三・一運動(さんいちうんどう、삼일운동:サミルンドン)とは、大日本帝国の植民地時代に起きた、朝鮮人による独立運動。
概要
1919年3月1日から数ヶ月にわたり朝鮮全土を覆い、満州、シベリアなどにまで及んだ。各地方の住民が独自に組織した集会が合計1,542回、延べ参加者数は200万人余りと記録されており、第一次世界大戦後のアジアの民族運動高揚の先駆けとなった。
当時大日本帝国の植民地化後10年、その専制政治の下に置かれてきた民族主義的な知識人・宗教家たちは、第一次世界大戦後の平和思想の高まり、特にウッドロー・ウィルソン米大統領の民族自決権表明を機会として、1919年2月8日、在東京留学生が集会を開いて決議した二・八独立宣言に励まされ、パリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとしていた。彼らが準備し、33人のキリスト教、天道教、仏教徒からなる「民族代表」の名で、3月1日に公表された三・一独立宣言書は、道義と非暴力の原則を謳ったもので、人々を鼓舞し、運動の引き金となった。当初は平和的だった集会とデモに、日本軍が出動して実弾射撃を加えると、参加者は「山上烽火」などの伝統的形態を含む実力抗争を展開し、血なまぐさい弾圧による犠牲者が増していった。日本軍が教会に村人を集めて扉を閉じ、外から火を放って28名を殺した水原の堤岩里の事件は、代表的な事例である。梨花学堂在学中で、郷里に戻ってデモの先頭に立ち、捕らえられても屈せずに拷問で亡くなった当時16歳の少女、柳寛順(ユ・グァンスン)のような、無名戦士が、広く記憶に残された。
今日も大韓民国憲法においては、その前文に三・一独立精神の継承が謳われている。また、朝鮮民主主義人民共和国の歴史認識でも、民族解放闘争の質的転換となった巨大な民衆抗争として、高く評価されている。
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