ヴィシーフランス単語

ヴィシーフランス
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ヴィシーフランスとは、1940年から1944年にかけて存在した国家である。ヴィシー政権とも。

概要

成立まで

時に1939年9月3日ドイツ軍によるポーランド侵攻を機に、英ドイツに対し宣戦布告第二次世界大戦が勃発する。しかしドイツ軍は精強で、英導の連合軍は連戦連敗。デンマークノルウェーベネルクスドイツにひれ伏した。更に1940年5月25日にはフランス本土への侵攻が始まる。対独戦の頼みだったマジノ要塞は回され、虚を突かれたフランス軍は各地で壊走。勝ちに乗りたいイタリアの参戦、6月14日ドイツ軍パリ英に見捨てられる等の様々な要素が重なり、フランスに勝ちくなった。

徹底抗戦レイノー首相は北アフリカに亡命して最後まで戦うべきだとしたのに対し、フィリップペタ将軍ドイツとの和を提案。両者の意見は対立した。レイノー首相アメリカに参戦を要請し、アメリカの増援を以って反攻する計画を立てた。しかしアメリカからは「援助しの励」だけが届き、落胆。これを機に和一気に導権を握った。フランス民も相次ぐ敗戦から厭戦気分になっていて、民心は和に傾いていた。6月16日レイノー内閣は解散。翌17日にフィリップペタン副首相元帥首相に就任し、ラジオを通じて休戦する旨をドイツ側に伝えた。ドイツ側から回答があったのは6月19日午前6時25分で、臨時首都ボルドーへ「フランス側の全権委員の氏名を伝えよ」と打電した。6月20日フランスの代表団は旗を掲げた10台のに分乗して移動を開始。避難民の波を掻き分けて、ロアールに到着。ここでドイツ軍の護衛を受け、翌21日7時にパリへ到着した。ヒトラー総統は、フランスにとって屈辱的な場を準備して待っていた。かつてドイツ第一次世界大戦に敗れ、降伏文書の調印式が行われたコンピエーニュの食堂車をわざわざ運び出して会場に使ったのだ。そして今度はフランスが降伏する番だった。近くにある第一次世界大戦の戦勝を祝した記念碑には、ドイツの旗がはためいていた。

6月22日18時50分、ドイツ軍代表のカイテル将軍フランス軍代表のウンツィージェ将軍が署名した事で休戦協定が結ばれた。48時間後にはイタリアとも休戦条約を結んだ。そして6月25日午前0時35分にドイツ軍が停戦命を出し、フランス敗北した。戦死者10万、負傷者12万、捕虜150万という血を流して…。ペタ首相は親独を強調し、かろうじて独立だけは守り抜いた。このため当時の民から権を守ったとして熱狂的な賞賛を受けた。7月1日、臨時首都ボルドーからヴィシーに移す。ヴィシーフランスのヴィシー首都の地名から取られている。ヴィシー自体は小さな温泉だが、ペタンは病気がちだったため湯治的で首都定したと言われている。ドイツにならってファシズム体制を敷いた。7月11日、ヴィシーフランスの国家席にペタ首相が就任した。

イギリスに脱出した徹底抗戦シャルル・ド・ゴール自由フランスを結成し、フランスは二つに分裂。しかしながら正当な国家として認められていたのはヴィシーフランスで、アメリカソ連からの承認を取り付けている。

ヴィシーフランス

何とか独立を守ったものの、土は独に切り取られていった。ドイツパリを含む北部とボルドーを含む南西部を占領され、さらに北東部のアルザス、ロレーヌは併合された。イタリアマルセイユを含む南西地区を占領。中央部のみ自由区としてヴィシー政権の統治が認められた。実に土の3分の2を持っていかれた訳である。その代わり国家として存続が許された。親独政権ではあるが中立だったため、本格的な参戦はしていない。それでも約6000名の反共義勇軍が参戦したと言われている。

ロリアンブレスト、サンナゼール、トゥーロンといった軍港は全てドイツの占領下に置かれた。大西洋に面していた事からUボートの出撃拠点となり、戦果の拡充に大きく貢献。またヴィシー政権は対独協の一環で地中海側のトゥーロンを増強し、強な防備を作り上げた。このため連合軍はからの侵攻が出来ず、終始襲にしていた。ボルドーはイタリアの管轄となり、極東方面に向かう封鎖突破船や空軍機の出撃拠点となった。

フランス軍の大半はヴィシー政権の影下に収まっているが、フランス海軍の艦艇は敗戦時に本を脱出しており、メルセルビールやオランなど海外の領土に分散配置されている状態だった。接収や管理の手間を考え、ドイツはヴィシー政権に艦艇の運用を委ねた。植民地軍の反乱を防ぐためにもヴィシー管轄にした方が良いという思惑もあった。

ヴィシー政権は「労働・家族祖国」というスローガンを掲げ、荒した土の再建に着手した。あらゆる面で対独協められ、労働者の供出やユダヤ人の迫を行っている。特にユダヤ人への迫は苛で、他のドイツ占領地域よりも厳しかった。外籍のユダヤ人排斥には積極的で、1942年9月までに2万7000人を追放している。一方でフランス籍のユダヤ人には優しかったらしく、追放にも反対だったとか。また1943頃から戦況の変化により、ユダヤ人差別追放に抵抗し始めている。

