ローマ帝国は、都市国家ローマが地中海の大半あるいは全域にまで領域を拡大した姿。また、共和政ローマの領域拡大期や紀元前27年からの帝政ローマを指す用語でもある。
翻訳前の「Imperium Romanum」はローマの支配権や支配領域を示す語であり、本来ならば、「ローマ皇帝が統治する国」という意味ではない。したがって、本項では共和政の領域拡大期についても記述する。
概要
基本データ | |
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正式名称 | ローマ帝国 Imperium Romanum (ラテン語) Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων (ギリシア語) Roman Empire |
国旗 | |
公用語 | ラテン語 (395年 - 629年) ギリシア語 (629年 - 1453年) |
首都 | ローマ (紀元前27年 - 紀元後330年) コンスタンティノポリス (330年 - 1204年 / 1261年 - 1453年) メディオラヌム (395年 - 402年) ラヴェンナ (402年 - 476年) ニカイア (1204年 - 1261年) |
政治 | 元首政 (紀元前27年 - 紀元後284年) 専制君主制 (285年 - 1453年) |
人口 | 88,000,000人(117年) |
一都市国家であったローマが、しだいに他地域にまで拡大し、地中海を統一した姿である。
この古代ローマがいわゆる「帝国」になるのは、一般に、オクタウィアヌスが内乱を制し「アウグストゥス(尊厳者)」となった紀元前27年とされる(帝政ローマ)。しかしそれは狭義の帝国像であり、帝国とは本来、「多文化・多民族を支配する国家」である。その限りでいえば、古代ローマは紀元前242年にシチリア島を属州(非イタリア本国の領土)として支配した段階で帝国化したといえる。
しかし「ローマは一日にして成らず」である。
前509年にエトルリア人の王を廃したローマだったが、前390年にはガリア人(現フランスに位置した)に大敗し、イタリア南部のサムニウム人とも死闘を繰り広げていた。そんな中で、国内では重装歩兵として活躍した平民が政治の一翼を担うようになり、ローマは民主政へと変質。前272年にはとうとうイタリア統一を果たし、同盟市による連合国家になった。
前264年にカルタゴ(現チュニジア)との間に起こったポエニ戦争を機に、ローマの「地中海帝国」としての方向性は決定的となった。戦争の過程で初の属州を獲得し、コルシカ・サルデーニャ両島を併合、さらには現スペインにまで版図を広げた。
一方ローマ国内では相次ぐ戦役により農民が没落、富裕層はその際に生まれた空き地を次々と買い取った上、海外からもたらされる捕虜を使った大土地所有を進めていった。没落した市民は生活保護のため、富裕層は更なる利益のために戦争をなお求めていく。
そういった背景により、戦後、西地中海の覇者となったローマは東方への拡大を目指し、古代ギリシア・マケドニアをはじめとするヘレニズム圏(東地中海)を下していき、前1世紀の中頃には、地中海のほぼ全域を統一した。
帝政の概略
このようにローマは「帝国化」したが、国内の階級間では利潤を巡り腐敗と闘争が繰り返された。前31年になってようやく、内乱に終止符が打たれたが、それにより共和政の皮を被った元首政、すなわち帝政ローマが始まるのである。
以後、後180年までの約200年間、ローマ帝国は空前の繁栄を謳歌する。後9年にゲルマン人に大敗したため、現ドイツ方面への拡大は断念せざるを得なくなったが、1世紀の末ごろからは名君が続き(五賢帝の時代)、117年には最大版図を実現した。その際の領土は西欧、イタリア半島、バルカン半島、アナトリア半島、シリア・パレスチナ、そして北アフリカにおける地中海沿岸の全域に至る。
しかし絶頂とはすなわち衰退の始まりである。
2世紀末以降、ローマ帝国は内乱、暗君、財政、外敵、敗戦など様々な要因に苦しめられ、その国力を大幅に低下させた。260年にもなると、帝国内部ではガリア帝国とパルミラ王国が独立し、領土の大半を事実上喪失する。274年になってようやくこれら失地を回復するが、外敵は健在であった。中でも現イラン・イラクあたりに栄えていたパルティアの後継ササン朝ペルシアは脅威であり、必然的にローマ帝国は重点を東方へと移すことになる。
それゆえ東方からの影響が強まり、285年には独裁制である専制君主制へと移行した。また広大過ぎる国土と多方面からくる様々な外的に瞬時に対応するべく、複数の皇帝が帝国の防衛を担わざるをえない状況へと追い込まれていく(テトラルキア)。この時点でローマ市は首府ではなくなり、各皇帝が軍と共に構える拠点都市がそれぞれ首府とされた。
324年にはコンスタンティヌス帝により再び一人の皇帝による帝国支配の時代となり、またキリスト教に対しては従来の迫害路線から一転、帝国の支配機構として受け入れ利用していった。くわえて、東方の重要性から都はバルカン半島の東端・コンスタンティノポリスへと遷っていた(330年)。
しかし、やはり広過ぎる帝国の統治と防衛は単独皇帝だけでは不可能であった。それ故再び複数の皇帝が出現、最終的には395年にて東西に二分された。以後、東西の帝国はひとつの「ローマ帝国」として苦境に耐えるが、5世紀に入ると異民族を制御できず、西ローマ帝国が滅亡。残る東ローマ帝国は6世紀に大ローマ帝国を一時再現するが、7世紀を境にシリアからエジプトの東方を失い、ギリシア化していき、じわじわと衰退していった。
東ローマ帝国の主要な国土はバルカン半島の東部とアナトリア半島に限られていき、またイタリア南部や地中海の島々を除き大半の旧西ローマ帝国領域を喪失。800年にはフランク王国が西ローマ帝国を僭称したため「ローマ」としての権威を西欧にて失ってしまう。
9世紀後半~11世紀半ばには国力を回復させ地中海最大の強国に返り咲き、東欧および東地中海において政治的にも文化的にも比類なき覇権国として君臨した。また周辺諸国や特に現在のウクライナやロシアに当たる国々を文化的傘下に加えるなど、大国としての存在感を堂々と放っていた。
が、1071年、ついに最後のイタリアにおける領地を失い、12世紀に奪還を試みるも頓挫したばかりか、多くの西欧諸国を敵に回してしまう。1202年になると元は属国であったはずのローマ教皇庁やヴェネツィア共和国らによって、第四回十字軍が起こされ、その2年後にコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国は実質滅亡した。その後1261年に亡命政権によって帝国は首都コンスタンティノポリスを奪還し一度だけ復権するが、売国奴とも言うべき暗愚な皇帝らの内紛と諸外国の介入を多々招くにいたり、凋落の一途を辿った。西欧諸国に助力を請うも実らず、1453年、元々は東ローマ帝国の辺境にいたテュルク民族を源とするオスマン帝国により、とうとうとどめを刺された。
この国の特徴
政治や社会における特徴としては、エトルリア人や古代ギリシアから受け継ぎ、独自に発展させたものや、今日の西洋にまで遺ったものが見受けられる。全体的にヘレニズム(ギリシア文明圏)寄りで、エトルリア人から影響を受けた建築技術にさえギリシア的色彩を確認できる。そのほか、政治や宗教、そして文化もまた古代ギリシアからの影響が強いみたいだ。ところどころが後の西洋の母体となっている。
- 諸権限を有する国家元首「ローマ皇帝」
- 国家を運営する政治集団の元老院(上院)
- ローマ市民権や、貴族と平民、奴隷といった階級
- 穀物と娯楽を無料で提供する「パンとサーカス」
- 優れた建築技術
- ギリシア神話を元にした多神教のローマ神話
- ギリシア芸術の模倣・継承
- キリスト教の受容と発展
領土や軍事面においても、古代地中海の諸国家と共通点が多い。ローマ帝国の場合は、それらを遥かに超えている点が大きいといえよう。こちらも、後の西洋へ、おもに歴史的に強く影響している部分がある。
※共和制から元首政にかけて、ローマでは執政官(コンスル)などの官職が設けられたが、これらの多くは軍務との兼ね合いであり、元老院貴族もまた同様だった。つまり古代ローマでは、統治の力以前に、軍事上の栄誉が重要視されたのである。
そしてその傾向は、執政官の究極系である「皇帝(インペラトル)」にも強く表れている。ローマ皇帝(後述)には男性の健全性が求められたが、その由来が、執政官がもつ「軍の最高司令官」としての役割だったのである。元首政が崩壊し、専制君主制が始まりつつあった軍人皇帝の時代においても、皇帝の「軍の最高司令官」としての像は鮮烈に表れていた。
ローマ皇帝の権限
そのローマ皇帝についてだが、これは紀元前27年に、オクタウィアヌスが「アウグストゥス」の尊称を元老院から贈られたことにより誕生したとされる。
といっても元首政の冒頭で後述するように、オクタウィアヌス本人は「ローマ皇帝」ではなく「市民の中の第一人者(プリンケプス)」と自称するにとどまった。つまり当時、ローマ皇帝という役職は存在しなかったのである。よくオクタウィアヌスからのローマの元首は「ローマ皇帝」と呼称されるが、これは、共和政期から続く様々な要職を独占し事実上国のトップになったから、「ローマ皇帝」と呼ばれているだけのことである。だからこそ(元首政期の)ローマ皇帝は、共和制の役職を一手に引き受けた、合法的な半独裁者という位置にある。
ローマ市民はエトルリア人による王政を打倒した頃(前509年)より、自分達が勝ち取った誇りとして「共和政」を重んじ、独裁を嫌ったが、それ故にオクタウィアヌスは「あくまで共和政の一元首」という形でトップに立ったのだと推測できよう。
つまり、社会主義にみられる独裁者よりも、現代の大統領の方がこれに近いのである(ただし元首政に限る)。
権力
絶対権力で何でも好き放題、というわけではなかった。カリグラやネロにコンモドゥス、カラカラやエラガバルスをご覧いただければ分かる通り、元老院、ひいてはローマ帝国を軽んじる皇帝は皆あんな感じで終わっている。
- 執政官(コンスル)、あるいは執政官に対する命令権保有者。
- イタリアの最高政務官
- 属州総督に命令でき、皇帝直轄の属州の総督を任命することもできた。
- ローマ帝国内のあらゆる決定や提案に拒否権をもつ
- 立法権を持つ平民会の召集が可能
- 属州アエギュプトゥス(現エジプト)の私有
- 神聖不可侵
- 最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)
が挙げられる。
一番最後の最高神祇官だが、これはローマの神々に対する司祭のような官職である。ユリウス・カエサルは大枚をはたいてでもこの官職を政治的権威に利用した。彼の後継者であるオクタウィアヌスも、事実この官職を政治的に利用した。もっとも、キリスト教が国教となったテオドシウス1世以降、この官職はローマ皇帝の権限に含まれなくなったが、代わりにローマ教皇の称号となった。
皇帝にとって最大の副産物は、穀倉地帯であるエジプトの私有化であろう。エジプトを掌中とすることにより、皇帝は市民から人気を得るため穀物をばら撒くことが可能だった。
元老院
「元老院」とは書くが年寄りの集まりというわけではない。30歳以上の優秀な成人男性らによる機関である。
共和政ローマにおいて、元老院は執政官の諮問機関であったが、実際は財政や外交上の決定権を有する統治機関であった。また戦地に赴く精神が非常に強いものが多く、この点が後世のローマの後継国家における上院と違う。
内乱の1世紀では、ルキウス・コルネリウス・スッラ(通称スッラ)により実質的な権限を得た上、騎士階級を取り込むことにより、300人の定員が600人にまで膨れ上がった。その後ユリウス・カエサルが独裁官として元老院体制の打破を試みるが、彼の養子オクタウィアヌスはその遺志を継ぎつつも、元老院を存続させた。
帝政期
元老院は「皇帝に対し承認を行う機関」という性質を強め、それが五賢帝の時代まで続いた。皇帝の即位も皇帝の決議も、元老院の承認がなければ非正統とされた。ローマ史上「正帝」とされる皇帝は皆、この元老院の承認を受けたものばかりである。
また、元老院は属州総督の任命も行い、とくに経済力のある属州を統治した。このため帝政期前半の元老院は、しばしば利潤を得るおいしい立場にいたのである。
軍人皇帝の時代になると、各地で自称皇帝が元老院の承認もなしに僭称したため、元老院の皇帝位に対する影響力は低下した。一方で、内乱のせいで皇帝らが首都ローマに不在になると、かえって首都ローマやアフリカ属州における支配力は向上したとされる。
