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全ての札の説明が十分に行えません。 |
上毛かるたとは、群馬県内で行われるカルタ遊び、または競技である。
※以下、県・県内・県民などと示すのはすべて群馬のことである。
概要
1947年に郷土愛を育むために作られた郷土かるた。
上毛とは群馬県の昔の地名から命名されており、「じょうもう」または「かみつけ」と読む。
今回の場合は「じょうもう」が使われている。
毎年2月に上毛かるた競技県大会が行われており、予選会に多くの小学生が(半ば強制的に)参加するため、県民・県出身者であれば存在を知っており、読み札を完璧に言える人も多い。
このため、群馬県民にとってカルタは、まず上毛かるたのことを指すがほとんどである。そのため百人一首はともかく、いろはかるたで遊んだ経験がなかったり、いろはかるたの札の名前を知らない人も多い。
基本ルールの他に地方限定や仲間内限定のルール(主に役札の新設)もあったりする。
例えば・・・
作成経緯
上毛かるたが作成されるに至った経緯としては、第二次世界大戦による敗戦後の連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ)の政策が関係している。
GHQは日本の以前の思想・思考を危険視しており、国家神道の廃止を中心に様々な政策を行っていった。
当時は大幅に歴史の授業は規制され、教科書で記述に問題があるとされた部分を墨汁で墨塗りさせたという話は印象深いのではないだろうか。
こうした規制により、日本の伝統・文化が失われることを危惧した浦野匡彦らは、上毛かるたの制作にとりかかった。
そして上毛かるたは1947年に完成、1948年からは毎年上毛かるた競技県大会が行われることとなった。
当時の印刷物は全てGHQの目を通されたため、小栗上野介など何名かの人物は不採用となってしまった。「ら」の札は、こうしたGHQへの反抗の意思が込められており、「不採用となった人々の札をいずれは復活させたい」という思いを込められて作ったそうだ。
GHQからの支配自体は1952年サンフランシスコ講和条約によりほぼ開放されたが、
その後に上毛かるたの内容が変更されることはなかった。
根付いてしまったものを変えることためらう、日本人の気質が出ているのかもしれない。
基本ルール
じゃんけん等に勝った側が「あ」~「わ」までの44枚の札をよく切って二分割し、
負けたがわがどちらかを選ぶ。
個人戦の場合は3段、団体戦の場合は2段に分けて平均的になるように並べる。
開始後3分以内に札を配置し、位置を記憶する。(並べ替えは一分前まで可能)
最初の一回目は必ず「つ」の札を2回読み上げる事となっており、
それが試合開始の合図となる。
その後は読み手が読み札を2回ずつ読み上げ、いち早く札を手にした者が獲得となる。
すべて読み上げた時点で点数を計算し、後述の役札を計算に入れて合計点が高い側の勝利となる。
(※ 役札は団体戦のみ)
同点の場合は「つ」の札を持っている側が勝利となる。
役札について
5市札
太田市、高崎市、伊勢崎市、桐生市、前橋市の主要都市5都市を表す札。
「お」、「か」、「め」、「き」、「け」の5枚を揃えることで20点となる。
3山札
赤城山、妙義山、榛名山の3大山を表す札。
「す」、「も」、「の」の3枚を揃えることで10点となる。
親札
群馬県の形、群馬県の人口、群馬県庁所在地を表す札。
「つ」、「ち」、「け」の3枚を揃えることで10点となる。
何故か小学生以下の大会の場合は適用されない。
札の詳細
あ 浅間のいたずら 鬼の押出し(アサマノイタズラ オニノオシダシ)
県西部にある浅間山(山頂は長野県)から噴出した火山岩がたくさんあり、噴火の爪痕や威力を感じることができる場所。
浅間山は現在も度々噴火する活火山であるため、緊急時に逃げ込むためのシェルターが鬼押し出し園の各地に存在する。
