ヴィシーフランス(仏語:Régime de Vichy)とは、第二次世界大戦中の1940年7月10日から1944年8月9日にかけて存在した国家である。ヴィシー政権とも。
概要
第二次世界大戦中に樹立した親独・反共を掲げるフランス国家の通称。公式文書から「フランス共和国」の名称が消された事で「フランス国家」が正式名称である。首都は温泉街のヴィシー。
1940年6月25日、ドイツ軍とイタリア軍の侵攻により10万の兵士と2万の民間人を失ったフランスは敗北を認め、ドイツに休戦を申し入れた。評議会議長であるフィリップ・ペタン元帥に全権限を与える憲法改正案が国会で可決され、彼を首班とした新政府を樹立、既に老齢だったペタンは湯治を行う目的で首都機能をフランス中央部アリエ県の温泉街ヴィシーに置いた。この事からヴィシーフランスと呼ばれる。アメリカ、カナダ、中華民国、ソ連、オーストラリアといった40ヶ国がヴィシーフランスを正統な後継者と認め、国家承認を行った。
24箇条からなる休戦条約に従い、ロワール川を境に北半分と大西洋沿岸はドイツに(面積は国土の5分の3に相当)、マルセイユを含む南西部はイタリアに割譲され、ロワール川より南の地域のみがヴィシーフランスの領土となった。また独伊占領軍の活動費はヴィシー政権の負担となり1日につき平均4億フランに達し、軍隊も10万人以下に制限されるなど過酷な制約が課された。しかし海外の植民地と海軍の艦艇はヴィシー政権管轄となった他、閣僚は全員フランス人でドイツの傀儡国家には成り下がっておらず、むしろこれだけの出血で滅亡の危機から独立や主権を守り抜いたペタンは国民から英雄視されている。このためヴィシーフランスは親独の態度こそ取ったが枢軸陣営には参戦せず中立の立場を貫いた。ドイツに倣ってユダヤ人の追放を推進し、義務協力労働に基づいて若い男性を労働力として提供、多くの物資や資金を供出するとともに東部戦線に反共義勇軍の派遣を行うなど、多種多様な面で対独協力を実施する。時にはドイツ軍の治安部隊と協力して国内のパルチザン掃討やユダヤ人の摘発も行った。
ヴィシー政権樹立後は混迷期だった事もあって、海外の植民地に取り残されたヴィシーフランス軍にはイギリス軍と合流して再びドイツと戦う選択肢が残されていた。ところが、接収に応じようとしたヴィシーフランス艦隊を英地中海艦隊が攻撃するというイギリスの不義理(メルセルケビール海戦)を受け、水兵1297名が死亡。これに激怒したヴィシー政権はイギリスとの断交を発表、独自に英領ジブラルタルを爆撃したり、ダカール沖海戦では劣勢にも関わらず敵愾心の強さでイギリス艦隊と自由フランス軍を撃退するなど関係は最悪レベルにまで冷え込んだ。1941年6月22日に行われたドイツ軍のバルバロッサ作戦をヴィシー政権が支持した事でソ連とも断交している。ちなみにオーストラリアはヴィシーフランスと自由フランス、双方と国交を結んでいた。
本来ヴィシーフランスは大戦には参加していない中立国なのだが、自由フランスの意向を受けた米英軍によって世界中の植民地を攻撃され、マダガスカル島など一部では戦闘も起きている。また大日本帝國とは双方合意の上でインドシナ進駐を認めた。1942年11月、トーチ作戦によってアメリカ軍が北アフリカのヴィシーフランス領へ上陸し、カサブランカ、アルジェリア、オラン、モロッコを攻略される。予想より早いヴィシーフランス軍20万の降伏にドイツ軍は現地軍総司令官フランソワ・ダルラン元帥の内通を疑い、制裁としてアントン作戦を発動。ヴィシーフランス本国の領土を占領して完全に独伊の支配下となった。
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦で遂にヴィシーフランスも戦火に巻き込まれる事となる。ヴィシー政権は中立国の立場から「我々は戦争に参加していない」と表明するが、国内にドイツ軍がいた事で戦闘が発生。8月9日に事実上の消滅を迎えた。8月25日にパリを奪取された後、政府関係者やその家族はドイツ南部のシグマリンゲンへ亡命。そして1945年4月21日、そのシグマリンゲンにも連合軍が出現し政府関係者は散り散りになって逃走。ここにヴィシーフランスは終焉を迎えた。
