三河武士とは、松平氏・徳川氏の家臣で、三河国出身の人物の総称である。
『三河衆』とも言われる。
三河武士的概要
勇猛果敢かつ義理堅いというイメージが一般的である。
戦闘民族扱いされることも多々ある程、戦場で活躍した者もいれば、内政で手腕を存分に発揮した者もいる。
武官、文官で多少の軋轢こそあったりしたものの、主君への忠義という一点で基本的に一致団結しており、
家臣の離反や内部分裂等はかなり少ないと言えよう。
特に、家康の代になってからはその傾向が顕著である。
犬のようと評された事もある程、忠誠心は高い連中ばかりだったのだ。
内部分裂、離反等
そんな三河武士だが、先程述べたように、内部分裂等と無縁だったわけではない。
むしろ、家康の代になるまでは内部分裂等もそれなりに発生していたのである。
なお、下記に挙げる内部分裂等、そもそもの元凶は家康の高祖父・松平長親だったりするわけであるが…
- 松平信忠隠退騒動
松平家6代当主である松平信忠(家康の曽祖父)が暗愚であるとし、弟の信定を松平家当主にしようとした家臣団の内部分裂が発生。
父である松平長親は、あくまでも長男である信忠に家督を相続させた。
結果、信忠は家督相続後松平家を纏めきれず早々に家督を嫡男・清康に譲り隠退、信定は桜井松平家として分家となった。
この一件は後々まで尾を引き、松平宗家が今川家と同盟した時も、桜井松平家は織田家と通じたり、守山崩れ直後に
松平宗家を押領しようとしたりと、この一件が完全に終息するのは信定死後の三河一向一揆収束後であった。 - 守山崩れ
松平家7代当主、松平清康(家康の祖父)はその手腕で松平家を纏め上げ、三河国を統一した。
次の目標は尾張国・織田家であった。そして、守山城侵攻の際、家臣の阿部定吉が織田に内通しているという噂が立った。
清康はこれを信じはしなかったが、家臣団は定吉に疑念を抱いていた。そのため、定吉は嫡男・正豊に身の潔白を証明する誓書を預けていた。
そして守山着陣後、本陣で騒ぎが起きたのを、父が誅殺されたと勘違いした正豊が本陣にいた清康を暗殺。
直後に正豊もその場にいた植村氏明に斬り捨てられた。
なお、この阿部定吉謀反の噂を流したのは、松平信定であったという。 - 岡崎押領
さて、松平清康亡き後の松平家当主は、当然ながら嫡男である広忠(家康の父)になる…はずだった。
そこを主君暗殺の虚を突き、先程の松平信定が岡崎を押領、松平宗家を称し広忠を追放、殺害を企てた。
この時長親は信定を諌めるどころか静観しており、これに対する批判も多い。
広忠は阿部定吉の働きにより伊勢に脱出後、吉良氏や今川氏の協力を取り付け三河国幡豆への入城に成功する。
広忠は岡崎奪還を恐れた信定の軍を撃退した後、事情を知った大久保忠俊らの働きにより岡崎帰参に成功した。
信定は表向きは広忠に帰順したが、恭順とは程遠い態度を取り続けたのだった。
松平広忠も家臣による暗殺説があるが、ここでは取り上げないことにする。(諸説あるので…)
三河一向一揆
今川への臣従の日々に耐え、家康が三河で独立し、さぁ戦いはこれからだって時に勃発した三河武士最大の分裂が、この三河一向一揆である。
元々三河の地は浄土真宗(一向宗)が盛んな地であり、今でも愛知県はお寺の数全国トップである。当然、家臣にも一向宗門徒は数多く存在した。
そして、松平家臣は信仰を取るか家康を取るかの二択を迫られたのである。改宗してまで家康に従う者(本多忠勝等)、一揆に加わる者(渡辺守綱等)、さまざまであった。
一揆に加わった者も、家康への忠誠心を捨てきれた者は殆どおらず、信仰と忠誠の板ばさみにあって苦しみ、一揆を離脱し
帰参する者も数多くいた。それにより一揆は収束へ向かうのであった。
家康は帰参した者には寛大な処置で望み、その結果、三河武士はさらに強固な結束を得たのだった。
有名な三河武士(徳川四天王)
- 本多平八郎忠勝
幼い頃から家康に仕えた忠臣。桶狭間の戦い(正確には前哨戦の大高城兵糧入れ)で初陣を飾った。
数多の戦で戦功を挙げ、そして本人は全くの無傷という三河が誇るニュータイプにしてリアル系筆頭。
なお、この忠勝という名前を付けたのは家康本人であったりする。大権現には珍しくまともな名前。 - 酒井小五郎忠次
家康が駿府に人質となった際に同行した家臣では最年長(同族の酒井雅楽助正親が同行したという資料もあり、それが正しければ正親が最年長となる)。
家康の信任を受け、戦に内政に外交に、八面六臂の活躍をしていた。
が、家康の嫡男・信康が織田信長に自刃を命じられた際、信長への弁解の使者を任せられたが、上手く弁護できず、自刃を阻止できなかった。
この事は家康も内心恨んでいたらしく、数年後、嫡男の加増が少ないことを家康に抗議した際、「お前も息子が可愛いか!」
と責められて何も言えなくなった、という逸話が残る。 - 榊原小平太康政
忠勝と同い年の忠臣で、忠勝の親友でもある。忠勝が武力ならこちらは統率、姉川の戦いでは朝倉軍の側面を奇襲し武功を立てている。
実は結構な達筆で、織田家乗っ取りを企てた秀吉非難の檄文を書きまくっている。
それにプッツンした秀吉が康政の首に10万石の賞金をかけたのは有名な話。
上記3名に井伊万千代直政(彼は遠江出身で元は今川に仕えていた国人の家系)を加えた4名が『徳川四天王』と呼ばれている。
