三浦義村(?~1239)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
桓武平氏の坂東平氏のうち三浦党の出身…ということになっているが同祖の鎌倉党同様平氏の出かは異論も多い。父親は三浦義澄、母親は伊藤祐親の娘。史料には見えないが治承・寿永の乱にも父とともに参陣したと思われる。
1189年の奥州合戦からははっきりと足跡を追うことができ、父・三浦義澄とともに出陣し、先陣により功をあげた。さらに源頼朝上洛の際、父から譲られた右兵衛尉に任官している。梶原景時の弾劾の際には父親、三浦義澄とともに中心となるが、その一方で源頼家に接近し、彼の息子公暁の乳母を義村の妻が務めている。
さらに北条氏にも接近し三浦義村の娘と北条泰時が結婚し、義村が土佐国守護となるなど以後北条氏の縁戚として活躍する基盤を作った。
畠山重忠の乱の際には彼を二俣川で討伐した一軍を率い、きっかけが讒言であることがわかると返す刀で稲毛重成、榛谷重朝を討伐している。さらには牧氏の変でも北条政子、北条義時側につき、北条氏の勢力拡大に貢献した。
さらに同族の和田義盛の乱の際にははじめは和田氏につくと誓ったが、開戦後北条方につき、和田氏の滅亡に貢献している。
この三浦義村を語るうえで避けて通れないのが、公暁による源実朝暗殺である。実朝の暗殺後、公暁は義村の屋敷に向かう途中で義村の家臣に討たれているため、一時期は三浦義村が黒幕ではないかと盛んに言われることとなった(最近ではさすがにそんなことはない)。
ここまで見てきたように三浦氏は親北条派として彼らと去就を共にし、承久の乱でも弟の三浦胤義の誘いに乗らず、義村は幕府方として参戦する。その功績で紀伊、河内の守護職も得ている。さらに1224年の北条義時の急死によって伊賀氏の変が起きると、義村は北条政村の烏帽子親であったのだが、政子の説得で北条泰時方につき、泰時の勝利を導いた。こうして彼の生きている間には三浦氏には何の問題もなく、ただ上り坂を上がるのみだったのである。
彼の生きている間は…
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