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ヨナミネカナメ
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与那嶺要(よなみね かなめ,本名:ウォレスカナメ・ヨナミネ(Wallace Kaname Yonamine))とは、「ウォーリー」の称でしまれた元プロ野球選手監督のことである。

概要

OB
与那嶺要
基本情報
出身地 ハワイ準州マウイ
生年 19256月24日
2011年2月28日
身長
体重
175cm
82kg
選手情報
投球・打撃 左投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1951年
引退 1962年
経歴
選手歴 監督コーチ
プロ野球選手テンプレート

1920年8月23日生まれ。ハワイ準州マウイ出身の日系二世

小学生時代からアメリカンフットボールバスケットボール野球など様々な球技でプレーし、1947年にはプロアメフト選手として入団するも、遊びでプレーした野球左手首を負傷し、その後左肩を脱臼したためアメフト選手を断念。野球選手への転向を決断。

マイナーリーグプレーした後、1951年読売ジャイアンツへ入団。戦後初の外国人選手となった。

デビュー戦では代打として登場し、当時としてはしかったセーフティーバントを成功させ優位をアッと言わせ勝利に貢献。以降の試合でレフトのスタメンに定着し、リードオフマンとして活躍。

1954年には打率.361の好成績を残し、同僚川上哲治を押しのけて初の首位打者タイトルを獲得

1957年には打率.338で二度首位打者を獲得、更に翌年には打率.343で2年連続首位打者を獲得し、初のMVPにも選出された。また、1952年から1958年にかけて7年連続でベストナイン外野手にも選出されている。

だが、1960年に不振に陥ると球団から来季の構想から外れていることを通告される。この際、自由契約の経緯や行使の仕方で球団と揉め、中日近鉄が移籍先の補となったが、「巨人と対戦できるから」という理由で中日ドラゴンズへ移籍することとなった。

しかし、移籍先でも衰えを隠すことが出来ず、2年間プレーした後1962年をもって現役を引退した。

引退後は監督コーチとして活動。1972年からは中日監督に就任し、1974年には監督としてリーグ制覇に導いている。1977年監督を退任後も1988年日本ハムの一軍打撃コーチヘッドコーチを退任するまで切れなくコーチとして活動した。

1990年アメリカに帰

1994年野球殿堂入り。アメリカ人初の日本野球殿堂入りである。

2011年2月28日前立腺がんのため死去。享年85歳

人物・エピソード

アメリカ仕込みの快でしいスライディングやタックル日本野球の走塁意識を変えた男。ホームチールに関する記録もいくつか保持している。打撃技術にも優れ、川上哲治ライバルとして3度の首位打者いている。

一方で脱臼ので肩のは弱く、肩の弱さを俊足を活かした広い守備範囲でカバーしていた。

当時としてはしく熱心にファンサービスしていた選手でもあり、サインを貰えず悲しんでいた少年サインし喜ばれたというエピソードがある。この悲しんでいた少年こそが後に世界ホームラン王となる王貞治であった。

出身地であるハワイ州ダニエル・K・イノウエ空港内には、与那嶺の功績を称え彼のユニフォームなどが展示されている。

通算成績

打撃成績

通算:12年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1219 4955 4298 707 1337 82 482 163 79 21 522 19 553 68 .311 .387

監督成績

通算:6年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 780 388 349 43 .526 Aクラス5回、Bクラス1回

獲得タイトル・記録

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