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ロビンファンペルシー
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ロビン・ファン・ペルシー(Robin van Persie, 1983年8月6日 - )とは、オランダの元サッカー選手導者である。元サッカーオランダ代表

現役時代のポジションはFW。186cm78kg。利き足は左足。

愛称RVP

概要

オランダロッテダム出身。バランスのとれた体格に、パワースピードアジリティーのいずれにおいても準を上回るフィジカル、そして優れたテクニックと強な左足のシュートを装備する、モダンストライカー。若手時代はウイングの選手だったが、アーセナル移籍後にアーセン・ヴェンゲル監督によってセンターフォワードコンバートされたことで才が開プレミアリーグ2011-20122012-13シーズンと異なるクラブでの2シーズン連続得点王にき、30ゴールを決めた2011-12シーズンにはPFA年間最優秀選手賞を受賞。一方、若い頃はかなりの問題児だったことでも知られている。

フェイエノールトの下部組織を経て、2004年アーセナルへ移籍。ティエリ・アンリが去った後の絶対なエースとなりキャプテンも務めたが、タイトル縁だった頃から2012年ライバルクラブであるマンチェスター・ユナイテッドに移籍し、アレックス・ファーガソン監督ラストイヤーにプレミアリーグ優勝をもたらしている。

オランダ代表には2005年デビューし、102試合50得点記録FIFAワールドカップに3回、UEFA欧州選手権に2回出場。キャプテンを務めた2014 FIFAワールドカップでは6試合4ゴールの活躍によって前評判の低かったチーム3位に導いている。特にスペイン戦でのダイビングヘッドによるループシュートは有名であり、このゴールによって祖国英雄ヨハン・クライフと同じ「フライング・ダッチマン(飛ぶオランダ人)」と呼ばれるようになった。

現役時代から導者になってからも日本人選手と縁があり、フェイエノールト時代は小野伸二アーセナル時代は宮市亮マンチェスター・ユナイテッド時代は香川真司チームメイトだった。監督となってからはフェイエノールト上田綺世渡辺剛導している。

現役時代の経歴

生い立ち

1983年8月6日ロッテダムクラリンゲン地区出身。父親は著名な彫刻で、ロッテダム美術センターなどでスポーツを題材にした作品を発表してきた人物であり、母親も画であり、ジュエリーデザイナーとして活動、も後にアーティストなったという芸術家一家で生まれ育った。両離婚し、父親のもとで育てられることとなったが、経済的に不自由はなかったという。

父親芸術家になって欲しかったらしいが、彼が選んだのはサッカーだった。5歳のときにSVBエクセルオールの下部組織に入団。少年時代は活発でとにかく手のかかる子供だったが、サッカーに対しては驚くほど集中し、はその姿を温かく見守り続けた。少年時代の彼がもっとも時間を費やしていたのはストリートだった。組織も規もない自由スタイルストリートサッカーテクニックを磨き、彼のキャリアの原点となっている。だが、自由ストリートでの経験から問題行動も増えるようになり、16歳のときに気まぐれな性格をめぐってコーチと対立し、エクセルオールを退団する。

それでも同年代の中ではすでに頭一つ抜けた才を発揮しており、1999年に名門フェイエノールトの下部組織に移籍する。新地では怪に悩まされたが、アンダー世代の代表に呼ばれるなど将来を嘱望される選手となっていた。

フェイエノールト

2001-02シーズンフェイエノールトトップチームに昇格し、17歳エールディヴィジでのデビューを果たす。当時のチームには小野伸二が所属しており、後に「小野よりうまい選手はチームにはいなかった」と評している。CFにはピエールファン・ホーイドンク、STにはヨン・ダール・トマソンがいたためポジションは左ウイングだったが、公式戦17試合に出場。UEFAカップ決勝のボルシア・ドルトムント戦ではスタメンで出場し、後半18分で交代となったが、優勝メンバーの一人となった。さらにはKNVB最優秀若手タレント賞を受賞。