い 伊香保温泉 日本の名湯(イカホオンセン ニホンノメイトウ)
県中央部にある榛名山(関連札:の)の中ほどにある温泉地。
渋川市(旧・伊香保町)に位置する。
TVの旅番組で取り上げられることもあり、中でも石段街は有名スポットである。
う 碓氷峠の関所跡(ウスイトウゲノ セキショアト)
江戸~京を結ぶ街道の1つである中山道(関連札:か、な)の途中、長野県との県境にあった関所。
デパートやスーパーで開催される駅弁大会の常連である「峠の釜めし」の峠とは碓氷峠のことで、横軽と呼ばれ交通の要所であり難所だった。
今は北陸新幹線でスイスイ。
え 縁起だるまの少林山(エンギダルマノ ショウリンザン)
高崎市にある少林山達磨寺のことで、開運の置物である福だるま発祥の地である。
飢饉で農民が困っていたときに副業になるようにと当時の和尚さんが教えたのが始まり。
1月7日には七草大祭だるま市が開催され、多くの人で賑わう。
お 太田金山 子育て吞龍(オオタカナヤマ コソダテドンリュウ)
役札である「5市札」のひとつ、太田市の札。
太田金山は太田市にある山のことで太田金山城(新田金山城とも)があった。
この麓にあるのが吞龍上人が開山の大光院である。
吞龍上人は親のいない子供を育てたことから子育吞龍とも呼ばれている。
か 関東と信越つなぐ 高崎市(カントウトシンエツツナグ タカサキシ)
県南西部にある高崎市は、昔は中山道やそこから分岐して越後へ向かう三国街道が通り、現在は在来線・新幹線ともに群馬県内の鉄道拠点となっている。
経済的な 面からいえば県内で最も発展している都市であると言え、交通のみならず県の産業・雇用・人口など重要な地位を占めている。
歴史的にも高崎城が建てられる等、重要な都市であった。
平成の大合併で多くの町村を取り込み、県内人口1位になった。
また、現在の県庁所在地は前橋市であるが、元々は高崎市が県庁所在地であり、前橋に移ったり戻ったりを繰り返して最終的に前橋市が県庁所在地となった。
き 桐生は日本の 機どころ(キリュウハニホンノ ハタドコロ)
県東部にある桐生市は織物で栄えた街である。
桐生織は京都の西陣織と並ぶブランド織物である。
生糸の名産地で原材料の調達が他県の地域よりも容易だった。
桐生競艇や甲子園で優勝経験もあり、(良いことでも悪いことでも)何かとお騒がせな桐生第一高校があることでも知られる。
く 草津よいとこ 薬の温泉(クサヅヨイトコ クスリノイデユ)
近くに活火山である白根山があることから高温で温泉が湧いている。
その湯を冷ますために湯畑があり、温泉街の中心でありシンボルともなっているほか、大きめの板で湯をかき回す湯揉みが行われる場合もある。
温度だけならず様々な効能があり、昔から温泉療法として湯治が行われている。
同名の滋賀県草津市とは友好都市提携。
草津の本来の読みは「クサツ」だが、地元の訛りが「クサヅ」なため、この表記となる。
け 県都前橋 生糸の市(ケントマエバシ イトノマチ)
役札である「5市札」のひとつ、前橋市の札。
役札である「親札」のひとつ。
昔は厩橋(ウマヤバシ)と呼ばれた。現在の群馬県の県庁所在地。
国分寺、前橋藩、県庁と時代を問わず県政の中心で有り続けている。
人口30万人を超える中核地方都市であるが、高崎市には交通の便で劣るため経済面では第2位の都市である。
競輪などで使われるグリーンドーム、ザスパクサツ群馬のホームである正田醬油スタジアム、県営敷島球場、群馬アリーナ、武道館と利根川沿いにスポーツ施設が揃っている。
こ 心の灯台 内村鑑三(ココロノトウダイ ウチムラカンゾウ)
黄色い後光が特徴的なおじさん。
明治~大正に活躍した思想家・キリスト教伝道者・文学者。
高崎藩士・内村宜之の長男として生まれる。教育勅語(教育の根幹についての天皇陛下からの言葉・文書)に最敬礼しなかった「不敬事件」が有名。
