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ヴィシーフランス
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ヴィシーフランス(仏語:gime de Vichy)とは、第二次世界大戦中の1940年7月10日から1944年8月9日にかけて存在した国家である。ヴィシー政権とも。

概要

第二次世界大戦中に立した独・反共を掲げるフランス国家の通称。公式文書から「フランス共和国」の名称が消された事で「フランス国家」が正式名称である。首都温泉のヴィシー

1940年6月25日ドイツ軍イタリア軍の侵攻により10万の兵士と2万の民間人を失ったフランス敗北を認め、ドイツに休戦を申し入れた。評議会議長であるフィリップペタ元帥に全権限を与える憲法改正案が国会で可決され、彼を首班とした新政府立、既に老齢だったペタンは湯治を行う的で首都フランス中央部アリエ県の温泉ヴィシーに置いた。この事からヴィシーフランスと呼ばれる。アメリカカナダ中華民国ソ連オーストラリアといった40ヶがヴィシーフランスを正統な後継者と認め、国家承認を行った。

24箇条からなる休戦条約に従い、ロワールに北半分と大西洋沿ドイツに(面積土の5分の3に相当)、マルセイユを含む南西部イタリアに割譲され、ロワールより南の地域のみがヴィシーフランスの領土となった。また独占領軍の活動費はヴィシー政権の負担となり1日につき均4億フランに達し、軍隊も10万人以下に制限されるなど過酷な制約が課された。しかし海外植民地海軍の艦艇はヴィシー政権管轄となった他、閣僚は全員フランス人でドイツの傀儡国家には成り下がっておらず、むしろこれだけの出血で滅亡の危機から独立権を守り抜いたペタンは民から英雄視されている。このためヴィシーフランスは独の態度こそ取ったが枢軸営には参戦せず中立の立場を貫いた。ドイツに倣ってユダヤ人の追放を推進し、義務協力労働に基づいて若い男性を労働力として提供、多くの物資や資金を供出するとともに東部戦線反共義勇軍の派遣を行うなど、多種多様な面で対独協力を実施する。時にはドイツ軍治安部隊と協力して内のパルチザン掃討やユダヤ人の摘発も行った。

ヴィシー政権立後は混迷期だった事もあって、海外植民地に取り残されたヴィシーフランス軍にはイギリス軍と合流して再びドイツと戦う選択肢が残されていた。ところが、接収に応じようとしたヴィシーフランス艦隊を英地中海艦隊が攻撃するというイギリスの不義理(メルセルケビール海戦)を受け、兵1297名が死亡。これに激怒したヴィシー政権はイギリスとの断交を発表、独自に英領ジブラルタル爆撃したり、ダカール戦では劣勢にも関わらず敵愾心の強さでイギリス艦隊と自由フランス軍を撃退するなど関係は最悪レベルにまで冷え込んだ。1941年6月22日に行われたドイツ軍バルバロッサ作戦をヴィシー政権が支持した事でソ連とも断交している。ちなみにオーストラリアはヴィシーフランスと自由フランス、双方と交を結んでいた。

本来ヴィシーフランスは大戦には参加していない中立なのだが、自由フランスの意向を受けた英軍によって世界中の植民地を攻撃され、マダガスカルなど一部では戦闘も起きている。また大日本帝國とは双方合意の上でインドシナ進駐を認めた。1942年11月、トーチ作戦によってアメリカ軍が北アフリカのヴィシーフランス領へ上陸し、カサブランカアルジェリア、オラン、モロッコ攻略される。予想よりいヴィシーフランス軍20万の降ドイツ軍は現地軍総司令官フランソワダルラン元帥の内通を疑い、制裁としてアントン作戦を発動。ヴィシーフランス本の領土を占領して全に独の支配下となった。

1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦で遂にヴィシーフランスも戦火に巻き込まれる事となる。ヴィシー政権は中立の立場から「々は戦争に参加していない」と表明するが、内にドイツ軍がいた事で戦闘が発生。8月9日事実上の消滅を迎えた。8月25日パリを奪取された後、政府関係者やその家族ドイツ南部シグマリンゲンへ亡命。そして1945年4月21日、そのシグマリンゲンにも連合軍が出現し政府関係者は散り散りになって逃走。ここにヴィシーフランスは終焉を迎えた。

樹立まで

切り捨てられるフランス

1939年9月3日ドイツ軍ポーランド侵攻を受けて英連合軍はドイツに対し宣戦布告第二次世界大戦が勃発する。しかしドイツ軍は非常に精強であり、デンマークノルウェーオランダベルギールクセンブルクが次々に降、そして1940年5月25日からはフランス本土への侵攻が始まった。対独戦頼みの綱だったマジノ線回され、第一次世界大戦の傷が癒えていないフランス軍は各地で連戦連敗、加えて勝ちに乗りたいイタリア軍の参戦や英に見捨てられるなどの要素が重なり、6月14日ドイツ軍パリを許した。この時点でフランスにはもう勝ちが残っていなかった。

