万里の長城とは、中華人民共和国に存在する建造物である。北方の遊牧民からの防衛のため建設された。人工建造物としてはエジプトのピラミッド、ローマのコロッセオなどと並んで世界でもトップクラスの知名度を持つと思われる。
概要
万里の長城は秦の始皇帝によって建造された、とされる。実際には歴代の中華王朝によって作り直されており、現代に残るのは明代に作られた長城である(秦代に作られた長城はもっと簡単な造りだった)。
「大国」中国を象徴する建造物であり、世界遺産にも登録されている。事実、全長21196.18km(2012年時点)に渡る建造物というのは他に類を見ない規模であり、人類史に残る遺産である(ちなみに現存している人工壁は6259.6kmらしい)。
多くの場合は石造りの巨大な壁が連想されるが、地域や地方によっては大きい盛り土に石などを詰め込んだ防壁レベルだったこともある。 あまりにも巨大であるために修復や保存が行き届かず、場所によっては著しく保存状態が悪いようである。砂漠に近いような不毛の土地では風などによる侵蝕が進んでおり、万里の長城の名残が消えつつある。[1]
「宇宙から見える唯一の建造物」というフレーズは現在では否定されているものの、万里の長城の巨大さをよく表す言葉であろう。
長城に対する評価
上述の通り中国を代表する建築物として世界的に有名な万里の長城だが、これをネガティヴに捉える考え方もある。
中国の歴史的な認識では、中国皇帝(=天子)こそが世界の中心であって皇帝に従わない者は天の理を解しない野蛮人であるはずだった。その野蛮人に対し「自分達から」国境を引くということは自分達の世界観の限界を自分達で明確に残す屈辱的な行為であったという考えである。
それでなくとも万里の長城の大きさは文化的に見下していた北方遊牧民に対する恐怖心の裏返しである。極端な意見では万里の長城を漢民族の閉鎖性・保守性の象徴であるという主張すらある。また、長城の建設は人民に重い負担を課し、時として大規模な農民反乱の一因につながった(秦末、隋末など)。
一方、あえて国境を引くことで農耕民たる漢民族が北方の遊牧民とは違う存在であるというアイデンティティの確立、民族意識の向上をもたらしたという考えもある。現代においては無条件で賞賛される長城だが、その歴史の裏には遊牧民に悩まされた漢民族の苦悩が存在する。
では、万里の長城の実用面はどうだったのだろうか?
ここでは、長城が現在の形となる明代の長城について特に解説する。
歴代の万里の長城
- 秦
- 戦国時代の燕・趙・秦の北方の長城を繋ぎあわせて建設された。
- 漢
- 武帝が匈奴に打撃を与えて領土を拡大した後に建造されたため、歴代の長城の中でも北方に位置する。この長城は一部現存する。
- 魏晋南北朝・隋
- 人口減少によって北方民族が移住した三国時代〜五胡十六国時代には長城防衛は放棄された。北魏が華北を統一すると柔然に対抗するために長城が築かれた。これが隋まで受け継がれる。
- 唐〜宋
- 李世民がモンゴル高原を征服したため長城防衛は放棄され、これ以降長く長城は利用されない。
- 金
- モンゴル高原の統一(モンゴル帝国)を警戒して築かれる。当時の国境にあわせて満洲・華北に跨がって建設されたため、他の長城とは質的にも位置的にも大きく異なる。モンゴル帝国が金を征服すると長城は再び放棄される。
- 明
- 当初は元の時代にならって長城を越えて北方に進出していたが、土木の変をきっかけに新しい長城を築く。これが現代の万里の長城である。後述。
明代の長城
明代初期の北方政策
明は元をモンゴル高原に追いやる過程で多くのモンゴル系武将を擁し、これを北方防衛に役立てた。永楽帝の時代にはこれらの人材を役立てて北方に進出し、明の領土は現在の長城を越えて北方に広がっていた。洪武帝・永楽帝はさらに草原の辺境地帯に軍事拠点(衛所)を設置し、これらの要塞網が互いに狼煙火などを利用することで敵軍の襲来に対応する防衛体制を整えた。
