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ヴィクトリア女王(Victoria、在位1837~1901)とは大英帝国の女王、インド女帝である。
ヴィクトリアの治める19世紀のイギリスは全陸地の1/4を支配し、人類の歴史上もっとも巨大な帝国となった。その領域はかのモンゴル帝国をも上回る。
ネットスラングでいうところのブリカスの領袖。イギリス史上最も長い治世を誇っていたが最近、玄孫のエリザベス2世に抜かされた。
治世
即位当初
イギリス史にはイングランド王国時代を含めるとメアリ1世、エリザベス1世、メアリ2世、アン女王と女王が多い。その5人目に名を刻んだのがヴィクトリア女王である。古今東西、王位相続には血なまぐさい後継者争いがつきものであり、特に女性が即位するとなると親戚が出しゃばってくるのがよくあることだ。上記のメアリ1世もエリザベス1世も対抗馬を処刑している。
しかし19世紀ともなれば継承も安定している。イギリスの王室は基本は年長の男子が優先されるが女子継承も認めていた。時の王であるジョージ4世(ヴィクトリアの叔父にあたる)には子はなく、その兄弟のいずれにも嫡子となる男子はいなかった。ジョージ4世の後に弟のウィリアム4世が即位し、さらにその後に姪のヴィクトリアにお鉢が回ってきた。ヴィクトリアの父のエドワードは彼女の生後すぐに亡くなっていたが、叔父たちはヴィクトリアは可愛がった。ただし叔父たちはヴィクトリアの母ヴィクトリア妃のことは嫌っていたようだ(ヴィクトリア女王の母親の名前もヴィクトリア。ヴィクトリア女王の娘の名前もヴィクトリアである。ややこしい)。
イギリスは歴史的に爵位貴族(貴族院議員)や地主層のジェントリ(下位議員)から構成される議会の力が強く、英王はスルタンや中国皇帝のような専制君主にはなりえなかった。それでも王には国王大権が与えられ時にその意思で政権の人事を操ったり、外国に宣戦布告を行ったりと国家の中枢業務を担っていた。とはいえ即位当初18歳のヴィクトリアにはまだ政治の知識は乏しく、ホイッグ党のメルバーン首相に助言を貰いながら国を導いていた。
1850、60年代
史上のイギリス王の中は政治に興味のない者もいたが、ヴィクトリアは積極的に政治に参画していく女王であった。性格はなかなか好戦的でクリミア戦争(1853〜1856)でセヴェストポリ要塞が陥落して欧州が一息ついて講和を考えていたとき、ヴィクトリアは1人ロシアをさらに叩きのめそうと息巻いていたり、インド大反乱(1857~1858)が勃発した際に、政権にあったピール首相が出兵を渋ったのに対して叱咤を与えて大軍をインドに送っている。
女王の夫は1840年に結婚していた従兄弟のアルバートである。ヴィクトリアは夫との間に9人の子(4人の男子と5人の女子)を儲けている[1]。アルバートは英邁であり政治にも積極的に関わっていたが国民からの人気が低く、反逆罪でロンドン塔に囚われたとデマが流れるほどであった。体も太っていて健康でなく、1861年に腸チフスで42歳の若さで亡くなってしまった。夫が亡くなったあと彼女は長く喪に伏し王の責務を滞らせたため世間から批難された。
実は夫が亡くなってからもヴィクトリアは責務を放ってサボタージュしていた訳ではなかった。ヴィクトリアは勢力拡大を続けていた仏帝ナポレオン3世とプロイセンのビスマルクの動きにパーマストン首相とラッセル外相に諮りながら介入していたのだが、彼女はバッキンガム宮殿でなく南沖のワイト島やスコットランドなどロンドンでない場所で政務を執っていたため国民からはその仕事が見えなかったのだ。
1867年には第二回選挙法改正によって都市部の男性労働者に選挙法が与えられ民主主義の機運が高まると「もはや王室は不要だ」との共和政推進運動が起こった。1970年の普仏戦争によってフランスの帝政が崩れ共和政に移行するとその声はさらに大きくなった。ヴィクトリアはその運動を抑えるため約10年ぶりに再び国民の前に姿を表すようになり、1971年に皇太子のエドワードが難病から回復する朗報に国民が大いに喜んだのをきっかけに王室廃止論はなりを潜めた。ちなみに復帰したヴィクトリアが一番最初に謁見した外国使節が我が国の岩倉使節団であった。
1870、80年代
1870年代のヨーロッパはかの鉄血宰相の名をとってビスマルク体制と呼ばれていたが、たかがプロイセンごときが欧州で大きい顔をするなと女王はこれを苦々しく思っていた。捲土重来を目指すフランスも着々と富国を図り、国力はイギリスを追い越さんと意気込んでいる。一番油断ならないロシアは隙あらばトルコに攻撃を仕掛け南下を狙っていた。ヴィクトリアは大英帝国の矜持を守るために国際社会にその存在感を示さなければいけなかった。