パリを失陥する少し前の1940年6月11日パリ南方160kmのブリアールに置かれた総部で英会談が行われた。徹底抗戦首相レイノーの要請によりイギリスからウィストンチャーチル首相エドワードスピアー将軍部を訪れ、フランス側からはレイノー首相ペタ元帥ウェイガン総司令官、ドゴール陸軍次官、レイノーの随員2名が参加。19時より歴史的な英会談が始まる。絶望的戦況からかフランス側の重鎮は自信ありげなドゴールを除いて全員顔面であり、スピアー将軍はその時の様子を「まるで通のようだった」と述懐している。実際、フランス軍は6月5日以降の戦闘だけで25個師団を喪失し、空軍の稼働機は僅か約180機しか残っていないという有り様で、軍はもう限界に達したと結論付けられた。会談は翌12日まで続けられたが何の結果も出さないまま々に終了、6月13日午後に最後の首会談が行われ、フランス未来を決めるべくチャーチル首相フランスの首議論。続いて17時からルブラン大統領の宿舎で首会談が開かれるはずだったが参加予定のチャーチル路で帰してしまいバックレ。これにはさすがのレイノーも困惑し、フランスの閣僚たちは怒りのを上げた。急に時間が出来た彼らはジョルジュ将軍部へ赴いて戦況の確認を行うも、ここで最悪の報を受け取ってしまう事に。北フランス全に放棄、カーンツールロアール中部クラムシ・ディジョンドール・ドーブ森林の線まで後退して全力でドイツ軍を迎え撃つよう前日から命していたのだが、その最終防衛ラインが突破されたのである。これを受けてウェイガン将軍は「フランス決戦に敗れた」と意気消沈。政府に休戦を申し入れるようめた。

シャトー・ド・カーンジュの大広間で開催された閣僚会議ウェイガン将軍は休戦を、レイノー首相は北アフリカ亡命して最後まで戦うべきだとフィリップペタ元帥は「これ以上休戦を遅らせるのは犯罪に等しい」とウェイガン将軍の意見を支持し、ペタン以外の閣僚はレイノーの意見を支持した。この絶望的戦況をひっくり返せるのはアメリカの力しかないと考えていたレイノーは「フランス勝利しうるにはアメリカが直ちに参戦してくれる事しかない」と意見を表明。既に彼はルーズベルト大統領に対して2回の支援要請を送っていたが今度はもっと緊急な嘆願をすると述べた。

ところが当のアメリカ6月6日の時点で対独宣戦布告をしないと決めていたのである。ルーズベルト大統領欧州戦争に介入しないという約を掲げて当選したため手出しが出来なかったのだ。また、間違いなくフランス敗北するだろうからフランス行きの軍需品は全てイギリスに振り分けられ、全に見捨てられた格好となる。したがって6月14日(パリ失陥の日)にレイノーが再度軍事援助の要請をしてもアメリカ励を送る事しかせず、彼を落胆させた。徹底抗戦の急先鋒たるレイノーが弱ってしまったためこれを機に和一気に導権を握る。フランス民も相次ぐ敗戦から厭戦気分になっていて、民心は和に傾いていた。

休戦条約締結へ

6月14日明け、ドイツ軍先発隊がパリに入午前8時にはオートバイ兵に誘導された自動車部隊の縦列が南へ抜けるためにパリ通過していく。ほとんどのパリ市民ドイツ軍の入に気付かず、エッフェル塔ホテル公共建物には鉤十字の旗が翻っているのを見て初めて入に気付いたという。

パリを失ったため政府は使い勝手の悪いツール県庁からボルドーに移動。県庁、裁判所大学、商業会議所など使えうる建物を全て徴発して臨時首都となった。ボルドーには溢れんばかりの避難民が押し寄せており、政府が使える部屋を全て徴発したせいで舗の中で寝なければならない市民もいたという。彼らの間には「もうすぐ政権交代が起きて休戦が実権を握る」という噂がまことしやかに囁かれていた。政治家の中には新政府にすり寄ろうと閥を作り出す者も出る始末。現政権を見捨てようとする民衆を前にルブラン大統領危機感を募らせ、休戦の意向を固めた。英に見捨てられもなお、レイノー首相は北アフリカへの亡命を企図して抵抗を続けるべきだと。彼と対立する休戦ペタ元帥や閣僚は憤慨し、ペタ元帥に至っては辞表まで叩きつけたが、受理されず延期となった。戦況は絶望的で逆転のく、イギリス3月28日に締結された「単独講和しない密約」を行使させるために大した援助もしないくせにフランスを戦わせようとし、頼みの綱だったアメリカは動かない…。もはや閣僚たちはイギリスへの信頼を全に失っていた。レイノーのみイギリスを信頼していたが、閣僚から容赦のない非難を浴びせられた事で心がへし折れてしまった。彼は当時の事を「全く孤立援になった気がした」と述懐している。疲れ切ったレイノーペタンを後継者に名、自身はルブラン大統領に辞任を申し出るのであった。