ディオクレティアヌスが専制君主制(ドミナートゥス)を開始して以来は、元老院の影響力は再び低下した。ディオクレティアヌスが属州総督の元老院議員の権限をバッサバッサと切っていったからである。コンスタンティヌス1世の時代には定員が2,000名にまで膨れ上がったが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)のローマ奪還事業を機に、都市ローマが荒廃したため、ローマの元老院は7世紀に消滅した。
貴族の暮らし
公衆浴場(後述)を私有するほどに裕福な貴族たち。彼らにとって財産を労費することは、一種のステータスだった。彼らは贅の限りを尽くしたが、とくに奴隷の使用においてはある意味で退廃していた。また食事と恋愛についても、退廃的といえる様相を呈する者もいた。
奴隷
貴族は出かけるとき、最低でも2人のお付きの奴隷を連れていた。
それならばまだ(古代ということもあって)理解されうるだろう。しかし大貴族の奴隷ともなると意味不明の領域に達する。例えば主人が靴を脱ぐとき専用の奴隷。金持ちにもなると、帰宅後「右脚用の奴隷」に右足の靴を脱がさせ、「左脚用の奴隷」に左足の靴を脱がさせた。また後述する「宴会用の奴隷」も今から考えれば奇妙なもので、いくら下僕とはいえ中々に大変な玄人であった。
食生活
※食事中の方は読まないでください
ローマの貴族たちはしばしば宴会を開き、ひたすらに珍味を仕入れ、食卓に並べた。
宴会において、主催者と招かれた客は食事用の服を着る。これは1回限りの使い捨ての服だが、貴族の中にはそのようなものにも大金を使う者がいた。食事のマナーは「横たわってだらだらと素手で食べる」。だから手がすぐに汚れ、食事用の服で拭く。それ故に食事用の服は1度限りの消耗品なのだが、それでもなるべく豪華に彩ろうとした。貴族の中には、その食事用の服を何度も着替えた、つまり財産を労費したものもいたのだった。
一部の貴族の中には、食事を延々と楽しむために嘔吐してでも空腹になろうとした者もいた。
連れている奴隷を呼び、孔雀の羽根を持たせ、貴族自身は口を大きく開ける。すると奴隷は、主人である貴族の口へ孔雀の羽を突っ込み、喉でそのままかき回す。こうなると満腹のその貴族は食べていたものを汚物として戻し、再び空腹になるのである。ちなみに吐かれた汚物は別の奴隷が処理してくれた。
夫婦生活
男女ともに浮気は珍しいことではなかった。また節度ある性欲の発散は必要悪としてある程度許容されていた。
夫にとっては、生まれてくる子供が「誰の子」か分からない。だからこそ、自分の全財産を子にささげるのがもったいない。理由はこれだけではないだろうが、何にせよ、こうした背景のもとローマの出生率は下がる一方だった。ゆえに元老院貴族の家系はどんどん断絶していき、欠員を補充すべく地方の属州から新手が呼ばれていった。ローマ帝国の新陳代謝に繋がったかもしれないが、なにぶん、お粗末な話である。
首都ローマの生活
ユリウス・カエサルから五賢帝時代までのおおよそ200年間、首都ローマは「パンとサーカスの都」と呼ばれた。ローマ市民はどんなに貧しくとも、穀物や娯楽をタダで享受できたのである。また、物乞いとして白い目を向けられる点を我慢すれば、食料品もタダで受給できた。
首都ローマには属州から搾り取りまくった穀物などの財産が一極集中したため、市民には穀物(注:パンになる前の小麦粉)が無料で支給された。首都のローマ市民はたとえ無一文であっても、「ローマ市民」というだけで定期的に穀物を受け取れたのである。
無料供給という点においてはカリグラ帝もまた有名で、彼は、金貨をローマ市民に対しこれでもかとばら撒いた。またネロ帝も、裕福な市民から財産を没収し、貧しいものへ分配した。どちらも人気取りである。暴君とされる彼らは、そういった経緯から市民からの人気があったが、ローマ市民はこうした皇帝の人気取りがあればあるほど、楽しい生活が送れたのである。
娯楽面でも古代とは思えぬほどに充実していた。フラウィウス・ウェスパシアヌス帝の時代から建設が始まったコロッセウムは、およそ50,000人を収容でき、祭日には戦車競走などが催された。こうした祭日は、ローマ市民の人気を得たい皇帝らによってどんどん増やされていった。すると市民はさらに狂喜するわけである。ローマ市民はほかにも、剣闘士奴隷(いわゆるグラディエーター)や猛獣の戦いを観戦したり、闘技場の一面を水浸しにした模擬海戦(今で例えると東京ドームに水を入れて船を漕ぐようなもの)が行われたり、演劇が披露されたりと、充実した時間が提供されていた。これらもみなタダである。
公衆浴場
なお「浴場」とはいうが、現代の銭湯とは少々違う。あえて現代のものにたとえるならば、スポーツ・クラブやフィットネス・クラブになるだろう。どちらかといえば、公共の運動場や水泳場に近い。
入場料は今の日本円で換算すると10円くらいで、おそらくほとんどタダ。玄関にトレーニング・ルームがあり、レスリングや球技、槍投げや円盤投げを楽しめた。汗を流した後はマッサージ・ルームに行き、体をほぐす。お次は低温のサウナへ向かい、慣れていれば高温サウナへ行く。そして最後に、プールにつかって体を洗った。
ローマの公共施設の充実度を物語るのがここからで、プールをあがった人は、そのまま帰るのではなく、なんと遊戯室や談話室があるのでそこにも寄る。ほどよい疲労感と清涼感の中で、ローマ市民は友人たちと会話を楽しむのである。お腹がすけば食堂があるのでそちらへ向かい、最悪でも6皿の料理を頂けた。そのうち2皿は肉料理であったという。もちろんこれらもサービスの一環で、食べても別料金は一切取られない。
共和政期
さて、肝心の帝国史だが、記事冒頭にもあるように、ローマの帝国化は厳密には共和政期から始まっていた。そのためここでは共和政期の概略を記述したい。
ローマの覇道
紀元前1000年ごろ、古代イタリア人は北方からイタリア半島へと南下し定住した。その中の一派であるラテン人が都市国家「ローマ」を建設する。
はじめは先住民であるエトルリア人の王を戴くローマであったが、前509年には王を追放。王政を廃止するとともに、共和政ローマを開始した(前509年 - 前27年)。
一都市国家に過ぎなかったローマだが、相次ぐ征服活動により前3世紀前半には全イタリア半島を支配。征服された諸都市にはそれぞれ同盟を結び異なる権利と義務をあたえた(分割統治)。服属した者にはローマ市民権を与えるなどして、事前に反乱を抑えることで、ローマはその勢力図を盤石なものとしていく。
あの有名なローマ最大の強敵ハンニバルで知られる、3度のポエニ戦争(前264年 - 前146年)をスキピオの活躍によりなんとか勝利すると、ギリシアやマケドニアなどのバルカン半島にも積極的に侵攻し、全地中海を制するに至る。
身分差と元老院
ローマには身分性が存在した。
身分による権力差は歴然であったが、中でも執政官をも指導する貴族の会議、元老院の権力は絶大であった。立法に影響を与え、外交面でも財政面でも決定権を掌握するなど、ローマの実質的な統治は彼ら元老院によるものといってもよい。元老院はローマの伝統にして象徴であり、後に続く東ローマ帝国(後395年 - 1453年)も「ローマらしさ」であるとし継承した。
さて、そんな貴族中心で運営されたローマであるが、領土を拡大、または防衛する上では、やはり平民の強力が不可欠であった。そこで平民による重装歩兵が活躍するのだが、国防を果たした平民はついに権利を主張。これを皮きりに、平民が貴族の政権独占に不満を抱く。
こうして着実に平民の立場が改善されゆく中、「執政官の1人は平民!」というリキニウス・セクスティウス法(前367年)や、「平民の決議は国の決定!」とするホルテンシウス法(前287年)の制定により、貴族と平民の政治上の権利は同等となった。
※なおリキニウス・セクスティウス法以降も両執政官に貴族が就任している例が複数見られ、近年ではこの法律の実際の効力は「執政官職を貴族・平民の両者に解放する」というもので、実質的に平等が達成されたのはもっと後だったのではないかと考えられている。
しかし平民の中でも貧富の格差が生じ、また既存の貴族の中にも「平民の分際でっ」という輩が現れ始め、裕福な平民と貴族からなる新たな派閥が誕生する。元老院の絶対権力は相も変わらず、非常時には独裁官(ディクタトル)が現れる始末。
共和政ローマは古代ギリシアとは違い、政治への参加には常に貧富の格差が付きまとったのだ。
戦争の陰
前264年、ローマ最大の危機であるポエニ戦争が勃発した。ホルテンシウス法の制定(前287年)より少し後の出来事である。先にも述べた通り、スキピオの活躍により最悪の結果だけはなんとか脱した。そしてローマは破竹の勢いで地中海を制していったのである。
が、正念場となるのはここからである。
相次ぐ征服事業により、国内の農地は荒廃の一途を辿り、それゆえ中小農民は没落していくがままであった。落ちぶれた農民たちは都市ローマに流入し、属州(戦争で勝ち取った地域)からもたらされる穀物を搾取した。こうした無産市民(ド貧乏)はよりいっそうの恩恵を望み、「さらなる征服戦争を!」と声高に要求した。征服地が増えればより楽な生活が待っていたからだ。たまげたなあ。
無産市民らがローマから穀物を搾り取る一方、元老院は属州統治の任を負い、また騎士階層は属州からの徴税請負を行ったため、「征服地拡大=元老院・騎士の富が増加」を意味していた。
支配階級である彼らは無産市民たちがローマに流入した隙に、手放された土地を買い集めた。そして戦争で得た公有地を利用し、捕虜や奴隷を用いた大土地所有(ラティフンディア)を営んだ。
元老院や騎士などの支配階級はさらなる富のために、無産市民らは生活補助のために、征服戦争を要望していった。
かくしてローマの征服事業はますます拡大していく。そしてそれにより、支配階級の富は膨らみ、平民との貧富の差も、また拡大していくのであった。ここに、かつて理想と思われた貴族と平民の政治的な平等は、崩壊を始めていったのである。
※なお、実際に大土地所有(ラティフンディア)という単語が記録に現れ始めるのは帝政期に入ってからであり、共和制期の大規模農場の実在は考古学的にも裏付けられていないため、近年では研究者の間でこういった歴史観には多くの疑問が寄せられている。
ローマ内乱
貧富の差が顕著になると、身分差による対立も激化していった。
グラックス兄弟が大土地所有者の土地を無産市民らに分配しようと試みるものの、大地主の反発にあい、失脚する。
これを機に有力者は論述ではなく暴力で訴えるようになり、平民派のマリウスと閥族派のスッラが相争うようになる(内乱の一世紀)。双方ともに私兵を率い、凄惨な骨肉の争いを展開した。
またこの頃(前91年 - 前88年)、イタリア半島の同盟都市は、各々がローマ市民権を求め反乱を起こした。さらなるローマの「妥協」の始まりである。(より詳しくは『同盟市戦争』の項を参照)
他にも「パンとサーカス」で有名な見せ物、剣闘士奴隷らがスパルタクスによってローマに反旗を翻す(前73年 - 前71年)。外的には拡大を続ける大帝国として君臨するローマだが、この頃の内部はとても見れたものではなかった。
※なお「平民派」と「閥族派」という対立構図は、ドイツの大歴史家テオドール・モムゼンが当時のヨーロッパで行われていた議会政治を投影して作り上げたという側面が大きく、その後の歴史家によって鋭い批判が向けられている。
中でも特筆すべき研究はM. A. Robbの "Beyond Populares and Optimates: Political Language in the Late Republic" である。この著書で Robb は共和制期の資料に見られる Populares(平民派) と Optimates(閥族派)という単語の詳細な研究を行い、これらが対比されたり併置されたりすることが極めて珍しく、またこの単語が従来考えられる以上に広範な意味を持っていることを明らかにした。
これらの研究から、この単語をもって後期共和制の政争を説明付けることは不適切であり、この時代の政治対立を包括的に見直す動きが現れている。
Beyond Populares and Optimates: Political Language in the Late Republic
三頭政治
この内乱を治めるべく立ち上がったのが、ポンペイウス、クラッスス、そして同盟市戦争終結を加速させたルキウスを伯父にもつ、ユリウス・カエサルである。前60年、彼らは元老院と閥族派に対立し、私的な政治同盟を結んだ(第一回三頭政治)。
カエサルはガリア地方(ほぼ今日のフランス)を遠征しこれを見事成功させると、圧倒的な支持を得る。そして政敵となったポンペイウスをも倒し、前46年、その勢力を完全なものとした。
- ちなみにカエサルが恋したことで有名なエジプトのクレオパトラ(7世)だが、後述するように、のちのち彼の部下アントニウスに乗り換え、カエサルの養子と敵対する。この頃のエジプトは、アレクサンドロス3世が残した遺産の一つ、白人王朝のプトレマイオス朝である。
