三河武士単語

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ミカワブシ
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三河武士とは、平氏・徳氏の臣で、三河出身の人物の総称である。
『三河衆』とも言われる。

三河武士的概要

勇猛果敢かつ義理堅いというイメージが一般的である。
戦闘民族扱いされることも多々ある程、戦場で活躍した者もいれば、内政で手腕を存分に発揮した者もいる。
武官、文官で多少の轢こそあったりしたものの、君への忠義という一点で基本的に一致団結しており、
臣の離反や内部分裂等はかなり少ないと言えよう。
特に、家康の代になってからはその傾向が顕著である。
のようと評された事もある程、忠心は高い連中ばかりだったのだ。

内部分裂、離反等

そんな三河武士だが、先程述べたように、内部分裂等と縁だったわけではない。
むしろ、家康の代になるまでは内部分裂等もそれなりに発生していたのである。
なお、下記に挙げる内部分裂等、そもそもの元家康の高祖松平長親だったりするわけであるが…

松平広忠臣による暗殺説があるが、ここでは取り上げないことにする。(諸説あるので…)

三河一向一揆

今川への臣従の日々に耐え、家康が三河で独立し、さぁ戦いはこれからだって時に勃発した三河武士最大の分裂が、この三河一向一揆である。
元々三河の地は浄土真宗一向宗)が盛んな地であり、今でも愛知県はお寺の数全トップである。当然、臣にも一向宗門徒は数多く存在した。
そして、平家臣は信仰を取るか家康を取るかの二択を迫られたのである。宗してまで家康に従う者(本多忠勝等)、一に加わる者(渡辺守綱等)、さまざまであった。
に加わった者も、家康への忠心を捨てきれた者はどおらず、信仰と忠さみにあって苦しみ、一を離脱し
帰参する者も数多くいた。それにより一は収束へ向かうのであった。
家康は帰参した者には寛大な処置で望み、その結果、三河武士はさらに強固な結束を得たのだった。

有名な三河武士(徳川四天王)

上記3名に井伊万千代直政(彼は遠江出身で元は今川に仕えていた人の系)を加えた4名が『徳川四天王』と呼ばれている。

有名な三河武士(徳川十六神将)

上記四天王に12名の将を加え、『徳十六将』と呼称する。

この他には七郎康忠、岩七之助吉、鳥居四郎左衛門忠広、内藤甚一郎正成、高木助清秀、米津小大夫常春らが、徳十六将に名を連ねている。

有名な三河武士(その他)

十六将以外にも、戦に内政に優れた人物は数多くいるが、あんまり記事が長くなりすぎるのもアレなので、特に有名な人物のみ挙げさせていただこう。

  • 本多作左衛門重次
    通称『鬼作左』。キングオブ・めんどくさい人。まもらねば さくざがしかる。
    長篠の戦の中で妻にあてて書いたとされる『一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 肥やせ かしく』という短い手紙はあまりにも有名。
    武田から分捕った人煎り釜を叩き壊したり、豊臣からの人質(大政所)をいつでも焼き殺せるようにの準備を
    したりと、ぶっ飛んだエピソードがかなり存在する。
  • 天野三郎兵衛
    通称『どちへんなしの天野三郎兵衛』。に内政で手腕を発揮しているが、やっぱりコイツも三河武士。忠世とつるんで武田勢に火縄銃叩き込んだりしていたりする。
  •  高与左衛門清長
    通称『』。上記二名と合わせて、岡崎三奉行とも言われる。それぞれ、剛毅、慎重、寛大な性格であり、上手く家康の補佐をしていたようだ。
  • 石川与七郎数正
    優秀な家康の懐・・・だったのだが、小牧長久手の戦の後に出奔、豊臣方に寝返った。その理由は未だにである。
    この為、家康は軍制をめるハメになったという。
  • 本多弥八郎正信
    家康ブレーンにしてめんどくさい人その2。三河一向一揆の後に出奔し、松永久秀に仕えた後に諸を放浪、数年後に帰参している。武功臣からの評判はすこぶる悪かったが、家康の信任も相当なものであり、『友』と呼ばれていたほどであったという。『本佐録』の著者ともいわれているが異論も多い。
  • 小栗(又一)忠政
    働きで活躍した猛将。多くの戦で一番を為し、またあいつが一番か、という事で「又一」の名を賜った通称『の又一』。
    その働きぶりは凄まじく、物が返り血でに染まるほどであったという。
    ただ、血気盛んで独断専攻することも多々あり、家康の怒りを買うこともあったようだ。
    なお、幕末名前が出てくる小栗上総介忠順は彼の子孫である。
    めんどくさい人その3。
  • 夏目次郎左衛門吉信
    三河一向一揆家康と敵対した武将の一人。三方ヶ原の戦で家康の身代わりとなり武田軍に突撃、討死した事は有名である。
    子孫はかの有名な文夏目漱石
  • 大久保彦左衛門忠教
    大久保忠世らので、『三河物語』の著者である。彼を一言で表すなら『ハローワーク・ヒコザ』。自らの出世を省みず、
    多くの浪人達の就職を旋した。
    下の御意見番』ともよく言われるが、どの逸話は後世の創作である。
    なお、彼の著作である三河物語、当時のことを知る為の資料としては結構有名で多くの歴史学者が参考にしているのだが、
    大久保一族(特に忠教)視線フィルターがかかっている為、全部みにするのはマズい資料でもあったりする(何も三河物語に限らず、この手の文献はどこでもそんなんばっかしではあるが)。
  • 大賀弥四郎
    算術に長けていたため会計として重用されるが、増長しまくった結果、家康の不を買い処罰される。
    それを根に持って武田と内通を試みたが露呈、大激怒した家康によって妻子は磔、
    本人は引きによって処刑された。