6月16日レイノー内閣は解散。翌17日にフィリップペタン副首相元帥首相に就任し、ラジオを通じて休戦する旨をドイツ側に伝えた。ドイツ側から回答があったのは6月19日午前6時25分で、臨時首都ボルドーへ「フランス側の全権委員の氏名を伝えよ」と打電した。6月20日フランスの代表団は旗を掲げた10台のに分乗して移動を開始。避難民の波を掻き分けて、ロアールに到着。ここでドイツ軍の護衛を受け、翌21日7時にパリへ到着した。ヒトラー総統は、フランスにとって屈辱的な場を準備して待っていた。かつてドイツ第一次世界大戦に敗れ、降文書の調印式が行われたコンピエーニュの食堂車をわざわざ運び出して会場に使ったのだ。そして今度はフランスが降する番だった。近くにある第一次世界大戦の戦勝を祝した記念碑には、ドイツの旗がはためいていた。

6月22日18時50分、ドイツ軍代表のカイテル将軍フランス軍代表のウンツィージェ将軍が署名した事で休戦協定が結ばれた。48時間後にはイタリアとも休戦条約を結んだ。そして6月25日午前0時35分にドイツ軍が停戦命を出し、フランス敗北した。戦死者10万、負傷者12万、捕虜150万という血を流して…。ペタ首相独を強調し、かろうじて独立だけは守り抜いた。このため当時の民から権を守ったとして熱狂的な賞賛を受けた。7月1日、臨時首都ボルドーからヴィシーに移す。ヴィシーフランスのヴィシー首都の地名から取られている。ヴィシー自体は小さな温泉だが、ペタンは病気がちだったため湯治的で首都定したと言われている。ドイツにならってファシズム体制を敷いた。7月11日、ヴィシーフランスの国家席にペタ首相が就任した。

イギリスに脱出した徹底抗戦シャルル・ド・ゴール自由フランスを結成し、フランスは二つに分裂。しかしながら正当な国家として認められていたのはヴィシーフランスで、アメリカソ連からの承認を取り付けている。

ヴィシーフランス

独立権を守り切った代償に土は独に切り取られ、ドイツパリを含む北部とボルドーを含む南西部を占領。さらに北東部のアルザス、ロレーヌは併合された。イタリアマルセイユを含む南西地区を占領。わずかに残った中央部のみ自由区としてヴィシー政権の統治が認められた。実に土の3分の2を持っていかれた訳である。ロリアン、ブレスト、サンナゼールといった大西洋に面した要軍港は全てドイツの占領下に置かれ、Uボートの出撃拠点として機ドイツから出撃するよりかに狩り場の大西洋に行ける事から戦果拡充に一役買った。ボルドーはイタリアの管轄となり、潜水艦基地BETASOM(ベタソム)を設置。また極東方面に向かう封鎖突破空軍機の出撃拠点となった。地中海に面する南部の軍港トゥーロンにはヴィシーフランス艦隊が停泊していたためヴィシー政権下に留め置かれ、対独協力の一環で強力な防備が施された。その堅さたるや連合軍にからの侵攻を断念させるほどで、アントン作戦後はUボートの出撃基地となった。

ヴィシーフランスは休戦軍と呼ばれる軍を保持。3768名の士官、1万5072名の非正規将校、7万5360名の兵士が所属し、6万人の憲兵隊が付属。しかし植民地軍から兵士を供給したにも関わらず慢性的な人手不足に悩まされ、また体のフランス陸軍機械化が大幅に遅れていた事も手伝って戦車装甲車が不足していた。またレジスタンスの跳梁がしい南部には休戦軍を置かず、警察治安維持を行っていたが、1943年初頭に対レジスタンス眼に置いた民兵組織ミリス・フランセーズが結成されてからはミリスが担当した。総揮はシャルルノゲ将軍海軍揮はフランソウ・ダーラン大将空軍揮はジャンシャルル・ロマテ将軍が執った。ただ海軍の艦艇は敗戦時に脱出していたり、海外の領土に分散配置されていたため接収の手間を考えたドイツ軍はヴィシー政権に管理を一任。植民地軍の反乱を防ぐためにもヴィシー管轄にした方が良いという思惑もあった。なお、1942年11月に行われたドイツ軍アントン作戦の際に休戦軍は解体されている。

