズーリのシャツを着ることはなかった。
レアル・マドリード
2002年7月にスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへ移籍。移籍金は4600万ユーロ。当時のマドリーはフロレンティーノ・ペレス会長のもと、毎年スター選手を獲得して「銀河系軍団」と呼ばれており、ロナウドもその一員に加わることとなった。怪我のためデビューは10月まで遅れたが、デビュー戦となったアラベス戦で途中出場から1分も経たないうちにボレーシュートを決め、初ゴールを記録。その後もう1ゴールを決め、鮮烈なデビューを飾る。この頃のロナウドは膝の怪我の影響で爆発的なスピードや瞬発力を失っていたが、シュートの精度やテクニック、ゴール前での嗅覚は変わらず一級品であり、依然として世界トップクラスのストライカーであり続けた。優勝がかかった最終節のアスレティック・ビルバオ戦では2ゴールの活躍を見せるなど、リーグ戦23ゴールを記録し、チームのリーガ優勝に貢献した。また、UEFAチャンピオンズリーグでも準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではオールド・トラッフォードでハットトリックを記録し、相手サポーターからスタンディングオベーションを受けるなど、12試合7得点を記録している。
背番号を慣れ親しんだ9番に変更した2003-04シーズンも決定力の高さを見せ続け、白い巨人のスコアラーとして機能する。2023年12月3日、ホームのアトレティコ・マドリードとのマドリード・ダービーでは試合開始15秒でゴールネットを揺らし、クラブ史上最速ゴールを記録。チームは守備的な選手を放出したことでバランスが悪くなり、リーガでは4位、CLでは準々決勝で敗れて敗退。そんな中でもロナウドはコンスタントにゴールを奪い、前年を上回るリーグ戦24ゴールを記録。バルサ時代以来2度目となるピチーチ(得点王)のタイトルを獲得する。
2004-05シーズンも21ゴール、2005-06シーズンは14ゴールと数字そのものは残していたが、チームは無冠が続いていたこともあって銀河系軍団の終焉が囁かれ、運動量の低下や体重の超過、度重なる怪我による離脱で批判が集中するようになり、本人にとってもメディアからのバッシングにストレスを感じるようになっていた。しかも2005年にブラジル選手を中心にゴキブリやカンガルーのゴールパフォーマンスをおこなったことにより、相手監督やメディアだけでなくレアル・マドリードのファンやチームメイトからも批判されるようになる。ゴールを決められない試合ではまるで存在感がなくなることも少なくなく、ブーイングを浴びせるサンティアゴ・ベルナベウの観客に対し、「まるでアウェイでの試合みたいだ」と心情を吐露することもあった。2005-06シーズンを最後にペレス会長が会長職から退いたこともあり、レアル・マドリード内での立場は確実に揺らいでいた。
2006-07シーズンに就任したファビオ・カペッロ監督からは体重問題とフィットネス不足が不評を買い、ルート・ファン・ニステルローイの加入もあって構想から外され出場機会が激減。カペッロ監督との対立も修復不能なものとなり、出場機会を求めて移籍を希望するようになる。
ミラン
シーズン途中の2007年1月30日、イタリア・セリエAのACミランへ移籍金805万ユーロで移籍。加入当初のミランは、アンドリー・シェフチェンコの放出によって得点力不足に陥り、不振に陥っていたが、移籍後初スタメンとなった2月17日のシエナ戦で1ゴール1アシストを記録し勝利に貢献。シーズン途中の加入で14試合の出場ながら7ゴールを記録し、一時は危ぶまれていたCL出場権獲得に貢献する。また2006-07シーズンのミランはCLで優勝しているが、マドリーですでにCLに出場していたことから出場資格が無かった。それでも彼の加入はカカら中心選手にとっていい影響を与えたと言われている。
2007-08シーズンは、マドリー時代と同じように度重なる怪我と体重超過の問題によって欠場が多く、思ったようなプレーをできずにいた。そして2008年2月13日のリヴォルノ戦においてクロスに飛び込んだジャンプした際に左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまう。実にキャリア3度目となる大怪我により今度こそ引退の危機まで囁かれ、そのまま6試合2得点でシーズンが終了。オフには契約満了となり退団となる。
コリンチャンス
ミランを退団後はしばらく無所属が続き、その間ブラジルへ戻り4か月の間CRフラメンゴでリハビリや練習に励んでいたが、結局フラメンゴから獲得オファーは来ず、2008年12月9日にオファーを受けたコリンチャンスへ加入。2009年3月4日、コパ・ド・ブラジルのイトゥンビアラ戦で約1年半ぶりに実戦に復帰。同時に15年ぶりに母国のピッチに立つこととなった。3月8日のサンパウロ州選手権・パルメイラス戦では約14か月ぶりとなるゴールを決める。サンパウロ州選手権では9試合8得点を記録し復活をアピールすると、決勝第1戦のサントスFC戦では王様ペレが見守る中で2ゴールを決め、コリンチャンスの優勝に貢献。さらに、コパ・ド・ブラジル決勝のインテルナシオナル戦でゴールを決め、またもチームにタイトルをもたらす。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでも20試合11得点を記録し、低迷期に差し掛かっていたチームの救世主となる。