2002-03シーズンにはフェイエノールトと3年半のプロ契約を結び、正式にプロサッカー選手となる。ところが、この頃からトラブルメーカーぶりが顔を出すようになり、2002年8月27日UEFAチャンピオンズリーグ予備予選3回戦ウェイのフェネルバフチェ戦での態度の悪さに激怒したベルトファンマルヴァイ監督によってリザブチーム行きを命じられる。それでもトップチームに戻ってからはリーグ戦23試合8ゴール記録2003年2月6日KNVBカップAGOVVアペルドールン戦では1試合5ゴールを決めている。それでもキャリアで最大の障害となる問題児ぶりは改善されず、遊びのせいでトレーニングやミーティングに遅刻する、エースファン・ホーイドンクを差し置いてFKを蹴ってしまう、取材を受ければチーム事情を簡単に漏らし、過コメントメディアを喜ばせるゴシップ提供する、など数々の問題を起こしていた。

2003-04シーズンクラブとの契約延長交渉が合意に至らず、改善されないバッドボーイぶりからファンマルヴァイ監督との関係は修復不能レベルにまで悪化してしまい、シーズンの大半をベンチで過ごすことになる。2004年4月にはリザブリーグのアヤックス・アムステルダム戦において乱入したフーリガンから暴力を受け、彼をかばったホルヘ・アクーニャは意識不明で病院に担ぎ込まれ、最大の標的だったファン・ペルシは相手チームアシスタントコーチだったマルコ・ファン・バステンに守られながらピッチから逃げ去ることになる。この事件で精神的なダメージを受け、フェイエノールトでのプレー限界を感じるようになった。クラブトップチームレギュラーですらない厄介者を追い払おうと動いたが、過去の規問題のため、引き受け手はほとんどいなかった。そんな中、獲得に手を挙げたのはアーセナルだった。

アーセナル

2004年5月17日イングランドプレミアリーグの強アーセナルに4年契約で移籍。移籍金は275ユーロ。2004-05シーズンは前年に優勝した「インヴィンシブルズ」のメンバーが名を連ねていたことから前半戦のほとんどをベンチで過ごし、10月27日のEFLカップマンチェスター・ユナイテッド戦が移籍後初出場となり、初ゴールを決める。2005年に入ってからは新加入のホセアントニオレジェスと左サイドポジションを併用されるようになる。2月26日サウサンプトンFC戦では危険なタックルにより一発退場となる。このときヴェンゲル監督から論されたことが悪童だったファン・ペルシが改心するきっかけとなった。シーズン終盤はふくらはぎの負傷により離脱し、公式戦41試合10ゴールに終わる。

2005-06シーズンは出場時間が限定的となったデニス・ベルカンプに代わってセカンドトップとしての起用がメインとなり、エースであるティエリ・アンリパートナーに抜される。シーズン序盤は公式戦8試合8ゴールと好調を維持し、2005年11月最優秀選手に選出。活躍がクラブから認められ、2006年1月4日に5年間の契約延長を勝ち取る。ところが、その2日後のFAカップカーディフ戦で足を踏まれ、つま先を骨折するという重傷を負う。痛みを和らげるためにスパイクを開けて試合に出場するが、本来のプレーをすることができなくなり、スタメンから外れることも多くなる。アーセナルにとって初のCL決勝となったFCバルセロナ戦でもベンチに入ったが、出場機会は訪れなかった。

2006-07シーズン開幕戦のチャールトン・アスレティック戦では右サイドからのクロス中でのジャンピングボレーで合わせるスーパーゴールを決め、ヴェンゲル監督も「生涯最高のゴール」と称賛するほどだった。アンリの負傷、ベルカンプ引退によってエマニュエル・アデバヨールとの2トップで起用されることが増え、好調を維持し続け、い段階でキャリア初となるリーグ戦二桁得点を達成。ところが、2007年1月17日マンチェスター・ユナイテッド戦でゴールセレブレーションをおこなった際に右足第5中足骨折し、々とシーズン終了となってしまう。結局、稼働したのはシーズンの半分くらいとなったが、それでも公式戦13ゴールチームトップスコアラーとなった。

2007-08シーズンアンリFCバルセロナに移籍したため、新たなアーセナルエースとして期待を背負うこととなる。その期待に応えて開幕から好調を維持し、公式戦10試合で7ゴール記録する。だが、またしても負傷によって勢いにを差されてしまう。10月の代表戦で膝を負傷し、2か間戦線を離脱。12月12日CLグループステージステアウア・ブカレスト戦で復帰するが、間もなくして再発させてしまい再び離脱。その後は膝の負傷の再発を防止するために限定的な出場となってしまい、公式戦23試合9ゴールと不本意な成績に終わる。

