下岡蓮杖(しもおかれんじょう)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての絵師であり、日本人で最初のカメラマンの一人である。
概要
文政6年(1823年)、下田に生まれる。旧名を桜田久之助という。13歳の頃に江戸に行き、絵師になるために狩野派の絵画を学んでいたが、弘化2年(1845年)、旗本の屋敷で見せられた銀板写真に強い興味を持つ。
毛筆の及はざる所世此の妙技あり。
筆を折り、刷毛を砕き呆然たるもの数日遂に之を学ばんと決意す。
(『写真事暦』(明治24年))
と、写真師としての第一歩を歩み始めた。。。はずだったが、この下岡という人物、会う人尋ねる人によって全く違う昔話を大量に残しており、はっきり言って法螺吹き呼ばわりされても仕方ないレベルといえる。以下に伝記や本人の談話を引用する。
「島津候の邸にて銀板写真を見たることありし」
(『下岡蓮杖小伝』(明治30年))
「翁、嘉永3年(1850年)28歳の時狩野董川先生の塾にありて、オランダの写真を見て意を決するに…」
(高屋肖哲著『下岡蓮杖小伝』(昭和14年))
「安政4年(1857年)下田へ3隻の黒船が来た。老人の転機はこの時であった。それは写真であった。これを習いたいと決心して其方法を聞いたところ、そこにフランス婦人が居て丁寧に説明…」
(『玉泉寺今昔物語』(昭和8年))
とまあいかにも山師っぽい雰囲気が漂う人物で、弘化2年に初めて写真を見たというのも時期的に早すぎでマユツバものだが、苦心惨憺の末湿板写真の技術を身につけて写真業を始めた事自体は事実なので先に進める。
異人に学ぶ
下岡は写真技術を学ぶためには異人と接触するのが手っ取り早いと思ったのか外国人を探し回り、安政3年(1856年)にヘンリー・ヒュースケン[1]という人物との接触に成功する。写真について教えてもらえることになったが、その教授法は素人同然の手真似という甚だ心もとないものだった。そのうち本国からカメラを取り寄せてくれるという口約束をしたものの、万延元年(1861年1月15日)にヒュースケンは江戸で暗殺されてしまう。
写真技術習得の手がかりを無くした下岡は、今度は開港したばかりの横浜で教えを請う相手を探す。寄宿先の外国人夫人に米国人の職業写真家であるウンシン[2]なる人物を紹介され、教えてもらう事になった。
ウンシン本人があまり気乗りでなかった事と言語の壁の問題でなかなかはかどらなかったものの、ウンシン帰国時にカメラを譲ってもらえたため、ようやく本格的な研究が出来るようになった。
だがカメラを手に入れることができたのは良かったものの、撮影に必要な薬品は譲り受けた分量しか無く、切らしてしまえば撮影そのものが出来ない。元々絵師だった下岡は当然ながら化学に関する知識など皆無で、ここから写真屋開業までの間薬品の自主製作のためにあーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返し、時には有害な薬品のせいで体を壊したり、共同便所を暗室代わりにして顰蹙を買ったり、借金が250両を越えるなど夜逃げ寸前まで追い込まれ、もうだやこの調合と諦め掛けた際には「諦めんじゃねえよ!」と炎の妖精に励まされたりしながら[3]奇跡的に薬品調合に成功する。
「蓮杖食事喉を下らず、神倦み気飢え椽に倒れて言われず、既にして又起きて試写すること一再忽ちにして影像歴々故面に印す、蓮杖驚喜して手の舞足の蹈むを知らず。」
(『写真事暦』)
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写真屋開業
「寫真鏡という一種の奇物あり。これは人は勿論、地形遠景などまで其鏡に移せば、其のものの形色合まで少しも違はず、微細にギヤマン鏡へ留りて、更に消る事なき奇妙の工夫なり。されば人を寫す時は、その容體もの云ぬばかりなり。…今にては當地辨天通五丁目に居住する櫻田(下岡)蓮杖というもの、其傳を覚え業ひにいたしぬるが、異人の仕方と少しも違はず。」
「価はギヤマンの大小によりて、二分なるも、壱両弐両なるも有り」
(菊苑著『横浜奇談』)
写真技術を習得した下岡は、文久2年(1862年)5月に横浜の野毛にて全楽堂という名の写真屋を開業。長崎の上野彦馬に先立つ事7ヶ月前、齢40歳にして長年の目標を果たす事が出来た。
日本人で最初の職業写真家[4]という事で当時の横浜の英字新聞に載るようなちょっとした騒ぎになったが、例の迷信によって日本人の客は殆ど無く、開業直後に起こった生麦事件を受けて出陣を覚悟した武士が来る程度だった。翌年文久3年(1863年)に弁天通りに進出するが、相変わらず訪れるのは外国人客が圧倒的に多かった。
下岡は外国人客を楽しませる為、灯篭や屏風を背景に飾ったり、着物や裃や鎧を着せてコスプレ写真を撮ったり、女の子をモデル代わりにして一緒に撮影させるなど工夫を凝らした。また、絵師としての経験を生かして写真に彩色を施す事もあった。これらが土産写真となって海外に流出した結果、誤った日本観の端緒となったのではないかとされ、本人も「多く是に胚胎せり。サーセンwwwwwwwwwww」と発言を残している。
その後、安政年間に遣米使節団として渡米した新見豊前守などの要請で屋敷に赴いて撮影を行ったりするうち迷信に対する誤解が解け出したのか、だんだんと日本人客が多くなっていく。
慶応3年(1868年)、馬車道太田町に移転。更に翌年明治元年(1868年)には横浜本町に大きな写真館を新築する。この時期こそ下岡の人生における全盛期であり、夜明け前から日没まで客足の途絶えないほどの大繁盛、収入は月に900円を越える事もあったという。営業写真の傍ら、風景写真や米国船の火災写真など多くの作品も残している。更には横山松三郎、臼井秀三郎ら明治以後の著名な写真家を弟子に持ち、「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬」と称される。
明治時代
明治時代に入ると、写真屋だけでは飽き足らなくなったのか他の事業にも手を出し始める。
明治2年(1869年)、後藤象二郎という大風呂敷で有名な人物と共同で6000円を出費して乗合馬車の会社「成駒屋」を始める。当初は文明開化ともてはやされたものの、明治5年(1873年)に鉄道が開通したため無用の長物となる。
同じく明治5年ごろ、外国人を相手に牛乳販売を始めるも、肝心の日本人の需要が伸びず廃業。他にも石版印刷・コーヒー店・ビリヤード店など次々と新事業に手を出すがどれも営業不振に陥り、写真屋として築いた蓄財を失ってしまう。
明治9年(1876年)、浅草に引っ越した下岡は写真においても新興の写真家や技術の発展について行けなくなった為か廃業。以後は撮影所の書き割りを作成するなどかつての栄光が嘘のような零落した生活に転じる。
その後はかつての武勇伝を虚実入り混じりで振りまいたりしながら一絵師として生計を立てつつ、大正3年(1914年)、数え年91歳(満90歳)という長寿で死去。
脚注
関連動画
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関連項目
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