ヴィシーフランスは参戦こそしなかったが、対独協力の面では努力を惜しまなかった。当初ドイツで働く労働者ボランティアで募集していたが、志願者の数が少なかったため後に強制移送させる法案が可決。ドイツで働く労働者の15フランス人で占められた。最も多く労働者が送られたのはエッセンにあるクルップ社の巨大製鉄所であった。食糧面では内生産のうちは半分、農作物20シャンパン2%ドイツが徴収。たちまち店舗から品物が消え、物資不足から飢餓が蔓延し、政府から隠れて闇市場を開く者も現れたという。飢餓や物資不足が深刻だったのは大都市部で、農部や辺自給自足が可だったためか較的恵まれていた。フランス兵約200万人は強制労働者としてドイツに連行。戦死の危険こそかったが、残された80万人の妻は生活的に困窮し、10人に1人が売春婦をしていた。軍事面では約6000名の反共義勇軍が送られ、独ソ戦に参加したと言われている。

ヴィシー政権は「労働・家族祖国」というスローガンを掲げ、荒した土の再建に着手した。特筆すべき点は女性の地位向上に力を入れている所だった。人口の低下に悩まされていたヴィシーフランスは女性結婚出産を推進し、簡単には離婚できないよう法整備。女性のための組織を作ったり、母の日を挙げての祝日にしたり、子供を産めば産むほどボーナスを支払う事で困窮した生活から脱出できるようにするなど、とにかく支援した。その結果、1942年から出生率が向上。第一次世界大戦前の準まで回復してみせた。

ヴィシー政権に付き従った人間は大別して、消極的な対独協力で済ませようとする事なかれ義者(ペタンもここに含まれる)、ドイツの戦勝を確信して戦後秩序におけるフランスの地位を向上させようとした者(ラヴァルがこれ)、熱狂的なファシストの三種類に分かれる。

歴史

1940年

1940年7月1日、ヴィシーフランスが誕生。この事に頭を痛めたのは、かつての同盟であるイギリスであった。フランスの艦艇がドイツの手に渡る恐れがあり、また地中海への補給ルート上にあるメルセルビール泊地はの上のコブと言えた。このためイギリス海軍地中海艦隊をアレキサンドリアから出撃させ、メルセルビールに停泊中のヴィシーフランス艦隊に「対独戦の続行」か「自沈」か「艦の引き渡し」を要した。当初ヴィシー側が曖昧な回答をしたため時間が掛かり、夕刻になってようやく「艦の引き渡し」で決着したのだが、僅かに遅かった。事態の解決を急いだチャーチル首相が攻撃命を出してしまい、7月3日メルセルケビール海戦が生起。戦う準備をしていなかったヴィシー艦隊は一方的られ、一部はフランス南部のトゥーロンへ脱出したものの大打撃を受けてしまう。地中海艦隊は巡洋戦艦ダンケルクの健在を知り、7月6日に二度の襲撃をかけてダンケルクを大破着底させた。二度の戦で実に1297名のフランス人が死亡激怒したヴィシー政府イギリスとの断交を発表、報復として7月18日に英領ジブラルタルへの襲を認可する。襲によりイギリス軍に初めて死傷者が出たが、ヴィシー側にもためらいがあったのか爆弾は意図的に標の手前で投下され、大した被害は与えられなかった。政権内からは「全力でイギリス軍を攻撃すべき」という過も上がったものの、ペタンの取り成しによって実行には移されなかった。しかしメルセルビールの一件で、ヴィシーフランスの民と政府はより独寄りになってしまった。戦後7月10日下院上院による合同会議で全権投票が行われ、ペタ首相国家運営の全権を握った。