2008-09シーズンは、2008年8月31日プレミアリーグ第3節ニューカッスル・ユナイテッド戦での2ゴールシーズンの初ゴールとなる。10月29日トッテナム・ホットスパーとのノースロンドンダービーではアーセナルでの通算50ゴールを決めるが、この試合GKトーマスソーレンセンの挑発に乗って肩をぶつけて押し倒してしまい、退場となる。出場停止明けとなった11月30日チェルシーFC戦では汚名返上の2ゴールを奪い、スタンフォードブリッジでの勝利に貢献。2009年1月チームの全ゴールに関与するという圧巻の活躍ぶりを見せる。最終節のストーク・シティ戦で2ゴールを決め、リーグチームトップとなる11ゴールリーグトップとなる11アシスト記録

2009-10シーズン契約が残り1年となっていたことから去就問題が浮上するが、2009年7月に新たに長期契約を結んだことが発表される。開幕前にアデバヨールがマンチェスター・シティに移籍したことから、ヴェンゲル監督が加入当時から描いていたプランを実行し、本格的にセンターフォワードコンバートされ、1トップとして起用される。9月12日マンチェスター・シティ戦でシーズンゴールを決めるが、その後に前年まで相棒だったアデバヨールから頭を踏みつけられる事件が起こり、その後アデバヨールは3試合の出場停止処分を受ける。10月には公式戦7試合連続ゴール記録し、プレミアリーグ最優秀選手に選出。ところが、11月の代表戦で足首を負傷し、当初は6週間の離脱と診断されたが、その後の診断によって5かの離脱を要することが発覚。結局シーズンの大半を棒に振ることになり、リーグ戦16試合9ゴールに終わる。

2010-11シーズン背番号を11から10に変更。8月28日アーセナルでの200試合出場を達成したが、同試合で足首を負傷し、再び戦列を離れることとなる。またしてもシーズンの半分近くを棒に振ることになるが、復帰後の2011年1月1日、アウェイバーミンガム・シティ戦でシーズンゴールマーク1月15日ウェストハム戦では2ゴールを決める。1月22日ウィガン・アスレティック戦では意外にも27歳にしてキャリア初となるハットトリックを達成。1月1日から2月12日までの間に10ゴールという驚異的なペースゴールを量産。2月16日CLラウンド16のバルセロナとの1stレグではほぼ不可能度からゴールを決め、逆転勝利に貢献。2月27日、EFLカップ決勝のバーミンガム戦では前半に同点ゴールを決めた際に膝を負傷し、再び3週間の離脱を余儀なくされる。3月CLラウンド16、バルサとの2ndレグに間に合わせ、強行出場したものの不可解な判定によって退場となり、チーム逆転負けを喫する。その後も好調を維持し続け、リーグタイトル絶望的となっても好調を維持。相次ぐ負傷離脱を経験しながらもリーグ戦25試合18ゴールとキャリアハイとなる数字を残し、この18ゴール2011年に入っての半年で奪ったものだった。

2011-12シーズン開幕直前にセスク・ファブレガスが移籍したことでチームキャプテンに任命される。2011年9月24日ボルトン・ワンダラーズ戦で2ゴールを挙げ、アーセナルでの通算ゴール数を100に伸ばす。10月16日サンダーランド戦では開始28という最速ゴールを決め、さらに左足のFKによって決勝ゴールも決める。10月29日スタンフォードブリッジでのチェルシーFC戦ではハットトリックを達成。10月は安定したパフォーマンスゴールの量産によってリーグ最優秀選手に選出。その後もコンスタントゴールを決め続け、2011年で奪ったプレミアリーグでのゴール数は35となった。2012年に入っても勢いは止まらず、エースと呼ぶにふさわしい活躍を続けていたが、チームの成績は振るわず、タイトル争いから遠ざかっていた。2月4日ブラックバーンローヴァーズ戦ではシーズン2度となるハットトリックを達成。さらにこの試合では2アシストまで記録する大活躍ぶりだった。これまで怪による離脱を繰り返していたが、このシーズンは初めて年間を通してピッチに立ち続け、リーグ戦全38試合に出場。さらにゴール数はキャリアハイを大きく上回る30ゴール記録し、初のリーグ得点王のタイトルを獲得。ちなみにプレミアリーグでの30ゴール到達はクリスティアーノ・ロナウドが達成して以来の偉業となった。この活躍によってPFA最優秀選手賞とFWA年間最優秀選手賞を受賞。チーム冠に終わったが、個人としてシーズン役となった。
このままアーセナル徴的な存在となるかと思われたが、7月4日アーセナルとの新契約サインしないことを発表。事実上の退団宣言となった。