- 指導者に求められる資質たる、知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。イタリアの教科書によると、カエサルだけが、この全てを持っていたという。
しかし元老院が彼の独裁と市民の圧倒的な支持を危惧すると、前44年、カエサルは元老院寄りのブルートゥスらにより刺殺される。
翌年、あとを継ぐ部下のアントニウスとレピドゥス、そしてのカエサルの養子オクタウィアヌスらが政治同盟を結び閥族派を圧する(第二回三頭政治)。しかしこの同盟も長続きはせず、前31年、エジプトのクレオパトラと結託したアントニウス対オクタウィアヌスという構図に。大ローマ帝国を二分する勢力の衝突、アクティウムの海戦が勃発。
結果的に元老院に対し穏健なオクタウィアヌスが勝利し、彼は尊厳者(アウグストゥス)の称号を得る。共和政は静かに終焉し、元老院は残り、そうして帝政ローマが産声を上げた。
共和政ローマ略年表
- エトルリア王追放、共和政スタート(前509年)
- 元老院に拒否できる護民官と、やや立場の弱い平民会が設けられる(前5世紀前半)。ともに平民による。
- 法律を文として書き記した「十二表法」公開(前5世紀半ば)。平民の地位向上。
- リキニウス・セクスティウス法(前367年)制定。「執政官の一人は平民でなければならない!」
- ホルテンシウス法(前287年)施行。 「元老院なんて知るか! 平民会の決定が国の決定なんだい!」
- 全イタリア半島を支配(前3世紀前半)
- 植民市カルタゴと衝突、ポエニ戦争勃発(前264年 - 前146年)。カルタゴ将軍ハンニバルがイタリア侵入、スキピオが戦局挽回、勝利。
- ギリシャ、マケドニア諸都市を支配(前2世紀半ば)。地中海をほぼ制覇。すでに帝国。
- 前2世紀後半から共和政が大きく揺らぐ。元老院側の「閥族派」 VS 市民・騎士の「平民派」。
- グラックス兄弟の改革。大地主から貧乏市民へ土地を分け与えようとした。が、頓挫。二人とも死去。
- 「内乱の1世紀」スタート。平民派のマリウス VS 閥族派のスッラ。
- 同盟市戦争(ローマvsイタリア半島の同盟国)
- 剣闘士奴隷スパルタクスの大反乱(前73年 - 前71年)。
- 第一回三頭政治(前60年)。前46年にはユリウス・カエサルの独裁がスタート。
- その二年後、カエサルが暗殺される。「ブルートゥス、お前もか」
- 第二回三頭政治(前43年)。カエサルの部下二人(アントニウスやレピドゥス)と、彼の養子オクタウィアヌスによる。
- 前31年、クレオパトラ&アントニウス VS オクタウィアヌスのアクティウムの海戦。後者が勝利。
- オクタウィアヌスが国家元首に、以後帝政(前27年~)。改名、アウグストゥス。初代ローマ皇帝。
帝政期について
ローマの帝国化はカエサルの代で始まりつつあり、これを元老院が恐れ、彼を暗殺するという形で一時収束したかに見えた。ところがカエサルの養子オクタウィアヌスが彼の意思を継ぐと、ローマの帝国化はいよいよ実現したというわけである。皮肉にもオクタウィアヌスを「アウグストゥス」とし権力者にしたのは、ローマの帝国化に反対し彼の義父のカエサルを殺害した、元老院自身であった。さらに奇しくもこの時代、カエサルはアウグストゥスにより神格化され奉られるようになる。
紀元前1世紀の当時、元老院が政治を独占するローマの政局は、広い領土に対応できなかった。そんな強いリーダーを欲したローマの決断こそが、アウグストゥスの台頭だったのである。
一般にローマ帝国というとこの時代からを連想される。そして日本では、その終焉は紀元後476年に起きた西ローマ帝国の滅亡をもってして語られることが多い。
ところがローマ帝国そのものは、西ローマ帝国が滅亡した476年にも、まだまだ存続していたのである。それが395年の帝国の東西分割から生じた、東ローマ帝国(395年 - 1453年)であった。7世紀を境に東ローマ帝国は著しくギリシア化し、また常に都市ローマを領有していなかったことから、後世とくに西欧からはビザンツ帝国と称され、まるでローマ帝国とは別の国家のように語られるが(実質そうではあるが)、「ローマ帝国の生き残り」として存在していたのもまた事実であった。
すなわちローマ帝国、もっといえばローマの帝政期は東ローマ帝国の滅亡(1453年)まで続いたことになる。もちろん先述した「西ローマ帝国の滅亡(476年)をもってローマ帝国は滅亡した」とする意見も根強く、この辺りは人それぞれの見解となるだろう。
元首政期
ユリウス・クラウディウス朝 (B.C. 27 - A.D. 68)
さて、アクティウムの海戦を経てローマは帝政へと移行するが、その最初の王朝となるのがユリウス・クラウディウス朝であった。
もっとも、王朝とはいえ「親から子」といったように帝位を継承していったわけではなく、「大甥・大叔父」といった関係が多く、甥や伯父といった関係も多かった。つまりどの皇帝も直系の嫡男を後継者としなかったのである。ここにカエサルの養子であり初代皇帝となった、アウグストゥスの思惑が見て取れよう。
アウグストゥスと初期の帝国
というのは半分嘘で、
彼アウグストゥスはカエサルとは違い元老院などの共和政の制度を尊重した。そして自身は「朕は市民の中の第一人者(プリンケプス)に過ぎませんよ(キリッ」などと述べた。つまりあまり独裁的な政治の舵取りはしなかったのである。
というのは全くの嘘で、
実際にはほぼすべての要職を兼任し、全権力を手中におさめていた。またアウグストゥス(オクタウィアヌス)はカエサルを神格化したと既に記載したが、彼もまた自らを「神の子」と称したのだった。カエサルをたたえ、また自らをその正統な家族とすることで、権力を盤石なものとしたかったのだろう。
これは実質的には(というかどう考えても)皇帝独裁であり、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。広大すぎる帝国領を統治するには、もはや元来の共和制では限界であったから、このように政体が変化したのだ。
アウグストゥスの治世期には、ローマは人口が100万人を超える大都市へと発展、多くの公共事業が興された。また戦争ではアウグストゥスの友アグリッパが大活躍し、内外問わず帝国は安定化していった。後世の我々は、このアウグストゥスからの約200年間の時代を「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と呼ぶ。
後継者問題
後は帝国の将来であった。しかしアウグストゥスには実子がいない。これをアウグストゥスは、友アグリッパに娘を嫁がせ、彼を実質的な共同統治者とすることで筋を通した。さらにアウグストゥスはアグリッパ夫妻が生んだ2人の子らを孫とし、後継者問題をも解決する。
ところが前12年、アウグストゥスよりも先にアグリッパがこの世を去る。ここでアウグストゥスは娘を妻の連れ子ティベリウスと強引に再婚させ、2人の孫(=亡きアグリッパの息子)の後見人とし、ことなきを得ようとしたが、孫の1人は後2年に、もう一方の子も後4年に亡くなってしまう。
後継者という後継者すべてが他界した今、アウグストゥスを継ぐものはいなかった。そこで、アウグストゥスは叔父のカエサルが彼をそうしたように、娘の再婚相手であるティベリウスを養子とし、新たなる後継者とすることで、この問題を解決。後14年にアウグストゥスは亡くなるが、元老院は初代皇帝の思惑通り、2代目の皇帝をそのティベリウスとするのだった。
名君続く
そんなわけで2代目の皇帝にはティベリウスが即位するが、その途端にライン川(オランダからスイスに流れる川)沿いの軍とドナウ川(ドイツからルーマニアに流れる川)の軍団がストライキを起こした。当時、ローマ帝国では退役金の不足により除隊できない兵が多く、これが直接の原因になったのである。反乱はティベリウスの養子ゲルマニクスと実子を送ることで、なんとか鎮圧された。また、公平さに拘り法に熱心なティベリウス帝のおかげで、兵は満期であれば除隊できるようになった。
後の暴君時代とは正反対に、ティベリウス帝の治世期には皇帝の人気取りが行われず、修正と節制に重きが置かれた。当時のローマ帝国の財政はじょじょに圧迫していったが、ティベリウス帝は増税という手段はとらず、代わりに戦車競走を減らすことで修正したのである。当然ながら時のローマ市民らは退屈し、ティベリウス帝を評価しなかったが、皇帝はローマの元老院と市民からの人気など気にせずに、施設のメンテナンスなどを滞りなく行った。
一方で押さえておくべき点はしっかりとおさえられており、ドナウ川防衛の要所であるパンノニア(現オーストリアやハンガリー)ではインフラ整備が徹底されている。
ティベリウス帝の治世期は領域の面でも安定し、後16年にはライン川とドナウ川が平定されたうえ、後18年には彼の養子ゲルマニクスにより対パルティア王国(現イラン)方面の東方が制定された。
凶兆
ティベリウス帝により東方に派遣された養子ゲルマニクスだったが、独断専行が祟ったのか、後20年に急遽、謎の死を遂げる(毒殺説あり)。ティベリウス帝は後継者を実子のドルススにしようと考えたが、近衛隊長と妻の裏切りにより、23年に実子のドルススを失った。
以来、ティベリウス帝は猜疑心にとらわれた老帝となり、その死(37年)まで元老院と不仲となる。ティベリウス帝はまた先述のとおり元老院にも民衆にも人気がなく、カエサルやアウグストゥスとは違い、死後に神格化されることはなかった。その最期は一説によるとゲルマニクスの子ガイウス(カリグラ帝)に謀殺されたとのこと。
偉大なるカエサル、卓越したアウグストゥス、堅実なティベリウス、と名君が続いたローマ帝国だったが、そんな帝国にもとうとう、暗い時代が訪れつつあった。
- ちなみにイエス・キリストが処刑されたのがこの時期(30年)にあたる。聖書にみられるヘロデ王やユダヤ教徒のファリサイ派、イエス・キリストとその弟子たちの伝承は、何を隠そうすべてティベリウス帝の治世期だったのだ。
狂帝の時代
ゲルマニクスの子ガイウスは、父ゲルマニクスが英雄であったことから、元老院にも民衆にも将来を嘱望されていた。ガイウスは兵士たちにも愛され、子供用の軍靴に由来する「カリグラ」の渾名で呼ばれるようになる。この時、ローマ帝国の臣民の誰もが栄光あるローマの時代を強く意識したであろう。
しかしアウグストゥスに始まる「ローマの平和」、その例外となる時代がこれより始まるのであった。
37年、ゲルマニクスの子ガイウスは「カリグラ」の名とともに即位した。カリグラ帝である。即位当初善政をしくものの、同年、大きな病を患うようになる。
それが決定的だった。
カリグラは大病を患って以降、狂気という他はない奇行を繰り返した。有名なものは以下の通り。
- 神を自称
- 月光とともに寝ることを強く意識し、ユピテル神の像と会話
- 真珠を溶かして酢に入れ飲む
- 黄金のパンを食卓に列挙
- 実の妹たち全員とアレな関係をもつ
- 宮殿内に売春宿を設ける
- 戦車競走で活躍した馬を執政官(コンスル)に就任させようと(本気で)考える
- 歴史に残りたいからと、「でっかい不幸がこないかなーそれで英雄になりたいなー」と語る
- 兵士たちに貝殻を拾わせ、それを戦利品と称して民衆に見せつける (`・ω・´)ドヤァ・・・
- 「戦争が苦手と思われたくない!」
- ガリア人の髪を赤くし「ゲルマン人に勝ったぞー!」と民衆に見せつける
元老院と近衛隊は見かねたのか、41年にカリグラ帝を暗殺した。
一時の名君時代
カリグラ帝の没後、元老院らは共和制ローマの復活を望んだ。あんな狂った皇帝を見れば納得もいくだろう。
しかし近衛隊は病弱で体に障害のあるクラウディウスを「最高司令官」と称し、担ぎあげた。当時の元老院はこれに逆らえず、結果、4代目の皇帝はクラウディウスとなった(41年)。ちなみにクラウディウスは、ゲルマニクスの弟、カリグラの叔父にあたる、ユリウス・カエサル家の一員である。
当時のローマ皇帝とはすなわち軍の最高司令官であったから、屈強で軍事に優れる男性こそが皇帝に相応しいという風潮が帝国にはあった。この点において哲学や歴史が大好きで病弱なクラウディウス帝(50代)は蔑まれ、事実民衆からの評判はあまり芳しくなかった。
しかし学識に優れるが故に、その頭脳は極めて明晰であった。言語や歴史に精通し、ギリシア語で『エトルリア史』や『カルタゴ史』を著した。行政の長としても申し分なく、ローマ帝国は彼のもと、官僚機構の整備の他、水道橋や湖などの治水・公共事業など、内政が安定化された。
クラウディウス帝の治世期はまた、ローマ帝国に軍事面の栄光をももたらした。43年、ブリタニア遠征が敢行されたのである。実際は将軍の活躍によるところが大きいが、何にせよ、このドーバー海峡を渡った進軍はローマ帝国に一定の成果をもたらし、属州ブリタニアの拡大に成功した。
ところが彼にも、ひいてはローマ帝国にも転落の時が訪れる。
48年、クラウディウス帝は姪のアグリッピナと再婚する。そして彼はアグリッピナの連れ子ネロを養子とした。