ヴィシーフランスの誕生と混乱は、各に動きを促した。9月22日大日本帝國は敵対する中華民国支援する援ルートを断つため遠く離れた極東にあるインドシナ南部に進駐。事前の交渉でヴィシー側の承諾があったため軍事的衝突は起こらなかったが、ヴィシーフランスの弱姿勢を見た隣タイ王国は不当に奪われた領土の奪還を決意する。9月23日アフリカ大陸のダカールに停泊する新鋭戦艦リシュリューを狙ってイギリス海軍自由フランス軍が襲来し、ダカール戦が生起する。イギリスに対し強な怒りと戦意を抱いていたヴィシーフランス軍は潤沢な戦力と物資を持つイギリス艦隊を相手に奮戦、2日間の戦闘で見事撃退してみせた。ダカールへの攻撃に対する報復で、ヴィシーフランス軍はドイツの承諾を得た上で空軍の6個爆撃隊と海軍の4個飛行機隊をオラン、アルジェリアモロッコから出撃させ、ジブラルタルの要塞に150発の爆弾を投下。前回とべて本格的な攻撃だったようで、標的にされた要塞は大損を受け、北部は炎上、港に停泊していた大も炎に包まれた。9月25日にも83機の爆撃機が攻撃を敢行し、ジブラルタルに追加のダメージを与えた。いずれもイギリス軍機の迎撃こそかったが対空砲火がしく、爆撃機1機を喪失、13機が被弾した。一連の攻撃で英トロールステラシリウスを撃沈。ヴィシー政府は「今後もダカール攻撃を続けるようならジブラルタルへの報復も続ける」と発表、これが効いたのかイギリス軍はダカールへの攻撃を中止。以降、ジブラルタル攻撃は行われなかった。

10月に入ると、本混乱を好機と見たタイ王国越境してインドシナへの侵攻を開始。現地のヴィシーフランス軍と交戦するが、戦況はヴィシーフランス軍が有利であった。10月30日ペタ首相ドイツへの協力を公式なものにした。

1941年

インドシナを巡るタイ軍との紛争は日本の仲裁により、1941年1月28日に終結。失地回復というタイが望んだ結果となった。インドに持っていた植民地は住民投票により自由フランスに加わり、ニューブリディーズ諸ニューカレドニアなど太平洋々、アフリカ海外領土も大半が自由フランスに奪取され、残っていたのはマダガスカルシリアレバノンメルセルビールを含む北アフリカくらいだった。

4月1日イラククーデターが起き、ラシッド・アリ率いる反英政権が立。そして5月2日イラクへ侵攻してきたイギリス軍と交戦状態に入った。反英政権を支援したい独軍のために、ヴィシーフランス海軍フランソワ・ダーラン大将シリアにある飛行場の使用許可を出した。5月14日イギリス空軍偵察機シリアの飛行場からユンカースJu90輸送機が離陸しているのを撃し、同日深夜イギリス軍は攻撃を開始した。これをヴィシーフランス空軍が迎撃、5月28日6月2日にそれぞれブリストル・ブレニム爆撃機1機を撃墜。またイラクに向かうドイツ軍機を護衛した。6月8日イギリス軍と自由フランスシリアレバノンへの侵攻を開始。インフラの欠如や対の不足などからヴィシーフランス軍は苦戦を強いられ、空軍289機中179機を失い、残余の機はロードに退避。海軍潜水艦スフレールを失った。6月22日ドイツ軍バルバロッサ作戦を発動してソ連領に侵攻(独ソ戦)。ヴィシーフランスがこの軍事行動を支持したため、6月30日ソ連から断交されている。首都ベイルートまでのを切り開かれた事で7月10日にヴィシー政府は休戦をめ、7月12日午前0時に発効して戦闘は終結。結局、イラク軍も敗れて英政権が打ち立てられてしまった。しかしヴィシーフランス軍の奮戦は駄ではなかった。イギリス軍はシリア方面に戦力を抽出させられたため、北アフリカ戦線で行われたバトルアックス作戦の失敗に繋がったからだ。同年12月8日大日本帝國枢軸国として、アメリカ連合として参戦。日本海軍は各地で破の快進撃を見せ、東南アジアから連合軍を一掃した。

12月24日自由フランスコルベット艦3隻と潜水艦シュルクーフからなる戦力を投入し、カナダのセントロレンス湾にあるヴィシーフランス領サンピエールミクロンに侵攻。現地にいたヴィシーフランスの役人は直ちに降したため無血開城となった。しかしこ軍事侵攻はアメリカイギリスに黙って行われたもので、ルースベルト大統領チャーチル首相激怒。特にアメリカはヴィシーフランスと正式に交を結んでいる上、つい最近「アメリカはヴィシーフランスの領土を侵さない」という条約が締結したばかりだった。アメリカの同盟である自由フランスがその条約を勝手に破ったため一時は国際問題になりかけたが、ハル務長官の取り成しで何とか難を逃れた。