樹立まで
切り捨てられるフランス
1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて英仏連合軍はドイツに対し宣戦布告。第二次世界大戦が勃発する。しかしドイツ軍は非常に精強であり、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが次々に降伏、そして1940年5月25日からはフランス本土への侵攻が始まった。対独戦頼みの綱だったマジノ線は迂回され、第一次世界大戦の傷が癒えていないフランス軍は各地で連戦連敗、加えて勝ち馬に乗りたいイタリア軍の参戦や米英に見捨てられるなどの要素が重なり、6月14日にドイツ軍のパリ入城を許した。この時点でフランスにはもう勝ち目が残っていなかった。
パリを失陥する少し前の1940年6月11日、パリ南方約160kmのブリアールに置かれた総司令部で英仏首脳会談が行われた。徹底抗戦派の仏首相レイノーの要請によりイギリス本国からウィストン・チャーチル首相とエドワード・スピアーズ将軍が司令部を訪れ、フランス側からはレイノー首相、ペタン元帥、ウェイガン総司令官、ドゴール陸軍次官、レイノーの随員2名が参加。19時より歴史的な英仏会談が始まる。絶望的戦況からかフランス側の重鎮は自信ありげなドゴールを除いて全員顔面蒼白であり、スピアーズ将軍はその時の様子を「まるで通夜のようだった」と述懐している。実際、フランス軍は6月5日以降の戦闘だけで25個師団を喪失し、空軍の稼働機は僅か約180機しか残っていないという有り様で、軍はもう限界に達したと結論付けられた。会談は翌12日まで続けられたが何の結果も出さないまま早々に終了、6月13日午後に最後の首脳会談が行われ、フランスの未来を決めるべくチャーチル首相とフランスの首脳陣が議論。続いて17時からルブラン大統領の宿舎で首脳会談が開かれるはずだったが参加予定のチャーチルが空路で帰国してしまいバックレ。これにはさすがのレイノーも困惑し、フランスの閣僚たちは怒りの声を上げた。急に時間が出来た彼らはジョルジュ将軍の司令部へ赴いて戦況の確認を行うも、ここで最悪の凶報を受け取ってしまう事に。北フランスを完全に放棄、カーン・ツール・ロアール川中部・クラムシ・ディジョン・ドール・ドーブ森林の線まで後退して全力でドイツ軍を迎え撃つよう前日から命令していたのだが、その最終防衛ラインが突破されたのである。これを受けてウェイガン将軍は「フランスは決戦に敗れた」と意気消沈。政府に休戦を申し入れるよう求めた。
シャトー・ド・カーンジュの大広間で開催された閣僚会議でウェイガン将軍は休戦を、レイノー首相は北アフリカに亡命して最後まで戦うべきだと主張。フィリップ・ペタン元帥は「これ以上休戦を遅らせるのは犯罪に等しい」とウェイガン将軍の意見を支持し、ペタン以外の閣僚はレイノーの意見を支持した。この絶望的戦況をひっくり返せるのはアメリカの力しかないと考えていたレイノーは「フランスが勝利しうるにはアメリカが直ちに参戦してくれる事しかない」と意見を表明。既に彼はルーズベルト大統領に対して2回の支援要請を送っていたが今度はもっと緊急な嘆願をすると述べた。
ところが当のアメリカは6月6日の時点で対独宣戦布告をしないと決めていたのである。ルーズベルト大統領は欧州の戦争に介入しないという公約を掲げて当選したため手出しが出来なかったのだ。また、間違いなくフランスは敗北するだろうからフランス行きの軍需品は全てイギリスに振り分けられ、完全に見捨てられた格好となる。したがって6月14日(パリ失陥の日)にレイノーが再度軍事援助の要請をしてもアメリカは激励を送る事しかせず、彼を落胆させた。徹底抗戦の急先鋒たるレイノーが弱ってしまったためこれを機に和平派が一気に主導権を握る。フランス国民も相次ぐ敗戦から厭戦気分になっていて、民心は和平に傾いていた。
休戦条約締結へ
6月14日の夜明け、ドイツ軍の先発隊がパリに入城。午前8時にはオートバイ兵に誘導された自動車化部隊の縦列が南へ抜けるためにパリを通過していく。ほとんどのパリ市民はドイツ軍の入城に気付かず、エッフェル塔やホテル、公共の建物には鉤十字の旗が翻っているのを見て初めて入城に気付いたという。
