一人十殺(いちにんじゅっさつ)とは、大東亜戦争末期に使われた標語である。
概要
最初に使われたのは、1944年5月に硫黄島へと赴任してきた栗林忠道中将と言われている。今まで水際防御に傾倒し、すぐ万歳突撃をするのが日本軍守備隊の主戦法であったが、栗林中将は「これではアメリカ軍を喜ばせるだけだ」と部下を諌めた。そして万歳突撃を厳禁し、「一人十殺」を合言葉に定めた。一人で十人の兵士を殺すまで死ぬ事は許さないという意味である。
次に登場したのは、1945年1月27日付の沖縄新報の紙面上だった。第32軍参謀長・長勇少将は新聞談話で「ただ軍の指導を理屈なしに素直に受け入れ、全県民が兵隊になる事だ。即ち一人十殺の闘魂をもって敵を撃破するのだ」「沖縄県民決戦の合言葉は一人十殺、これでいけ」と語っている。
2月15日に発布された戦闘指針に再度登場。この時は一人十殺一戦車になり、標語として周知が徹底された。硫黄島の戦いが佳境に入った3月8日、栗林中将は「まだ勝てる。以後一人十殺は一人五十殺に訂正する。一人五十殺、これなら勝てるぞ」と語ったという。この訓示は直ちに各部隊へ伝えられ、すさまじい闘志を持ってアメリカ軍に出血を強いた。3月29日付の朝日新聞は「合言葉は一人十殺、竹槍なくば空手で 老幼も立つ沖縄県民」と報道した。
沖縄戦では、一人十殺が合言葉として使われた。敵味方の判別がつかない場合、「一人、一人」と語りかける。「十殺」と返ってくれば味方、そうでなければ敵と識別に役立った。
関連項目
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