1942年

1942年4月に生起したセイロン沖海戦で英東洋艦隊は南雲機動部隊敗北し、南アフリカまで壊走。インド洋にまで日本海軍の進出を許してしまったイギリス軍は、アフリカ南東にあるヴィシーフランス領マタガスカルを向ける。もし同日本軍の基地が造られると、ここを足掛かりに大西洋まで攻めてくるかもしれない。日本軍の占領に先立ってイギリス軍はマダガスカルを占領しようと、5月5日より上陸作戦を開始。これをマダガスカルの戦いと呼ぶ。同地のヴィシーフランス軍はドイツに救援要請を出し、その要請を日本に取り次いだ事でインド洋で通商破壊中だった潜水艦数隻が送られる事となった。甲標的を使った雷撃で英戦艦ミリーズとブリティッシュロイヤルティを大破させたが、元々インド洋方面へ攻勢をかける予定が帝國海軍は精力的な支援を行わなかった。孤立援と化したヴィシーフランス軍だったが頑強に抵抗し、降する11月まで戦い続けた。マダガスカルの戦いの生起に伴い、同から東へ800km離れたヴィシーフランス領レユニオンアフリカ本土との通信が断たれた。このためオーベール知事を始めとした現地のヴィシー政権関係者は大いに反英感情を募らせた。8月、ヴィシーフランス警察南部で7000名のユダヤ人を摘発・逮捕した。9月12日ラコニア号事件では、ドイツ海軍の要請を受けて救助艦艇をダカールから出発させている。U-506とU-507が収容した生存者を受け取り、ダカールへと連れ帰った。その後、生存者たちはカサブランカへと移されたが、そこで後述のトーチ作戦に遭遇する。

境目・トーチ作戦とアントン作戦

1942年11月8日北アフリカ戦線支援するため連合軍はトーチ作戦を発動し、ヴィシーフランスが支配する北アフリカのオラン、カサブランカアルジェに強襲上陸してきた。敵の力はヴィシー側を刺しないようアメリカ軍体になっており総じて士気が低くなっていたものの、各地で応戦して敵兵479名を戦死させ、720名を負傷させた。思わぬ抵抗を受けた連合軍は、たまたまアルジェリア連合グループに捕縛されていた現地のフランソワ・ダーラン大将を「協力すれば北部及び西部アフリカフランス高等弁務官にする」という甘言で懐柔、彼が戦闘中止命連合への協力命を出した事でヴィシーフランス軍の抵抗は急速に減じていった。これにより戦闘は僅か2日で終了。北アフリカのヴィシーフランス軍は丸々連合軍に吸収され、北アフリカ領土の失陥は同方面の独軍にトドメを刺す致命的な一撃となってしまった。

しかしトーチ作戦自由フランスに黙って行われた軍事行動な上、自由フランス導者であるシャルル・ド・ゴールではなく積極的に対独協力していたダーラン大将に高位を与えた事で一悶着が発生。帳の外に置かれた自由フランス報道機関憤怒し、英の内部からも疑問視するが上がったため、ルーズベルト大統領チャーチル首相が弁解に追われた。一説によると先のサンピエールミクロン占領の件に対するアメリカ側の仕返しらしい。対するヴィシー政府も勝手に戦闘中止命を出したダーラン大将に怒り、ペタンによって除名処分。そして当のダーラン大将にも天罰が下ったのか反ヴィシー青年によって僅か2ヶ後に暗殺され、その青年銃殺刑となった。

ドイツ海軍空軍が決死の抵抗をしたにも関わらず、大した抵抗も見せずに降したヴィシーフランス軍にヒトラー総統が怒り、全土の占領を企図したアントン作戦の発動を命11月10日夕刻までに準備を整え、翌11日より独軍が侵攻を開始。ドイツ軍フランス中部からヴィシーとトゥーロンに向かって南下、イタリア軍はコルシカフランス南東のフレンチビエラを占領した。またドイツ軍はトゥーロンに停泊しているヴィシーフランス艦隊を拿捕するリラ作戦も並行して行い、11月19日よりトゥーロン東方から進撃。トゥーロン周辺には約5万人のヴィシーフランス軍がいて防御地を築いていたが、彼の戦力差からドイツ軍の武装解除要請に応じたため戦闘は生起せず、11月27日午前4時にトゥーロンへ到達した。ところが政権立時の協定である「艦艇の管理はヴィシー政府に一任」に反する行為だったため抵抗的で艦艇が一斉自沈。ドイツ軍による阻止もむなしく戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦15隻、魚雷艇13隻、スループ6隻、潜水艦12隻、艇9隻、補助艦艇19隻などがドックないし海底に沈んだ。トゥーロンの港内は自沈した艦から漏れ出た重によりに染まり、今後2年間は泳ぐ事は出来ないだろうと推測されている。結局のところ独が接収出来たのは駆逐艦3隻と小艦10隻程度だった。こうして全土が独軍に占領され、トゥーロンの艦隊もほぼ全滅。名上は独立だったヴィシーフランスは全にドイツの傀儡政権となった。このアントン作戦に、内のレジスタンス活動は化していく。ちなみに自由フランスは「何故アルジェに逃げなかった」とヴィシーフランス艦隊の一斉自沈を非難しており、枢軸国からも連合からも冷たい視線が注がれた。特にフランスから艦艇を補充するつもりだったイタリア海軍全に計画を狂わされ、ヴィシー政権とイタリアの関係は最悪レベルにまで冷え込んでしまった。