しかしこれがいけなかった。54年、再婚相手のアグリッピナは息子のネロを帝位に就けるべく、夫のクラウディウス帝を毒殺した。カリグラ帝治世期の混乱を拡大させなかったばかりか、ローマ帝国を整頓し内政で活躍した名君クラウディウスは、あまりに報われぬ最期を遂げたのである。
暴君の時代へ
かくしてアグリッピナの策略により、西暦54年、16歳の少年ネロが5代目の皇帝となった。
「無類の鳥類マニア」ことネロ帝の誕生である。
ネロ帝はまったくと言ってよいほど政治や軍事に関心がなく、芸術家を自称した。ときに円形闘技場をかしきり、元老院貴族らを招集して自作の詩を詠った。曰く「将来の夢は芸術家」とのこと。詩の大会はおろか戦車競走の競技会にも積極的に参加し、優勝を繰り返して栄誉に酔いしれもした。ブルタニア遠征では居眠りをし、期待の新人と目されるフラウィウス・ウェスパシアヌスはそのネロ帝の態度に失望し1度引退したという。
ネロ帝の治世期は反乱の時代でもあった。61年には北西のブリタニアで重税に対する反乱がおき、東方のアルメニアではペルシャ帝国(パルティア)に寝返るものが現れた(第4次パルティア戦争)。前者はローマ正規軍が、後者は名将コルブロらの活躍が、それぞれ事態を収束に導いた。一方66年にはパレスチナの地でユダヤ教徒の反乱が勃発した。
首都ローマでは64年に大火災が発生。首都は速やかに再建・救済されたが、ネロ帝は民衆の「ネロが放火した」という実しやかな噂に苛立ったのか、放火の罪をすべてキリスト教徒になすり付け、徹底的な虐殺・処刑を行った。
ネロ帝はまた、義理の弟や母アグリッピナ、そして妻をも殺害していた。まさに暴君、いや暴漢である。65年、ネロ帝は元老院が自らを打倒するよう企ていることを知ると、多くの元老院貴族を処刑していった。さらに、自身の教師や東方を鎮圧した名将コルブロらには自殺を強要したのである。
このようにローマ帝国はネロ帝のもと末期ともいえる様相を呈したが、ネロ帝は依然として政治に無関心で、ギリシアでのバカンスに酔っていた。
帝国の臣民らは我慢ならなくなったのか、68年、ガリア総督ウィンデクスが反乱を起こす。反旗の風は瞬く間にローマ帝国中に波及。すると首都ローマへの穀物輸送も滞り、民衆も不満を高めていく。ネロ帝はエジプトへ逃れようとするが、誰もが彼を見限り、あまつさえ元老院から「国家の敵」と宣告された。その後ネロ帝はローマ郊外に逃れるが、騎馬兵の近づく音を聞き、すべてを諦め自害するに至った。
彼の評価の見直しも無いわけではないが、それでも「暴君」の異名は覆らない。しかし他方、当時の民衆からは慕われていたようである。死後、しばらくの間、彼の墓標は常に民衆からの花束で埋めつくされていた。
四皇帝の年 (A.D. 68 - A.D. 70)
68年に元老院貴族の1人、ガリア総督ウィンデクスがネロ帝の圧政に対し反乱を起こすと、10万に及ぶガリア兵が彼の下に集まった。またウィンデクスはヒスパニア総督のガルバに指導者となるよう声をかけ、新たなローマ皇帝として推戴した。この時代を「四皇帝の年」と呼ぶが、その1人目の「皇帝」が、ウィンデクスに担がれた、ヒスパニア総督のガルバである。
政権の腐敗
首都ローマで元老院がガルバを支持すると、各地の総督もガルバを支持するようになる。ちょうどこの頃にネロ帝が自害し、ユリウス=クラウディウス朝が断絶したのである。
ガルバの理念はずばり「自由の尊重」であった。彼は凋落した元首政を本来あるべき姿へと戻そうとし、ローマ帝国を共和制へと修正しようとしたのである。
素晴らしき思想といえただろうが、なにぶん彼の周囲が腐敗しきっていた。ネロ帝から政権を交代したわけだが、政治は何も変わらなかったのである。ガルバは陰謀を恐れるあまり、ネロ帝と同様、反対派の元老院や騎士階級(エクィテス)を裁判も無しに処刑していった。
民衆はネロ帝の時代を求めるようになる。また、兵士たちは、与えられる筈の給与がいつまでも支払われないことに不満を抱きはじめる。
すると69年の1月、ライン軍の長ファビウス・ウァレンスがゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」とし推戴、反乱を起こした。この報を受けたガルバは名門貴族の1人を後継者とし、「家門ではなく相応しい人物を選んだ」と演説。大貴族を選んでおいてはこれはどういうことなのか、というわけで元老院以外の人心は得られず、結局彼はオトーに襲撃され、他界した。
軍対軍の戦いへ
オトーは亡きネロ帝の悪友であったが、妻を彼に取られ、地方総督へと左遷されていた。ガルバが反ネロ派として反乱を起こした際、これを積極的に支持したから、「ガルバの後継者は自らである」と自負していた。そんな矢先、ガルバが自分以外の貴族を後継者にしたものだから、不満に思い反乱したのである。まるで昼ドラ。
はじめは僅か23人のオトーの反乱であったが、これが多くの支持を得、最終的には首都ローマでガルバとその後継者を殺害するに至る。元老院はオトーに諸権限を委託し、皇帝とした。
さて、先ほどライン軍の長ファビウス・ウァレンスが、ゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」として担ぎ反乱を起こしたと述べたが、このオトー政権でもそれは続いていた。ライン軍にとっては相手がガルバであろうがオトーであろうが関係なく、「ローマ皇帝は我らが担ぎしウィテリウス!」と依然として主張していた。
オトーは軍をイタリア北部へと上らせ件のライン軍と激突。現政権のオトー軍と、ウィテリウス派のライン軍の対決である。オトー軍にはドナウ軍からの加勢が到着する予定であったが、その前に戦いは始まっていた。結果、オトー軍は窮地に立たされ敗走するが、まだ挽回の余地はあった。
しかしオトーはこれ以上の犠牲は望まず、潔くこの世を発ったのだった。オトーは部下の戦死を未然に防ぐべく、諦めて自害したのである。こうして2人目の皇帝が世を去ったのだった。
時代は軍事力
そのころ首都ローマではウィテリウス歓迎の式典が催されていた。元老院は今度はこの男に諸権限を譲渡する、というのである。強大な軍事力を背景に進軍するウィテリウス率いるライン軍に、元老院は屈する他なかった。
帝国の西側で新皇帝ウィテリウスが即位したが、他方、東側ではシリア軍、エジプト軍、そして亡きネロ帝の命によりユダヤ反乱を鎮圧したフラウィウス・ウェスパシアヌスのユダヤ軍が動き始めていた。これら軍隊が総力を挙げれば、ウィテリウスのライン軍にも匹敵しうる。
当時のローマ帝国内では、軍隊はそれぞれプライドを持ち、自身以外の軍をライバル視していた。その導火線に火をつけたのが、まったくもって皇帝に相応しくないと東方の軍隊に目されていたウィテリウスである。またウィテリウスによるオトー軍隊長の処刑も顰蹙を買った。
決着
69年7月1日、とうとうシリア・エジプト・ユダヤの軍隊が動き出した。フラウィウス・ウェスパシアヌスを「皇帝」として担ぎ挙げ、フラウィウス本人が率いる軍はエジプトへ入り、そこからアフリカを制圧して首都ローマへの、つまり皇帝ウィテリウスのライン軍への穀物供給を遮断する。一方シリア軍はアナトリア半島を経由し、ギリシャで知られるバルカン半島へ上陸、イタリアを北から攻める予定であった。つまり挟み撃ちというわけである。
しかし意外にもイタリアを攻めたのはシリア軍ではなかった。シリア軍はバルカン半島の異民族の攻撃に遭い、一時進軍を止めたのである。では誰がイタリアを攻めたのかというと、それはドナウ軍のアントニウス・プリムスだった。
プリムスのドナウ軍もまたフラウィウス・ウェスパシアヌスを支持し、現政権のウィテリウスに対抗した。ドナウ軍はその後もベドリアクムで勝利すると、カエサル以来といわれる快進撃を続け、とうとう首都ローマの城門に迫った。
この際ウィテリウスは反乱軍の最高指導者フラウィウスを認め、帝位を譲るよう述べたが、もはや後の祭りだった。まもなくウィテリウスのドナウ軍とプリムス率いる反乱軍が市街戦を展開し、最終的にプリムスの軍、すなわち反乱のフラウィウス側が勝利した。
興味深いのはこのローマ市街戦の際に、民衆は屋根から見世物でも見ているかのように楽しんだという点である。彼らローマ市民からすれば、これらのまつりごとは「サーカス」だったのかもしれない。民衆は今の今まで「ウィテリウス万歳」と喝采していたが、反乱軍が勝利した後は、ウィテリウスをなぶり殺しにした。
かくして70年の夏、フラウィウス・ウェスパシアヌスはローマへと無血入城した。ガルバ、オトー、ウィテリウスときてフラウィウス。この四皇帝の年が終わる頃、ローマ帝国はフラウィウス・ウェスパシアヌスに始まるフラウィウス朝が胎動していたが、他方で、この内戦の結果、多くの名門貴族は没落していたのだった。
フラウィウス朝 (A.D. 70 - A.D. 96)
この王朝はカエサルあるいはアウグストゥスに始まるユリウス・クラウディウス朝との血縁関係がなく、要するに「ユリウス・カエサル家」の縁者によるものではなかった。しかし初代皇帝のフラウィウス・ウェスパシアヌスが善政をしいたことから、民衆の支持は厚かったようである。
諸改革
初代皇帝ウェスパシアヌスは簡素な生活をしつつも、新税を導入して財政再建に尽力した。都市再建にも腐心し、内戦で焼失したカピトリウムの神殿や民衆のための巨大闘技場を再建・新築していった。75年から工事され始めたこの巨大円形闘技場こそが、かの有名な「コロッセウム(コロッセオ)」である。正式名称は「フラウィウス闘技場」とあり、このことからもフラウィウス朝の都市再建がうかがえよう。
ウェスパシアヌスの改革は属州ヒスパニアにも見られた。彼はヒスパニアの住民にラテン権を与え、さらにイタリア式の自治制度を導入した。このウェスパシアヌスの英断は、後に有能な元老院議員たちを生むという形で実を結ぶ。
ウェスパシアヌスは後に元老院決議により神格化された。彼の最後の言葉は「皇帝は立って死なねばならぬ」。
鎮圧と災厄
79年、初代皇帝ウェスパシアヌスが死去すると、その長子ティトゥスが後を継ぎ、第2代皇帝として即位した。70年の頃からユダヤ反乱の再鎮圧に加わっていたティトゥスは、すでにエルサレムを陥落させるという武勲を有していた。
彼が即位して間もない79年8月、ウェスウィウス山が大噴火を起こし、ポンペイやヘルクラネウムの町が焼失した。とくにポンペイのそれは有名である。すかさずティトゥスは被災地の救援にあたった。
しかし81年、ティトゥスは皇帝となってからこれといった功績を残すことなくこの世を去った。民衆は有能な彼の死を嘆いたという。ティトゥスの威光は、今もなお輝く「ローマの凱旋門」として後世に形を残した。
ちなみに父から子へと帝位を継承させたのはウェスパシアヌスと彼が初めてである。
対ゲルマニア
3代目の皇帝には、ティトゥスの弟であるドミティアヌスが就いた。
この辺りのローマ帝国は、対外的に見て攻勢に転じていた。83年にはカレドニア人とカッティ人に勝利し、とくに後者は皇帝自らが軍を指揮していた。85年にはダキア人が猛攻し苦戦、しかし88年のタパエの戦いの戦勝により講和に持ち込んだ。89年にはまたもカッティ人に対し勝利し、この際もドミティアヌス自身が軍を率いていた。
しかしローマ帝国といえど何事もうまくいくわけではない。89年はまたゲルマニア総督アントニウス・サトゥルニヌスが皇帝として担がれ、反乱が勃発した。ゲルマニアといえば現在のドイツ、すなわちローマの北であったから、ドミティアヌスはこれを鎮圧すべく北上する必要があった。サトゥルニヌスはお膝元のゲルマニアを活用し、ゲルマン諸部族を従えドミティアヌスと連戦した。反乱の代表者サトゥルニヌスは元老院貴族であったが、それ故にドミティアヌスは元老院と溝を深めるようになったのだった。
96年、その元老院との対立が災いし、ドミティアヌスは暗殺された。これによりローマ帝国に再び安定期をもたらしたフラウィウス朝が断絶するが、奇しくも、その直後に空前の最盛期が帝国に訪れる。
ネルウァ・アントニヌス朝 (A.D. 96 - A.D. 192)
元老院が政敵であるドミティアヌス帝を打倒すると、マルクス・コッケイウス・ネルウァが彼らによって次期皇帝に指名され、即位した。ネルウァは元老院貴族の一人であり、軍務経歴のない老いた法学者であったが、それ故に元老院を第一に尊重する姿勢であった。
最盛期――偉大なる五賢帝の時代
96年から180年を一般に五賢帝時代と呼ぶ。これはローマ帝国が最も輝いた時代であり、地中海を完璧に、欧州をほぼ完全に支配(ないし勢力圏下)した時期である。
五人の皇帝は以下の通り。
- ネルウァ
- トラヤヌス
- ハドリアヌス
- アントニヌス=ピウス
- マルクス・アウレリウス・アントニヌス
- (カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス、在位:161年 - 180年)