パリを失ったため政府機能は使い勝手の悪いツール県庁からボルドーに移動。県庁、裁判所、大学、商業会議所など使えうる建物を全て徴発して臨時首都となった。ボルドーには溢れんばかりの避難民が押し寄せており、政府が使える部屋を全て徴発したせいで舗道や車の中で寝なければならない市民もいたという。彼らの間には「もうすぐ政権交代が起きて休戦派が実権を握る」という噂がまことしやかに囁かれていた。政治家の中には新政府にすり寄ろうと派閥を作り出す者も出る始末。現政権を見捨てようとする民衆を前にルブラン大統領は危機感を募らせ、休戦の意向を固めた。米英に見捨てられもなお、レイノー首相は北アフリカへの亡命を企図して抵抗を続けるべきだと主張。彼と対立する休戦派のペタン元帥や閣僚は憤慨し、ペタン元帥に至っては辞表まで叩きつけたが、受理されず延期となった。戦況は絶望的で逆転の目は無く、イギリスは3月28日に締結された「単独講和しない密約」を行使させるために大した援助もしないくせにフランスを戦わせようとし、頼みの綱だったアメリカは動かない…。もはや閣僚たちはイギリスへの信頼を完全に失っていた。唯一レイノーのみイギリスを信頼していたが、閣僚から容赦のない非難を浴びせられた事で心がへし折れてしまった。彼は当時の事を「全く孤立無援になった気がした」と述懐している。疲れ切ったレイノーはペタンを後継者に指名、自身はルブラン大統領に辞任を申し出るのであった。
6月16日、レイノー内閣は解散。翌17日にフィリップ・ペタン副首相兼元帥が首相に就任し、ラジオを通じて休戦する旨をドイツ側に伝えた。ドイツ側から回答があったのは6月19日午前6時25分で、臨時首都のボルドーへ「フランス側の全権委員の氏名を伝えよ」と打電した。6月20日、フランスの代表団は白旗を掲げた10台の車に分乗して移動を開始。避難民の波を掻き分けて、夜にロアール川の橋に到着。ここでドイツ軍の護衛を受け、翌21日7時にパリへ到着した。ヒトラー総統は、フランスにとって屈辱的な場を準備して待っていた。かつてドイツが第一次世界大戦に敗れ、降伏文書の調印式が行われたコンピエーニュの森の食堂車をわざわざ運び出して会場に使ったのだ。そして今度はフランスが降伏する番だった。近くにある第一次世界大戦の戦勝を祝した記念碑には、ドイツの旗がはためいていた。
6月22日18時50分、ドイツ軍代表のカイテル将軍とフランス軍代表のウンツィージェ将軍が署名した事で休戦協定が結ばれた。48時間後にはイタリアとも休戦条約を結んだ。そして6月25日午前0時35分にドイツ軍が停戦命令を出し、フランスは敗北した。戦死者10万、負傷者12万、捕虜150万という血を流して…。ペタン首相は親独を強調し、かろうじて独立だけは守り抜いた。このため当時の国民から主権を守ったとして熱狂的な賞賛を受けた。7月1日、臨時首都をボルドーからヴィシーに移す。ヴィシーフランスのヴィシーは首都の地名から取られている。ヴィシー自体は小さな温泉街だが、ペタンは病気がちだったため湯治目的で首都に指定したと言われている。ドイツにならってファシズム体制を敷いた。7月11日、ヴィシーフランスの国家主席にペタン首相が就任した。
イギリスに脱出した徹底抗戦派のシャルル・ド・ゴールは自由フランスを結成し、フランスは二つに分裂。しかしながら正当な国家として認められていたのはヴィシーフランスで、アメリカやソ連からの承認を取り付けている。
ヴィシーフランス
独立と主権を守り切った代償に国土は独伊に切り取られ、ドイツはパリを含む北部とボルドーを含む南西部を占領。さらに北東部のアルザス、ロレーヌは併合された。イタリアはマルセイユを含む南西地区を占領。わずかに残った中央部のみ自由区としてヴィシー政権の統治が認められた。実に国土の3分の2を持っていかれた訳である。ロリアン、ブレスト、サンナゼールといった大西洋に面した主要軍港は全てドイツの占領下に置かれ、Uボートの出撃拠点として機能。ドイツ本国から出撃するより遥かに早く狩り場の大西洋に行ける事から戦果拡充に一役買った。ボルドーはイタリアの管轄となり、潜水艦基地BETASOM(ベタソム)を設置。また極東方面に向かう封鎖突破船や空軍機の出撃拠点となった。地中海に面する南部の軍港トゥーロンにはヴィシーフランス艦隊が停泊していたためヴィシー政権下に留め置かれ、対独協力の一環で強力な防備が施された。その堅牢さたるや連合軍に海からの侵攻を断念させるほどで、アントン作戦後はUボートの出撃基地となった。
