代表作は『汚れつちまつた悲しみに』『サーカス』など。著作に『山羊の歌』『在りし日の歌』『ランボオ詩集』。
略歴
明治40年4月29日、現在の山口県湯田温泉出身。名家の生まれであり父は開業医であったため、中也も医師になることを期待されており、実際に神童と呼ばれるほど成績優秀な幼年期を送った。
しかし8歳の時に弟が病死し、彼を想って詩を作ったのが中也の創作のはじまりだった。
その後中学校で文学にハマって成績がガタ落ちし、とうとう中学3年で落第。立命館中学へ転校して一人暮らしを始め、高橋新吉や富永太郎の影響を受け詩作を本格的に始めた。
大正14年に上京し、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らと親交を結び、昭和4年に同人誌『白痴群』を創刊。昭和9年には詩集『山羊の歌』を出版するに至った。なお、その前年に『ランボオ詩集』を翻訳して三笠書房より刊行している。中也はランボーの翻訳者としても小林と並び著名であるが、彼自身も初期の頃はランボーに影響を受けていた。
『山羊の歌』は文壇で高く評価され中也は詩人として一定の地位を得、昭和10年に長男文也が誕生。2年後には次男愛雅が生まれたが、その直前に文也が病死。中也は深い悲しみに暮れてしまった。
翌年夏、痛風と診断されながらも『在りし日の歌』の原稿を清書し終えて小林に手渡しているが、それから2週間と経たないうちに倒れて入院。小林や河上は毎日のように見舞いに訪れたが、その甲斐むなしく昭和12年10月22日、結核性脳膜炎のため30歳の若さで永眠。翌年1月、次男愛雅も病死。4月に友人たちの尽力で詩集『在りし日の歌』が出版された。
短い生涯であったが中也は350を超える詩を残し、その人生も相まって後世国内のみならず海外でも高く評価されている詩人である。
作風
初期はランボーの影響を強く受けた象徴派だったが、後に宮沢賢治の『春と修羅』に出会い、その感覚と表現に魅せられたという。中也の詩も独特な雰囲気を持つ印象的な作品が並ぶ。一方で、詩は詩人の人生観や世界観を表すものと主張しており、彼の短いながらも波乱に満ちた人生が詩にも表れている。
人物
……とまあ、ここまでなら「珠玉の詩編を数多く残し、今なお世界中で愛され続ける、夭折を惜しまれた天才詩人」である中也だが、詩人としては一流でもその人柄はめちゃくちゃ悪かったと言われている。
略歴にもある通り、家の後継ぎとして医師となることを望まれていたにも関わらず文学に没頭してついには落第までしている。しかも当時から飲酒喫煙していたというから、もはや不良であった。
しかも上京した理由は「大学予科受験」であったが、書類不備や遅刻でその年は受験できず、予備校に通うと言って実家に仕送りを続けさせた上で翌年日本大学予科へ入学するが、今度は試験を何一つ受けることなく9月に退学。しかも実家にはそれを伝えていなかった。
また、中也は酒癖の悪さでも有名。青山二郎の義弟のバーは中也がいつも客に喧嘩を売り続けて潰され、大岡昇平は飲み会でぶん殴られ、中村光夫に至ってはビール瓶で殴られている。
太宰治については「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」とやけに文学的な煽りを食らわし「おめえは何の花が好きなんだい?」と絡んだ。太宰が半泣きで「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると「チェッ、だからおめえは!」とこき下ろした。以後太宰は中也と関わり合いになるのを避けた。
しかしそんなこんなで軋轢はあったものの病床の父を励ましたり、文也を三日三晩不眠不休で看病し、その死に際しては母がなんとか諦めさせるまで遺体を棺に入れず抱きしめ続けるなど家族を大切に思っており、恋した女性に対して別れた後も面倒を見るなど一途な面もあった。
また、様々な問題を起こしながらも文壇の仲間から少なからず慕われていた。太宰も中也の死後その才能を惜しんでおり、ぶん殴られた大岡は後に『中原中也詩集』を編集し「中原を理解することは私を理解することだ」とまで語っている。
なお、中也の有名な肖像はイケメンとして知られているが、大岡曰くあの肖像は複写やレタッチの末もはや別人に成り果てているらしく、実物は普通におっさんだったらしい。
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関連項目
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