2010年2月、コリンチャンスと2011年末まで契約を延長し、その後引退すると発表。しかし、2010年シーズンは度重なる怪我と体重超過によって離脱を繰り返すことになる。2011年2月14日、記者会見にて、甲状腺に問題を抱えていたことを明らかにし、体力の限界を理由に予定よりも早く現役から退くことを表明。批判もされてきた肥満問題については、代謝低下で体重のコントロールが困難だったことを明かし「ドーピングになるため薬を摂取できなかった」と涙ながらに訴えた。
ブラジル代表
1994年3月23日、アルゼンチンとの親善試合で17歳にしてブラジル代表デビューを果たす。5月4日、ワールドカップ直前のアイスランドとの親善試合において代表初ゴールを記録。そのまま6月にアメリカで開催された1994 FIFAワールドカップのメンバーにもチーム最年少で選出される。大会でのブラジル代表はロマーリオとベベットの2トップが揃って好調だったこともあって出場機会は訪れなかったが、24年ぶりの優勝に立ち合い、共に歓喜することとなった。
1996年7月に開催されたアトランタオリンピックにU-23ブラジル代表の一員として出場。なお、このとき他にロナウドという選手がいたため登録名は「ロナウジーニョ」だった。オーバーエイジ枠でベベットが出場したことからスーパーサブとしての起用となったが、初戦で日本相手に敗れた後のグループリーグ第2戦ハンガリー戦でブラジルの初ゴールを決める。優勝候補とされたブラジルは準決勝でナイジェリアに敗れ銅メダルに終わるが、この大会でチーム最多となる5ゴールを決めている。
その後、移籍したバルセロナでの活躍で選手としての地位が飛躍的に高まり、代表でもゴールを量産するなど中心選手に成長。1997年6月にボリビアで開催されたコパ・アメリカ1997ではロマーリオとの「RoRoコンビ」と呼ばれた強力2トップで大暴れし、圧倒的な攻撃力を見せつけての優勝に貢献。決勝のボリビア戦でゴールを決めるなど通算5ゴールを決めたロナウドは大会の最優秀選手に選ばれる。同年12月にサウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1997でも「RoRoコンビ」は猛威を振るい、決勝のオーストラリア戦ではハットトリックを達成し、優勝に貢献している。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。ところが、ロマーリオは直前でまさかの落選となってしまい、一人でエースの重責を背負い、前年のバロンドール獲得ということで大会の目玉選手として注目もされていた。それでもグループリーグ第2戦のモロッコ戦でワールドカップ初ゴールを決めれば、第3戦のチリ戦で2ゴールを記録。激闘となった準決勝のオランダ戦でも先制ゴールを決めており、4ゴール3アシストとエースの重責を立派に果たし、ブラジルを2大会連続での決勝へと導く。しかし、決勝当日の朝に痙攣発作を起こして一時は意識不明となり、試合への出場が危ぶまれる緊急事態となる。最終的にマリオ・ザガロ監督の判断により決勝に強行出場するが、満足なプレーができないままフランス相手に0-3で完敗し、ブラジルは準優勝に終わる。それでも、大会を通じての活躍が認められ、MVPに該当するゴールデンボールを受賞する。もっとも、決勝の強行出場については様々な物議を醸すこととなった。
1999年6月にパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999では、大量7ゴールを奪った初戦のベネズエラ戦で2ゴールを決める。決勝のウルグアイ戦ではチームの3点目を決め、通算5ゴールでリバウドと共に大会の得点王となる。しかし、この年の11月に負った右膝靭帯の重傷によって2000年から2年間代表から遠ざかることになる。2002年のワールドカップ出場も絶望的と見られていた。
2002年6月に日本と韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、これが2年ぶりの代表復帰となった。実戦に復帰間もないこともあってコンディションを不安視する声も多かったが、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督はロナウドを信頼し、エースとして起用。するとグループリーグ初戦のトルコ戦でゴールを決めると、リバウド、ロナウジーニョと「3R」と呼ばれた攻撃トリオを形成し、グループリーグから決勝トーナメントまでゴールを量産。準決勝のトルコ戦ではトーキックでの決勝ゴールを決め、ブラジルを3大会連続での決勝へと導く。横浜国際総合競技場でおこなわれた決勝のドイツ戦では、突如大五郎カットで登場し世界中を驚かせるが、試合では名GKオリバー・カーンから2ゴールを奪い、見事ブラジルを2大会ぶり5回目の優勝に導く。この大会では最終的に準々決勝以外の全ての試合でゴールを決めており、大会8ゴールで得点王に輝く。表彰式ではペレと抱擁を交わし、世界中がロナウドの復活劇を称えることとなった。さらに、この年自身3度目となるFIFA最優秀選手賞と2度目のバロンドールを受賞。