ヴィシーフランスは休戦軍と呼ばれる国軍を保持。3768名の士官、1万5072名の非正規将校、7万5360名の兵士が所属し、6万人の憲兵隊が付属。しかし植民地軍から兵士を供給したにも関わらず慢性的な人手不足に悩まされ、また母体のフランス陸軍の機械化が大幅に遅れていた事も手伝って戦車や装甲車が不足していた。またレジスタンスの跳梁が激しい南部には休戦軍を置かず、警察が治安維持を行っていたが、1943年初頭に対レジスタンスを主眼に置いた民兵組織ミリス・フランセーズが結成されてからはミリスが担当した。総指揮はシャルル・ノゲス将軍、海軍の指揮はフランソウ・ダーラン大将、空軍の指揮はジャン・シャルル・ロマテ将軍が執った。ただ海軍の艦艇は敗戦時に脱出していたり、海外の領土に分散配置されていたため接収の手間を考えたドイツ軍はヴィシー政権に管理を一任。植民地軍の反乱を防ぐためにもヴィシー管轄にした方が良いという思惑もあった。なお、1942年11月に行われたドイツ軍のアントン作戦の際に休戦軍は解体されている。
ヴィシーフランスは参戦こそしなかったが、対独協力の面では努力を惜しまなかった。当初ドイツで働く労働者をボランティアで募集していたが、志願者の数が少なかったため後に強制移送させる法案が可決。ドイツで働く労働者の15%がフランス人で占められた。最も多く労働者が送られたのはエッセンにあるクルップ社の巨大製鉄所であった。食糧面では国内生産のうち肉は半分、農作物20%、シャンパン2%をドイツが徴収。たちまち店舗から品物が消え、物資不足から飢餓が蔓延し、政府の目から隠れて闇市場を開く者も現れたという。飢餓や物資不足が深刻だったのは大都市部で、農村部や辺境は自給自足が可能だったためか比較的恵まれていた。フランス兵約200万人は強制労働者としてドイツに連行。戦死の危険こそ無かったが、残された80万人の妻は生活的に困窮し、10人に1人が売春婦をしていた。軍事面では約6000名の反共義勇軍が送られ、独ソ戦に参加したと言われている。
ヴィシー政権は「労働・家族・祖国」というスローガンを掲げ、荒廃した国土の再建に着手した。特筆すべき点は女性の地位向上に力を入れている所だった。人口の低下に悩まされていたヴィシーフランスは女性に結婚と出産を推進し、簡単には離婚できないよう法整備。女性のための組織を作ったり、母の日を国を挙げての祝日にしたり、子供を産めば産むほどボーナスを支払う事で困窮した生活から脱出できるようにするなど、とにかく支援した。その結果、1942年から出生率が向上。第一次世界大戦前の水準まで回復してみせた。
ヴィシー政権に付き従った人間は大別して、消極的な対独協力で済ませようとする事なかれ主義者(ペタンもここに含まれる)、ドイツの戦勝を確信して戦後秩序におけるフランスの地位を向上させようとした者(ラヴァルがこれ)、熱狂的なファシスト派の三種類に分かれる。
歴史
1940年
1940年7月1日、ヴィシーフランスが誕生。この事に頭を痛めたのは、かつての同盟国であるイギリスであった。フランスの艦艇がドイツの手に渡る恐れがあり、また地中海への補給ルート上にあるメルセルケビール泊地は目の上のコブと言えた。このためイギリス海軍は地中海艦隊をアレキサンドリアから出撃させ、メルセルケビールに停泊中のヴィシーフランス艦隊に「対独戦の続行」か「自沈」か「艦の引き渡し」を要求した。当初ヴィシー側が曖昧な回答をしたため時間が掛かり、夕刻になってようやく「艦の引き渡し」で決着したのだが、僅かに遅かった。事態の解決を急いだチャーチル英首相が攻撃命令を出してしまい、7月3日にメルセルケビール海戦が生起。戦う準備をしていなかったヴィシー艦隊は一方的に嬲られ、一部はフランス南部のトゥーロンへ脱出したものの大打撃を受けてしまう。地中海艦隊は仏巡洋戦艦ダンケルクの健在を知り、7月6日に二度目の襲撃をかけてダンケルクを大破着底させた。