有名な三河武士(徳川十六神将)
- 鳥居彦右衛門元忠
『三河武士の鑑』と評される忠義の塊のような武将。感状なぞは他家に仕える時に使うもの、と一度も感状を受け取らなかった。
伏見城の戦いで彼我戦力差20:1という超劣勢の中、半月近く持ちこたえて玉砕したというのは有名な話である。 - 渡辺半蔵守綱
通称、『槍半蔵』。通称の通り、槍捌きに長けた勇猛な武将で、多くの戦で一番槍の戦功を挙げた。 - 服部半蔵正成
通称、『鬼半蔵』。上記の渡辺守綱と合わせて『両半蔵』と評された。よく勘違いされるが、彼は忍者ではない。
もっとも、先祖は伊賀の出であるし、伊賀者や甲賀者を統率する立場であったため、無関係というわけではないので念のため。
神君伊賀越えでの働きが知られており、彼が居なかったら江戸時代はなかったと言っても過言ではないだろう。
尚、この両半蔵のエピソードで面白いものがあるので、気になる人は「肥前名護屋水騒動」でぐぐってみよう。 - 植村新六郎家存
守山崩れの際に下手人を斬り捨てた植村氏明の嫡男。清洲同盟の際に家康の刀持ちを務めた。この時のエピソードは有名。なお、資料によっては彼を十六神将に含めず、蜂屋半之丞貞次を十六神将とするものもある。 - 大久保新十郎忠世
上記で名前が出た大久保忠俊の甥。弟の大久保治右衛門忠佐も、十六神将に名を連ねている。
数多の戦で活躍し、政治的にも優れていた能臣。だが、三方ヶ原の戦の後、宵闇に紛れて武田軍に火縄銃ぶっ放して大混乱に陥らせる辺り、やっぱりコイツも三河武士である。
この他には松平源七郎康忠、平岩七之助親吉、鳥居四郎左衛門忠広、内藤甚一郎正成、高木主水助清秀、米津小大夫常春らが、徳川十六神将に名を連ねている。
有名な三河武士(その他)
十六神将以外にも、戦に内政に優れた人物は数多くいるが、あんまり記事が長くなりすぎるのもアレなので、特に有名な人物のみ挙げさせていただこう。
- 本多作左衛門重次
通称『鬼作左』。キング・オブ・めんどくさい人。まもらねば さくざがしかる。
長篠の戦の陣中で妻にあてて書いたとされる『一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく』という短い手紙はあまりにも有名。
武田から分捕った人煎り釜を叩き壊したり、豊臣からの人質(大政所)をいつでも焼き殺せるように薪の準備を
したりと、ぶっ飛んだエピソードがかなり存在する。 - 天野三郎兵衛康景
通称『どちへんなしの天野三郎兵衛』。主に内政で手腕を発揮しているが、やっぱりコイツも三河武士。忠世とつるんで武田勢に火縄銃叩き込んだりしていたりする。 - 高力与左衛門清長
通称『仏高力』。上記二名と合わせて、岡崎三奉行とも言われる。それぞれ、剛毅、慎重、寛大な性格であり、上手く家康の補佐をしていたようだ。 - 石川与七郎数正
超優秀な家康の懐刀・・・だったのだが、小牧長久手の戦の後に出奔、豊臣方に寝返った。その理由は未だに謎である。
この為、家康は軍制を改めるハメになったという。 - 本多弥八郎正信
家康のブレーンにしてめんどくさい人その2。三河一向一揆の後に出奔し、松永久秀に仕えた後に諸国を放浪、数年後に帰参している。武功派の家臣からの評判はすこぶる悪かったが、家康の信任も相当なものであり、『友』と呼ばれていたほどであったという。『本佐録』の著者ともいわれているが異論も多い。 - 小栗又市(又一)忠政
槍働きで活躍した猛将。多くの戦で一番槍を為し、またあいつが一番か、という事で「又一」の名を賜った通称『槍の又一』。
その働きぶりは凄まじく、指物が返り血で真っ赤に染まるほどであったという。
ただ、血気盛んで独断専攻することも多々あり、家康の怒りを買うこともあったようだ。
なお、幕末に名前が出てくる小栗上総介忠順は彼の子孫である。
めんどくさい人その3。 - 夏目次郎左衛門吉信
三河一向一揆で家康と敵対した武将の一人。三方ヶ原の戦で家康の身代わりとなり武田軍に突撃、討死した事は有名である。
子孫はかの有名な文豪・夏目漱石。 - 大久保彦左衛門忠教
大久保忠世らの弟で、『三河物語』の著者である。彼を一言で表すなら『ハローワーク・ヒコザ』。自らの出世を省みず、
多くの浪人達の就職を斡旋した。
『天下の御意見番』ともよく言われるが、殆どの逸話は後世の創作である。
なお、彼の著作である三河物語、当時のことを知る為の資料としては結構有名で多くの歴史学者が参考にしているのだが、
大久保一族(特に忠教)視線のフィルターがかかっている為、全部鵜呑みにするのはマズい資料でもあったりする(何も三河物語に限らず、この手の文献はどこでもそんなんばっかしではあるが)。 - 大賀弥四郎
算術に長けていたため会計として重用されるが、増長しまくった結果、家康の不興を買い処罰される。
それを根に持って武田と内通を試みたが露呈、大激怒した家康によって妻子は磔、
本人は鋸引きによって処刑された。
関連動画
関連項目
- 徳川家康
- 徳川四天王
- 戦国時代の人物の一覧
- 三河武士
- 三河武士ホイホイ
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