少年時代を高崎市で過ごした人物で、上毛かるたの中では特に有名な偉人である。
さ 三波石と共に名高い 冬桜(サンバセキトトモニナダカイ フユザクラ)
三波石は青色または真緑色の石で日本庭園をつくるのには欠かせない。
中央構造線沿いに広く分布するが、鬼石町(現・藤岡市鬼石町)の三波川で取れたものが 最初に研究されたのでこの名前が付いた。
冬桜は同じく藤岡市内にある桜山公園の名物である。
見ごろは11月中旬~12月中旬で多くの見物客で賑わう。
し しのぶ毛の国 二子塚(シノブケノクニ フタゴヅカ)
毛の国というのは群馬県と栃木県のことである。
その昔、群馬県は上毛(かみつけ)、栃木県は下毛(しもつけ)と呼ばれた。
栃木がエロイわけではない。
二子塚とは2つの山が存在する古墳、つまり前方後円墳を指す。
県内には8000にも及ぶ古墳が存在するが、特定の古墳を指しているわけではない。
す 裾野は長し 赤城山(スソノハナガシ アカギヤマ)
役札である「3山札」のひとつ、赤城山の札。
赤城山は中央部から少し東に位置する休火山である。
大沼・小沼があり、冬には湖面に氷が張りワカサギ釣りで賑わう。
歴史的には、剣豪や武術家の修行地、徳川埋蔵金の在りかとしても知られる。
県出身の糸井重里さんとTBSが協力して捜索したが見つからなかったので改めて探しても時間の無駄だろう。
せ 仙境尾瀬沼 花の原(センキョウオゼヌマ ハナノハラ)
県北東部、福島県・新潟県との県境付近に尾瀬国立公園は位置する。
多くの草花が存在し、至仏山など周りの山々も含め訪れる観光客も多い。
尾瀬は県の名所であるだけでなく、生態系保全などの環境問題を防ぐ活動のシンボルともなっている。
車の進入が尾瀬手前の峠で禁止されるため、尾瀬ヶ原や沼に着くまでにも歩く必要がある。
そ そろいの支度で 八木節音頭(ソロイノシタクデ ヤギブシオンド)
現在行われている八木節では桐生市の夏祭り、桐生八木節祭りが最も大きい。
素戔嗚尊の祭りなので桐生祇園祭とも呼ばれる。
開催日は中心部が歩行者天国になり列車が臨時運行される。
た 滝は吹割 片品渓谷(タキハフキワレ カタシナケイコク)
沼田市利根町に存在する滝。
高さ7m、幅30m。東洋のナイアガラと呼ばれ、国の天然記念物指定を受けている。
岩のところどころが割れているように浸食されていて滝になっている。
冬季は雪が降るため3月まで遊歩道は通行止めである。
※四訂版第ニ刷より「フキワリ」→「フキワレ」に変更
ち 力あわせる 200万(チカラアワセル ニヒャクマン)
この札は県の人口を表しており、200万は変動する。とても変わった札。
10万人ごとに変更されるため、世代間で認識に差が生じる。
現在の人口は、群馬県統計情報提供システム 移動人口調査によると、2019年1月1日時点で194万7,197人である。
つ つる舞う形の 群馬県(ツルマウカタチノ グンマケン)
役札である「親札」のひとつ、群馬県を表す札。
また、同点の際はこの札を持っている側が勝利となる。
県出身者は群馬県の形を鶴の舞う姿であると信じて疑わない傾向にある。
他県出身者からすると「そうは見えない」と言われるかもしれないが、それでも鶴舞う姿であることを否定しない。
この札は県の象徴であるため、この札を奪取・死守することは 県民としての責務である。
て 天下の義人 茂左衛門(テンカノギジン モザエモン)
真田信利の悪政に農民の代表として将軍に直訴し、磔の刑にされた義民。
松代藩の本家相続争いで敗れた信利は松代藩に対抗するために、高い年貢を取り立て石高を無理矢理増加させ、江戸屋敷や沼田城を豪華にした。
そのせいで餓死する農民も増え、長年の怒りが将軍への直訴として噴出した。
その後、沼田藩は改易され重税から逃れることができたという。
と 利根は坂東 一の川(トネハバンドウ イチノカワ)
みなかみ町を源流とし、関東のど真ん中を流れる利根川は日本最大の流域面積を誇る。