二度の海戦で実に1297名のフランス人が死亡。激怒したヴィシー政府はイギリスとの断交を発表、報復として7月18日に英領ジブラルタルへの空襲を認可する。空襲によりイギリス軍に初めて死傷者が出たが、ヴィシー側にもためらいがあったのか爆弾は意図的に目標の手前で投下され、大した被害は与えられなかった。政権内からは「全力でイギリス軍を攻撃すべき」という過激な声も上がったものの、ペタンの取り成しによって実行には移されなかった。しかしメルセルケビールの一件で、ヴィシーフランスの国民と政府はより親独寄りになってしまった。海戦後の7月10日、下院と上院による合同会議で全権投票が行われ、ペタン首相が国家運営の全権を握った。
ヴィシーフランスの誕生と混乱は、各国に動きを促した。9月22日、大日本帝國は敵対する中華民国を支援する援蒋ルートを断つため遠く離れた極東にあるインドシナ南部に進駐。事前の交渉でヴィシー側の承諾があったため軍事的衝突は起こらなかったが、ヴィシーフランスの弱腰姿勢を見た隣国タイ王国は不当に奪われた領土の奪還を決意する。9月23日、アフリカ大陸のダカールに停泊する仏新鋭戦艦リシュリューを狙ってイギリス海軍と自由フランス軍が襲来し、ダカール沖海戦が生起する。イギリスに対し強烈な怒りと戦意を抱いていたヴィシーフランス軍は潤沢な戦力と物資を持つイギリス艦隊を相手に奮戦、2日間の戦闘で見事撃退してみせた。ダカールへの攻撃に対する報復で、ヴィシーフランス軍はドイツの承諾を得た上で空軍の6個爆撃隊と海軍の4個飛行機隊をオラン、アルジェリア、モロッコから出撃させ、ジブラルタルの要塞に150発の爆弾を投下。前回と比べて本格的な攻撃だったようで、標的にされた要塞は大損害を受け、北部は炎上、港に停泊していた大型船も炎に包まれた。9月25日にも83機の爆撃機が攻撃を敢行し、ジブラルタルに追加のダメージを与えた。いずれもイギリス軍機の迎撃こそ無かったが対空砲火が激しく、爆撃機1機を喪失、13機が被弾した。一連の攻撃で英トロール船ステラ・シリウスを撃沈。ヴィシー政府は「今後もダカール攻撃を続けるようならジブラルタルへの報復も続ける」と発表、これが効いたのかイギリス軍はダカールへの攻撃を中止。以降、ジブラルタル攻撃は行われなかった。
10月に入ると、本国の混乱を好機と見たタイ王国は越境してインドシナへの侵攻を開始。現地のヴィシーフランス軍と交戦するが、戦況はヴィシーフランス軍が有利であった。10月30日、ペタン首相がドイツへの協力を公式なものにした。
1941年
インドシナを巡るタイ軍との紛争は日本の仲裁により、1941年1月28日に終結。失地回復というタイが望んだ結果となった。インドに持っていた植民地は住民投票により自由フランスに加わり、ニューヘブリディーズ諸島やニューカレドニアなど太平洋の島々、アフリカの海外領土も大半が自由フランスに奪取され、残っていたのはマダガスカル島やシリア、レバノン、メルセルケビールを含む北アフリカくらいだった。
4月1日、イラクでクーデターが起き、ラシッド・アリ率いる反英政権が樹立。そして5月2日にイラクへ侵攻してきたイギリス軍と交戦状態に入った。反英政権を支援したい独伊軍のために、ヴィシーフランス海軍司令フランソワ・ダーラン大将はシリアにある飛行場の使用許可を出した。5月14日、イギリス空軍の偵察機がシリアの飛行場からユンカースJu90輸送機が離陸しているのを目撃し、同日深夜にイギリス軍は攻撃を開始した。これをヴィシーフランス空軍が迎撃、5月28日と6月2日にそれぞれブリストル・ブレニム爆撃機1機を撃墜。またイラクに向かうドイツ軍機を護衛した。6月8日、イギリス軍と自由フランスはシリアとレバノンへの侵攻を開始。インフラの欠如や対空機銃の不足などからヴィシーフランス軍は苦戦を強いられ、空軍は289機中179機を失い、残余の機はロードス島に退避。海軍は潜水艦スフレールを失った。6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動してソ連領に侵攻(独ソ戦)。ヴィシーフランスがこの軍事行動を支持したため、6月30日にソ連から断交されている。首都ベイルートまでの道を切り開かれた事で7月10日にヴィシー政府は休戦を求め、7月12日午前0時に発効して戦闘は終結。結局、イラク軍も敗れて親英政権が打ち立てられてしまった。しかしヴィシーフランス軍の奮戦は無駄ではなかった。イギリス軍はシリア方面に戦力を抽出させられたため、北アフリカ戦線で行われたバトルアックス作戦の失敗に繋がったからだ。同年12月8日に大日本帝國が枢軸国として、アメリカが連合国として参戦。日本陸海軍は各地で破竹の快進撃を見せ、東南アジアから連合軍を一掃した。