マンチェスター・ユナイテッド

2012年8月17日イングランドプレミアリーグマンチェスター・ユナイテッドへ4年契約で移籍。移籍金は2250ポンド。背番号は20。移籍決定のわずか3日後のプレミアリーグ開幕戦エヴァートン戦で新地でのデビューを飾ると、8月25日フラムFC戦で移籍後初ゴール記録9月2日サウサンプトンFC戦ではハットトリックを達成。この試合プレミアリーグ通算100ゴールを達成。11月3日にはエミレーツ・スタジアムで古巣であるアーセナルと対戦し、PKでゴールを決める。12月9日マンチェスター・シティとのマンチェスター・ダービーでは試合終了間際にFKによる劇的な決勝ゴールを決め、シティプレミアリーグでの記録ストップさせる。2013年になると2月以降10試合連続でノーゴールだった時期があったが、ユナテッドが20回リーグ優勝を決めた4月22日アストン・ヴィラ戦ではシーズン2度ハットトリックを達成。自身にとっては30歳前にしてキャリア初のリーグ優勝えた間でもあった。最終的に38試合26ゴールを挙げ、2年連続でのプレミアリーグ得点王のタイトルを獲得。

2013-14シーズンFAコミュニティシールドウィガン・アスレティック戦で2ゴールを決めれば、プレミアリーグ開幕戦のスウォンジー・シティ戦でも2ゴールを決める、好スタートを切る。ところが、勇退したアレックス・ファーガソン監督の後任となったデイヴィッド・モイーズ監督古典的なスタイルによってチーム全体が低調となり、自身も前年ほどの活躍が見せられなくなる。2014年3月19日CLラウンド16のオリンピアコス戦の2ndレグではCLで初となるハットトリックを達成。しかし、チーム冠に終わり、自身もリーグ戦21試合12ゴールと1年を下回る結果となった。

2014-15シーズンには先のワールドカップオランダ代表で共に戦ったルイス・ファン・ハール監督に就任。ワールドカップの疲労もあって開幕直後は調子を落としていたが、2014年9月21日レスター・シティ戦でシーズンゴールを決める。10月26日チェルシーFC戦では試合終了間際に劇的な同点ゴールを決めるが、このときシャツを脱いでゴールを祝ったことで警告を受け、ファン・ハール監督から「愚か」と然と批判される。2015年2月21日スウォンジー・シティ戦で足首を負傷し、2かの戦線離脱を余技なくなれる。復帰後も調子が戻らず、公式戦29試合10ゴールと不本意な成績に終わる。シーズン終了後、ファン・ハール監督から構想外であることを告げられ、のプレシーズンマッチ紅白戦にも出場させず、ユナテッドでの居場所を失い、追われるようにチームを去ることとなる。

フェネルバフチェ

2015年7月14日トルコスュペル・リグのフェネルバフチェSKに移籍することが発表される。7月28日CL予備予選3回戦1st legシャフタール・ドネツク戦で新地でのデビューを飾る。8月20日UEFAヨーロッパリーグプレーオフ1st legのアトロミトス戦でヘディンシュートによる移籍後初ゴールを決める。8月23日チャイクル・リゼポル戦でスュペル・リグでの初ゴール記録2015-16シーズンリーグではコンスタントゴールを決め、31試合16ゴール記録。一方、ELでは12試合1ゴールと結果を残せなかった。

2016-17シーズンからは背番号を10に変更。2016年10月31日のELグループステージ第3節ではオールド・トラフォードで古巣マンチェスター・ユナイテッドと対戦。チームは敗れたがゴールを決め、古巣のサポーターからも拍手を浴びる。11月6日スュペル・リグ第10節アクヒサル・ベレディイェスポル戦では相手との接触によって左を負傷するアクシデントに見舞われ、一時は失明の可性も報じられた。2017年2月5日カップ戦でのベシクタシュ戦では相手選手への挑発的な態度により2試合の出場停止処分を受ける。シーズンを通して度重なる負傷に悩まされ、出場機会が徐々に限定的なものとなり、24試合9ゴールに終わる。

2017-18シーズン2017年9月の代表戦で負った左膝靭帯の負傷により離脱を強いられ、復帰後も子供たちの環境も考えてオランダに帰を望んでクラブと揉めたことで出場機会が減。2018年1月の時点で公式戦4試合0ゴールにとどまっていた。1月19日にフェネルバフチェとの契約を解除する。