11月26日インド洋のレユニオン自由フランス兵約60名が上陸。収監されていた共産主義者と結託して各地を攻撃してきた。寡兵ながらもヴィシーフランス軍は応戦したが、侵攻軍がイギリス軍ではなく同じフランス人だと知ると戦意を喪失。11月30日午前8時45分に降した。この戦闘がヴィシーフランス軍最後の戦闘となった。

1943年

1943年1月22日、ヴィシーフランスの警察とゲシュタポ3万人はマルセイユ大通りを36時間に渡って捜索し、ユダヤ人6000名を逮捕、このうち1642名が強制収容所に送られた。1月30日、ヴィシーフランスは志願兵を募ってレジスタンスユダヤ人を摘発する民兵組織ミリス・フランセーズ(ラ・ミリス)を結成。ファシスト連合軍の爆撃家族が死傷した者、減刑を報酬とされた軽犯罪者レジスタンスに危を加えられた者がミリスに加わった。またミリスに加わる事でドイツでの強制労働を免除される特典もあったとか。フランス人で結成されている事からドイツ兵より土地勘があり、時にはゲシュタポや武装親衛隊より恐れられた。ドイツ軍レジスタンス狩りに協力していたが、レジスタンスの跳梁は留まるところを知らず、9月から12月の3ヶ間だけでヴィシー政府関係者709名が殺され、またミリスの民兵も標的にされて2500名が死亡、27名が負傷している。

9月9日イタリア連合に降。これに伴ってフランス内におけるイタリアの占領地域はドイツに併合され、ヴィシーフランスの支配者はドイツのみとなった。

1944年

1944年1月ミリスはオート=サヴォウ地方グリエール高地に潜中のレジスタンス組織を包囲。しかしレジスタンスイギリス軍の支援を受けていて、包囲下ながらり強く抗戦を続けていた。3月9日レジスタンスを率いている指揮官の一人トム・モレル中尉を殺するがミリスの手に余るとしてドイツ軍に救援を要請。さっそくドイツ空軍機が飛来して爆撃を開始、増援としてドイツ陸軍も送られた。そして3月26日ミリスとドイツ軍の攻撃に耐えきれなくなったレジスタンスグリエールから退却。見事勝利を収めたのだった。

一難去ってまた一難、今度はヴェルコール山地に潜する抵抗組織マキの破壊活動が化。当初はドイツ軍が対応していたが化に伴ってミリスが投入される事に。4月15日ミリス所属の25輌のマキ拠点となっているヴァシューに突入。複数の農場を焼き払ったり、住民の一部を拘束ないし射殺した。後にマキ連合軍の支援自由フランスの要請を受けてヴェルコール自由共和を建するが、ドイツ軍の猛攻で一ヶも持たずに崩壊している。

崩壊への道

1944年6月6日連合軍がノルマンディーに上陸した事で今まで後方地域だったフランスに第二線が構築されてしまう。ドイツ軍しく応戦したものの連合軍の勢いに抗しきれなかった。6月28日未明、フランスゲッペルスと呼ばれていたヴィシー政権の宣伝相フィリップアンリオが自宅のアパートレジスタンスに殺される。ミリスは報復措置として反ナチス政治家や知識人を複数名殺した。

敗北必至を悟ったヴィシー政権は8月17日に最後の政府議会を開き、ドイツへの亡命を決定した。ペタ首相連合軍に降しようとしていたが、8月20日ドイツ軍に連行される。そして8月25日パリが陥落。代わりに進駐してきた自由フランス8月30日日本とヴィシー政権が結んだ協定を一方的に破棄すると宣言。インドシナに駐留する第22師団とインドシナ政庁との対立が深刻化する結果を招き、上陸してきたアメリカ軍に呼応する事を恐れた日本側は後にインドシナフランス軍を武装解除している(明号作戦)。