最初のネルウァ帝は帝国の全盛期を開始させた重要人物。しかしそれ以外はあんまり取り上げられない。先のネロ帝と友人関係にあったという。また先代の皇帝とはゲイ友。
トラヤヌス帝は「至高の皇帝」と称され、帝国領の最大を実現した。その領域は地中海、北アフリカはもちろん、西欧・中欧・シリアにも達し、現イギリスであるブリタニアにも及んだ。ローマ風の都市が各地に建設され、文化もまた各地に波及した。現在のロンドン・パリ・ウィーンなどは、彼の業績を無視できない。
ハドリアヌス帝はブリタニアに「ハドリアヌスの長城」を立てた。彼もまた異彩を放つ存在で、具体的には、男色で詩に長けており、ギリシャ文化への傾斜も強かった、といったところ。ローマ全体の統合を果たし、防衛面についても尽力した。娘さんが大好き。
アントニヌス=ピウスは軍事上の功績はこれといって無かったものの、政治上においては辣腕を誇り、主に財政での活躍が見られた。実は一番名前が長い人。
最後のマルクス・アウレ(ryは「哲人皇帝」と称され、『自省録』を著した。彼の時代には帝国にも陰りが生じていたためか、その著書もどこか暗く重いものがある。名前の長さからか、高校生などに悪い意味でよくネタにされる。
斜陽の前兆
180年、マルクス・アウレリウスが亡くなると、その実子コンモドゥスが帝位を継ぐ。ウェスパシアヌス帝がティトゥス帝を後継者して以来、実に約1世紀ぶりの「父から子」の継承であった。
コンモドゥスはアントニヌス=ピウスを祖父にもち、哲人皇帝マルクス・アウレリウスを父にもつ上、トラヤヌスやハドリアヌスとの血縁上の繋がりをも有していた。ゆえにコンモドゥスは、軍隊からの厚い忠誠を受けることとなる。
亡き父マルクス・アウレリウスの意思を継ぐコンモドゥスのもと、ローマ帝国はマルコマンニ族との闘争に力を注ぐ。帝国は制していった異民族を講和条約のもと統合していき、比較的寛容な方法で防衛と拡大が促された。
一方、内政では、腐敗する寸前の軍を縮小させ、後のセウェルス朝で起こる改革の土台を作られていた。
暴君の再来
このようにコンモドゥスの治世は特別狂おしいわけではなかったが、姉の一人ルキッラがその野心のゆえにコンモドゥスの暗殺を試みるようになると、ローマ帝国の軌道は一変した。姉による暗殺未遂により、コンモドゥスは友人であり執事長でもあるクレアンデルを重用、帝国は汚職と賄賂で腐敗する。
190年、首都ローマにて穀物供給が停滞し、暴動が勃発。後に民衆の鬱憤はコンモドゥスから腐敗したクレアンデルに移ると、コンモドゥスは手の平を返し、クレアンデルが処刑された。以後、ローマ帝国ではクレアンデルに関係するものの多くが処刑され、また無数の要人、とくにコンモドゥスを咎めるものが粛清されていった。
コンモドゥスはときにギリシャ神話の英雄ヘラクレスを自称した(その際の名はルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘラクレス・ロムルス・エクスペラトリス・アマゾニウス・インウィクトクス・フェリクス・ピウス)。趣味と娯楽に溺れに溺れ、自らの剣術に陶酔し、あろうことか剣闘士として闘技場に出場。ヘラクレスを模すべく、狼の毛皮を纏って棍棒を振り回したという。
191年には、首都ローマが落雷による大火災に苛まれたが、その際コンモドゥスは帝国の再建を計画し「新たなるロムルス(ローマを建国した伝説上の人物)」と自称。さらに再建予定地のほか、各月の呼び名、軍隊の名称、元老院、全ローマ人の家名は、コンモドゥスに由来する名称へ改めるよう強要された。
これが最後の引き金となったのか、192年、コンモドゥス帝が暗殺された。剣闘士による。剣闘士皇帝が剣闘士にやられるとは当然なのかもしれないし、皮肉なのかもしれない。しかし何にせよ、帝国史の絶頂期を体現したネルウァ・アントニヌス朝が、これを機に断絶したのである。
五皇帝の年 (A.D. 192 - A.D. 197)
外敵の脅威が和らぐ中、常備軍と政治力の肥大化は深刻な問題としてローマ帝国に近づいていた。そんな折、ネルウァ・アントニヌス朝の第6代皇帝コンモドゥスが死したことで、同王朝の断絶が避けられぬようになった。第4の王朝を打ち立てるべく、諸侯が軍事力を背景に相争うようになり、ローマ帝国は再び内乱期に陥った。
帝位は巡る
193年1月、騎士階級から昇格した将軍ペルティナクスが次期皇帝となる。しかし彼は立場を安全なものとすべく軍縮を行ったため、近衛隊と盟友ラエトゥスの不評を買い、結果、反乱が勃発し、即位して83日目に亡くなった。
次期皇帝に名門貴族のディディウスが選ばれる。ペルティナクス亡き後、近衛隊は「給与を保証するものを皇帝としよう」と考えていたため、ディディウスはこれを利用し即位したのである。
ところが、この、近衛隊による物理的な即位は、元老院と民衆のよしとするところではなく、すぐさま彼らの離反を誘発した。この不安定な政局に統治の稚拙さが加わり、結果としてニゲル、アルビヌス、セプティミウス・セウェルスら将軍の反乱を呼ぶに至る。ディディウス本人もさることながら、彼の軍隊もまた腐敗していたため、将軍セプティミウス・セウェルスの軍により徹底的に叩きのめされ、最終的に近衛隊の裏切りにより没する。193年。元老院は次期皇帝をセプティミウス・セウェルスとした。
帝権死守
すると、「ニゲル(黒)」と渾名されるシリア総督が皇帝を僭称する。先のディディウスが没した時、元老院は彼を追いやったセプティミウス・セウェルスを新皇帝とした(193年)が、このニゲルは依然として「我こそが皇帝である」と主張したのである。
もちろん正統な皇帝位に就いたセプティミウス・セウェルスからすれば、皇帝と僭称するニゲルは逆賊に他ならない。というわけでセプティミウス・セウェルスは同僚のアルビヌスと結託し、193年、ニゲルを攻撃。一進一退の攻防が続いたが、194年、ニゲルは徐々に追いやられていくに至り、戦死した。
こうしてセウェルスは帝権を固持したが、まだ問題は残されていた。先ほどセウェルスに味方した同僚のアルビヌスである。彼はセウェルスの味方となる代償に、副帝の地位を得ていた。
結局アルビヌスの野心はそこで収まらず、正帝セウェルスが権勢を振るうようになると、これに危機感を覚える。ついに196年、副帝アルビヌスは正帝の位を請求した。彼は軍をガリアへ進めたが、ルグドゥヌムの戦いでセウェルス軍に敗れ、自決した。
これにて五皇帝の年、ローマ内乱が決着。セプティミウス・セウェルスは正帝の座をみごと護りきったのである。
セウェルス朝 (A.D. 193 - A.D. 235)
初代皇帝のセウェルスは長男をアントニヌス家の養子とし、帝位を正統化した。形式上はネルウァ・アントニヌス朝が続いている、と言外に主張していたのである。
軍拡
唯一無二の正統な皇帝となったセプティミウス・セウェルスは、対外的に攻勢に出、パルティアの深くへ侵攻した。また北アフリカ、ブリタニアにおける帝国領も拡大させた。
セウェルスは軍事力の拡大に腐心した。腐敗した近衛隊を解体し、ドナウ軍から選抜して新たな近衛隊を編成。首都ローマ付近に1個軍団を増設し、皇帝の常備軍を配置した上、さらに2個の軍団を増設した。
それら3個軍団の指揮と、拡大した北アフリカとブリタニアの指揮は騎士将校に任せる。これは元老院ではなく騎士階級が軍政を握り始める、明確なローマ帝国の変化だった。
暴虐帝登場
211年にセウェルスがこの世を去ると、息子のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルとプブリウス・セプティミウス・ゲタの兄弟2人が皇帝になった。
ところが同年、セウェルスの息子2人は首都ローマに着いてからというものの、非常な仲違いを起こした。マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル、通称(渾名)カラカラは、弟ゲタと統治方法やその価値観で軋轢を生んだのである。二人はローマ帝国を分割統治しようかと画策したが、母の反対によりそれは実行されなかった。
母はまた和解させようと二人を呼ぶが、なんとこの時カラカラは弟ゲタを殺害する。信じられないことに、カラカラは和解の場で弟を殺したのである。ゲタにとりそれは不意打ちに他ならなかった。しかも、この時カラカラは「弟から身を守った」と正当防衛を主張したのである。どう見てもカラカラから仕掛けたのに、である。
それを皮切りにカラカラの粛清が始まった。彼のプライドはゲタを殺すだけでは納得せず、ゲタを記録抹殺刑(ダムナティオ・メモリアエ)に処し、あらゆる像や貨幣からゲタの姿を削り取らせた。さらに、ゲタと友好のあったものたちを徹底的に抹殺してさえいる。
では統治はどうであったかといえば、それもまさしく暴政であった。銀貨の銀含有量を下げ、結果としてインフレーションを誘発した。また「アントニヌス勅令」で知られる全属州民へのローマ市民権の付与により、属州税を失う。この勅令の結果、「国庫収益を期待したのに、むしろ臨時税収を頻発させる」ほどに後世のローマ帝国は苦しむこととなる。ただし愚帝というわけではなく、軍からは絶大の信頼を得ていた。
213年からは帝国の東方で略奪と虐殺を繰り返した。とくにエジプトのアレクサンドリアにおけるそれは凄まじく、「油断して集まった2万人を殺す。飽き足りないからまだまだ殺す」というものだった。狂気の沙汰。
暴君の例に漏れず、彼もまた暗殺された。217年のことである。これにて1度、セウェルス朝が断絶した。
1年皇帝
同年4月、カラカラを暗殺した近衛隊長、マクリヌスが次期皇帝となった。セウェルス朝の特色か、マクリヌスは元老院議員ではなく騎士から正統な皇帝になった、初めての人物である。
しかし題にもあるように、マクリヌスの治世は短かった。
パルティアに勝てず貢納金を支払い講和したために、軍の信頼を喪失。それを見たセウェルスの妻の妹マエサが、14歳の孫バシアヌスをセウェルス朝再興の証として担ぎ、反乱を起こした。少年バシアヌスは、兵士に人気のあったカラカラの落胤として宣伝されたため、熱狂的な支持を得る。
闘争に敗れたマクリヌスは逃亡するが、後に捕らえられ処刑された。
最低最悪の暗君
218年、少年バシアヌスがエラガバルス(ヘリオガバルス)の渾名とともに即位した。少年とある通り、彼は男である。
しかし即位当初からその問題性は発露していたという。彼の暗君っぷりは以下の通りである。
- 家庭教師の提言「自制心をもって慎重に生きなさい」に対し「殺害」で応じる
- 早くも仲間がヘリオガバルスの味方についたことを後悔
- 愛人(※男)の奴隷を共同皇帝にしようと企てる
- しかも彼(※男)に自分を「妻」として求婚した
- 別の愛人(※男)を執事長に任命
- 彼にもちゃっかり求婚
- 銀貨の銀含有量を下げる
- 処女信仰を否定し巫女と再婚
- (男なのに)神の巫女を自称、自らの舞を元老院のお爺様方に見るよう強制する
- 徹底した女装癖
- 男を漁る為に酒場に入り浸る
- 化粧と金髪の鬘をつけて売春(※相手は男)、これに夢中になる
- 宮殿を売春宿に改(悪)築
- 性転換を行える医者を募集
というわけで暗殺されました。221年。よくそれまでもったな……。
元首政の臨界点
222年、わずか13歳の少年アレクサンデル・セウェルスが即位。
以後、軍との対立を抱えつつも穏やかな時代がローマ帝国に訪れた。アレクサンデルはいわゆる優等生で、元老院を尊重する、穏健な皇帝だった。そしてそんな君主を戴くからこそ、帝国は緩やかな時代を享受できたのかもしれない。実権は母が握っていたが、先代のアレよりは遥かにマシであろう。
しかしペルシャ帝国との対決を機に、アレクサンデルにも、そしてローマ帝国にも凋落の兆しが見え始める。
226年当時のペルシャ帝国は、アルダシール王によってパルティアから取って代わった、重装騎兵を主力とする中央集権国家ササン朝であった。その戦力は強力で、時のローマ帝国が相対するには苦戦必至の相手であった。
少年皇帝の苦悩はそこに限らない。東方ではササン朝が厄介なのだが、西方でも、実に鬱陶しい勢力が形成されていた。ゲルマン戦士団である。彼らゲルマン民族はすでに帝国領内に侵入を繰り返しており、アレクサンデルは貢納金で講和する他なかった。
そこで軍との決別が決定的となる。アレクサンデルの対外的屈服に不満を抱いた軍は、しだいに強い将軍に指揮されることを望むようになる。それが235年、騎士将校マクシミヌスを推戴した反乱、そして少年皇帝の死に繋がった。
帝政ローマ第4王朝、セウェルス朝が断絶したのである。
これは単に一つの王朝が途絶えたという話ではなく、元首政(プリンキパトゥス)の限界と終焉を意味し、軍人皇帝時代、すなわち帝国の内乱期を迎えることをも意味していた。そしてその混乱期こそ、ローマ帝国衰退の直接的な原因となるのである。
軍人皇帝の時代
世は波乱の世紀末! 我こそ真のローマ皇帝、自称皇帝死すべし!
哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世期末期ごろから、財政上での行き詰まりはすでに見え始めていた。「ローマ皇帝」の選出は共和制期の執政官と違い明確な規定がなかったが、そこにセウェルス朝の断絶が加わることで、内乱の引き金が引かれたのである。
各地では数多くの皇帝が乱立した。彼らは軍事力によって元老院と対立し、出てきては死に立候補しては退位、の繰り返しを体現した。この間登場した皇帝は26人といわれる。
この時期には北方のゲルマン人やササン朝ペルシャ帝国の侵入も目立ち始め、帝国は分裂の危機に陥った。内憂外患の絶体絶命に陥ったこの時代を、後世の我々は「3世紀の危機」と呼ぶ。
六皇帝の年 (A.D.235 - A.D. 244)
235年、マクシミヌス・トラクスはセウェルス朝最後の皇帝アレクサンデルを暗殺し、この内乱期で最初の軍人皇帝となった。初の兵卒上がりの皇帝である。
マクシミヌスのもとローマ帝国はマルコマンニ人に戦勝し、サルマティア人やカルピ人とも対決する。しかしマクシミヌスが1度も首都ローマに行くことがなかったために、元老院、そして戦費として穀物を供給する大土地所有者は、マクシミヌスに反発するようになる。
238年、大土地所有者らが反乱を起こす。反乱軍はアフリカ総督マルクス・アントニヌス・ゴルディアヌスとその息子を皇帝として推戴、首都の元老院もこれを支持。ところがアフリカ正規軍は軍人皇帝マクシミヌスに忠実であったことから、反乱のゴルディアヌス父子を逆に死に追いやった。皇帝マクシミヌスは首の皮一枚が繋がったわけである。
激化する内乱
元老院のプライドは軍事皇帝への敗北を許さなかった。ただちに2人の元老院議員、プピエヌスとバルディヌスを皇帝とする。そして、亡きゴルディアヌスの孫に「カエサル」と名付け、後継者まで用意したのだった。
軍人皇帝マクシミヌスはこの新皇帝らを認めるわけにもいかず、イタリアへと南下を開始。しかしアクィレイアの要塞を陥落させることができず、包囲戦を続行するも補給の不足からジリ貧となり、兵士たちは飢えに苦しんだ。そしてあろうことか、空腹の兵士たちは、自ら選んだはずの軍人皇帝マクシミヌスを裏切り、殺害したのだった。
これで、先述の元老院に選ばれたプピエヌスとバルディヌスが名実ともに皇帝となった。元老院が軍に勝利したかと思われたが、しかしここでバルディヌスが求心力を失ったことを皮切りに、新帝の2人は近衛隊に殺害されてしまう。
元老院は軍に対し妥協するしかなく、次の皇帝を13歳のゴルディアヌス3世とした。
ところが241年、ティメシテウスが近衛隊長になると、ゴルディアヌス3世に代わり実権を掌握し始める。実質帝国を支配するティメシテウスだったが、ペルシャ軍を撃退し遠征を続けていくうちに、戦死したのだった。
再び実権を得たゴルディアヌス3世はペルシャ遠征で快進撃を成し遂げ、首都クテシフォンにまで迫るも、244年、遠征の途中で戦死した。これにて6人の正帝の時代、「六皇帝の年」が終焉を迎えた。
ウァレリアヌス捕囚
しかし混乱期は終わらない。
ゴルディアヌス3世の没後、帝位簒奪者も含め5人の正帝が続いた。その5人目の皇帝が、253年に即位したウァレリアヌスである。彼は息子のガリエヌスを共同統治者に選び、自らは東方領域を治めることとした。259年、ウァレリアヌスはペルシャへ侵攻。しかしエデッサの戦いでシャープール1世率いるペルシャ軍に敗れ、ローマ史上初の捕虜となる。ローマ帝国の権威は失墜し、国力の低下を外部に晒すこととなった。
ガリア帝国とパルミラ王国 (A.D. 260 - A.D. 274)
260年ごろにウァレリアヌスが皮剥ぎの刑に処されると、共治者であった息子のガリエヌスが唯一の皇帝となった。
しかし時を同じくして、実力者ポストゥムスはガリエヌスの息子を殺害し、さらに、あろうことかローマ帝国中にガリア帝国(260年 - 274年、現在のイングランド・フランス・スペイン・ポルトガルに相当)を建国した。
一方ガリエヌスはパルミラ(現シリア)の実力者オダエナトゥスと結託し、ペルシャ帝国の拠点アンティオキアを制し、僭称皇帝を討伐した。その後もパルミラのオダエナトゥスはアナトリア半島で活躍するも、甥に暗殺されてしまう。
オダエナトゥスの妻、ゼノビアは夫を殺した彼の甥を処刑し、すぐさま実権を掌握した。するとパルミラの方針を転換し、堂々とローマ帝国から離反した。パルミラ王国(260年 - 273年、現在のトルコ・シリア・パレスチナ・エジプトに相当)の成立である。こうしてローマ帝国から二つの国家が(半)独立し、地中海世界はローマ帝国・ガリア帝国・パルミラ王国に分裂したのだった。
帝国の変質
帝国が最悪の危機に瀕していた中、正帝ガリエヌスは蛮族対策のため、騎士階級から重装騎兵を登用し、軍の主力とした。しかしこれは、ローマの軍と市民層の変質をもたらした。また彼は、多忙に対処すべくゲルマニア防壁を破棄し、現地の住民にそこを防衛するよう申請した。が、防壁の喪失は後世に多大な負担を背負わせことになる。
分裂と多方向からの攻撃を受け、ローマ帝国は四面楚歌に陥った。ローマ皇帝は国防のため元老院よりも軍と親密になり、結果として軍人の台頭を促した。ガリエヌスはさらに、軍人と文官を分離したとされるが、これが軍人台頭に強く影響した。その筆頭がイリュリア人で、すぐ後に皇帝として何名かが現れている。
268年ごろ、ガリエヌスは反乱に遭いこの世を去った。軍人皇帝の時代は、まだしばらくは続くこととなる。
イリュリア人の時代へ
ガリエヌスの後に帝位に就いたのは、269年ごろにゴート族を討ち破り「ゴティクス」の名を得た、クラウディウス・ゴティクスだった。
ゴティクスのもとローマ帝国は外敵と戦い続ける。ゲルマンのアラマンニ族がアルプス山脈を越え強襲するとこれを迎え撃ち、ガリア帝国にも攻撃し、ヴァンダル族にも反撃した。しかしガリア帝国は陥落せず、ヴァンダル遠征中には皇帝ゴティクスが疫病にかかり、270年、没してしまう。
ゴティクスの後は彼の弟が継ぐが、軍が強き皇帝を望んだため、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスを推戴した反乱が勃発。帝位は軍に担がれたアウレリアヌスに移った。
帝国再編
ゴティクス存命中は彼のゴート族討伐で鎮静化していた北方異民族だったが、271年、アラマンニ族のイタリア侵入でそれは破られた。アラマンニ族は40,000の騎兵と80,000の歩兵という大軍をもってして襲いかかる。ヴァンダル遠征中のアウレリアヌスはアフリカにいたため、急いでイタリアへと向かった。
アウレリアヌスはパヴィアまで進軍し、アラマンニ族を1度撃破した。その後も戦いは続き、とうとう三度目の戦いでローマ帝国はアラマンニ族を撃退することに成功する。
さらにバルカン半島のゴート族討伐も成し遂げ、またドナウ河北方のダキアを改築し、異民族を牽制した。
ローマ帝国の逆襲はそこで終わらず、273年、アウレリアヌスはパルミラ王国に対し2度戦いこれに勝利する。籠城した摂政ゼノビアを捕らえ、ついにパルミラ王国を滅ぼしたのである。次は西方。アウレリアヌスはガリア帝国の統合をも望み、274年、みごとそれに成功した。これら武勲によりアウレリアヌスは、元老院より「世界の修復者」の称号を与えられた。かくしてローマ帝国は本来の領土を取り戻したのである。
275年、アウレリアヌスはペルシャ遠征の最中、秘書官の1人エロスに暗殺された。理由は叱責されたから、だそうだ。帝国を危機から救った英雄にしては、実に報われぬ最期である。
専制君主制期
テトラルキア TETRARCHIA (A.D. 286 - A.D. 324)
軍人皇帝の時代、そしてその混乱期を制したのがディオクレティアヌス(在位:284年 - 305年)である。
内乱を経た280年代当時、ローマ市は荒廃し首都機能を失っていた。そして外敵も単体というわけではなく、北や西の異民族にササン朝ペルシャ帝国と、ローマ帝国は四面楚歌に通ずる困難に陥っていた。
これらをうけて、ディオクレティアヌスは「皇帝1人では限界がある」とし、286年、かつての同僚マクシミアヌスを「共治帝」とし「西方正帝」とした。ディオクレティアヌス本人はアナトリア半島(現トルコ)の西端、ニコメディアを首都とする帝国の東方を統治し、一方のマクシミアヌスは、メディオラヌム(現ミラノ)を首都とする帝国の西方を治めた。ディオクレティアヌスが東方を取ったことからも分かるように、当時のローマ帝国の重点は東に移っていたのである。
293年、2人の皇帝は各々「正帝(アウグストゥス)」として新たに「副帝(カエサル)」を任命した。つまり、これで東方と西方に2人づつ、計4人の皇帝が置かれたわけである。これがいわゆる四分統治(テトラルキア)になる。帝国に正帝と副帝が2人づつ置かれたことにより、同時に各方面での敵に対処できるようになった。
このようになる。どの皇帝もローマを首都にしていない点には留意しておきたい。
4人の皇帝がほぼ対等に統治しているように見えるが、それはディオクレティアヌスの巧みな政治的手腕によるところが大きい。事実、ディオクレティアヌスが引退した305年以降、四分統治は空回りし始める(後述)。付け加えておくと、四人の序列は「ディオクレティアヌス>東方副帝&西方両帝」である。
なお、本来、ローマ史におけるテトラルキアとはディオクレティアヌスによる分割統治を指す用語であり、厳密には四分統治に限らない。したがって、本項ではその始まりをマクシミアヌスが共治者となった286年としている。
元首政からの脱皮
ディオクレティアヌスの改革はテトラルキアに限らない。行政、税制、軍制をも大改革し、中央集権化、属州細分化、軍事力強化を進めた。また官僚制が整備されたことにより、軍政と民政が分かれ、属州の反乱が小康化した。なお、この軍政と民政の分離は東ローマ帝国にも受け継がれ、テマ制(軍管区制)になった。
ディオクレティアヌスはオリエント的な儀礼をも導入した。このため、ローマ皇帝は「市民の中の第一人者(プリンケプス)」ではなく「専制君主」となった。
こういった変化によって、ローマ帝国の政体は、元首政から、絶大な権力集中からなる専制君主制(ドミナートゥス)へと変質した。いわゆる「I am God」である。以後のローマ皇帝、とくに東ローマ帝国の皇帝はこの傾向が強くなる。東方風の専制が明確に始まったため、この時代を中世の始まりということもできよう。
また303年、ディオクレティアヌスはキリスト教徒の大迫害も敢行した。しかしこれは失敗し、僅か一割されど一割のキリスト教徒を黙らせることができず、結局これが最後の迫害となる。ここに、拡大し続けるキリスト教の勢力を見ることができよう。
以上のように、軍人皇帝の時代、テトラルキアを経て、ローマ帝国は決定的に変質したのだった。
四分統治の崩壊
305年、ディオクレティアヌスがキャベツづくりのために体調の変化を理由に隠居の身になると、四分統治のバランスが一斉に崩壊した。
ディオクレティアヌスの友、西方正帝マクシミアヌスも「引退するならディオクレティアヌスと一緒」と決めていたため、引退。すると東西の副帝ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスがそれぞれ正帝へと昇格した。そうなると、今度は副帝の席が二つ空く。東方副帝にはマクシミヌス・ダイアが、西方副帝にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが就いた。
しかし306年、西方正帝コンスタンティウス・クロルスが没する。
すると、東方正帝ガレリウスは、次期西方正帝の座に、西方副帝のセウェルスを就けようとした。つまりそのまま昇格させようと。ところがややこしいことに、亡くなったコンスタンティウス・クロルスの息子コンスタンティヌスが軍に担がれると、コンスタンティヌスもまた「我こそ西方正帝なり!」と高々に宣言した。
が相争う形となったのである。