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三河武士

33 ななしのよっしん
2017/09/18(月) 23:24:55 ID: TmL1UIdpCH
>>31
極端な話だが、全攻戦が「岩屋の戦い」、全野戦が「島津の退き口」みたいになるような殲滅戦を、いくら勝ち戦だからと言って好んでやろうとする輩が果たしてどれだけ居るかどうか…?

「六分勝ち」を良しとする信玄であれば、言わずもがなかな。
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34 ななしのよっしん
2019/04/08(月) 21:08:50 ID: F+AadkGthD
本多正信が代表的だが、三河武士も裏切る事は多い

…んだが実質みんな水野西郷(全部同族)の戚だから、要は戚内部の閥争いでしかないんだよな
外敵には織田だろうが今川だろうが武田だろうが死ぬまで戦ってきたし、本当に結束が強い一族だと思う
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35 ななしのよっしん
2020/06/24(水) 19:55:22 ID: XkxWp9iBl5
君に遠慮なくバンバン諫言できるのが三河武士のいいところ。三河武士のように忠実とかいわれるけど、割とフリーダムに出奔して寂しくなったとか懐かしくなったとかいう理由でちゃっかり帰参したりするので好き嫌いがはっきりしてるんだけで忠臣だったのは家康のことが本当にすきだったからだと思ってる。
譜代の臣に好かれてる度なら三英傑の中で家康信長にも秀吉にも負けないんじゃないかと個人的には思う。
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36 ななしのよっしん
2020/06/24(水) 20:00:35 ID: XkxWp9iBl5
十六将とか三河出身者ばっかりなのにこの中にのめり込んでくるよそ者の高木清秀と井伊直政は本当に凄いと思う。アクが強い臣団だからこの中でやってくのは大変だっただろうな。
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37 ななしのよっしん
2022/11/28(月) 18:30:28 ID: aIIM512e+Q
一番の忠義ものとかかれたでも放り込めば勝手に喧嘩はじめそうw
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38 ななしのよっしん
2022/11/28(月) 19:02:05 ID: PCOS5lzcyN
たぶんプライドどうこうよりも、自分が死んでもかならず君が家族の面倒を見てくれるという、
絶大な信頼が三河武士の精構造の根幹らしいのでその手の餌にはあまり乗らないんじゃないですかね?
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39 ななしのよっしん
2023/01/16(月) 13:47:50 ID: fVKDrWKWZu
>>37
「そんなものがくても儂の忠義は一番だ」と言って逆にの押し付け合いになるのが三河武士なんだよなあ……
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40 ななしのよっしん
2023/01/23(月) 14:24:44 ID: 2q+Da+9pwF
今回の大河は、三河武士の悪いところがモロに出てる気がする。今川方の人質や臣を見捨てろなんて薦めるとか、あんまりだわな。自分がこいつらの上だったら、こんな部下いらんと思うわ。まあ、実際の家康がどう思ってたかは分からないけど。
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41 ななしのよっしん
2023/01/25(水) 14:35:01 ID: Y/s/qp2JwE
自分の命と引き換えに一族の栄達を勝ち取った鳥居元忠鳥居強右衛門みたいな人もいるからな、三河武士以外なら土屋恒がいるけど、あれは結果そうなっただけだな
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42 ななしのよっしん
2023/11/30(木) 22:37:20 ID: tU76d1HMl3
納得しないと動かないが動いた後は死ぬほど儀で義理堅くて頑固という良くも悪くも極めて面倒くさい存在。
戦国期あたりまでは土着の武士の統領は君というより一族の利益の為に動いてたのでその辺を考えると当然とも言えるのだが(むしろ、江戸初期の政策にその辺の意識を必死に解体しようとしてた節があるし)
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