フェイエノールト

2018年1月22日、古巣であるオランダエールディヴィジフェイエノールトに14年ぶりに復帰することが発表される。背番号デビュー当時と同じ32番となった。2月8日フローニンゲン戦で復帰後初ゴールを決める。復帰当初はフィットしておらず、少しずつ出場時間を増やしながらのプレーではあったが、重要なゴールを決め、4月22日KNVBカップ決勝ではAZ戦では0-2となるゴールを決め、優勝に貢献。

2018-19シーズンキャプテンに任命される。35歳となって開幕を迎えたが、全にフィットした状態でシーズンに入り、開幕戦のエクセルオール戦とヘーレンフェーン戦で2試合連続ゴール記録2018年8月最優秀選手に選出される。低調なプレーで苦しむチームにおいて存在感を示し続けていたが、2018年10月2018-19シーズンを最後に現役を引退すると発表。2019年1月27日アヤックス・アムステルダムとのデ・クラシケルでは2ゴール記録し、6-2という歴史勝利に貢献。2019年3月3日FCエメン戦でハットトリックを達成し、キャリア通算200ゴールを達成。現役最後のシーズンは25試合16ゴールの好成績を残す有終の美を飾り、惜しまれながらユニフォームを脱ぐ。

オランダ代表

2000年U-17オランダ代表、2001年U-19オランダ代表に選出。2002年には18歳にしてU-21オランダ代表に選出。2004年2006年にはUEFA U-21欧州選手権予選に出場。しかしいずれも予選で敗れ、本大会には出場できなかった。

2005年6月4日2006 FIFAワールドカップ欧州予選のルーマニア戦で21歳でのオランダ代表デビューを飾る。代表2試合となった6月8日、同予選のフィンランド戦で後半42分に代表初ゴール記録

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは当時アーセナルレギュラーではなかったが、マルコ・ファン・バステン監督によってメンバーに選出される。大会では初戦からレギュラーとして起用され、グループリーグ第2戦のコートジボワール戦でFKによるゴールを決め、決勝トーナメント進出に貢献。チームはラウンド16でポルトガルに敗れたが、右ウイングメインに4試合全てでスタメンで起用された。

2006年9月スタートしたEURO2008予選ではチームトップの4ゴール記録。しかし、2008年6月オーストリアスイスで開催されたEURO2008本大会ではファン・バステン監督ウイングタイプを置かないシステムを採用したことで控えとなる。それでもグループリーグ第2戦のフランス戦では途中出場からチームの2点を決め、4-0での圧勝に貢献。スタメンで起用された第3戦のルーマニア戦では2試合連続となるゴールを決める。しかし、ラウンド16のロシア戦では途中出場となり、チームは敗退となる。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。大会ではアーセナルと同じ1トップファーストチョイスとして起用される。グループリーグ第3戦のカメルーン戦で先制ゴールを決め、この試合MOMに選出される。決勝トーナメントではチームが勝ち上がる中でゴールを決めることができず、決勝のスペイン戦では延長戦までフル出場。オランダは準優勝と快進撃を見せた大会となったが、全試合にスタメンとして出場しながら1ゴールに終わった。

2011年9月2日EURO2012予選のサンマリノ戦では1試合4ゴールを決める。予選ではチームトップとなる6ゴール記録し、本大会出場に貢献。

2012年6月ウクライナポーランドで開催されたEURO2012に出場。グループリーグ第2戦のドイツ戦でゴールを決めるが、チーム敗北。第3戦のポルトガル戦ではセカンドトップとして起用されるが、ゴールを決められず、オランダは3連敗でグループリーグ敗退となる。プレミアリーグで30ゴールを決めたキャリア絶頂期の大会だったが3試合1ゴールと不本意な結果に終わった。

2013年6月ルイス・ファン・ハール監督から代表のキャプテンに任命される。同年10月11日2014 FIFAワールドカップ予選ハンガリー戦でハットトリック記録し、パトリッククライファートのオランダ代表最多得点記録更新2014年W杯予選では予選全体でトップとなる11ゴール記録

