概要
古代のヴェトナムは現在のヴェトナムの北部地帯に限られていたが、中近世にかけて南進が行われ19世紀のグエン(阮)朝時代に今の国境になった。ヴェトナムは古代から現在に至るまで常に大国中国の影響を受け続けた。前漢代から10世紀に入るまでは中国に直接支配され、独立を獲得して以後も頻繁に侵略の脅威にさらされた。中国のヴェトナム支配は軍事的、文化的、経済的と多面的であり、ヴェトナム人は時にそれに反抗し時に迎合した。
1880年代以降はフランスの侵略を受けて植民地となり、太平洋戦争中は大日本帝国の支配下におかれた。戦後、再度ヴェトナムを植民地化しようとしたフランスを第一次インドシナ戦争で打ち破ったものの内乱は継続し、アメリカも介入したことによって泥沼のヴェトナム戦争が始まった。甚大な被害を受けながらヴェトナムは1975年に北部が南部を飲み込む形で統一を果たす。
1978年にはヴェトナムはカンボジアに侵攻した。これはカンボジア内乱を長期化させポルポトの大虐殺の一因となり、更にカンボジアの同盟国であった中国の不興を買った。1986年からは政府が経済発展に力を入れ始め、農業国家から産業国家への推進を図った。先進諸国と比べ現在のヴェトナムは豊かとは言えないものの、人件費の上がった中国に変わって世界の工場となったことで工業化が進み、豊富な若い人口を抱えるヴェトナムの将来の展望を期待する目も強い。
古代ヴェトナム
他の国々と同じくヴェトナムにも建国神話が伝えられている。ヴェトナムの北の山にオウコウ(嫗姬)という内気な精霊が暮らしていた。ある日、彼女が南に出かけたとき怪物に襲われたが、海に住む龍のラクロウクァン(貉龍君)に救われる。彼女はラクロウクァンに恋に落ちて100の子を産んだが、やがて二人はそれぞれ50人の子を連れて山と海に帰っていった。現在でも夫婦の性格から北ヴェトナム人は内気で物静か、南ヴェトナム人は外交的とも言われる。夫婦の子たちはバクヴェト(百越)の先祖となり、特に長男のフン・ヴォン(雄王)はヴェトナム最初の国家と言われるヴァンラン(文郎)国を建てた。
歴史的には、中国に住んでいた人々が揚子江から南下して現在のハノイ近辺の紅河デルタ付近に住み着いたのがヴェトナムの先祖と言われる。商の時代の甲骨文字にも彼らについての記述が見られ、戦国時代に南下してきた人々はこの地にヴァンランのモデルとなったラクヴェト(貉越)という国を建てたが、紀元前258年にアン・ズォン(安陽)王が率いるオゥラク(甌貉)国に統合された。始皇帝が中国を統一すると部下の趙佗にヴェトナムを攻撃させたが、彼はオゥラクを滅ぼした後に秦に背いてナムヴェト(南越)という独立国家を建国してしまった。越とは春秋時代の国家の一つで「石の斧」を意味している。ナムヴェトはその後も漢帝国に反抗的態度をとり続け、彼の子孫は南と西へ領土を拡張していった。
紀元前111年、漢の武帝はナムヴェトを攻撃し滅ぼした。これ以降、ヴェトナム社会に中国式の行政システム、法、宗教(儒教、道教)がますます導入され始める。しかしこれらの中国の風習がヴェトナムの慣習に反していたことが人々の反発を呼んだ。特に古代ヴェトナムが母系社会だったのに対して、中国の儒教が家父長制であることが両者を相容れないものにした。例えばヴェトナムの婿入りの慣習は嫁入りへと改められた。また中国から派遣されてくる官吏はヴェトナム人を侮り、重税を課して苦しめた。こうした中で紀元後40年、上流階級出身のハイ・バ・チュン(徴姉妹)が反乱を起こした。姉妹は北ヴェトナムの主要家族を糾合し、一時的に多くの領土を得て女王となった。しかし漢帝国の軍隊が到着すると鎧袖一触。ヴェトナム軍は敗れ去る。彼女たちは入水自殺して果て、ヴェトナムの独立は水泡と消えた。しかし姉妹は現在でも国家の英雄として仏塔や道の名前に用いられるほどの人気を持っている。その後ヴェトナムは544年まで中国の直接支配を受けることとなる。その間ヴェトナムは朝貢を強いられたが同時に貿易も盛んになり、とりわけ木材の交易が重要視された。
中国からの解放
6世紀の中国は国が南北に分かれる戦国時代で周縁地域への影響力が薄れていた。これを好機と見て541年にリ・ビ(李賁)が交趾郡で反乱を起こす。この反乱の一因として中国から導入されていた道教への反発がある。道教は儒教に比べて自然崇拝に重きを置き、ヴェトナム土着の宗教とも相性がよかった。しかし道教が「テイ(徳)」を重視し、能力のある指導者が自ら権力を獲得する思想なのに対して、ヴェトナムは古来から「ウィーティン(信頼)」を重視し、指導者は人々から選ばれるべきと考えていた。リ・ビは初代南越王の趙佗に触発され中国の領土を侵食した。都をロンビエン(龍編)、国号をヴァンスアン(万春)として独立し、自らはナム・ヴェト(南越)帝を名乗った。しかし545年に中国の反撃を受けて548年に病死した。
