世界地図とは、世界の縮図である。
概要
我々が今生活・生存している地球の全体ないし大部分を図法と投影法により表した地図。
中学校で習う通り、地球は球体であるためどうがんばっても平面に正確に描くことは出来ない。かといって球体では持ち運びには不向きのため、利便のために平面の地図が使われている。
それゆえ、特定の要素を犠牲にして使用用途に即した様々な図法の地図が製作されるようになった。一番メジャーである形や距離を犠牲にするかわりに角度を正確にしたメルカトル図法(ユニバーサル横メルカトル図法)を筆頭に、面積や角度を犠牲にするかわりに中心からの距離と角度を正確にした正距方位図法、距離や方位を犠牲にする代わりに面積を正しくしたモルワイデ図法が有名なものとしてあげられるだろう。
他には陸地部分の面積に重きを置いたグード図法や、角度や形を重視した正角円錐図法など様々な描き方がある。方位、面積、距離、角度を全て正確に表した地図は地球儀と呼ばれる。
また、多くの世界地図には国境が引かれ国も書かれているが、当然ながら製作年時点での情勢にあわせたものなので現代と必ずしも合致するとは限らない。家の押入れなどに旧ソ連やら南北ベトナムやらユーゴスラビアやらが存在している地図が眠っている人も居るはずである。
世界地図の中心
我々が目にする地図は画像のように中央が日本(太平洋)となっているものが主流である。このような地図は我が国だけでなく、アジア諸国で広く用いられている。これは太平洋が中心にあり、自国が見やすい位置にあることからその傾向があるようだ。
一方、もう一種類広く使われる地図があり、それは経度0、すなわち英国のグリニッジ天文台が通る線を中心にした地図である。これは欧州をはじめ、アメリカやアフリカなどで使われており、やはりこれも自国が見やすい位置にあることに起因している。
ちなみに、オーストラリアでは自国が上でないと気がすまないという理由から上下逆になっている世界地図が出回っているそうである。
近代史を取り扱ったコンテンツなどでは我が国(東アジア・東南アジアを含めることもある)は極東(Far east)などと呼ばれる事があるが、これは近代においてはヨーロッパやアメリカが中心で、そこで用いられる地図を見ると我が国はユーラシア大陸の端っこにあるために生まれた言葉とされている。
しかし、先に書いてる通り西洋中心の史観によったもので、地球は球体である以上どこを中心とするかはその国の、もっといえば個々人に委ねられる(とはいえ、現代でも日米安保条約など未だ極東の表現が残っていることもある)。
歴史
まだ世界というものが把握できなかった時代においてはその地域や周辺国に限られたものしかほぼ作られなかった。地図の制作者や依頼主がそれ以上の情報を必要とすることがなかった為である。
ただし、それでも全くなかったわけではない。最古の現存する世界地図とされるのは紀元前7世紀のバビロニアで作られたもので、首都バビロンが所在するチグリス・ユーフラテス川流域を中心にその周辺国が石板に刻まれている。隅には山をかたどったと思われる△が書き込まれており、当時の人々の世界観が垣間見える。
時代を下ると、紀元前6世紀には古代ギリシャの地理学者、ヘカタイオスが描いており、領域が広がって東はインダス川から西はジブラルタル海峡まで描かれている。常としてギリシャとイタリア半島といった彼らの地域以外の領域はかなり適当だが、それでも地中海はそれなりに正確に描かれているのが特徴である。周縁部は円海(オーケアノス)と呼ばれる海に閉ざされている。
更に時代が下るとヘロドトスやエラトステネスが描いている。ここまでくると円海が省かれるなど空想が描かれることは少なくなるが、それでも依然として一定以上隔てたところの描写は不正確であった。ただ、エラトステネスの時代にはアレクサンドロスの東征を経たこともあって、現在のイランやパキスタンあたりまでの地勢はそれ以前に比べて正確になってるのが興味深い点である。