2014年6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップキャプテンとして出場。グループリーグ初戦となった前回王者スペイン戦では2ゴールの活躍でMOMに選出され、特に前半44分のゴールは左からのクロスジャンプしながらでダイビングヘッド合わせたループシュートであり、名手イケル・カシージャスが全く反応できないスーパーゴールであった。第2戦のオーストラリア戦でも2試合連続ゴールを決め、首位でのグループ突破に貢献。第3戦のチリ戦は累積警告によって出場停止となったが、決勝トーナメントに入っても前線の格としてチームを牽引し続け、けっして前評判の高くなかったオランダベスト4まで導く。3位決定戦のブラジル戦ではPKによる先制ゴールを決め、オランダ3位入賞に導く。大会を通して6試合4ゴールの活躍ぶりを見せた。

2015年8月ロッベンキャプテンの座を譲り、副キャプテンを務めることに。EURO2016予選では3ゴールを決めるが、不振に陥ったオランダグループ4位でよもやの予選敗退となる。その後、年齢的な問題もあって代表からは遠ざかり、2年ぶりに代表に復帰した2017年8月31日2018 FIFAワールドカップ欧州予選のフランス戦が最後の代表での出場となった。

オランダ代表通算102試合50得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2001-02 フェイエノールト エールディヴィジ 10 0
2002-03 フェイエノールト エールディヴィジ 23 8
2003-04 フェイエノールト エールディヴィジ 28 6
2004-05 アーセナル プレミアリーグ 26 5
2005-06 アーセナル プレミアリーグ 24 5
2006-07 アーセナル プレミアリーグ 22 11
2007-08 アーセナル プレミアリーグ 15 7
2008-09 アーセナル プレミアリーグ 28 11
2009-10 アーセナル プレミアリーグ 16 9
2010-11 アーセナル プレミアリーグ 25 18
2011-12 アーセナル プレミアリーグ 38 30
2012-13 マンチェスター・ユナイテッド プレミアリーグ 38 26
2013-14 マンチェスター・ユナイテッド プレミアリーグ 21 12
2014-15 マンチェスター・ユナイテッド プレミアリーグ 27 10
2015-16 フェネルバフチェ スュペル・リグ 31 16
2016-17 フェネルバフチェ スュペル・リグ 24 9
2017-18 フェネルバフチェ スュペル・リグ 2 0
フェイエノールト エールディヴィジ 12 5
2018-19 フェイエノールト エールディヴィジ 25 16

個人タイトル

指導者としての経歴

キャリア初期

現役引退後は1年ほどイングランド解説者家族旅行をするなどして過ごしていたが、2020年5月に古巣フェイエノールトでディック・アドフォカートのもとで非常勤のアシスタントコーチに就任。

2021年5月2021–22シーズン開幕からフィールドコーチとしてサポート役として正式に加入し、同時にクラブU-16チームの共同監督にも就任。

2023–24シーズンU-18チームUEFAユーリーグU-19チームの共同監督に昇格。U-18は2023年ムラデン・ラムリャク記念トーナメント優勝UEFAユーリーグではグループステージを勝ち抜いたが、ラウンド16でバイエルン・ミュンヘン相手に敗退。

ヘーレンフェーン

2024年5月17日オランダエールディヴィジSCヘーレンフェーンの監督に就任することが発表され、本格的に監督としてのキャリアスタートさせる。初試合アヤックス・アムステルダム相手に敗戦。エールディヴィジ第4節AZアルクマール戦では1-9という記録的な大敗を喫している。2024-25シーズン中古フェイエノールトからのオファーを受け、わずか8かで退任。在任期間中は7勝6分10敗の勝ち点「27」で9位につけていた。

フェイエノールト

2025年2月23日、成績不振で退任したブライアン・プリス監督の後任としてフェイエノールト監督に就任。就任してすぐに訪れたCLラウンド16のインテル戦ではトータルスコア1-4で敗退。2024-25シーズンエールディヴィジでは揮を執った8試合で勝ち点22を稼ぎ、CL予備戦出場権獲得の3位入りに導く。

2025-26シーズンCL予備戦3回戦フェネルバフチェ戦に敗れ、本戦出場を逃す。エールディヴィジでは自身の志向する攻撃的なスタイルで好スタートを切ったものの、シーズン半ばに入って失速。2026年3月にアドバイザーとして加わったディック・アドフォカートもあって現実的なスタイルに転換したことで調子を取り戻し、最終的に2位シーズンを終えたが、首位PSVとは19ポイント差をつけられた。ELでもリーグフェーズ敗退と精を欠いた。一方、自らが才を開させた上田綺世が25ゴール得点王のタイトルを手にしている。シーズン終了後の6月7日クラブから解任が発表される。