だがリ・ビが集めた軍隊はその後も中国に対抗し続け、また中国の南朝も北へと軍事力を集中したかったため、ヴェトナムはしばしの独立を獲得することができた。生粋のヴェトナム人であるチュン姉妹とは違いリ・ビは中国人であり、ヴァンスアン国はあくまで中国式の儒教的国家であった。しかし彼らが非中国宗教である仏教を統治に取り入れたことは注目に値する。リ・ビは特に地方で盛んだった仏教に目をつけて、阿弥陀仏像を建造した。当時のヴェトナムでは大乗仏教が主流になりそれは今日でも変わっていない。仏教は人々の心に根付き坊主は尊敬を集めた。また瞑想を重視するチエン(禅)も広まった。その後ヴァンスアンは中華統一を果たした隋に602年に滅ぼされ、その支配下に組み込まれた。
隋に変わって唐が立つとこの地域は安南と呼ばれるようになり、この呼称は20世紀まで使われることとなる。唐は道教を国教としたためヴェトナムの仏教は迫害された。唐の代宗の時代には日本人の阿倍仲麻呂が都護府に就任し、ヴェトナムの反乱を鎮圧する事件も起きている。907年に唐が滅ぶと中国は五代十国の戦国の世に突入した。当時の北から中央にかけてのヴェトナムには静海軍節度使が置かれており、節度使のクック・トゥア・ズー(曲承祐)は中原の紛争からヴェトナムを遠ざけようとして後梁に朝貢を開始する。しかしその後、後梁から独立した南漢が917年にトゥア・ズーの孫のクック・トゥア・ミー(曲承美)を攻撃しこの地を支配してしまう。だがデルタ南部にはクック氏の家臣のズオン・ディン・ゲ(楊廷芸)が残っており、彼は南漢に反抗を続けた。南漢はズオン・ディン・ゲの支配を認めると同時に現地に役人を送り、この地を裏から支配しようとした。
937年にズオン・ディン・ゲは暗殺される。彼を殺したキェウ・コン・ティエン(矯公羨)は新たな支配者を名乗ったが、ズオン・ディン・ゲの娘婿のゴ・クエン(呉権)がこれに対抗して兵を挙げた。南漢皇帝はキェウ・コン・ティエンの要請を受けて王子の劉弘操を指揮官とし、2万を超える兵を艦隊に乗せて南に派遣した。ヴェトナム水軍は小舟だけで構成されており、まともに戦っては勝ち目はなかった。そこでゴ・クエンは引き潮になると水面にでるように調整した杭をバクダン江(白藤江)の川底に打ち付けさせた。その後、ゴ・クエンは満ち潮を狙って中国水軍をバクダン江におびき出した。引き潮になった途端、中国の戦艦は強い潮の流れによって突然現れた杭に吸い寄せられ、次々と引き裂かれていった。中国軍は半数が死亡し劉弘操も戦死した。
王朝の興亡
王となったゴ・クエンは国名をダイヴェト(大越)、首都をコーロア(古螺)に定め中国からの独立を果たした。ゴ・クエンは死の直前に息子のゴ・スオン・ガップ(呉昌岌)の摂政としてズオン・タム・カー(楊三哥)を任命したが、ゴ・クエンの死後に彼は王位を簒奪してしまった。ズオン・タム・カーは不人気な王で内外で反乱が頻発したため950年にゴ・クエンの次男のゴ・スオン・ヴァン(呉昌文)はズオン・タム・カーを追放し、兄のスオン・ガップと共同統治を開始した。この行為は名誉的だと賞賛されたが、権力の座に登ったスオン・ガップが暗君であることがまもなく判明する。スオン・ガップは954年にセックスの途中に心臓発作に襲われ崩御し、965年にスオン・ヴァンも亡くなると、スオン・ガップの息子のゴ・スオン・シー(呉昌熾)が後を襲ったが、大越は既に国内の12州の支配者達が王位を狙う戦国時代(十二使君の乱)に突入していた。
やがて十二使君の一人であるチャン・ミン・コン(陳明公)の配下だったディン・ボ・リン(丁部領)が968年にヴェトナムを平定し、国名をダイコーヴェト(大瞿越)と改め皇帝となった。本来皇帝はこの世に二人いてはならない存在であり、皇帝と名乗ること自体が中国への挑発行為であったが、ディン・ボ・リンは当時力をつけていた宋に使節を送って平伏したため宋は彼を静海軍節度使として認可した。ディン・ボ・リンは3年に一度莫大な朝貢を行うことで皇帝を名乗り独立を保ち続けた。彼はその治世で軍事、行政改革を次々と断行した。また彼には叛逆者を生きたまま虎に食わせたり釜茹での刑で報復するなど残虐な面もあった。その反動が来たのか979年、ディン・ボ・リンは長男と共に殺され、後を継いだ末子も将軍のレ・ホアン(黎桓)によって皇位を追われた。
980年にレ・ホアンは前レ(黎)朝を建て皇帝となった。前レ朝は儒教より仏教を重視し、道や運河の開拓に勤しんだ。また青銅通貨を発行し寺院を建造した。981年、ヴェトナムの混乱を見て北宋は南下を企て始める。レ・ホアンは中国に「いまだディン・ボ・リンの息子が王であります」と言い逃れするが、戦争は止められなかった。レ・ホアンはバクダン江で宋の軍勢を辛くも打ち破り、その後開封に大使を送って平和条約を結んだ。また同時期に現在の南ヴェトナムにあったチャンパーも北に向けて小さな侵攻を繰り返していた。チャンパーのパラメーシュヴァラヴァルマン1世は北に向けて大軍を仕向けたがこれは嵐によって頓挫する。対宋戦争に集中したいレ・ホアンはチャンパーとの和平を願うが拒否されたため、彼は北宋戦争終結後に南下してチャンパーの首都を攻略した。