ワールドカップ後は体重超過や怪我の多さからコンディションに不安を抱えていたが、2006年ワールドカップ南米予選では2004年6月2日のアルゼンチン戦でPKのみのハットトリックを記録するなどチームトップの10ゴールを記録している。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。アドリアーノ、ロナウジーニョ、カカと共に「マジックカルテット」として注目されたが、グループリーグ最初の2試合では運動量の少なさと動きの重さから低調なパフォーマンスもあって批判される。グループリーグ第3戦では憧れだったジーコが監督を務める日本を相手に2ゴールを決めて周囲の雑音を黙らせる。ラウンド16のガーナ戦ではW杯通算15得点目となるゴールを挙げ、ゲルト・ミュラーが残した14得点の大会得点記録を32年ぶりに更新。しかし、準々決勝のフランス戦では低調なプレーに終わり、敗戦。ドイツW杯後は代表に招集されず、この試合がブラジル代表での最後の試合となった。
現役引退した後の2011年6月7日、国際親善試合のブラジルvsルーマニアがロナウドの引退試合として行なわれ、前半30分から15分間ピッチに立った。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1993 | クルゼイロ | カンピオナート・セリエA | 14 | 12 | |
| 1994 | クルゼイロ | カンピオナート・セリエA | - | - | |
| 1994-95 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 32 | 30 | |
| 1995-96 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 13 | 12 | |
| 1996-97 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 34 | |
| 1997-98 | インテル | セリエA | 32 | 25 | |
| 1998-99 | インテル | セリエA | 19 | 14 | |
| 1999-00 | インテル | セリエA | 7 | 3 | |
| 2000-01 | インテル | セリエA | 0 | 0 | |
| 2001-02 | インテル | セリエA | 10 | 7 | |
| 2002-03 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 31 | 23 | |
| 2003-04 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 24 | |
| 2004-05 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 21 | |
| 2005-06 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 23 | 14 | |
| 2006-07 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 7 | 1 | |
| ACミラン | セリエA | 14 | 7 | ||
| 2007-08 | ACミラン | セリエA | 6 | 2 | |
| 2009 | コリンチャンス | カンピオナート・セリエA | 20 | 12 | |
| 2010 | コリンチャンス | カンピオナート・セリエA | 11 | 6 | |
| 2011 | コリンチャンス | カンピオナート・セリエA | - | - |
個人タイトル
- バロンドール:2回(1997年、2002年)
- FIFA最優秀選手賞:3回(1996年、1997年、2002年)
- FIFAワールドカップ・ゴールデンボール(1998年)
- FIFAワールドカップ得点王(2002年)
- エールディヴィジ得点王(1994-95)
- ピチーチ賞:2回(1996-97、2003-04)
- ヨーロッパ・ゴールデンブーツ賞(1996-97)
- セリエA最優秀選手賞(1997-98)
引退後
引退後は代理人事務所やスペインにスポーツマーケティング会社を設立。代理人として活動すると同時にTV解説者や映画出演の仕事も受けている。
2011年、母国ブラジルで開催される2014 FIFAワールドカップの組織委員会理事に就任。
2014年12月、北米サッカーリーグのフォートローダーデイル・ストライカーズの共同オーナーに就任。しかしクラブは2016年9月財政難によって活動休止に追い込まれている。