「坂東太郎」の異名を持つ。
県内のほとんどの河川は最終的に利根川に合流するため、県を代表する川となっている。
利根川水系にはたくさんのダムが建設され、県民だけならず関東の水がめとなっているとともに水力発電も行われている。
そのため、水不足になると東京都民に多大な影響が出てとても困る。
な 中仙道しのぶ 安中杉並木(ナカセンドウシノブ アンナカスギナミキ)
江戸時代の五街道の一つで有名な「中仙道」の札。
中山道六十九次で15番目となる安中宿。
その両側にある1kmにも及ぶ杉並木の様子が描かれている。
国指定天然記念物に指定されており、現在では殆ど残っていない。
に 日本で最初の 富岡製糸(ニホンデサイショノ トミオカセイシ)
明治時代に行われた殖産興業の典型例で官営第1号の工場。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、世界文化遺産にも登録されている。
ぬ 沼田城下の 塩原太助(ヌマタジョウカノ シオバラタスケ)
沼田藩の人。江戸時代の豪商。
三遊亭円朝の創作落語「塩原多助一代記」のモデル。
ね ねぎとこんにゃく 下仁田名産(ネギトコンニャク シモニタメイサン)
下仁田ねぎと蒟蒻は下仁田町の名産であるとともに群馬県の名産である。
下仁田ねぎは長ネギなど比べ太く短い。
ニコニコ動画としては、はちゅねミクが持っているネギが有名である。
下仁田ネギと認識している人は少ないようで、よく長ネギと間違えられて覚えられている。
蒟蒻は蒟蒻芋から作られるわけだが、成熟するまでには3年かかり毎年植えかえる。
そのままではとても食べられたものではないとのこと。
日本の蒟蒻生産のほとんどを群馬県が担っている。
の 登る榛名の キャンプ村(ノボルハルナノ キャンプムラ)
役札である「3山札」のひとつ、榛名山の札。
県民としては上毛三山、チョメチョメDの秋名として知られている。
榛名山にはそこそこの広さの榛名湖があり、アヒルボード等を借りて遊べるようになっている。
札の通りキャンプ場もあり、近年では榛名湖オートキャンプ場もできた。
は 花山公園 つつじの名所(ハナヤマコウエン ツツジノメイショ)
県東部にある公園。
現在の名称はつつじが岡公園。
古代から自生するヤマツツジと、館林城主が他より移植したものを加えたこれら樹齢800年を超える巨樹群が、今なお自然形のまま成長している。
ひ 白衣観音 慈悲の御手(ビャクイカンノン ジヒノミテ)
高崎市の高崎観音山丘陵にある、高さ41.8メートルの高崎白衣大観音。
内部に20体の仏像が安置され、足下から肩口まで登る事ができる。
雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ。
建立時は世界最大の観音像だった。
詳細については大百科内の記事「高崎白衣大観音」を参照のこと。
ふ 分福茶釜の 茂林寺(ブンブクチャガマノ モリンジ)
お伽話「ぶんぶく茶釜」の元となった「分福茶釜伝説」の残る寺院。
茶釜も拝観できる。
へ 平和の使徒 新島襄(ヘイワノツカイ ニイジマジョウ)
キリスト教の宗教家で、同志社大学の創設者という教育者でもある。
使徒の読みは、「シト」ではなく「ツカイ」なので注意。
新島学園の創設者は湯浅正次だが、新島襄のキリスト教の信条を基に設立されたため彼の名前から取られている。
安中藩士で、群馬に「ピュリタン的キリスト教」をもたらしたことが評価されて札になったようだ。
ほ 誇る文豪 田山花袋(ホコルブンゴウ タヤマカタイ)
明治の文豪。
代表作は「蒲団」「田舎教師」。
館林市に記念文学館がある。
ま 繭と生糸は 日本一(マユトキイトハ ニホンイチ)
昔から養蚕が盛んであった。
生糸は日本の主要輸出品として活躍した大きな産物であり、日本経済を支えた。
しかし、最近は養蚕農家も少なくなっている。頑張れ伝統産業!!