12月24日、自由フランスはコルベット艦3隻と潜水艦シュルクーフからなる戦力を投入し、カナダのセントローレンス湾にあるヴィシーフランス領サンピエール島とミクロン島に侵攻。現地にいたヴィシーフランスの役人は直ちに降伏したため無血開城となった。しかしこの軍事侵攻はアメリカとイギリスに黙って行われたもので、ルースベルト大統領とチャーチル首相は激怒。特にアメリカはヴィシーフランスと正式に国交を結んでいる上、つい最近「アメリカはヴィシーフランスの領土を侵さない」という条約が締結したばかりだった。アメリカの同盟国である自由フランスがその条約を勝手に破ったため一時は国際問題になりかけたが、ハル国務長官の取り成しで何とか難を逃れた。
1942年
1942年4月に生起したセイロン沖海戦で英東洋艦隊は南雲機動部隊に敗北し、南アフリカまで壊走。インド洋にまで日本海軍の進出を許してしまったイギリス軍は、アフリカ南東沖にあるヴィシーフランス領マタガスカル島に目を向ける。もし同島に日本軍の基地が造られると、ここを足掛かりに大西洋まで攻めてくるかもしれない。日本軍の占領に先立ってイギリス軍はマダガスカル島を占領しようと、5月5日より上陸作戦を開始。これをマダガスカルの戦いと呼ぶ。同地のヴィシーフランス軍はドイツに救援要請を出し、その要請を日本に取り次いだ事でインド洋で通商破壊中だった伊号潜水艦数隻が送られる事となった。甲標的を使った雷撃で英戦艦ラミリーズと油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティを大破させたが、元々インド洋方面へ攻勢をかける予定が無い帝國海軍は精力的な支援を行わなかった。孤立無援と化したヴィシーフランス軍だったが頑強に抵抗し、降伏する11月まで戦い続けた。マダガスカルの戦いの生起に伴い、同島から東へ800km離れたヴィシーフランス領レユニオン島はアフリカ本土との通信が断たれた。このためオーベール知事を始めとした現地のヴィシー政権関係者は大いに反英感情を募らせた。8月、ヴィシーフランス警察は南部で7000名のユダヤ人を摘発・逮捕した。9月12日のラコニア号事件では、ドイツ海軍の要請を受けて救助艦艇をダカールから出発させている。U-506とU-507が収容した生存者を受け取り、ダカールへと連れ帰った。その後、生存者たちはカサブランカへと移されたが、そこで後述のトーチ作戦に遭遇する。
境目・トーチ作戦とアントン作戦
1942年11月8日、北アフリカ戦線を支援するため連合軍はトーチ作戦を発動し、ヴィシーフランスが支配する北アフリカのオラン、カサブランカ、アルジェに強襲上陸してきた。敵の主力はヴィシー側を刺激しないようアメリカ軍主体になっており総じて士気が低くなっていたものの、各地で応戦して敵兵479名を戦死させ、720名を負傷させた。思わぬ抵抗を受けた連合軍は、たまたまアルジェリアの親連合国グループに捕縛されていた現地の司令官フランソワ・ダーラン大将を「協力すれば北部及び西部アフリカのフランス高等弁務官にする」という甘言で懐柔、彼が戦闘中止命令と連合国への協力命令を出した事でヴィシーフランス軍の抵抗は急速に減じていった。これにより戦闘は僅か2日で終了。北アフリカのヴィシーフランス軍は丸々連合軍に吸収され、北アフリカ領土の失陥は同方面の独伊軍にトドメを刺す致命的な一撃となってしまった。