しかし、このような防衛体制は個人の資質に頼っている面が強く、モンゴル支配を知らない世代が国政を担うようになるとモンゴルに対する無理解によって防衛体制は破綻してゆく。
この状況が変わるのは1449年である。この年、ドルベン・オイラートの支配者エセン・タイシは土木の変で明の皇帝を捕虜とし、明の朝廷に衝撃を与えた。于謙を始めとする朝廷の対応が良かったため明は危機を免れたが、これ以降明の北方防衛政策は方針を変える。
明中期
土木堡の敗戦以降、明は長い期間をかけて現代まで続く万里の長城を築く。長城の建設は遙か後年のフランスによるマジノ線の建設と同様、国家としての戦略が攻勢的なものから防衛的なものへと変化した結果であり、フランスと同様明でも長城の建設は大きな議論を呼んだ。
とはいえ、土木の変の後すぐに長城が築かれたわけではない。最初に焦点となったのはオルドス地方である。秦代から続く中華王朝・遊牧国家の宿縁の係争地であるこの地方は土木の変以降モンゴル人に取り戻されていた。そこで明の朝廷ではオルドス地方を軍事的に奪還するという意見が白圭によってあげられるが、現実的ではないとして実行には移されなかった。
その後、余子俊という人物が西北国境の安定のため長城建設を提案すると、多くの議論の末に余子俊の案が実行に移されることとなった。これが明代の長城建設の始まりである。
長城建設をさらに加速させたのはトメト部のアルタンである。アルタンはモンゴル人と明の交易を拡大させるために明を軍事的に威嚇した。このような情勢の中で長城の建設はさらに進められ、現在の万里の長城は完成する。アルタンの死後モンゴルの脅威は減じたが、今度はモンゴル人にかわって満洲人が登場する。
明末の長城防衛
明末に最大の外敵となったのはアイシンギョロ・ヌルハチによって統一された満洲人(後金)だった。サルフの戦いで明軍を破ったヌルハチは続いて長城の東端に位置する山海関を攻めるも、名将袁崇煥によって撃退されてしまう。長城を抜けなかった後金軍は明に手出しをすることができず、満洲人の南下運動は一時的に制限される。まさに長城の面目躍如といった所だった。
しかし、後金軍に対して善戦を続ける袁崇煥を明の朝廷は謀反の疑いありとして処刑してしまう。袁崇煥の処刑は明の衰亡を決定づけ、袁崇煥の後任である呉三桂は李自成が明を滅ぼすと後金に降伏した。こうして後金から清朝(ダイチン・グルン)へと改名した満洲人勢力は長城以南に雪崩れ込み、(旧)明領を征服した。袁崇煥の処刑は満洲人の工作の結果であり、軍事的に山海関を抜けなかった満洲人は策略によって山海関を陥落させたというわけである。
長城を巡る明・後金の一連の攻防は銀河英雄伝説でヤン・ウェンリーが指摘したように、いかにハード面を整えてもそれを扱うソフト面に問題があれば隙が生まれるという好例であるといえる。
ちなみに、史上初めてモンゴル高原と中国本土(チャイナ・プロパー)の統合に成功した英主李世民(唐の太宗)は次のような言葉を残している。
隋の煬帝は賢良なものを選び取ることが出来ず、辺境を按撫できず、ただ長城を修築するだけで突厥に備えた。彼の常識は迷惑であり、その結果が現在である。朕は今李勣に并州を任せ、彼はついに突厥を遁走させ、恐れさせた。塞外を安寧させるに、長城などよりよほど勝るではないか?
…長城防衛を放棄した歴代皇帝の心情をよく表した言葉であるといえよう。辺境防衛には時に堅固な要塞より有能の人材を登用することの方が大切なこともあるという教訓である。
とはいえ、ここまで見てきたように明末において万里の長城はその存在意義を証明した。モンゴル人をも征服した満洲人の侵攻をある程度押しとどめた事実は被征服民族である漢民族に誇りを与えた。万里の長城は確かに賞賛に値する存在だったのである。
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関連項目
脚注
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