1005年にレ・ホアンが崩御すると彼の息子達は後継者争いを始め、兄皇帝を殺したレ・ロン・ズィン(黎龍鋌)が即位した。彼は痔持ちであり「臥朝(玉座に臥せる皇帝)」の異名をとった。一方で残虐な刑罰を繰り返す暴君であり、反乱が多発した。酒色に耽る皇帝の代わりに政務をとっていたのはリ・コン・ウアン(李公蘊)であり1009年にレ・ロン・ディンが亡くなると彼は推戴を受けて皇帝に登った。リ朝の始まりである。
リ朝
皇帝に即位したリ・コン・ウアンは国民全員を自らの子と考えており、彼らの悩みや問題を積極的に聞いた。宮殿の前に鐘を置き、それを鳴らした者は直接皇帝に言葉を届けられるという伝説まであった。また首都を山岳地帯にあったホアルー(華閭)からタンロン(昇竜、現在のハノイ)に遷した。タンロンは軍事的には弱い都であったが、平地にあるため経済や政治は潤滑になった。リ朝皇帝は仏教を好んだが同時に宋明理学(新儒教)にも重きを置いており、1070年、リ・タイン・トン(李の聖宗)の治世でヴェトナムで初めての大学が建てられ、儒教が教授された。またリ朝では君命や慣習法より成文法が重視された。リ朝は前代王朝と違い、軍事でなく法と経済によって国を治める文治国家であった。
例によってリ朝も平和を保つために中国を宗主国と仰ぎ続けていたのだが、1074年から関係が悪化しやがて戦争が始まった。まず宋はヴェトナムとの貿易を止めて大越経済に打撃を与えた。宋の神宗は「大越はチャンパーに大敗した」「大越の軍隊は1万しかいない」という進言を真に受けて本格的に兵を動かしたが、逆に10万のヴェトナム軍に攻め込まれてしまった。ヴェトナム軍は永州市を42日間も包囲して苦しめ、陥落後は大虐殺を行ったとされる。その後、逆襲に燃える何十万もの北宋軍は国境を超えて今度はヴェトナムの首都を包囲した。風向きが変わり意気消沈するリ朝軍に向けて将軍のリ・トゥオーン・キエット(李常傑)はヴェトナム初の独立宣言とも呼ばれる『南国山河』という名詩を吟じた。これによって奮起したヴェトナム軍に加えて北宋軍を苦しめたのが東南アジアの気候であった。結局、両軍は休戦協定を結ぶこととなる。
13世紀の初頭からリ朝政権は動揺を露わにし始める。中国との貿易によって富裕層が台頭し、地方だけでなく中央政治にも影響力を伸ばした。リ・カオ・トン(李の高宗)が3歳で即位すると宮殿内は権力争いが続いた。カオ・トンは奢侈に走り、民衆は飢饉に苦しんだ。やがて紅河デルタの河口付近の富裕な漁師で同時に海賊でもあったチャン(陳)氏が宮殿で影響力を振るうようになる。チャン氏は一族のリン・トゥ・クォク・マウ(霊慈国母)を皇太子(後のリ・フエ・トン。李の恵宗)に嫁がせますます権勢を得た。1224年にフエ・トンは退位して7歳の娘(リ・チェウ・ホワン。李の昭皇)に皇位を譲った(ちなみに彼女はヴェトナム史上唯一の女帝である)が、チェウ・ホワンの夫はチャン氏の者であり、すぐさま皇位は8歳の旦那(チャン・タイ・トン。陳の太宗)に奪われた。ここにチャン朝が成立する。その立役者となったのがタイ・トンの叔父のチャン・トゥ・ド(陳守度)である。チャン・トゥ・ドはリ朝最後の皇帝となったフエ・トンを「古き者は消え去るべきだ」と言って自害に追い込み、のみならずリ朝皇族を寺院に集め皆殺しにしている。
チャン朝
チャン朝は仏教を迫害する一方で儒教を重視し、1100年以降停止していた儒教古典を用いた官吏採用試験(科挙)も復活させている。また外戚の専横を防ぐために親戚内での婚姻を奨励した。また、この時代のヴェトナムでは中国の風水にも似た土地占いの風習が広まり、縁起の良い土地に墓などが作られた。当時クメールの支配域にあったホーチミン市(サイゴン)がフランスの到着まで未発達だったのはこの地が土地占い的によろしくなかったためとされる。更にチャン朝は、それまで話し言葉であり、漢字と比べると野蛮な言葉とされていたヴェトナム語をチュノム(字喃)文字という独自の言葉を用いて記述させた。これによって文化的にもヴェトナムは中国から独立することができ、国史編纂や民話の記述が進んだ。チュノムの発展は演劇や舞踊の発展も推進した。