9月7日、ヴィシー政権の要人100名、対独協力者1000名、ミリスの民兵数名などがフランスから脱出。ドイツ南部シグマリンゲンに亡命政権を立し、フランス政府益防衛委員会と名乗った。政府は接収したホーエンツォレルンシグマリンゲンに移された他、ドイツから治外法権の定を受けてはヴィシー政権の領地扱いとなった。人口約6000名、500名の兵士、捕虜、強制労働者、ドイツジャーナリストなどが下町に居住。一方、フランスでは自由フランス取りを始めていた。手始めにヴィシー政権下で対独協力していた約5000名が処刑されている。10月23日自由フランス立したフランス共和国臨時政府が正統な国家と認められ、アメリカイギリスソ連によって国家承認された。

シグマリンゲン拠点に活動を始めた亡命政権だったが、生活環境は過酷だった。連合軍の侵攻やアメリカ軍爆撃に追われて逃げてきた人が多いため、大半の人がしか持っていなかった。不運な事に12月気温は-30℃となり、彼らは極寒に苦しんだ。加えて衛生状態の悪さからインフルエンザと核といった病気が流行。亡命政権には医者が2人しかおらず、最善の努力を尽くしたにも関わらず子供を中心に命を落としていった。日本、イツ、タリア社会主義共和国の使館を置いていた事から日本とも国があった模様。

1945年

細々と生き延びていた亡命政権であったが、ついに終わりの時が来た。1945年4月21日、とうとう連合軍の魔手がシグマリンゲンにまで届き、政府要人は逃走を図った。このうち4月26日までにスイス逃げペタンが捕まり、イタリアスペインに逃亡した要人も1947年までに逮捕された。国家席のペタンは死刑判決を受けたが高齢を理由に終身刑へ減刑、そして獄死した。ラヴァル首相は処刑された。

現在においてヴィシーフランスはかった事にされており、自由フランスが正当な継承扱いとなっている。ただヴィシー政権時代に制定された一部の法は形を変えて受け継がれた様子。

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ヴィシーフランス

1 ななしのよっしん
2019/06/17(月) 12:06:04 ID: 7AqNFHIyew
>1940年から1944年にかけて存在した国家
国家でなく政権にした方がいいと思う。
>ヴィシー政権の領土はフランス北部に限られ、南部は独の管轄下に置かれた。
南部と北部が逆では?
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2 ななしのよっしん
2020/02/03(月) 18:33:00 ID: O5GMQvmxTG
1940年7月11日議会から全権委任されたペタ元帥フランス共和国フランス(エタ・フランセ)と改称し
共和大統領止して自ら国家席を名乗った
政権が変わったというより名も変わっているんだよね

あ、もちろん南部と北部は逆っす
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3 ななしのよっしん
2020/10/07(水) 14:38:21 ID: /29voSnVNc
トーチ作戦に戦わなかったいうても連合軍は3日間の戦闘で450人が戦死、770人が負傷
ヴィシー軍は1500人が戦死、1915人が負傷してる
1日あたりの損耗率はマリアナと大差ないレベル
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4 ななしのよっしん
2020/11/05(木) 15:20:01 ID: g8IiAGRzXs
民を欺き、ドイツも欺くことでフランスの地位を守ろうとしたけど、最終的にラヴァル
関係者はドイツからもペタンからも民からも欺かれたのではないか?と言う疑問が
しっくりとした政権な感じ。
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5 ななしのよっしん
2021/11/27(土) 15:42:41 ID: 4FvUL2Z+i8
短期間ながら黒人の閣僚もいたとか
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6 ななしのよっしん
2022/07/05(火) 19:16:56 ID: e/6BoPUQ7J
ナチスドイツの傀儡政権だったからかったこと扱いされているのかな?」程度の認識で調べると「これをかったこと扱いは理だろ……」となるやつ。
まあドイツの方もナチスとは関係というスタンスだし、ここら辺はだいぶなあなあにされている。
それでもやっぱり「少なくともフランスが戦勝側にいるのは変だろ……」となるが。
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7 ななしのよっしん
2023/01/07(土) 08:58:04 ID: u+qfOIW1Yt
基本的にナチスには逆らえない状態だったしそれでも連合への宣戦布告は断ってたからおかしくはないと思う
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8 ななしのよっしん
2023/06/08(木) 18:10:41 ID: O5GMQvmxTG
>>6
第四共和制以降の公式見解では、フランス政府はドゴールと共にロンドン亡命し、
ゴール将軍ノルマンディで圧縮し奪還するまでは、すべきフランスナチ売国奴に占拠されてた
故にフランスは戦勝だ、いいね?ヴィシー温泉地かね」

そこそこ積極的にナチス十字架を背負ったドイツとは違うのだよ
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9 ななしのよっしん
2023/06/09(金) 16:37:03 ID: UvEmv2VsX5
枢軸が勝利した世界でも戦勝面してそう(小並感)


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