しかしトーチ作戦は自由フランスに黙って行われた軍事行動な上、自由フランスの指導者であるシャルル・ド・ゴールではなく積極的に対独協力していたダーラン大将に高位を与えた事で一悶着が発生。蚊帳の外に置かれた自由フランスと報道機関が憤怒し、米英の内部からも疑問視する声が上がったため、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が弁解に追われた。一説によると先のサンピエール島とミクロン島占領の件に対するアメリカ側の仕返しらしい。対するヴィシー政府も勝手に戦闘中止命令を出したダーラン大将に怒り、ペタンによって除名処分。そして当のダーラン大将にも天罰が下ったのか反ヴィシー派の青年によって僅か2ヶ月後に暗殺され、その青年も銃殺刑となった。
ドイツ海軍や空軍が決死の抵抗をしたにも関わらず、大した抵抗も見せずに降伏したヴィシーフランス軍にヒトラー総統が怒り、全土の占領を企図したアントン作戦の発動を命令。11月10日夕刻までに準備を整え、翌11日より独伊軍が侵攻を開始。ドイツ軍はフランス中部からヴィシーとトゥーロンに向かって南下、イタリア軍はコルシカ島とフランス南東のフレンチリビエラを占領した。またドイツ軍はトゥーロンに停泊しているヴィシーフランス艦隊を拿捕するリラ作戦も並行して行い、11月19日よりトゥーロンの東方から進撃。トゥーロン周辺には約5万人のヴィシーフランス軍がいて防御陣地を築いていたが、彼我の戦力差からドイツ軍の武装解除要請に応じたため戦闘は生起せず、11月27日午前4時にトゥーロンへ到達した。ところが政権樹立時の協定である「艦艇の管理はヴィシー政府に一任」に反する行為だったため抵抗の目的で艦艇が一斉自沈。ドイツ軍による阻止もむなしく戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦15隻、魚雷艇13隻、スループ6隻、潜水艦12隻、哨戒艇9隻、補助艦艇19隻などがドックないし海底に沈んだ。トゥーロンの港内は自沈した艦から漏れ出た重油により真っ黒に染まり、今後2年間は泳ぐ事は出来ないだろうと推測されている。結局のところ独伊が接収出来たのは駆逐艦3隻と小型艦10隻程度だった。こうして全土が独伊軍に占領され、トゥーロンの艦隊もほぼ全滅。名目上は独立国だったヴィシーフランスは完全にドイツの傀儡政権となった。このアントン作戦を境に、国内のレジスタンス活動は激化していく。ちなみに自由フランスは「何故アルジェに逃げなかった」とヴィシーフランス艦隊の一斉自沈を非難しており、枢軸国からも連合国からも冷たい視線が注がれた。特にフランスから艦艇を補充するつもりだったイタリア海軍は完全に計画を狂わされ、ヴィシー政権とイタリアの関係は最悪レベルにまで冷え込んでしまった。
11月26日夜、インド洋のレユニオン島に自由フランス兵約60名が上陸。収監されていた共産主義者と結託して各地を攻撃してきた。寡兵ながらもヴィシーフランス軍は応戦したが、侵攻軍がイギリス軍ではなく同じフランス人だと知ると戦意を喪失。11月30日午前8時45分に降伏した。この戦闘がヴィシーフランス軍最後の戦闘となった。
1943年
1943年1月22日、ヴィシーフランスの警察とゲシュタポ3万人はマルセイユ大通りを36時間に渡って捜索し、ユダヤ人6000名を逮捕、このうち1642名が強制収容所に送られた。1月30日、ヴィシーフランスは志願兵を募ってレジスタンスやユダヤ人を摘発する民兵組織ミリス・フランセーズ(ラ・ミリス)を結成。ファシスト派、連合軍の爆撃で家族が死傷した者、減刑を報酬とされた軽犯罪者、レジスタンスに危害を加えられた者がミリスに加わった。またミリスに加わる事でドイツでの強制労働を免除される特典もあったとか。フランス人で結成されている事からドイツ兵より土地勘があり、時にはゲシュタポや武装親衛隊より恐れられた。ドイツ軍のレジスタンス狩りに協力していたが、レジスタンスの跳梁は留まるところを知らず、9月から12月の3ヶ月間だけでヴィシー政府関係者709名が殺害され、またミリスの民兵も標的にされて2500名が死亡、27名が負傷している。
9月9日、イタリアが連合国に降伏。これに伴ってフランス国内におけるイタリアの占領地域はドイツに併合され、ヴィシーフランスの支配者はドイツ一国のみとなった。
1944年
