中本修平とは、MotoGPやF1で活躍したホンダの技術者である。
現在はドルナに在籍し、アジアタレントカップ(若手育成選手権)の相談役になっている。
略歴
大学時代にバイクレースをする
1957年4月29日、鳥取県出身。
少年~青年時代はスポーツに励む人で、野球やサッカー、ラグビーを経験した。
1978年に第1回の鈴鹿8耐が開催された。レースを見物しに行き、ピットボックスの上の観戦エリアからピットレーンを眺めていたときに、たまたま森脇護と目が合った。そのときの森脇護の鋭い眼光に圧倒され、レースの世界に興味を抱き始めた。
大学時代にすこし2輪レースをやったことがある。鈴鹿サーキットを走っていたとき、とんでもない速さで彼をぶち抜いていったライダーがいて、「早く辞めないと、怪我をするだけだ」と思ったという。しかしながらレースの奥深さを良く理解でき、レースの仕事をしてみたいと思ったらしい。ちなみに中本副社長を抜いていったのは、宮城光さんだった。
宮城光さんもその当時のことを覚えていて、日テレG+の「2012年振り返り座談会」で触れていた。「中本さんは500台が参加するレースの中で勝ち上がり、スターティンググリッドに並ぶ上位40台の中に入っていた。その中には藤井正和さん(耐久レース強豪のTSRを率いる監督。この記事に登場)もいた」「当時のレースの予選は僅か10分で、タイヤウォーマーも使用不可だった。よっぽど上手く走っても4周しかタイムアタックできず、勝ち上がるのは難しかった」と語っていた。要するに、結構良い感じに速く走っていたということである。
ホンダに入社し、HRCのシャーシ設計者になる
1983年10月1日、26歳の時にホンダに入社。最初の3ヶ月は自動車販売店で働いて、その次の3ヶ月は鈴鹿の4輪工場で働いた。新入社員に色んな経験をさせるのはいかにも日本企業らしい。6ヶ月間の研修期間のあと、ホンダ本社の指令により、幸運にもHRC(ホンダ傘下のバイクレース専門企業)に配属されることが決まった。
HRCに入ったら、エンジン設計の部門に回された。ところが1ヶ月過ぎた後、上司に「シャーシ部門に転属させてください」と申し出ていて、それが了承されていた。エンジンは興味深いのだがいじることのできる範囲は物理的に限定されている、というのが理由だった。シャーシ全体をいじる方が広々とした視野で仕事できて楽しい、と思ったのだろう。
それから17年間、レース用2輪車のシャーシ設計を担当した。設計したバイクの名前を列記すると、プロトタイプ(レース専用車両)でRS125RやRS250RやNSR250、スーパーバイク世界選手権に出場する市販車ではRVF/RC45やVTR1000SPである。
中本副社長が設計したマシンをエミリオ・アルサモラ(Moto3クラスのホンダ系チームTeam Monlauの首脳)が走らせてチャンピオンを獲得したこともあるし、中本副社長が設計したマシンをファウスト・グレシーニやルーチョ・チェッキネロ(いずれも最大排気量クラスでホンダのサテライトチームの監督)が走らせていたこともある。
MotoGPの125ccに参戦していた上田昇さんは、ホンダの車両に乗っていたときに中本副社長と一緒に仕事をした。そのとき中本副社長は常にピットの外に出てライダー目線で色々話をしてきたという。ピットに引きこもってコンピューターとにらめっこする技術者が多いのだが、そうした人たちとはちょっと違う存在だったと上田さんは述懐している。
MotoGPの125ccクラスや250ccクラスのマシンを設計した後、上司に向かって「500ccクラス(最大排気量クラス)のNSR500を設計してみたいんです」と言った(※ちなみにこのときNSR500を設計していたのが国分信一室長である)。そうすると、上司の手によって、スーパーバイク世界選手権(市販車レース。4スト1000ccの大きなマシンを使う。大きさだけならNSR500と同じぐらい)の部門に回された。