チャン朝は宋と良好な関係を結んでいたが、時代の趨勢は既にモンゴル(後に大元ウルス)に向いていた。モンゴルは南宋を滅ぼすためにチャン朝に援軍を頼んだがチャン・タイ・トンがこれを拒否したため1258年に第一次侵攻が開始された。チャン軍は戦象を用いてモンゴル軍を翻弄したが、モンゴル軍は火矢でこれに逆襲した。強靭なモンゴル軍の前にタイ・トンは逃亡し、首都は陥落した。しかしモンゴル軍はヴェトナムの気候に馴染めずすぐに撤退した。1276年に南宋が滅びるとモンゴルは今一度ヴェトナムに降伏を求めた。その頃にはチャン朝も大元ウルスに朝貢を開始していたが、1284年には元は再び大越に兵を送りこの地を支配しようと目論んだ。モンゴル軍はまたも首都を獲得するが、大越軍は焦土作戦を取りながら散り散りに逃亡したためモンゴル軍は困惑するばかりであった。幾度と皇帝のチャン・ニャン・トン(陳の仁宗)を捕らえようとするが、これも失敗する。やがて気候と疫病で士気が下がり、ついにはヴェトナムの奇襲を受けてモンゴル軍は総大将が戦死するほどの大敗を喫して撤退した。クビライはこれに怒り、第三次日本侵攻を送らせてまで大越攻撃に力を注がせた。雲霞のようなモンゴル水陸両軍は再び首都を陥落させるが、バクダン江にてかつてのゴ・クエンが南漢を破った水杭の作戦に嵌り大損害を被った。第四次大越侵攻も計画されていたがクビライの死によって頓挫する。
14世紀に入ると気候変動により洪水と飢饉が多発し、それを原因とした反乱が相次ぎチャン朝に動揺が走った。中国と同じく大越でも度重なる天災は、支配王朝がもはや天命を失ったと見なされた。そんな中、チャン・アイン・トン(陳の英宗)は宮廷の腐敗を取り除き、1306年には長く対立していたチャンパーのシンハヴァルマン3世と友好な関係を結んだ。チャンパーは西のクメール王国に集中するためにアイン・トンの娘を正妻に迎え入れた。しかしシンハヴァルマン3世が亡くなったときヒンドゥー教の慣習に則って、アン・トンの娘に殉死を迫ったためアイン・トンはチャン・カク・チュン(陳克終)を派兵して娘を奪還した。この時の奪還作戦は後世のヴェトナム文学の人気テーマとなる。結局両者の関係は破綻し大越はチャンパーに侵攻を開始した。ヴェトナム軍は新王シンハヴァルマン4世を捕虜にした後に、親ヴェトナム的な王を立てたが、両者の関係が親密になることはなかった。
1341年にはチャン・ズ・トン(陳の裕宗)が即位したが、実権は上皇のチャン・ミン・トン(陳の明宗)が握っていた。ミン・トンの死後、ズ・トンは贅沢を好み、宮殿の増築を望んだ。ズ・トンが死ぬと、チャン氏でないズオン・ニャット・レ(楊日礼)が即位した。彼もまた贅沢に耽ったためクーデタ計画が起こり1370年に処刑された。その後、チャン朝の政治は乱れ、皇帝が殺される異常事態が続き、対外的にもチャンパーにも大敗することとなる。1390年代後半にはホー・クイ・リ(胡季犛)が実権を握った。チャン・フェ・デ(陳廃帝)は彼を除こうとするが失敗し、チャン・トアン・トン(陳の順宗)が即位するとホー・クイ・リは彼に退位を迫り、3歳のチャン・ティエウ・デ(陳少帝)を玉座につけた。ファン・トンは翌1399年に彼に忠誠を誓う300人以上の宮人と共に処刑され、ホー・クイ・リは皇帝の座に登った。絶頂に達したホー・クイ・リであるが1407年に明がヴェトナムに侵攻し彼を追放した。明は以降20年ヴェトナムを支配したが、根強い反攻に辟易として北に撤退してしまった。ここに権力の空白が生じてヴェトナム社会は混乱し、この際に多くの文化財が破壊された。
レ朝
混乱の中で、対明戦争でゲリラ戦法を駆使して名をあげたレ・ロイ(黎利)が台頭した。彼が起こしたレ朝(後レ朝前期)は創設直後から官僚主義の弊に陥り、二代皇帝のレ・タイ・トン(黎の太宗)が幼かったことから宮廷官僚は横暴になり政治は腐敗した。タイ・トンは不審死を遂げ、三代皇帝も庶兄によるクーデタで殺され、その兄もまた禁軍によって殺害された。その次に皇位についたのはレ朝屈指の名君と呼ばれるレ・タイン・トン(黎の聖宗)であった。タイン・トンは四書五経を読破する知識人で、レ朝はその年号をとって光順中興と呼ばれる繁栄の時代を迎えた。タイン・トンはヴェトナムの慣習に基づいたホンドゥック(洪德)律例を整備した。この法典は女性の遺産相続権を認めたり、法の遡及を禁じるなど現代的な面がある法典であり、18世紀に至るまでヴェトナムで尊重された。
またタイン・トンは南進と呼ばれる領土拡張を行い、1470年にチャンパーの領土侵犯に反撃をする形で侵略を開始する。東アジアで中国に次いで精強な軍隊を持つ大越は陸と海の両方からチャンパーの首都を攻めたてた。チャンパーは明やクメールに助けを求めるが、実質的にこれは無視された。王のチャ・トアン王は殺され、チャンパーの大部分は大越に併合されてしまう。残されたわずかな自治領も朝貢を強制された。その後、チャンパーは1832年まで存続するものの、もはやヴェトナムを攻撃する余力を失っていた。チャンパーを起点とした貿易も大越がまるまる引き継ぐこととなる。この南進により大越は現在の中部ヴェトナムを獲得した。南部まで到達するには17世紀まで待つこととなる。