ローマ帝国の時代に入ると、150年頃に天動説の学説を確立させた事績でもしられるプトレマイオスが著書の『地理学』の中で世界地図を作成し、現在でいう経緯線を描いていたり、当時知られていた地誌を集大成した事績が著名なものとして知られている。しかし、経緯線については緯度はまだ天文器具や星の位置から比較的正確に測定できたのに対し、経線については誤った距離の認識から過大に見積もったきらいがあり、あまり正確とはいえなかった。
プトレマイオスはこれらの事績から、後世においてはデファクトスタンダードな大学者として後世にも手本にされつづけたが、この経線の誤解は東西の距離を大きく見誤る原因にもなり、アメリカを発見したコロンブスも東廻りより西廻りのほうがアジアには近道とした原因になったとされている。
中世ヨーロッパにおいてはキリスト教的な価値観が優先され、聖地とその周辺を重視したTO図をはじめとして様々な世界地図が製作されるようになった。TO図はキリスト教徒にとっての最大の聖地であるエルサレムを中心に描かれ、東方の彼方にあるとされたエデンの園を上におきたいがために東を上とし、西を下としているため今、正確に見ようとすると首が疲れそうになる。
また、イスラム圏や中国でも世界地図を作る試みが見られるようになり、特に12世紀に描かれたイドリーシーの世界地図はプトレマイオスの知見を下地に彼らが住む西アジアから中央アジアにかけての地勢が正確に描かれていたこともあってその後300年に亘ってこれをもとに地図がつくられるようになった。イドリーシーの世界地図も宗教的な価値観が現れており、こちらはメッカを中心に、それを上に置く意図で南を上にしているのが特徴である。
中国においては南宋で商業的必要から地図が作られるようになり、模写ではなく木版印刷で作られることが多かった。1140年の古今華夷区域総要図が知られており、こちらは地理的な正確さは後回しにおおまかな場所と地名がとにかく列挙されている。
新大陸が発見され、大航海時代に入ると航海の安全や、探索のためにより正確な世界地図を作る必要に迫られ、次々と地理学者や探検家によって地図が作られていった。代名詞というほど知られているメルカトル図も、その流れのなかから1569年に作られた。この地図をみるとオーストラリアやニュージーランドはじめオセアニアは未発見の為描かれておらず、まだ精査の進んでいなかった北米や南米、東アジアは不正確である。しかし、既知であったアフリカやヨーロッパ、インド洋地域などはかなり正確に描かれており、16世紀における目覚ましい進展がうかがえる。
このヨーロッパにおける地図製作法や地理上の発見はやがて東アジアにももたらされ、1602年には万暦帝治世下の明においてイタリア人宣教師マテオ・リッチ協力のもとで坤輿万国全図が製作された。ここでは「赤道」や「地中海」など漢語に翻訳された知見がふんだんに盛り込まれており、一つのマイルストーンとして知られている。また、我が国にも江戸時代初期に流入し、幕末に至るまで知識人たちの世界認識の根拠となった。
中米や南米、アフリカ周縁の探索は17世紀に入るまでにあらかた終わったが、オセアニアや北米などの探検は続けられ、西洋の君主たちは競ってそのさきを争った。国威になるとともに最初の発見者と後援した国が第一の占有国(先占権)となるからである。例えば17世紀後半の科学者ライプニッツはロシア皇帝ピョートル1世と文通で、まだ明らかになっていなかったアメリカ大陸とユーラシア大陸が繋がっているかについて論じており、その解決のためにベーリングをシベリアの奥地まで探検に行かせたことが典型例である。
19世紀に入り近代と呼ばれるころには五大陸とよばれるところの発見は終わっており、内陸部の砂漠地帯や密林、荒野などの探検が進められ、それとともに地図に書き加えられていった。そして、極地の探索も含めれば地球上の探索は20世紀に入るまで続けられ、1911年のアムンセンによる南極点到達でその終止符が打たれた。それと同時に世界地図は事実上の完成をみた。
関連項目
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