プレースタイル

若手時代は左ウイングとしてプレーし、アーセナル移籍後はセカンドトップメインとなり、その後センターフォワードコンバートされた。キャリア初期は破力とパス精度、そしてシュートセンスによってデニス・ベルカンプ再来と言われていたが、キャリアと共に巧みなトラップポストプレー、パワフルな左足のシュートゴールを奪うストライカーへと変貌した。

最大の武器はやはり一振りで流れを変えることができる左足であり、ストライカーとしてのシュート精度とシュートの種類はハイレベルキャノンのような強シュートを放ったかと思えば、鮮やかな放物線を描くコントロールシュートも放ち、どちらも確実にを捉える。クロスやパスにダイレクトで合わせる技術も一級品で、アクロティックで強な印を残すゴールが多い。

足元の技術にも長けており、ストリートサッカーで培ったボールコントロール183という大柄な体格からは想像できないほどボールタッチが繊細でい。時にはフットサルと思わせる程の麗なテクニックを披露することもある。足が長く、懐も深いためボールを相手の届かない場所に保持するキープ力に加え、、足が長く、懐も深いためボールを相手の届かない場所に保持するキープ力も備えている。さらにはフィジカルコタクトも強く、しいプレッシャーされてもボールを失わない。局面を打開することも、味方に時間とスペースも与えることができ、味方からすると安心してボールを預けられることからポストプレイヤーとしても世界トップクラスだった。

元々ウイングの選手だったためチャンスメイクにも長けており、得意の左足から絶妙なタイミングスピードで味方に合わせる精度の高いクロスを送り込む。また、相手のマークを逆手に取ってサイドに流れてCBを引っり出し、味方に走り込むスペースを与えるスペースメイクの技術に長けている。そして、独特の間合いと感性によって精度の高いラストパスからアシストも多く記録していた。ストライカーに定着してからもパスを出す方がゴールの可性が高ければなくパスを選択していた。

プレーキックスペシャリストとしても知られ、フリーキックから左足からのパワフルシュートゴールを狙うのみならず、フリーキックコーナーキックで味方にピンポイントで合わせるボールを送りこむこともできた。

1人で局面を打開するタイプのFWではないため、モイーズ監督時代のマンチェスター・ユナイテッドのように前線で孤立することが多くなると力を十分に発揮することができない。価を発揮するためには、ウェイン・ルーニーヴェスレイ・スナイデルアリエン・ロッベンのようにさまざまな形で絡み援護してくれるアタッカーの存在が不可欠となる。

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ロビン・ファン・ペルシー

1 ななしのよっしん
2013/04/18(木) 19:11:47 ID: /OQkKsz2ES
記事作成しました。後はご自由に修正なりしてください。
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2 ななしのよっしん
2013/05/01(水) 19:09:27 ID: SAt2kYa6ZM
記録だけで言うなら、
08/09はアシスト王。
10/11はプレミアアウェー連続ゴール記録9を立(それまではファン・ニステルローイの7)。

あと、2011年プレミア年間ゴール数歴代2位の35を記録1位シアラーの36)。
これは史上5人、“2004年”のアンリ以来の快記録チーム記録更新(それまではアンリの34)。
この記録を見る通り11/12に突如覚醒したわけではなく、10/11から既に得点力を見せつけていたわけである。
(10/11は怪から復帰後19試合で18ゴールとあわや得点王(2点差)になりかけた)。

12/13も得点王をほぼ手中にしましたね。おめでとう
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3 ななしのよっしん
2013/05/25(土) 21:02:50 ID: U771HnXILT
 この選手の何が恐ろしいって、右足の精度も準以上で、おまけアシストも二桁計算できるところ。ちなみに足も速い。
 グーナーとしては移籍はやっぱショックだったなあ。
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4 ななしのよっしん
2013/08/23(金) 14:46:46 ID: bIa5nGSOJw
ペルシがいるところが優勝すると言わんばかりの活躍だからな
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5 ななしのよっしん
2014/06/16(月) 00:08:15 ID: lst5Z3Ox6t
スペ体質も含めるとイブラ以上にファン・バステンぽい
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6 ななしのよっしん
2015/11/03(火) 23:21:15 ID: Qte5QV8Bkw
トルコ行ったあとにクラブ・代表ともにあそこまで衰えるとは思わなんだ
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