2016年、レアル・マドリードのアドバイザー兼南米地区グローバル大使に就任。
2018年8月10日、スペインのイビサ島にある別荘でバカンスを楽しんでいた最中に肺炎によって入院。一時はICUで治療を受けるほど重篤だったが、数日後に退院している。
2018年9月、3000ユーロでラ・リーガのレアル・バリャドリードの株式51%を取得し、クラブのオーナーとなる。
オーナー就任後のチームは1部に長く定着できないエレベータークラブとなっており、サポーターからは次第にロナウドの退任を求める声が強まっていた。2024-25シーズンに1部からの降格が決まると、2025年5月23日に投資家グループに経営株を売却する。
2021年12月、古巣であるクルゼイロECの買収に合意し、経営権を取得。当時、約10億レアルの負債を抱え、2部降格と低迷期にあったクラブに対して4億レアルを投資。翌年に1部へ復帰している。
2024年4月、経営権を実業家に5億レアルで売却。なお、引き続きクラブの取締役会に留まっている。
プレースタイル
ポジションはセンターフォワード。1999年に膝の靭帯の大怪我を負う前の全盛期は史上もっとも完成度の高いストライカーと評され、歴代最高の9番の呼び声もある。得意なプレーは、バイタルエリア付近でボールを持つとそこから単独でドリブル突破しゴールを奪うというシンプルなものだったが、全盛期は1人で試合を決め切るだけの力があり、ハーフウェイラインが1人でボールを運んでゴールを決めたこともあった。一番多いゴールパターンは裏へ飛び出してGKと1vs1になるパターンでこれは怪我でスピードを失ってからも同じだった。DFにとっては何を仕掛けてくるのか分かっていても止められない、ファウルしても止められないという理不尽なストライカーだった。
最大の特徴は爆発的なスピードであり、トップスピードに到達までが異常なまでに早く、一瞬で相手を置き去りにすることができた。トップスピードの状態を長く維持することもでき、急激なストップ&ゴーでで方向転換も可能。さらにそんな異常なトップスピードでも正確なボールコントロールが可能で、しかもシザースや足裏を使った細かいボールタッチを自在に使いこなせていた。
フィジカルも強靭でDFがタックルを仕掛けてきたり、ユニフォームを掴んできても簡単に吹き飛ばすだけの馬力があり、相手からすればまるでダンプカーが突っ込んでくるかのようだった。
シュートも抜群にうまく、スピードに乗った状態でも高精度なシュートを決めることができた。シュートの蹴り方が独特で膝下にボールを置き、シュートをするまでのモーションが少なく、GKは反応できないタイミングで打たれてしまう。
右膝の負傷を負って以降はプレースタイルを変化させ、短い距離限定の一瞬のスピードと持ち前の得点感覚、そして前述のシュート技術の高さはそのまま維持できたことから依然として世界トップレベルのストライカーであり続けた。しかし、そのために運動量を落とさなければならず、試合から消えてしまうことも増えたためフィニッシュワークだけに特化した選手となっていた。
人物・エピソード
- 1999年4月にサッカー選手でモデルのミレーネ・ドミンゲスと結婚。翌年4月には長男が生まれるが、2003年9月に離婚。2005年にモデルのダニエラ・シカレリと再婚するも、わずか3カ月で離婚。その後、2008年にマリア・ベアトリス・アントニーと3度目となる再婚、二女を儲けるも2012年12月に離婚。2023年に4度目の結婚。
- レアル・マドリード在籍時代の2004年の日本遠征中に日系ブラジル人との間に子供が誕生しており、2010年に認知している。長男のロナウド・デ・リマもサッカー選手となり、2017年にはブラジルU-18代表に選出されている。
- 熱心なカトリック教徒であり、2023年に洗礼を受けている。
- 2002 FIFAワールドカップ決勝で披露した大五郎カットはブラジルの漫画のキャラクターがモデルらしい。当時のキャプテンのカフーから「史上最悪の髪型だな」と揶揄された。
- 趣味にF1観戦があり、ヨーロッパで開催されるレースを中心にしばしば姿を見せている。その他、ゴルフを趣味としている。
- 元イタリア代表であり、ACミランのレジェンドであるパオロ・マルディーニは「マラドーナほど偉大な対戦相手に出会ったことはないが、それに大きく近づいた破壊的な選手」と評している。
- キャリアの初期からスポーツウェアメーカーのナイキのスポンサーを受けており、1996年に10年契約、および1億8000万ドル以上の生涯スポンサー契約を結んでいる。
- 2010年に「工場は閉鎖された」という声明とともにパイプカット(精管切除)手術を受けたことを告白。ところが2021年3月、当時は恋人だった現在の妻との間に5人目となる子供を授かっている。
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関連項目
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