さらにさらに、ディオクレティアヌスの友マクシミアヌス(元西方正帝)の息子、マクセンティウスもまた「父ちゃんが元西方正帝なら息子の俺こそ西方正帝!」と言い始め、307年、西方副帝セウェルス(上のコンスタンティヌスと争ってた)を殺害、西方正帝の位を要求した。
さらにさらに、息子の帝位僭称を正統化すべく、元西方正帝マクシミアヌス(ディオクレティアヌスの友)が現役復帰、再び正帝を宣言した。
内乱勃発
元西方正帝マクシミアヌスは、息子マクセンティウスの実権獲得の大義名分として、正帝を称した。東方正帝ガレリウスに一度勝利していたマクシミアヌスは、同じく自称西方正帝のコンスタンティヌスに娘を嫁がせることで、味方とすることに成功。
しかし308年、何を思ったか元西方正帝マクシミアヌスは息子マクセンティウスへ向けて挙兵。息子の飾り物、というのが気に食わなかったのだろう。が、ローマ市へと進軍するも、あえなく敗れた。
それをうけ、同年、東方正帝ガレリウスと先帝ディオクレティアヌス、そして元西方正帝マクシミアヌスは会議を開いた。結果、東西の帝位は次のようになる。
しかしマクシミアヌスの息子マクセンティウスは、依然としてイタリア道、すなわちイタリアとアフリカを支配していた。また、東西の副帝であるマクシミヌス・ダイアとコンスタンティヌスは、新たに西方正帝となったリキニウスより下、という処遇に納得がいかなかった。結果、東西の副帝は「正帝」と自称する。
かくして壮絶な帝位の奪い合いが始まる。310年、自称西方正帝コンスタンティヌスは、元西方正帝マクシミアヌスを反逆の罪で処刑。さらに311年には東方正帝ガレリウスが亡くなり、312年にはイタリア道を支配していたマクセンティウスがコンスタンティヌスと対決するも、敗れ戦死した。一方313年、東方副帝マクシミヌス・ダイアは西方正帝リキニウスと対峙し敗れ、この世を去った。
324年、コンスタンティヌスは最後にして因縁であった敵リキニウスを倒し、「唯一の正帝」を宣言。こうしてローマ帝国は、再び1人の皇帝が統治する国家となった。
コンスタンティヌス朝 (A.D. 324 - A.D. 363)
アウグストゥスから五賢帝の時代にかけて、輝かしい姿を見せていたローマ帝国。しかしセウェルス朝末期に元首政の限界を露呈し、軍人皇帝の時代に決定的に弱体化、テトラルキアの時期には東方的色彩に染まってしまう。
元首政はまだ共和制の延長線上に存在したが、この頃のローマ帝国にはもはや、中央集権化された専制君主制がしっかりと根付いていた。帝国の変質は続くのだが、その決定打となるのが、この第五王朝たるコンスタンティヌス朝である。ローマ帝国幾度目の内乱、それを制したコンスタンティヌスにより、ローマ帝国はどんどん新しくなっていく。
帝国再編
全ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1世(324年 - 337年)により、再び1つの王朝による時代が幕を開けた。
コンスタンティヌス帝は、ディオクレティアヌスの改革路線を継承し、専制君主制をより強固なものとした。
その結果、ローマ帝国は4道、12管区、多数の属州という行政区に再編され、改めて軍政と民政が分離された。軍は皇帝直属の軍(コミタテンセス)と国境軍(リミタネイ)に二分された。この頃ゲルマン人の入隊者が増加していたが、彼らはしだいに、指揮系統の頂点にある軍務長官(マギステル・ミリトゥム)に就くようになる。
キリスト教公認とその背景
しかし何もかもがディオクレティアヌス治世期と同じというわけではない。特にキリスト教徒への待遇がそれである。
この頃、帝国各地の街道では無償で手当てをしてくれる施設――キリスト教の教会が増えていた。見返りもなく治療をしてくれるキリスト教の教会は話題となり、そこに立ち寄った者や、その話を聞き訪れた者の多くは感謝からキリスト教徒へと改宗していった。
そうした背景もあり、コンスタンティヌス帝は国内秩序を安定させるために、313年、ミラノ勅令でキリスト教を公認した。さらに、キリスト教の教会に多くの免許状を与え、財政上でも援助し、ローマ帝国のキリスト教化を推し進めた。
- 余談だが、これらの教会への特権付与が後々キリスト教の総主教区である五本山(アンティオキア・アレクサンドリア・ローマ・イェルサレム・コンスタンティノポリス)の主教権拡大に繋がり、さらにはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の対立にも結び付く。
このキリスト教化こそが、とくに非キリスト教圏で物議を醸す点である。様々な意見があるだろうが、ここではキリスト教化のメリットを挙げておく。
キリスト教が帝国公認の教えとなった以上、秩序のためにもその教義は統一された方が望ましい。そういった事情から、コンスタンティヌス帝は325年にニカイア公会議で教義を再確認し、「神は子と聖霊の性質も併せ持つ」という、三位一体説のアタナシウス派を正統とした。否定されたアリウス派についてはもはや何も言うまい。
- コンスタンティヌス帝がキリスト教を帝国の公認宗教とし、地中海およびヨーロッパ世界でその居場所を確立したことは、後世のヨーロッパ史がキリスト教徒の側から記録されることを意味する。したがって、当然ながら彼はキリスト教徒の間ではコンスタンティヌス大帝と称される(宗派により呼称はやや異なるが省略)。
遷都――「新たなローマ」
コンスタンティヌス帝はまた、バルカン半島の東端であり、黒海と地中海を、そしてアジアとヨーロッパを繋ぐゆえ貿易がおいしい都市ビザンティウムを新たなローマとし、遷都した(330年。もちろん帝国の中心が東方へと偏っていたためである)。その都市の名称は自分の名前にしたかったので、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改名した。コンスタンティノポリスはキリスト教公認後の新都市であったため、必然的にキリスト教の最初の都市ともなる。
キリスト教化に遷都、とローマ帝国を完全に別物へと変えたコンスタンティヌス1世。
専制君主制、キリスト教の公認、そしてコンスタンティノポリスへの遷都という3つの要素が完全に出揃ったことから、この時代からの東方を中心としたローマ帝国を、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と呼ぶことができる。
再び分割へ
337年にコンスタンティヌス1世が亡くなると、ローマ帝国は彼の息子3人に分割統治された。
しかしそれも長続きせず、長男コンスタンティヌス2世は三男コンスタンス1世に殺される。350年にはガリア将軍の反乱が起こり、三男コンスタンス1世も殺害される。351年、最後に残った次男コンスタンティウス2世は、弟の敵討ちとしてその反乱を鎮圧し、件のガリア将軍を自決に追い込んだ。
単独皇帝となったコンスタンティウス2世は、例の如く帝国の単独統治に限界を感じ、甥のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(通称ユリアヌス)を副帝(カエサル)に任命、西方の統治を任せた。
異民族撃滅戦
357年、副帝ユリアヌスはゲルマン人の一派であるアラマンニ族討伐のため、ガリア軍を率いて東進した。目指すは現ドイツ、ゲルマニア。ユリアヌスはイタリア軍と連携をとり、自身が動かすガリア軍でゲルマニアを西から、イタリア軍を北上させ南から、つまり挟み撃ちをしかける腹積もりであった。
しかしイタリア軍は途中で敗北し、ユリアヌスのガリア軍と合流できなかった。これで30,000ものアラマンニ族に対し、ユリアヌスは13,000のガリア軍で戦わなければならなくなった。
357年の8月、ユリアヌスのガリア軍は現シュトラスブールのアルゲントラトゥムにてアラマンニ族と激突した。
戦闘開始とともに、ローマ軍の右翼、騎兵部隊が敵のゲルマン騎兵に撃退される。またローマ軍中央は楔形陣形のアラマンニ族歩兵にやられ、歩兵の第一戦列を喪失した。だがローマ軍の第二戦列は盾を構え奮闘、アラマンニ族歩兵の突撃を耐えた。一瞬の時間を許されたユリアヌスは、開幕早々バラバラになった右翼騎兵隊を再編成し、反撃を指揮。騎兵をそのまま、ローマ軍左翼が発見した敵の伏兵へと送り込み、撃退に成功する。アラマンニ族が敗走を始めると、ローマ軍の追撃が逃亡する彼らをライン河へと突き落としていった。
3世紀以降、ローマ帝国では騎兵が重視されてきたが、この圧倒的な勝利は歩兵によるものだった。
副帝ユリアヌスはその後もフランク族の平定に成功し、ローマの同盟軍(フォエデラティ)としてライン地方に定住させた。これは軍事力の強化以外にも、農耕の開拓を推進するためであった。これにて一旦、ライン河方面の平安が約束されたのである。
背教者ユリアヌス
そもそもユリアヌスは、ギリシア古典ばかりを勉強していた哲人であった。将来の夢もその道であったが、伯父のコンスタンティウス2世の要望で、無理やりに副帝とさせられたのである。しかし彼は意外な才能を発揮し、異民族撃退に大きく貢献した。ローマ帝国にとりそれは、あまりに大きな副産物であろう。
いつしかユリアヌスは、正帝コンスタンティウス2世よりも兵士から信頼されていた。361年、ついに兵士たちはユリアヌスを「正帝」と宣言し担ぎ揚げた。が、コンスタンティウス2世が病死したため内乱は起こらない。正帝の座は藪から棒にユリアヌスへと移ったのである。
当時、ローマ帝国ではキリスト教化が本格化していたが、ユリアヌスは即位後、自身の著書でキリスト教を批判し、ローマの神々に対する信仰を取り戻そうと試みた。「背教者」誕生である。もっともユリアヌスは、急速に変わりゆくローマ帝国に対し、どこか悲しんでいただけなのかもしれない。
コンスタンティウス2世の病死により中断されたペルシャ遠征。敵の王はシャープール2世。ユリアヌスはこれを引き継ぎ、60,000の大軍を二手に分け挙兵した。大軍はティグリス河とユーフラテス河に沿って進む。そしてタイミング良く合流する予定だった。……しかし363年、作戦は失敗し、ユリアヌスは志半ばで戦死してしまう。伝承によると、彼はこう言い残したという。
それにしても、キリスト教徒の皇帝に始まる王朝の最後が、アンチ・キリスト教の皇帝とは、なんとも皮肉な話である。
ウァレンティニアヌス朝 (A.D. 363 - A.D. 392)
ユリアヌス帝が没すると、将校ヨウィアヌスが新皇帝に選出された。ヨウィアヌスのもと、ローマ帝国とササン朝ペルシャ帝国との間には平和条約が締結されるが、それは、ローマ側がティグリス以東の領土といくつかの主要都市を割譲するという、屈辱にほかならないものだった。ユリアヌス帝の努力が報われぬ結果となったが、それでも、ローマ帝国には502年までの東方の平和がもたらされた。
ゲルマン人の大移動
ヨウィアヌスがわずか在位8ヶ月で亡くなると、将校団の推戴により、ウァレンティニアヌスが新帝となった。彼はゲルマン人と本腰を入れて戦うべく、首都をアウグスタ・トレウェロルム(現トリーア)とした。ウァレンティニアヌスも例に漏れず、帝国統治を複数人で行おうと考える。そこで彼は、弟のウァレンスを共治帝として東方を任せた。また18歳の息子グラティアヌスを、自身の統べる西方の副帝とした。
そこまでなら何も問題はなかったのだが、375年にウァレンティニアヌスが死去すると、トラキア軍がたった4歳の彼の息子ウァレンティニアヌス2世を皇帝と宣言したのだった。
これでまたローマ帝国は3人の皇帝が治める国家となったが、奇しくもこの時代、ゲルマン人の大移動が始まろうとしていた。376年、西進するフン族の波に押され、西ゴート族がドナウ河付近に現れ、ローマ帝国へ保護を求めた。西ゴート族は武器の引き渡しを条件に渡河を許された。
腐敗と失態
しかしローマ帝国の役人たちは腐りきっていた。役人は、フン族から避難してきた西ゴート族に対し、約束していた食糧などを勝手に横領、さらには高額で押し売った。
さすがの西ゴート族もそこで堪忍袋の緒が切れて、武器を再び手に取り蜂起する。これに周辺の小作農や奴隷、脱獄兵らが加わり、またアラン族など他のゲルマン人も同調し、乱が雪だるま式に膨らんでいく。東帝ウァレンスは慌てて鎮圧に向かい、西帝グラティアヌスも救援のため急いで駆け付ける。