1497年にタイン・トンが死ぬとレ朝はゆっくりと衰退の道を辿った。1520年代初頭から内乱が相次ぎ、国は分裂した。宮殿でも権力争いが続き、その中でチン(鄭)氏とグエン(阮)氏が頭角を表したがマク・ダン・ズン(莫登庸)によって駆逐された。1527年にマク・ダン・ズンは皇帝の座につきマク朝を起こしたが、南に逃れていたチン氏とグエン氏の残党たちはレ朝復活を掲げてマク・ダン・ズンに対抗した。その後のヴェトナムでは次々と有力派閥が起こっては暗殺されて滅びていった。1592年にマク朝は滅びるがヴェトナムの分裂は続き、ヴェトナム北部をチン氏が、南部をグエン氏が支配することとなった。両氏の争いは以後300年続くこととなる。
チン氏とグエン氏とタイソンの三つ巴
チン氏の支配していた北部は物理的に近いこともあり中国文化の影響を強く受けた。社会制度のみならず精神的にも中国化していった北部ヴェトナムはその反動として地方分権が進み、チン氏は出兵義務と貢納金の提出を課す以外は各地の豪族に自治を与えざるを得なかった。またチン氏はレ朝の皇帝を名目上の国のトップに据えていた(後レ朝後期)。北の宮廷では儒家が重んじられ、ヴェトナム固有の知識人は後退したが、チン氏の支配下でヴェトナム史で最も有名な詩人の一人であるグエン・ビン・キエム(阮秉謙)も活躍している。
一方でグエン氏の中央・南部ではヴェトナム固有の文化が尊重された。両氏は1627~72年にかけて紛争を起こした。数で勝るのは北部であったが、隘路の多いヴェトナムでは大軍の軍事行動が困難だったこと、さらに南部では西洋の火器を輸入していたことが有利に働いた。グエン氏は1655年に北部を攻撃し、当初は順調だったもののチン・タック(鄭柞)将軍の前に破れた。しばしの膠着状態の後、1672年には今度はチン氏が南部を攻撃するもこれも失敗する。1673年に停戦条約が結ばれ、南部は北部のレ朝の皇帝を承認し、北部は南部の支配を承認した。
1700〜1765年にはチン氏とグエン氏は平和を保っていたが、後に関係は悪化した。南部でグエン・フック・コアット(阮福濶)が死ぬと後には12才の少年が王座につき宰相のグエン・フック・ルアン(張福巒)が補佐した。この宰相は過酷な統治を行い、国民の不満を呼び国体を弱体化させた。同時期、南山岳部のタイソン(西山)でグエン・バン・ニャク(阮文岳)、グエン・ヴァン・フエ(阮文恵)、グエン・ヴァン・ルー(阮文侶)の3兄弟が勢力を伸ばしていた。彼らはグエン氏であるが南部グエン氏と名前がかぶるので出身地からタイソンと呼ばれる。タイソン兄弟はレ朝の復帰を旗印に1771年にグエン氏に反乱を起こした。チン氏もタイソンに応じて南下したため1777年にグエン氏は滅んだ。その後バン・ニャクは弟のヴァン・フエの反対を押し切って皇帝に即位したことでチン氏とタイソン朝の争いは激しくなる。1786年にヴァン・フエはチン氏を倒し、レ朝の王女のレ・ゴック・ハン(黎玉昕)と結婚して皇族の一員となった。結局、チン氏もグエン氏も最終的な勝利者になることはできなかったことになる。こうしてタイソン三兄弟はヴェトナム統一を目の前にするも1787年にヴァン・ルーが死去すると上の二人の兄弟は内訌を起こす。
西洋列強とグエン朝
1500年以降、東南アジアにもキリスト教宣教師が進出していたが当時はヴェトナムに居つくことはなかった。その後、日本で活動していたイエズス会の宣教師が1614年のキリスト禁教令によって日本から追放されて東南アジアに来訪する。イタリア、スペイン、ポルトガルと多国籍の宣教師がヴェトナムにやってきたが最も大きな足跡を残したのはフランス人宣教師のアレクサンドル・ドゥ・ロードであった。ドゥ・ロードはグエン氏の支配地域にてヴェトナム語を習得し、ラテン語で書かれていた聖書をヴェトナム語に訳し、後にヴェトナム-ポルトガル-ラテン語の辞書も出版している。
チン氏の北でも布教活動を進めていたドゥ・ロードであるが1630年には南ヴェトナムのスパイの嫌疑をかけられ追放されてマカオに移る。しかし彼の熱意は衰えず1640年前後に再び南ヴェトナムで布教活動を始めた。グエン氏はキリスト教の普及を脅威に感じ始め彼に死刑を宣告し、減刑して追放処分にした。以降ドゥ・ロードがヴェトナムに戻ることはなかったが、彼の努力によってヴェトナムでは多数派にならないまでもキリスト教は特に南部で一定の影響力を持つに至った。彼の布教活動によって6000人の信徒が誕生したとされる。
時代戻って18世紀末、ヴェトナム最南部で南部グエン氏の最後の王であるグエン・フック・アイン(阮福暎)がシャムとフランスの援助を受けて南部のみならずヴェトナム全体を取り戻すことを企図していた。グエン・ヴァン・フエが死んだ翌年の1793年にグエン・フック・アインは清やフランスの手を借りてタイソン朝を倒し1802年に全ヴェトナムの皇帝、ジャロン(嘉隆)帝となることを宣言した。清もこれを認めグエン朝が始まった。現在のヴェトナムの領土を全て支配した王は彼が史上初であり、また初めてヴェトナム(越南)という呼称が国号に用いられた。