歴史

親独のヴィシー政権立は、イギリスにとって一大事であった。フランスの艦艇がドイツの手に渡ったら大変という事で、さっそくイギリス動いた。特に地中海への補給ルートの途上にあるメルセルビールの上のコブだったため、化を狙って英艦隊が出動。在泊艦艇に対し対独戦の続行か自沈するかを迫った。しかしヴィシー側が曖昧な回答をしたため、英艦隊が攻撃を開始。1940年7月3日メルセルビール戦が生起する。戦により在泊艦艇に大きな打撃を受けたヴィシー側は激怒イギリスとの断交を発表し、余計に親独寄りにしてしまう逆効果を生んだ。9月23日に再びイギリス海軍自由フランスが侵攻し、ダカール戦が生起。ここでもヴィシーフランス軍は高い戦意で応戦し、作戦失敗へと追いやった。

フランス海外の領土を持っていたが、そのどが自由フランスに奪取された。混乱に乗じて極東の領土インドシナ日本に持っていかれている(一応ヴィシー側の同意を取り付けている)。委任統治領のレバノンシリアは連合軍の侵攻を受け、トゥーロンから弾薬を満載したヴォークラン駆逐艦派遣したが、イギリス軍に撃退されてギリシャのキッサロニキに後退している。本格的に参戦していないのと、中立の扱いだったためドイツ軍イタリア軍との共闘はどせず、攻撃された時だけ反撃していた。

1941年12月8日大日本帝國が参戦。破の快進撃によって東南アジア一帯とインド洋が日本の勢圏に収まった。アフリカにあるヴィシーフランス領マタガスカルに基地でも作られたら危機的状況に陥ると考えた連合軍は先手を打ち、1942年5月5日より同攻略を開始した。これをマダガスカルの戦いと呼ぶ。ドイツからの要請で帝國海軍から潜水艦派遣され、英戦艦ミリーズを大破させたが精的な援護はど行われなかった。それでもヴィシーフランス軍は頑強に抵抗し、11月まで戦い続けた。

1942年9月12日ラコニア号事件では、ドイツ海軍の要請を受けて救助艦艇をダカールから出発させている。U-506とU-507が収容した生存者を受け取り、ダカールへと連れ帰った。その後、生存者たちはカサブランカへと移されたが、そこで後述のトーチ作戦に遭遇する。

1942年11月、連合軍はトーチ作戦を発動。ヴィシーフランスが支配するアルジェ、オラン、カサブランカの占領をして攻めてきた。相手はアメリカ軍だった事もありヴィシー側の士気は低く、また現地官のダルラン大将が懐柔されていたため頑強な抵抗をせずあっさり降伏。ヴィシー領土の失陥は、北アフリカ戦線に絶大な悪影を与えた。ちなみにアメリカはヴィシーを正当な国家と承認しておきながら、宣戦布告を行わずに侵攻している。に戦わなかったヴィシーフランス軍に激怒した独フランス南部のトゥーロンに侵攻し、在泊艦艇の拿捕を試みた。しかしヴィシー側はこれに反発して一斉に自沈。接収できたのは駆逐艦4隻程度だった。

11月11日フランス全土は独軍に占領された。

崩壊

1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸によりフランスにも戦線が構築される。ドイツ軍しく抵抗したが、8月25日パリが陥落。ドイツ軍の撤退で後ろを失ったヴィシー政権は崩壊してしまった。8月30日自由フランス日本とヴィシー政権が結んだ協定を一方的に破棄し、インドシナに駐留する第22師団とインドシナ政庁との対立が深刻化。上陸してきたアメリカ軍に呼応する事を恐れた日本側は後にインドシナフランス軍を武装解除している。

9月9日、ドゴールパリに入自由フランス取りを始めたが、まずヴィシー政権下で対独協していた約5000名が処刑された。国家席のペタンは死刑判決を受けたが、高齢を理由に終身刑へ減刑。そして獄死した。ラヴァル首相は処刑された。

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ヴィシーフランス

1 ななしのよっしん
2019/06/17(月) 12:06:04 ID: 7AqNFHIyew
>1940年から1944年にかけて存在した国家
国家でなく政権にした方がいいと思う。
>ヴィシー政権の領土はフランス北部に限られ、南部は独の管轄下に置かれた。
南部と北部が逆では?
2 ななしのよっしん
2020/02/03(月) 18:33:00 ID: O5GMQvmxTG
1940年7月11日議会から全権委任されたペタ元帥フランス共和国フランス(エタ・フランセ)と称し
共和大統領止して自ら国家席を名乗った
政権が変わったというより名も変わっているんだよね

あ、もちろん南部と北部は逆っす
3 ななしのよっしん
2020/10/07(水) 14:38:21 ID: /29voSnVNc
トーチ作戦に戦わなかったいうても連合軍は3日間の戦闘450人が戦死、770人が負傷
ヴィシー軍は1500人が戦死、1915人が負傷してる
1日あたりの損耗率はマリアナと大差ないレベル
4 ななしのよっしん
2020/11/05(木) 15:20:01 ID: g8IiAGRzXs
民を欺き、ドイツも欺くことでフランスの地位を守ろうとしたけど、最終的にラヴァル
関係者はドイツからもペタンからも民からも欺かれたのではないか?と言う疑問が
しっくりとした政権な感じ。