み 水上谷川 スキーと登山(ミナカミタニガワ スキートトザン)
県北部・西部はスキー場が多く、関東各地からスキー客が押し寄せる。
特に谷川岳周辺は万年雪と呼ばれる1年中融けない場所があるため夏も登山客で賑わう。
スキーと登山だけでなく、水上温泉も有名。
む 昔を語る 多胡の古碑山(ムカシヲカタル タゴノコヒ)
国の特別史跡に指定。
上野三碑、日本三大古碑の一つ。建碑は8世紀後半。
め 銘仙織出す伊勢崎市(メイセンオリダス イセサキシ)
も 紅葉に映える 妙義山(モミジニハエル ミョウギサン)
役札である「3山札」のひとつ、妙義山の札。
県南西部に位置する。
標高1,104メートル、日本三大奇勝の一つで、荒船山や長野県の佐久と合わせ国定公園になっている。
全国で最も早く建設された自然の家の一つである、妙義青少年自然の家があり、
歌が印象的なため今でも覚えている人はいるのではないだろうか。
や 耶馬渓しのぐ 吾妻峡(ヤエバシノグ アガツマキョウ)
吾妻渓谷は大分県中津市にある耶馬渓を超えるかのような美しさであることを表している。
「関東の耶馬渓」と称され国指定の名勝となった。
ゆ ゆかりは古し 貫前神社(ユカリハフルシ ヌキサキジンジャ)
富岡市にある神社。
神社には珍しく階段で下った先に社(下り社と呼ばれる)が存在する。
531年に現在の地に社を定め、1400年以上の歴史を持つ。
現在の社殿は江戸幕府3代将軍徳川家光の命により作られ、国の重要文化財である。
よ 世のちり洗う 四万温泉(ヨノチリアラウ シマオンセン)
風呂の淵に座っている裸婦(タオルは持っている)が描かれているため子供心に取りにくい札である。
しかも真ん中に女性がいるのでタチが悪い。
そのため、札のふちを狙って取ったりするなどの策を講じる時がある。
初版では若い女性1人だけが描かれていた。
ら 雷と空っ風 義理人情(ライトカラッカゼ ギリニンジョウ)
山の天気は変わりやすいと一般的に言われるように、面積の3/4が山地にあたるため本当に変わりやすい地形である。
特に夏は南風が北部・西部の山地に当たり 上昇気流が発生するため雨雲が発生しやすい。
一年を通しての雷の回数は若干多い程度であるが、夏場に集中して多い(しかも大きい物が多い)ため印象が強いようで、群馬出身者は雷が多いと認識している。
冬は主に北西(新潟県)から日本海から湿った風が吹き込むが、北部の山脈の新潟側で大量の雪が降るため群馬県 には乾いた風が吹き下ろす。
これを空っ風と呼ぶ。
北風はとても強く、自転車で北上しようとしてもほとんど進まない。
逆に南下するときは自動車と同じくらい のスピードが出せる。
義理人情・・・今もあるのかは分からない。
一説には「国定忠治」の意を込めた札と言われ、GHQへの抵抗が込められているとか。
り 理想の電化に 電源群馬(リソウノデンカニ デンゲングンマ)
電源群馬とは水力発電のことを言っており、ダムが多いため大規模な水力発電が行われている。
絵札は建設中の下久保ダム。
る ループで名高い清水トンネル(ループデナダカイ シミズトンネル)
ループ線とは鉄道が坂を上下する際、あまりにも急勾配で上れなかったり、逆に加速しすぎるのを防ぐためにレールを螺旋状にループさせ、勾配をゆるやかにしたものである。
水上駅より北の上越線は山を越えるため上り坂(水上駅側から見て)になっておりループが設けられている。
川端康成著『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」は、この清水トンネルを指すといわれる。
トンネル駅として有名な土合駅があるのも、ここ。
れ 歴史に名高い 新田義貞(レキシニナダカイ ニッタヨシサダ)
GHQの検閲により基本的に武士の札が禁止されていた上に、最もタブー視されている時代の人物ながら、制作側の説得が実り、武士で唯一上毛かるたに乗せることができた経緯を持つ。
絵は刀を海に投げ入れた途端に潮が引いて、稲村ヶ崎を突破する「太平記」のシーンから。
ろ 老農 船津傳次平(ロウノウ フナツデンジベイ)
わ 和算の大家 関孝和(ワサンノタイカ セキコウワ)
本来の名はセキタカカズだが、語呂の良さから上毛かるたでは通称とされるセキコウワが採用されている。
関連動画
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外部リンク
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