ヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling)とは、19世紀のドイツ人革命家である。1808年生まれ、1871年没。
概要
ヴァイトリングは元々、国際的な家柄の出身であった。彼の父親はフランスの将校であり、ナポレオンがプロイセンを蹂躙した際に、マデルブルクに宿舎したときに田舎娘と一夜を過ごした時に出来たのがこのヴィルヘルムである。彼は状況が変化して軍隊が移動するときに女とその子どもを見捨ててしまった。1808年生まれのヴィルヘルム少年は幼くして仕立て屋の弟子となった。学校に行く代わりに、彼はそこで辛抱と熱心を学んだのである。
彼は生来反骨心を持ち成長した。生まれた経緯もあって彼は兵役を徹底的に忌避した。彼は好機を見つけて故郷を捨てて旅へと出かける。7年の放浪の後に1835年にパリに辿り着く。そしてそこでその後の四年間『正義者同盟』と『四季協会』という社会主義組織において社会主義の原理と革命の研究を行ったのであった。1839年に彼はパリから追放命令を下される。その後彼はスイスに行き、それからは出版物の収入や支持者達の寄付を受けながら社会主義運動を続けていた。
しかしそんな生活も1843年にヴァイトリングが不敬罪の罪で告訴されることによって終わりを迎える。彼の著作『ある貧しい罪人の福音』の中でイエス・キリストを共産主義者と述べたのである。彼はプロイセンを経て放浪の末に1844年ロンドンに辿り着く。そこでマルクスと出会い、二人は不倶戴天の仲となった。
彼は1830年代のフランス社会主義で一番流行していたサン=シモン思想の影響を強く受けていた。彼はマルクスより先に階級的対立を自らの思想に取り入れた。彼は私有財産を良いものであるとは信じていなかったのである。彼と自らの属する階級の貧窮から動かされる共産主義的熱意は並大抵のものではなく、自分の前に立ち塞がる者には容赦せず、「共産主義のすべての敵を遠慮なく撃ち殺す」と公然に宣言していた。しかしこの熱意はマルクスとの不仲の原因の一つでもあったのだ。ヴァイトリングはマルクスが最も嫌う所である感情的共産主義者であり、革命には経済理論は不要と主張し「あるべき社会」を論ずることに終始したいわゆる空想社会主義者であったのだ。
ある時ニューヨーク在住の亡命ドイツ人へルマン・クリーゲという人物が『フォルクス=トリビューン』という新聞で共産主義を解説するある種、聖書的な表現を用いた記事を書いたのだが、これがヴァイトリングの思想に酷似していたためマルクスは1846年3月にブリュッセルに集まった共産主義者達と決議して、ヴァイトリングの反対を押し切ってこの共産主義の歪曲を行った新聞に抗議状を送った。
関連項目
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