概要
一条戻橋 |
京都市上京区堀川一条に架かる橋。全長6.8m、幅4.2mと、小さな橋だが幅広の印象を受ける。
洛中と洛外を繋ぐ橋として、様々な伝承が残されてきた歴史ある橋なのだが、現在の姿は、1995年に架けなおされた何の変哲も無いPC(プレストレスト・コンクリート)橋である(右図参照)。
以前まで橋下の堀川は下水道整備などの影響で水が無く、コンクリートむき出しの殺風景な姿であったが、京都市河川課の「堀川水辺環境整備構想」によって2009年3月に水流が復活、現在は市民憩いの河川公園として整備されている。
最初に架けられたのは平安京造営の794年とされ、当初は小さな木橋であったという。昭和初期に鋼橋にかけなおされるも戦時中に接収、戦後は石橋が架けられた。この石橋の欄干親柱を使ったミニチュアが100mほど北にある晴明神社に再現されている。
「戻橋」の名から、婚礼前の女性や葬列はこの橋の付近を通らないようにする風習が今も残る。一方で戦時に出征する兵士は無事戻ってこれるようこの橋を渡ってから戦地に赴いたという話も残る。
陰陽師・安倍晴明が橋のたもとに式神をおいていたという伝承があったり、豊臣秀吉の反感を買って死んだ千利休や島津歳久の首が晒されるなど、様々な逸話に事欠かない。その中からいくつかを次項で紹介する。
一条戻橋に伝わる伝承
名前の由来(『撰集抄』第七巻)
架けられた当初から「一条戻橋」の名があったわけではなく、当初は「土御門橋」と呼ばれていた。
平安初期の918年(延喜18年)のこと、熊野の僧侶・浄蔵の父親、文章博士三善清行(みよしきよつら)が亡くなった。その死に目に会えなかった浄蔵が熊野から駆けつけたところ、丁度葬列がこの橋を通りかかるところだった。浄蔵が「死ぬ前に一目会いたかった」と棺にすがり泣くと、雷鳴が鳴り響くとともに清行が一時生き返り、最期の会話を交わしたという。
この伝承から橋は死者が戻ってきた橋として「戻橋」と呼ばれるようになった。
渡辺綱と鬼切の伝説(『平家物語』劔巻)
一条天皇の時代(西暦1000年前後)のこと。源頼光四天王の一人として知られた渡辺綱(源綱)が、主君の命で一条大宮へ出向いた帰り、夜遅くに戻橋を通りがかったところ、橋の東側を二十歳あまりの雪のように白い肌をした美しい女がひとりで歩いているのに出くわした。
「夜も更けて怖いので、五条のあたりまで送ってください」と女に頼まれた綱が女を馬に乗せしばらく行くと、女が「実は都の外に住んでいるので、そこまで送ってください」と言う。綱が「どこまででもお送りしましょう」と答えると、女は突然恐ろしい鬼の姿に変貌し、「行き先は愛宕山だ!」と叫ぶやいなや綱の髪をひっつかみ、北西の方角へ飛び立った。
綱は落ち着いて腰に佩いた名刀「鬚切」を抜くと、鬼の手を切り落とす。綱は北野天満宮の回廊の上に落ち、手を切られた鬼はそのまま愛宕山のほうへ飛び去っていった。綱が鬼の腕を手にとって見ると、雪のように白かった肌は真っ黒で、銀の針を立てたかのような白い毛がびっしりと生えていた。
その後、綱が持ち帰った腕を見た頼光に相談を受けた安倍晴明が腕を封印し、摂津にある綱の屋敷に保管したのだが、綱の伯母に化けた鬼によって持ち去られてしまった。
またこの一件により「鬚切」は「鬼切」と呼ばれるようになった。
この伝承に登場する鬼は「宇治の橋姫」とも、酒呑童子の家来「茨木童子」ともされる。
橋占
橋を通りがかる人々の会話の内容を元に占う「橋占(はしうら)」が盛んに行われた場所でもある。
『源平盛衰記』によると、治承二年(1178)、建礼門院徳子のお産にあたり、橋の東に車を止めて橋占をおこなったとされる。また藤原頼長の日記『台記』には、久安四年(1148)、頼長の実姉が入内できるかどうかをここで占ったとする記述がある。
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