元々ヴェトナムの地は南のフランスと北のポルトガルが覇権を争っていたが、18世紀半ばにはポルトガルは駆逐されフランスの独壇場となっていた。フランス人の数は少なかったが先進的な技術の導入は彼らの存在感を強めていた。ジャロンもフランスの脅威を感じながらも清やシャム、クメールやイギリスなど他の敵と戦うためにフランスと手を組んでいた。ジャロンの後を継いだミンマン(明命)帝は貿易はダナン(沱㶞)港でのみ皇室相手だけに制限し、新たな宣教師の入国を禁じた。一方で彼はフランスの医者を宮殿で働かせた。欧州の影響力を完全に拒否するのではなく一部の領域に封じ込めるこのやりかたは日本の長崎出島に貿易港を限定した日本の鎖国と似ている。
フランスの侵略
二代皇帝ミンマンは儒教の信奉者であり西洋人を「野蛮人」と呼び憎悪していた。1833年にヴェトナムで反乱が発生し、フランスの協力も得た反乱軍はサイゴン一帯を含めた南ヴェトナムの一部を支配した。ミンマンは数年がかりでこれを鎮圧しなければならなかった。この反乱の首謀者のレ・ヴァン・コイ(黎文カイ)はカトリックだったため、ミンマンは国内のカトリック教徒を逮捕し残酷な処刑法で殺した。以降のカトリックの布教活動は非合法的に行われることとなる。次のティウチ(紹治)帝は更に激しくカトリックを迫害したため、フランス本国の怒りを生んだ。グエン朝によるキリスト教迫害は1860年の講和条約まで継続されることになる。
19世紀半ばにはフランスもナポレオン戦争の傷跡から復活し、イギリスに追いつくべく植民地獲得に乗りだしていた。1847年にフランスは2隻の軍艦をダナンに派遣し、投獄されていた宣教師の解放を要求した。交渉が決裂するとフランスの軍艦は港と街を破壊した。ティウチは全港湾の軍備増強を命じ、国内全てのカトリックを処刑しようとしたがその直後に崩御し、君臣達はこれ以上欧州列強を挑発する真似はできないとしてその命令を遂行しなかった。ヴェトナムにもすでに大国清がアヘン戦争で大敗していることは伝わっていたのだ。1857年にトゥドゥック(嗣徳)帝が宣教師を殺したことで、翌年フランスはシャルル・リゴー・ド・ジェヌイに14隻の軍艦を与えヴェトナムに派遣した。フランス軍は疫病と粘り強いヴェトナムの抵抗にあいながらもついにサイゴンまで攻略した。
その後、数年にわたって南ヴェトナムでフランスとヴェトナムの戦いが続いた。技術的には圧倒するフランスであるが、ヴェトナムには数とホームランドのアドバンテージがある。決め手となったのはヴェトナム人がグエン朝を見限り始めたことであった。フランスの脅威はグエン朝の天命がすでに尽きた印象を与えたし、元々南ヴェトナムにはカトリックも多かった。南ヴェトナムではカトリックの反乱が発生し、これはフランスですら鎮圧できなかった。日和見に回った者も大勢いた。1862年、サイゴン条約が結ばれて戦争は終結する。フランスはサイゴンや、貿易の要所であったメコンデルタ付近の島々を獲得し、コーチシナと呼ばれる支配地域を認めさせた。もはやグエン朝の権威は地に落ちていた。
1867年にヴェトナム植民地総督のピエール=ポール・ド・ラ・グランディエールが中央ヴェトナムに侵攻し、その地を治めていたファン・タン・ジャン(潘清簡)は無駄な血を流すことはないと毒を飲んだ。彼は現在でもヴェトナムの英雄の一人に数えられる。1883年にフランスと、清とヴェトナムの連合軍との間に清仏戦争が開始された。フランス軍が清艦隊を撃破し国境の町のランソン(諒山)を占領すると不利を悟った李鴻章はフランスと条約を結び、清はヴェトナムから撤退してしまった。こうして1885年、ついに全ヴェトナムがフランスの保護国となり、グエン朝皇帝は完全な傀儡となった。フランスは北部ヴェトナムをトンキン、中部をアンナン、南部をコーチシナと呼び、カンボジア、ラオスも含めた全植民地を仏領インドシナと言う。
独立を目指して
フランスは土地税を1.5倍、人頭税はなんと5倍に引き上げヴェトナム人を厳しく搾取した。一方でフランス人権宣言に基づいて少なくとも表面的にはヴェトナム人に人権を与え、パリのリセをモデルにした学校を建てて彼らに教育を施した。漢字や科挙は廃止され代わりに西洋思想がそこで教えられた。信教の自由も名目上は与えられ、儒教、仏教、キリスト教、ヴェトナム固有宗教の何を信じても良いこととなった。フランスはハノイやサイゴンなどの都市をヨーロッパ化しようと計画していた。道路は舗装され、治水工事が行われ、近代農業が導入された。ハノイの一部は現在でもまるでパリと見間違うような景観が見られる。富裕なヴェトナム人は次々と子息をヨーロッパに留学させ、近代的な工学、医学、経営を学ばせた。彼らは帰国後に独立運動で活躍する者も多く、その中には当時のヨーロッパで流行していたマルクス主義に感化される者もいた。ホー・チ・ミン(胡志明)もその一人である。
