上杉政真(うえすぎ・まさざね 1451 ~ 1473)とは、武蔵国の戦国大名である。扇谷上杉家7代当主。扇谷上杉家5代当主・上杉顕房の嫡男。
概要
1455年、『享徳の乱』の開幕戦・分倍河原の戦いが起こり、父が戦死する。まだこの時わずか5歳であったので、隠居していた祖父・上杉持朝が当主に復帰し、彼の手により育てられた。
1467年、17歳の時に祖父の死により家督を継いだ。室町幕府8代将軍・足利義政に偏諱を賜り政真と名乗った。政真が扇谷上杉家の当主であった時代は、享徳の乱絶賛開催中であり、山内上杉家と協力して古河公方・足利成氏と対立することになる。家宰・太田道灌らが若き当主を支えた。
義政の兄である堀越公方・足利政知は伊豆を本拠にして成氏と対立関係にあり、本来上杉方と協調する立場だった。ところが、持朝存命中には政知の家臣の讒言がきっかけで扇谷上杉家反逆疑惑が起こり、扇谷家の重臣たちが次々隠居させられるなど、ぎくしゃくした関係になってしまっていた。この家臣が追放された為、政真の時代には無事和解して協力関係を築いていった。
1471年に成氏が伊豆を攻めるとこれを撃退して、逆に遠征の隙を突いて古河城を陥落させ、成氏を千葉孝胤の元へと追いやった。しかし、翌年には古河城を奪還され、その翌年には五十子陣を急襲されて討死した。享年23。
跡継ぎがいなかったため、叔父の上杉定正が扇谷上杉家を継いだ。続く定正の時代に扇谷上杉家は大きく揺らぐ事になる。
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