上杉憲顕(1306~1368)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
上杉氏は勧修寺流藤原氏に属し、鎌倉時代・皇族将軍宗尊親王を迎えた際に着いてきて、そのまま足利氏と婚姻関係で結びついて居ついた一門である。上杉憲顕の父親である上杉憲房も、妹の上杉清子を足利貞氏の側室にし、この二人の間から足利尊氏、足利直義兄弟が生まれたのだ。
彼ら上杉氏も元弘の乱の際から足利氏に従い、建武政権では上杉憲房が雑訴決断所の二番奉行を、上杉憲顕は関東廂番を、義理の弟である上杉重能が伊豆の守護代を務めるなど重用された。そしてそのまま足利尊氏が中先代の乱を経て建武政権に反旗を翻すと、足利一門同様外戚である彼ら上杉氏もこれに従ったのである。しかし、北畠顕家の一度目の上洛の際に、父親である上杉憲房を失っている。
こうして上杉憲顕は父親の上野守護職を引き継ぎ、上野に下向した。さらに1338年の二度目の北畠顕家の上洛に対しても敗戦が続く中、弟で犬懸上杉氏の祖である上杉憲藤が戦死すると、高師冬とともに関東執事に就任したのである。そして1341年に新田義宗の上野侵攻を鎮圧すると、越後の守護職にも就いている。
ところが、鎌倉時代以来の足利氏の被官としての地位・および縁戚をめぐる高一族との争いもあり、上杉氏は観応の擾乱が起きると足利直義派につくのである。関東では足利義詮に代わり、足利基氏がトップに変わったが、こちらでも足利尊氏派、足利直義派の対立関係は深まっていく。
京都で義理の弟である上杉重能が誅殺されたこともあり、上杉憲顕は上野で挙兵。高師冬は足利基氏の確保をもくろむも、敗戦により奪還されてしまい、甲斐に逃れたが上杉能憲らに討ち取られ、関東は直義派に掌握されたのだった。
しかし1351年の足利直義の死によって情勢が変わると、上杉憲顕は信濃に逃亡。南朝に降り宗良親王軍の一員として挙兵するも、笛吹峠の戦いでの敗北で再び信濃に潜伏することとなった。
それからしばらく経った1361年に、足利基氏は畠山国清を関東執事から解任し、上杉憲顕に復帰を打診し、これに応えて帰順するのである。足利義詮もこの方針には賛意を示し、越後、武蔵の守護と関東執事の座に任じられる。1367年に基氏、義詮が亡くなった後も足利氏満、足利義満に厚遇された。
しかし旧直義派の復帰は、尊氏派から守護職を取り上げることになり、相模の守護に任じられていた河越直重が挙兵。さらに南朝の新田義宗、新田義興兄弟がこの混乱に乗じ、越後と上野で兵を挙げたのだ。上杉憲顕は河越直重率いる武蔵平一揆の乱を鎮圧するも、対新田戦線を構築した直後に急死してしまった。
彼の後継には息子の上杉能憲と甥の上杉朝房がつく。能憲は上杉重能の養子となっていたため宅間上杉氏を名乗るが、同じく憲顕の息子である上杉憲方が山内上杉氏になっていくのである。
関連項目
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