20世紀に入ってからの数十年でヴェトナム社会は大きく変動した。1920年代にはカオダイ(高台)教、30年代にホアハオ(和好)教という反フランス的新宗教が勃興している。1904年に民族運動指導者のファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が孫文をモデルにして革命的組織の維新会を設立する。ファン・ボイ・チャウはフランス支配を打破するために日露戦争ではじめて西洋列強を倒したアジア国家である日本を訪れて協力を仰ごうとした(ドンズー運動、東遊)が、日本は列強の圧力を受けて彼を国外追放した。1924年にはファン・ボイ・チャウは反フランス勢力を糾合するが失敗し、逮捕されたチャウはフエ郊外で40年に亡くなるまで軟禁状態に置かれた。彼の著作の琉球血涙新書と越南亡國史は革命運動に強い影響を与えた。
ファン・ボイ・チャウの次に名を挙げたのはホー・チ・ミンである。彼は母語の他に中国語とフランス語と少しの英語が話せる秀才であった。数奇なことに、彼が少年時代に通った学校には後にフランスやアメリカとの戦争で大きな役割を果たすヴォー・グエン・ザップ(武元甲)やファム・ヴァン・ドン(范文同)。更には南ヴェトナム共和国の首領としてホー・チ・ミンと敵対するゴ・ディン・ジエム(吳廷琰)も在籍していた。ホー・チ・ミンの生涯は共産党による虚飾が多くどこまで真実かわかりづらいが、20代の頃に欧州諸国を訪れて共産主義を学んだことは確かなようだ。その後ホー・チ・ミンはモスクワのエージェントとして中国やタイなどで活躍した。
太平洋戦争が勃発すると1940年に大日本帝国がコーチシナに進駐する。翌年にホー・チ・ミンは20年ぶりにヴェトナムに帰還して、旧友と共にベトミンのゲリラ戦や地下活動に参加した。反日運動で活性化したこの組織でホー・チ・ミン達は指導者の立場を獲得し、ベトミンは共産主義者によって運営されるようになった。コミンテルンや中国共産党はベトミンを資金的に援助し、日本と戦っていたアメリカも武器の配給を申し出た。日本軍はヴェトナムの都市を抑えることができても、村落部の反抗を鎮圧することができなかった。1945年に入ると劣勢の日本はフランス総督府を押し込め、より抑圧的にヴェトナムを直接支配に乗り出した。戦中の日本の食料徴発によって多くのヴェトナム人が餓死に追い込まれている。
第一次インドシナ戦争
日本が敗戦すると、フランスのシャルル・ド=ゴールはヴェトナムを再植民地化しようと考えた。戦前に比べると格段にヴェトナム有利な条件が提示されるも、ヴェトナムにとってそれは到底受け入れられるものではなかった。南ではフランスの残党がヴェトナム奪還を虎視眈々と狙っており、北でも蒋介石がヴェトナムへの支配力を強めようときなくさい軍事運動を見せていた。それに対抗するためホー・チ・ミンは国内の権力を接収し(8月革命)、独立宣言をだしてヴェトナム民主共和国を建国した。皮肉にもホー・チ・ミンはこの宣言の中で、フランス人権宣言を引用して自由と平等を訴えた。
その後フランスとの交渉は行き詰まり、第一次インドシナ戦争が勃発する。フランスはグエン朝最後の皇帝であるバオ・ダイ(保大)を復位させて共産党に対抗した。お互いに残虐行為の応酬が繰り返され戦争は泥沼化した。本来ならば侵略者のフランスに一致団結して挑むべきところであるのが、反抗する者全てを虐殺、暗殺するベトミンの国民人気も極めて低かった。1949年に中国で内乱が終結すると毛沢東とコミンテルンはホー・チ・ミンを支援し、アメリカはフランスを支援したことで、国内騒乱は冷戦戦争に発展した。その一方でフランス本土でも金銭的、人的被害が嵩んでばかりのインドシナでの戦争に徐々に懐疑的な声も出始めていた。
1954年にヴェトナムとフランスはディエンビエンフー(奠邊府)で最後の決戦に臨む。フランス軍はヴェトナム軍に高地を取られながらも空爆と砲撃のアドバンテージによって地の利の差はないと楽観視していた。しかしヴェトナム軍は中国から供給された対空砲を設置し、大砲を人力で高地に運んでフランス軍に猛攻撃をしかけた。ヴェトナム軍の攻撃により空輸、空爆は滞り、フランス軍の士気は鈍った。しかし第二次世界大戦でならしたフランス軍は強く、また捕虜になればベトミンから残酷な仕打ちがまっているとして徹底的に抗戦した。両者共に凄まじい犠牲者を出した後、ディエンビエンフーの戦いはヴェトナムの勝利で終わった。これは同時に第一次インドシナ戦争の終結を意味していた。
講和会議のジュネーブ会議には米仏英ソ中の五大国に加えて、北ヴェトナム、南ヴェトナム、ラオス、カンボジアが参加した。この会議によってとりあえず北緯17度を境にヴェトナムを南北に分割し、将来国際監視委員会の下で全国統一選挙を行うことで統一させることが決まった。しかしバオ・ダイは署名を拒否し、アメリカも協定を尊重はするが調印はしないと表明した。統一選挙も実施されてしまえばホー・チ・ミンが勝利することは明らかだったので結局行われることはなかった。