しかし西ゴート族の指導者フリティゲルが講和を申し出たにもかかわらず、東帝ウァレンスはこれを破棄。しかも西帝グラティアヌスの合流も待たず、単独で反乱の鎮圧に当たろうとしていた。
ハドリアノポリスの大敗
378年8月、東方正帝ウァレンスの軍はハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊で西ゴート軍を発見した。
馬車を並べ円陣を組むゴート歩兵へ向けて、ウァレンスの軍は攻撃を始める。しかしウァレンスの指揮能力の無さが露見し、不意打ちには失敗、ウァレンス軍は時間を大きく損失してしまう。その隙にゴート側に主力の騎兵が戻り、ウァレンス軍の側面に大打撃を加えた。ウァレンス軍の騎兵と後衛部隊は四散し、残された軍は西ゴート軍に包囲された。まもなくウァレンス軍は四方八方から攻められ壊滅、兵数が3分の2にまで減少した。そして最後に、ウァレンスが逃亡するが、その先の小屋で火をかけられ焼死したのだった。まさしく惨敗である。
不意打ちを仕掛けてこの大敗――これを機にローマ正規軍は壊滅的損失を被り、ローマ帝国の没落はいよいよ決定的となった。
ゲルマン人の時代へ
西帝グラティアヌスは、ヒスパニア出身の名将テオドシウスを次の東帝とした。のちにキリスト教を国教とする、テオドシウス1世である。
382年、テオドシウスのもとローマ帝国は西ゴート族との講和に成功する。またテオドシウスは彼らをトラキアに定住させ、年金支給と引き換えに傭兵として雇った。当時、ローマ帝国では人口が減少していたので、徴兵し時間をかけて訓練するよりも、こうして即戦力を得た方が、はるかに得策だったのである。この政策は、小作人を兵として取られたくない大土地所有者や、文官や司教を目指す多くのローマ市民に広く受け入れられた。こうしてローマ軍の主力はゲルマン人にとって代わられていくのである。
そして次世代へ……
領土を4つに分けたり、キリスト教を認めたり、と色々妥協をして生計を立ててきたローマ帝国だが、4世紀後半にもなると諸々のガタが来た。
帝国は移民に荒れ狂い、古代ローマからの宗教も否定し、そうして真っ二つに分割された。
東ローマ帝国の初代皇帝はアルカディウス。西ローマ帝国の初代皇帝はホノリウス。二人ともテオドシウスの息子。共に父親頼みの超無能。
他方、東ローマ帝国はその後独自の文化を開花させ、ギリシャチックなローマ帝国として、1453年までの約1000年間におよぶローマの栄光を実現する。東ローマ帝国は9世紀に入るまでヨーロッパ唯一の「帝国」であり続け、先進文化圏としての地位にあり続けた。また、東欧世界の成立に深く関与し、その土台となる。
他にも800年のカールの戴冠や、962年のオットーの戴冠によって西ローマ帝国の後継者(という設定)である神聖ローマ帝国が現れた。神聖ローマ帝国はローマの権威や文化を継承し(たつもりらしい)、ローマ帝国とカトリック教会、そしてゲルマン民族による独自の文化圏を形成し、西欧の前身となった。
ローマ帝国は滅んでも、その遺産は欧州の財産として残り続けるのだろう。
ローマ帝国の後継者たち
ローマ帝国、ないしその後継者を自称した国家は少なくない。ここではその代表的な例をまとめることとする。
- 西ローマ帝国
- 東ローマ帝国 / ビザンツ帝国・・・395年の分割後の東側。ギリシアやエジプトなどのヘレニズム文化の遺産、オリエントの経済基盤を持つことから、西側よりも長生きした。キリスト教化された、ギリシアチックなローマ帝国。
- フランス帝国・・・ボナパルト朝。ナポレオン・ボナパルトによる。神聖ローマ帝国にとどめを刺した張本人。皇帝を国民に選ばせるという点においては、ローマ帝国か。建前でも、一度は三頭政治体制になっているあたり、ナポレオン本人もカエサルを意識していたのではないかと思われる節がある。然し、一度目は悲劇だが二度目は喜劇だった。甥っ子もゲルマン人に負けたし。
- イタリア王国・・・ローマを持ち、本土はイタリア、我こそはローマ帝国の後継者、ローマの栄光を現代にと、ドゥーチェが頑張ったが第二次世界大戦で敗戦。
- アメリカ合衆国・・・ローマ帝国をもとに出来たらしい……らしい。一応、合衆国大統領には元首政期のローマ皇帝の面影が見られる。
めちゃくちゃ多い……。
なお、この中でローマ帝国からの正統な連続性を有しているのは、すなわち正式な継承国は東ローマ帝国と西ローマ帝国のみである(395年の分割統治)。神聖ローマ帝国は西ローマ帝国を、ロシア帝国は東ローマ帝国の後継をそれぞれ自称したが、当然ながらそれら2国のローマ帝国からの連続性は皆無である。
このように後継を称する国が多いのは、ひとえにローマ帝国が偉大であったからであろう。
帝政期の年表
年 | 出来事 |
---|---|
前241年 | 第一次ポエニ戦争終了。ローマのシチリア支配が確定する ローマの帝国化が始まる |
前44年 | ガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官就任 |
前27年 | オクタウィアヌス、元老院から「アウグストゥス」の称号を得る これにより、帝政が成立する(ユリウス=クラウディウス朝) |
19年 | ヒスパニア(イベリア半島)遠征が完了 |
8年 | ティベリウス(後の第2代皇帝)、ゲルマニア(現ドイツ)に遠征 |
6年 | ティベリウスがスカンブリ族を除く全ゲルマン人を征服する |
後6年 | ユダヤを直接統治下に置く |
14年 | ティベリウス帝即位 |
41年 | カリグラ帝が暗殺される |
43年 | ブリタニア遠征 |
54年 | クラウディウス帝が暗殺される |
61年 | ブリタニアの反乱 |
64年 | 首都ローマで大火災が勃発 |
66年 | 属州ユダヤで反乱勃発 |
68年 | ガリア総督ウィンデクスの反乱 ネロ帝が自害し、ユリウス=クラウディウス朝が断絶する |
69年 | 各地で軍団が蜂起し、内乱へ突入(69年の内乱) |
70年 | フラウィウス・ウェスパシアヌスが内乱を終息させる フラウィウス朝の成立 |
79年 | ウェスウィウス火山噴火、ポンペイ大炎上 |
89年 | ゲルマニア総督サトゥルニヌスの反乱 |
96年 | ドミティアヌス帝が暗殺され、フラウィウス朝が断絶する ネルウァ帝が元老院により即位し、ネルウァ=アントニヌス朝と五賢帝の時代へ突入 |
101年 | ダキア戦争勃発(~106年) |
106年 | トラヤヌス帝、ダキア戦争を平定する |
114年 | トラヤヌス帝、東方遠征を開始 |
116年 | トラヤヌス帝によりメソポタミア全土を獲得 |
122年 | ハドリアヌス帝がブリタニアに遠征し、長城を建設する(ハドリアヌスの長城) |
161年 | マルクス・アウレリウス帝が即位 |
192年 | コンモドゥス帝が暗殺され、ネルウァ=アントニヌス朝が断絶し、再び内乱期となる |
193年 | セプティミウス・セウェルスが内乱に勝利し即位、セウェルス朝が成立する |
217年 | カラカラ帝が暗殺される |
222年 | ヘリオガバルス帝が暗殺される |
235年 | マクシミヌス・トラクスの即位により、軍人皇帝の時代が始まる |
259年 | ローマ皇帝ウァレリアヌス、ササン朝ペルシャ帝国の捕虜になる(エデッサの戦い) |
260年 | ローマ帝国領内でガリア帝国とパルミラ王国が独立する形で成立 |
273年 | アウレリアヌス帝がパルミラ王国を滅ぼし、ローマ帝国領に統合する |
274年 | アウレリアヌス帝、ガリア帝国を滅ぼしローマ帝国の領土を完全回復させる |
284年 | ディオクレティアヌス帝即位、軍人皇帝の時代が収束し、政体が専制君主制(ドミナートゥス)に代わる |
286年 | ディオクレティアヌス帝、マクシミアヌスを「共治帝」として西方正帝とする |
293年 | テトラルキアが本格的に始まる |
313年 | テトラルキアが瓦解し始める 西方正帝コンスタンティヌス、ミラノ勅令によりキリスト教を公認 |
324年 | コンスタンティヌスが単独皇帝となり、コンスタンティヌス朝が成立する |
325年 | ニカイア公会議、アタナシウス派が正統とされアリウス派が異端とされる |
330年 | コンスタンティヌス帝、コンスタンティノポリスに遷都 |
332年 | ゴート族を降服させる |
363年 | 「背教者」ことユリアヌス帝が没し、コンスタンティヌス朝が断絶する |
364年 | ウァレンティニアヌス1世即位、ウァレンティニアヌス朝が成立 |
378年 | ハドリアノポリスの戦いでゴート族に敗れ、ウァレンス帝が殺害される |
392年 | ウァレンティニアヌス2世が没し、ウァレンティニアヌス朝が断絶する テオドシウス1世により、キリスト教が国教になる |
394年 | テオドシウス1世、ローマを再統一 |
395年 | テオドシウス1世が死亡し、ローマ帝国が東西に分裂 西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれる |
410年 | 西ゴート王アラリック、イタリアへ侵入しローマを荒らす |
411年 | ブルグント族がライン川左岸地域に王国を建国 |
415年 | 西ゴート族がイベリアに王国が建国 |
435年 | ヴァンダル族がアフリカに王国を建国 |
451年 | アッティラ率いるフン族を撃退する |
455年 | ヴァンダル族のローマ占領 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の死去により、西ローマのテオドシウス朝が断絶 |
457年 | 東ローマでもテオドシウス朝が断絶する |
476年 | ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ帝国が滅亡する |
480年 | 最後の西ローマ皇帝ユリウス・ネポスが暗殺される |
486年 | 最後の西ローマ帝国領域であったソワソン管区がクローヴィス率いるフランク族(後のフランク王国)により征服 |
529年 | 『ローマ法大全』の編纂(~533年) |
532年 | 首都コンスタンティノポリスでニカの乱が勃発、ササン朝ペルシャ帝国と「恒久平和条約」を締結する |
534年 | ヴァンダル王国を滅ぼす |
552年 | イベリア半島南部へ進出 |
555年 | 東ゴート王国を滅ぼす |
568年 | ランゴバルド族がイタリア半島に進出ユスティニアヌス大帝の再統一事業と合わせてイタリアは荒廃する ローマの人口減少と元老院の消滅で、古代ローマの構成要素が失われる |
628年 | ヘラクレイオス帝、ササン朝ペルシャ帝国を破る |
636年 | イスラム軍に敗北 |
726年 | レオン3世により聖像破壊運動が始まり、西方教会との対立が深まる |
740年 | アクロイノンの戦いでイスラム軍に勝利 |
796年 | 初の女帝エイレーネーが即位 |
800年 | フランク王カール(シャルルマーニュ)、西ローマ皇帝として戴冠 |
962年 | ドイツでオットー1世が即位し、神聖ローマ帝国が完全に成立する |
1014年 | 第一次ブルガリア帝国を滅ぼす |
1071年 | セルジューク朝トルコに敗北 |
1095年 | アレクシオス1世の要請により、教皇ウルバヌス2世がクレルモンの公会議を開く(十字軍の結成) |
1204年 | 第四回十字軍により、東ローマ帝国が滅亡する |
1261年 | 亡命政権ニカイア帝国により、東ローマ帝国が復活 |
1453年 | オスマン帝国に敗北し、ローマ帝国が完全に滅亡する |
1460年 | 東ローマ帝国の残存領域、ミストラ及びモレアス専制公領がオスマン帝国に降伏 |
1461年 | 亡命政権トレビゾンド帝国、オスマン帝国により滅亡 ローマに由来とする国家が全て滅亡 |
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