1875年にエジプト太守がスエズ運河の株式を売りにだしたとき、議会が休会していたため首相ディズレーリはロスチャイルド家になんと「イギリス政府」を担保にして400万ポンドの大金を借りた。この件は、そのような膨大な金を即金でポンと出せるイギリスの実力を世界中に知らしめることとなった。また同年には支配下においていたインドを帝国化しヴィクトリアはイギリス女王とインド皇帝を兼ねることとなった。彼女はロシアやドイツに負けないように王より上の「皇帝」の名前がどうしても欲しかったようだ[2]
1877年に始まった露土戦争のサン・ステファノ条約によってロシアの南下が進もうとしたとき、ヴィクトリアは宥和的に対応していたダービー外相をクビにして、オーストリアらと共にロシアに外交圧力をかけこれを防いだ。ついで今度は中央アジアから南下を狙ってアフガニスタンに使節を送っていたロシアと1778年に第二次アフガン戦争を戦っている。1779年には南アフリカのズールー王国との戦争が勃発した。広大な大英帝国は同時のその各地に火種を抱えることも意味する。ヴィクトリアはイギリスの権威を守るために帝国拡大政策を貫いたが、女王が過度に外交に掣肘を加えることは議員たちの反感を生んだ。
議員たちの積もり重なった不満と前年度から続く不況と不作によって、1880年に行われた総選挙ではヴィクトリアの望む政策を行っていたディズレーリ首相率いる保守党が大敗した。政権交代により反ヴィクトリア路線の最右翼であった自由党のグラッドストンが首相になった。女王は彼のことを「半分キチガイ老人」と呼ぶほどに嫌っていた。特に彼がアイルランド[3]に自治を与える方針を打ち出したことは女王を憤慨させた。62年と206日に渡って議員を務め、生涯26回も選挙に当選し、4度も首相になった怪物政治家グラッドストンは何度もアイルランド自治法案を議会に提出したが、ヴィクトリアの反対工作が功を奏して終ぞ通ることはなかった。
90年代と晩年
七つの海にまたがる大英帝国の女王として1887年に豪華絢爛な在位五十周年式典をあげたヴィクトリアであったが安穏としている暇は一時としてなかった。ブルガリアでは火種が燻り、1898年にはアフリカを横切ろうとするフランスと縦に切ろうとするイギリスが衝突し一触即発の状態となる(ファッショダ事件)。1899年にはボーア戦争(南アフリカ戦争)。1900年には極東で義和団事件が起こっている。
超一流国家として栄光ある孤立(splendid isolation)を貫いていたイギリスのヴィクトリアもやがてどこかの強国と協定を結ぶ必要性を感じ始めていた。選択肢は、それぞれ自分の孫が支配するロシアとドイツのどちらかになる。欧州では真逆に位置するがバルカン半島や中央アジアで争っていたロシアか、植民地戦争では対立が少ないが本国の近くで巨大化するドイツのどちらと結ぶかというイギリスの悩みは一次大戦まで続く。最初はドイツに傾いていた女王であったが、皇帝ヴィルヘルム2世が南アフリカでイギリス軍を打ち破ったクルーガー大統領に祝いの電報を送ったこと(クルーガー電報事件)が明るみにでてドイツを信用できなくなった。イギリスは結局は彼女の死後の1902年に日英同盟を結ぶこととなる。
80歳を超えてもなお壮健に働き続けていたヴィクトリアであったが1901年に体調を崩し1月22日に81歳で崩御した。最後の言葉は「まだ死にたくない。私にはまだ差配しなければいけないことが山ほどある」だったと伝えられる。彼女の死後、長男のエドワード7世が王として即位した。
関連項目
先代 | イギリス女王 | 次代 |
ウィリアム4世(William IV) 1830~1837 |
ヴィクトリア(Victoria) 1837~1901 |
エドワード7世(Edward VII) 1901~1910 |
脚注
- *彼女たちの孫の中には後の英王ジョージ5世、独帝ヴィルヘルム2世、露帝ニコライ2世の皇后であるアレクサンドラ・フョードロヴナが含まれている。彼らは1914年に第一次世界大戦で相争う仲となった。
- *ヴィクトリアの女帝即位に際してデリーでは盛大は大謁見式が開かれた。これを取り仕切ったリットン総督の長男こそがのちに満州事変の調査を行ったリットン調査団の団長リットン卿である。。
- *当時イギリスの植民地だったアイルランドで1880年に土地差配人のボイコット氏に対する農民の排斥運動が起こった。これによりアイルランド土地戦争が激化し、ヴィクトリアはアイルランドの土地改革を迫られた。このボイコット氏がボイコット運動の語源である。
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