1944年1月、ミリスはオート=サヴォウ地方のグリエール高地に潜伏中のレジスタンス組織を包囲。しかしレジスタンスはイギリス軍の支援を受けていて、包囲下ながら粘り強く抗戦を続けていた。3月9日夜、レジスタンスを率いている指揮官の一人トム・モレル中尉を殺害するがミリスの手に余るとしてドイツ軍に救援を要請。さっそくドイツ空軍機が飛来して爆撃を開始、増援としてドイツ陸軍も送られた。そして3月26日、ミリスとドイツ軍の攻撃に耐えきれなくなったレジスタンスはグリエールから退却。見事勝利を収めたのだった。
一難去ってまた一難、今度はヴェルコール山地に潜伏する抵抗組織マキの破壊活動が激化。当初はドイツ軍が対応していたが激化に伴ってミリスが投入される事に。4月15日、ミリス所属の25輌の車がマキの拠点となっているヴァシュー村に突入。複数の農場を焼き払ったり、住民の一部を拘束ないし射殺した。後にマキは連合軍の支援と自由フランスの要請を受けてヴェルコール自由共和国を建国するが、ドイツ軍の猛攻で一ヶ月も持たずに崩壊している。
崩壊への道
1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸した事で今まで後方地域だったフランスに第二線が構築されてしまう。ドイツ軍が激しく応戦したものの連合軍の勢いに抗しきれなかった。6月28日未明、フランスのゲッペルスと呼ばれていたヴィシー政権の宣伝相フィリップ・アンリオが自宅のアパートでレジスタンスに殺害される。ミリスは報復措置として反ナチス派の政治家や知識人を複数名殺害した。
敗北必至を悟ったヴィシー政権は8月17日に最後の政府評議会を開き、ドイツへの亡命を決定した。ペタン首相は連合軍に降伏しようとしていたが、8月20日にドイツ軍に連行される。そして8月25日にパリが陥落。代わりに進駐してきた自由フランスは8月30日、日本とヴィシー政権が結んだ協定を一方的に破棄すると宣言。仏領インドシナに駐留する第22師団とインドシナ政庁との対立が深刻化する結果を招き、上陸してきたアメリカ軍に呼応する事を恐れた日本側は後にインドシナのフランス軍を武装解除している(明号作戦)。
9月7日、ヴィシー政権の要人100名、対独協力者1000名、ミリスの民兵数百名などがフランスから脱出。ドイツ南部シグマリンゲンに亡命政権を樹立し、フランス政府国益防衛委員会と名乗った。政府機能は接収したホーエンツォレルン家のシグマリンゲン城に移された他、ドイツから治外法権の指定を受けて城はヴィシー政権の領地扱いとなった。人口約6000名、500名の兵士、捕虜、強制労働者、親ドイツのジャーナリストなどが城や城下町に居住。一方、フランスでは自由フランスが国の舵取りを始めていた。手始めにヴィシー政権下で対独協力していた約5000名が処刑されている。10月23日、自由フランスが樹立したフランス共和国臨時政府が正統な国家と認められ、アメリカ、イギリス、ソ連によって国家承認された。
シグマリンゲン城を拠点に活動を始めた亡命政権だったが、生活環境は過酷だった。連合軍の侵攻やアメリカ軍の爆撃に追われて逃げてきた人が多いため、大半の人が夏服しか持っていなかった。不運な事に12月の気温は-30℃となり、彼らは極寒に苦しんだ。加えて衛生状態の悪さからインフルエンザと結核といった病気が流行。亡命政権には医者が2人しかおらず、最善の努力を尽くしたにも関わらず子供を中心に命を落としていった。日本、ドイツ、イタリア社会主義共和国の大使館を置いていた事から日本とも国交があった模様。
1945年
細々と生き延びていた亡命政権であったが、ついに終わりの時が来た。1945年4月21日、とうとう連合軍の魔手がシグマリンゲンにまで届き、政府要人は逃走を図った。このうち4月26日までにスイスへ逃げたペタンが捕まり、イタリアやスペインに逃亡した要人も1947年までに逮捕された。国家主席のペタンは死刑判決を受けたが高齢を理由に終身刑へ減刑、そして獄死した。ラヴァル首相は処刑された。
現在においてヴィシーフランスは無かった事にされており、自由フランスが正当な継承国扱いとなっている。ただヴィシー政権時代に制定された一部の法は形を変えて受け継がれた様子。
関連項目
- 4
- 0pt