ヴェトナム戦争とその後
1955年に南ヴェトナムではバオ・ダイはアメリカの信任を得たゴ・ディン・ジエムによって除かれ、ゴ・ディン・ジエムはヴェトナム共和国の大統領となった。その一方、北ヴェトナムの共産党はアメリカの介入を嫌ったホー・チ・ミンに変わってレ・ズアン(黎筍)を指導者に祭りあげ、1960年に南ヴェトナム民族解放戦線(ベトコン)を設立する。ゴ・ディン・ジエムとベトコンの争いは野蛮であったが50年代にかけてはまだ小規模なものに止まっていた。しかし60年代にかけてベトコンのテロ攻撃は続き、それに応じてアメリカの戦力も増強されていった。
1963年に独裁の色を強め、縁故主義で腐敗し始めていたゴ・ディン・ジエムが軍隊に暗殺される。アメリカも既に操縦不可能になっていたジエムを見限っており、このテロは黙認された。1964年にはトンキン湾事件が発生し、アメリカの軍事介入はますます強化された。65年からヴェトナム戦争は本格化する。アメリカは北ヴェトナムに空爆を開始し、ジャングルを焼け野原にした。枯葉剤の使用、ソンミ村の虐殺などの残虐行為はメディアによってアメリカのお茶の間に届けられ、本土のみならず世界中の反戦感情は止まることを知らなかった。1968年にテト攻勢が始まると、戦略的には南ヴェトナムとアメリカ軍が優勢だったもののテレビではアメリカ劣勢の印象を与え、厭戦気分をますます高めさせた。
1968年にニクソンが大統領になると彼はヴェトナムから撤退する方法を模索し始めた。アメリカはホー・チ・ミンと交渉を持とうとしたが彼は既に一線を退いており更に1969年には亡くなってしまったため73年にかけて北ヴェトナムとの和平交渉を開始した。だがアメリカが南ヴェトナムの存続を第一条件としたため交渉は決裂してしまう。アメリカは北爆を過激にすることで今一度北ヴェトナムは交渉のテーブルにつかせて、ついに南ヴェトナムの継続とアメリカの撤兵が決定された。しかし約束は破られ1975年にサイゴンは北ヴェトナムの猛攻を受けて陥落し、ヴェトナムは統一された。この際に何十万もの難民が発生し、彼らはか細いボートにのって国外脱出を図ったためボートピープルと呼ばれた。
1978年にヴェトナムはクメールルージュの支配していたカンボジアに、カンボジア国内のヴェトナム人保護を名目に侵攻する。ヴェトナム軍はポルポト政権を打倒するが、中国とカンボジアは同盟関係にあったため、以前からの領土紛争もあって中国関係は悪化した。中国は米ソに承認を得た上でヴェトナムを攻撃し一部の領土を奪い取った。中国やカンボジアとの戦争が終わってから現在までヴェトナムは平和を保っており、80年代からはドイモイ(刷新)政策を開始して、中国に続いて市場開放を始めた。かつてヴェトナムの農民は合作社という組織に加入して計画経済によって生産に励んでいたが、生産請負制が導入されるとノルマを超えて生産した分は農家の収入にすることができるようになった。
チャンパー
チャンパーは2世紀から近世まで現在の中部ヴェトナムに存在した国である。チャンパーの住民(チャム人)は北部のヴェトナムとは民族的に異なり、インド的な国家であるとされている。王国と呼ばれるが、実際は複数の勢力がモザイク状に入り混じった群雄割拠地帯であった。中国史料には192年にチャンパー建国が記されており、以降ヴェトナムが中国に支配されている間は中国の侵略を受け、特に446年には首都が劫掠されて酷い被害を被っている。その後ヴェトナムが独立すると今度は北のヴェトナムと更に南のクメール王国からも攻撃を受け11世紀には衰退の色を濃くしていた。15世紀にレ朝の攻撃によってチャンパーはヴェトナムにほぼ併合されるが以降も細々と存続する。チャンパーは海洋貿易の重要拠点であり、特にクウラウチャム島(チャムの島の意)は日本人も朱印船貿易で東南アジアに航海する際は必ず目印にしていたとされる。
関連動画
関連静画
関連項目
- 歴史
- 世界史
- ベトナム
- 徴姉妹(ハイ・バ・チュン)
- 越蒙戦争
- ファン・ボイ・チャウ
- ファン・チュー・チン
- ホー・チ・ミン
- ベトナム共産党
- 第一次インドシナ戦争
- ベトナム大飢饉(1944~45年)
- ベトナム戦争
- 『History of Vietnam: A Captivating Guide to Vietnamese History』captivating history
- 『物語 ヴェトナムの歴史』小倉貞男
- 『東南アジア史 大陸部』石井米雄、桜井由躬雄 編
- 『これならわかるベトナムの歴史 Q & A 』三橋広夫
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