ローラット法(Rowlatt Act)とは、1919年に発布された英領インド帝国の法律である。正式名称は「無政府・革命分子犯罪取締法(Anarchical and Revolutionary Crimes Act)」で、ローラットとは法律制定に関わったシドニー・ローラット率いるローラット委員会の名称にちなんでいる。
背景
1877年より、イギリスはイギリス国王が皇帝を兼任する英領インド帝国を建国し、インドを従属国として支配していた。
1885年にはインド国民会議が結成され、当初はインド人に対する差別的な取り扱いを改善しようとするイギリスの官僚や、インド出身の議員なども立ち上げに関わった穏健な集まりで、インド人の権利の拡大、政治参加を進める改革などを検討する目的を持ち、イギリス本国からも不満の受け皿となることを期待されていた。
しかし、19世紀末には、「スワラージ(自治)」を提唱するバール・ガンガーダル・ティラク、後に武装集団ジャガンター党を率いるオーロビンド・ゴーシュなどの急進的な人物の影響が強まっていき、また、活動内容も民族主義的な、ヒンドゥー中心のものとなっていった。
人種差別に反対するスレンドラナス・バネルジーを筆頭とする穏健派、ティラク率いる急進派によって、20世紀初頭には国民会議は分裂状態になっていたが、1906年にティラクが逮捕されると、穏健派が主流派となり、再び国民会議はまとまったかに見えた。
同年、総督であるミントー卿ギルバートの後押しもあり、ヒンドゥー中心の国民会議に対抗する形で、全インド・ムスリム連盟が結成された。これは、ベンガル分割により、おおまかにムスリムを中心とする州とヒンドゥーを中心とする州に分割されたことに対し、少数派であったムスリムが多数派となる州ができることを歓迎するムスリムと、それをよしとしないヒンドゥーの対立を利用するものであった。
そして1914年から第一次世界大戦が始まる。インドの民族主義指導者は、イギリス支持を掲げ、インドからは100万人以上が徴兵に応じ、戦死した。国民の間にも戦後独立できるのではないかという期待感が高まっていた。
戦争で混乱したイギリス経済の煽りを受ける形で、インド国民はインフレ、重税、貧困に苦しむこととなり、事前の期待感も相まって、独立運動は大きな盛り上がりを見せる。
1916年、刑務所から出所したティラクは、分裂は独立の足かせになると説き、全インド・ムスリム連盟との協力体制を構築することに成功した。全インド自治同盟には、アイルランド独立運動を支えたマルクス主義者であるアニー・ベサントなど、イギリス人も参加していた。
この事態を重く見たイギリスは、1917年、インドの即時独立は認めず、漸進的に自治権を拡大していくとするモンタギュ宣言を発表したが、独立活動家には到底受け入れられるものではなかった。
過激派は、民族指導者や独立活動家の裁判に関わる判事の暗殺、誘拐、襲撃や、陪審員への暴行、脅迫を繰り返し、これに対し、背景に組織的な武力集団が存在するとしてこの法律が発布されることとなった。
概要
上記のようなテロ事件の頻発に対し、破壊活動の容疑者については裁判所の令状無しでの逮捕や、裁判を経ない最長で2年の投獄、あるいは陪審員をおかず判事によって裁かれる裁判などを可能とするのがこの法律である。
発布後、パンジャーブ州では大規模な暴動が起こり、銀行、駅、教会、電話局などが襲撃を受け、放火される、金品を強奪されるなどした上、十数人のイギリス人が殺害された。
また、過激派はアフガニスタン政府に接触し、暴動の混乱に乗じてインドに侵攻するよう要請し、実際にアフガニスタンによるインド攻撃が行われた。
パンジャーブ州での暴動に対し、アムリットサルでは、グルカ兵を中心としたイギリス植民地軍が非武装の集会まで攻撃する事件(アムリットサル事件)が発生し、攻撃を命じた指揮官は降格の上罷免処分などを受けたものの、この事件反英感情が大いに盛り上がるきっかけとなった。
この法律は、植民地政府内でも批判が多く、発布はされたものの、実際に施行されることはなかった。
アムリットサル事件や、その原因となった暴動などを受け、1919年からインドに帰国していたガンディーの率いる非暴力活動は民衆の支持を集めていくことになる。
関連項目
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