三位一体とは、いくつかの意味を持つ言葉である。
- キリスト教の教義の一つ。本項ではこれについて説明する。
- 1番から転じて、比喩的に、三つのことが一体となっている様。「三位一体の改革」など。
- LittleBlueboXの楽曲。ダンボール戦機Wの第2主題歌。ちなみに、この楽曲のOP映像で、本編登場前のΣオービスが登場し、ネタバレになってしまったという逸話がある。
概要
三位一体とは、簡単に書けば、「父なる神・子なる神・聖霊なる神の三つが、それぞれ独立性を持ちながらも一つである」という教義である。
キリスト教の教義の中でも特に難解なものであり、様々な異説・学説が存在している。
背景
そもそも、なぜ三位一体という考えがキリスト教にだけ存在するのかを説明したほうがよいだろう。
キリスト教は、ユダヤ教・イスラム教と並ぶ一神教(アブラハムの宗教)の一つであり、唯一神を信仰する宗教である。唯一神であるからには、神は一柱でなくてはならない。
ところが、『新約聖書』を読むと、イエスや聖霊が神であるという記述が登場する(以下の引用文の太字は、引用者によるもの)。
私(注: イエス)と父とは一つである。[1]
アナニヤ、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。[2]
前述の通り、唯一神は一柱である。しかし、イエスや聖霊もまた神であるとすれば、神とイエスと聖霊の関係はどうなっているのか? この疑問を解決しようとするのが、三位一体という教義なのである。
こう考えると、ユダヤ教やイスラム教には三位一体という教義が存在しない理由が分かるだろう。ユダヤ教やイスラム教は、イエスや聖霊を神とは認めていないので、この疑問が発生しないからである。
なお、キリスト教の中でも、三位一体を認めない宗派が一部存在する(アリウス派、エホバの証人など)。
歴史
三位一体という考えの歴史は古く、キリスト教初期から議論されていた。具体的には、2世紀頃からである。
- 2世紀頃
- テルトゥリアヌスというラテン教父がTrinitasというラテン語を用い、三位一体について論じた。
- 325年
- アタナシウス派が正統、アリウス派が異端と決定される(第一ニカイア公会議)。
- 381年
- サベリウス派が異端と決定される(第一コンスタンティノポリス公会議)。この公会議の際、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、三位一体の教義が決定される(なお、このときフィリオクェ問題が起こるが、詳しくは後述)。
- 5世紀頃
- アウグスティヌスが『三位一体論』という著作を書く。
ご覧の通り、三位一体の教えといっても、時代によって異なる考えが対立し、そのたびに正統・異端が争われており、円滑に決定されたものではない。
教義がほぼ確定したのちも、三位一体にまつわる疑問や矛盾を解消するため、トマス・アクィナスなどの中世の神学者たち、近代ではカール・バルトという神学者などが説明を試みている。
二つの定式
三位一体論には、実は二つの定式が存在する。ギリシア定式とラテン定式である。東方教会で活動していた教父たちの学説と、西方教会で活動していた教父たちの学説で差異があるのである。
ほとんど同じではないかと思われるかもしれないが、ここには、「実体」「本質」「位格」という用語についてのギリシア語・ラテン語の意味の差異が絡んでおり、現代でも定説が出ていない問題である。詳しくは「ウーシア」「ヒュポスタシス」「スブスタンティア」などで調べてみていただきたい。
ごく簡単にいえば、ギリシア定式は、三つの実体の独立性のほうを重視しており、ラテン定式は、実体としての同一性のほうに重きを置いている。
三位一体の難解さ
三位一体が多くの神学者の頭を悩ませるのは、父・子・聖霊の三つの位格が、独立性を持ちながらも一つであることは果たして可能なのか、という疑問である。
詳しくは後で述べるが、この教義を理性的に突き詰めてゆくと、三神論か様態論のいずれかに陥ってしまう。三神論だと、三つの位格が独立性を持っているが、一つではなくなってしまう。様態論だと、一つであるが、三つの位格の独立性がなくなってしまうのである。
率直にいえば、この疑問に対して、全く矛盾や疑問点のない解答を出せた神学者は存在しないし、今後も現れないと思われる。テルトゥリアヌスは、三位一体とは人間の理性によって理解できるものではなく、ただ信じるものであると、「不合理ゆえに我信ず」という言葉で表現している。
三位一体に関する解釈
三位一体については様々な学説があるが、現代では、アウグスティヌスやトマス・アクィナスが提出した解釈が有力だと思われる。
簡単に説明すると、父なる神は知性、子なる神は言葉、聖霊なる神は愛であるという説明である。詳しくは神における関係について : トマス・アクィナス,『能力論』q.8,a.1などを読んでいただきたいが、知性である父が、子である言葉を吐き、その言葉から愛が生じるので、三者はそれぞれ区別されるものの、同一であるという考え方である。
ありがちな誤解
前述の通り、三位一体とは、「父なる神・子なる神・聖霊なる神の三つの位格が、それぞれ独立性を持ちながらも、実体としては一つである」という教義である。この教義は、「位格」「独立」「実体」などの独特の用語が使われており、用語の解釈によって大きく意味が変わってしまう。
そこで、三位一体についてのありがちな誤解について説明する。
三神論ではない
三神論とは、神が一柱ではなく、三柱存在すると考える立場である。「位格」という概念を「人格」「存在」と捉えてしまうと起きる誤解である。
「位格」という概念は、「人格」や「存在」といった概念ではない。もし、父なる神・子なる神・聖霊なる神の三柱が存在することになり、神が唯一無二であることに矛盾してしまうからである。
様態論ではない
父・子・聖霊は唯一神が変化した姿であり、本来は一つであるという立場。「位格」を「顕現」「変化」と捉えると起きる誤解である。381年に異端思想と決定されたサベリウス派が典型である。
この立場をとると、父・子・聖霊は同一であり、それぞれが独立性を持たないことになってしまう。
多重人格や性格の多面性ではない
多重人格という解釈も誤りである。確かに、多重人格は一つの肉体に複数の人格が宿ることである。しかし、それぞれの人格は異なるものであり、同一ではありえない。多重人格と捉えると、三つの位格が同一性を持つことと矛盾してしまう。
多面性という解釈も誤り。一人の人間が多面性を持つことはあるが、多面性がそれぞれ独立しているわけではないので、三つの位格の独立性と矛盾する。
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関連項目
脚注
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