スーパーバイク世界選手権向けの仕事でも頑張り、なかなかの成果が出た。そこで上司に向かって「やっぱりMotoGPの500ccクラス(最大排気量クラス)に行って、NSR500を設計したいです。500ccクラスは、バイクの世界のF1じゃないですか」と再びお願いをした。
すると上司は「よーし分かった。そこまでF1の仕事をしたいんなら、F1の部門に行かせてやる」と言いだし、HRCを放り出されてホンダのF1部門に転属するように命じられてしまった。これが2000年のことである(当時のホンダは2000年からF1の第3期活動を始めていた)
そのときまで4輪の経験が全くなかったので、恐怖を感じたと述懐している。「そのとき私は幼い子を2人抱えておりました。会社の命に背くわけにはいかなかったのです」というようなことを笑いながら冗談めかして言っている。
この本の221ページでヤマハワークスの古沢政生さんが「ヤマハでは日本企業に典型的な家族主義的気風が強いのですが、ホンダの場合は内部でも切磋琢磨させるそうですね。『二階に上げてハシゴをはずし、さらに下から火を点ける』と冗談交じりにおっしゃる話も聞いたことがあります」と語っているのだが、まさしく二階に上げられて火を点けられてしまったのである。
F1で活動する
2000年5月1日から2008年の暮れまでF1部門にいて、後半は最高責任者を務めていた。
F1というのは見ているだけだと退屈だが、技術者として参加するととても刺激的であった。MotoGPでは1人の技術者が色んなことを幅広く行うのだが、F1では1人の技術者の担当する範囲がとても狭い。その代わり、F1技術者の仕事は非常に深いところまで探求していく。F1の方が学究的であり、専門的であった。
F1の予算や人員はMotoGPとは比べものにならないほど大きく、MotoGPの約10倍だった。「F1は大都会で、MotoGPは小さな村」といっており、両者の予算規模の違いを感じさせられる。「F1の予算の1%でも手に入れることができたら、私は会社を辞めていただろう」と冗談を言うほどであった。
2008年末にリーマンショックの影響もあってホンダがF1から撤退した。それに合わせてHRCへ戻り、2008年12月1日にHRC副社長に就任してMotoGPの総責任者になった。
MotoGPの総責任者 ブレーキングの安定性を求める
2009年2月のセパンテストで初めてホンダのマシンの様子を見たところ、直線で速いがブレーキングでヤマハに簡単に抜かれる様子を見て、ショックを憶えたという。
そのころから、「ブレーキングの安定性を上げてくれ」と指示した。「エンジンパワーよりもブレーキングの安定性の方がはるかに大事だ」とキッパリ語っている。ホンダはエンジンにこだわる企業なので、中本副社長の発言はなかなか珍しいと言える。
ブレーキングの安定性が高まったら、中本副社長は「コーナーリング速度を上げてくれ」と指示した。この指示にも技術者達は良く応え、ヤマハと同等以上のコーナーリング速度になっていった。
また、F1の技術をMotoGPに転用したのも中本時代の特徴と言える。シームレスミッション(ギアチェンジを滑らかに行う装置)を2010年に導入したのが代表例と言えよう。
ケーシー・ストーナーやマルク・マルケスといった異次元の天才ライダーにも恵まれ、2009年から2016年までの8年間で4回チャンピオンを獲得した。
2016年シーズンが、レースに帯同する最後の年となった。
2017年4月をもって定年退職した。2017年4月23日に行われたアメリカズGPにやってきていて、そこでマルク・マルケスが優勝したので、記念として表彰式に参加している。
ドルナに再就職 若手育成選手権に関わる
2017年夏にドルナに再就職した。
アジアタレントカップ(アジア圏の若手育成選手権)の相談役である。同選手権のこの動画で、インタビューに応じている。
アジアタレントカップはMotoGPと同じ週に行われる。MotoGPのタイGPが行われる週にアジアタレントカップのタイ開催も行われる、といった具合である。
そのため、2018年のタイGPや日本GPでは、中本元副社長もピットに姿を現していた。Moto3クラスの佐々木歩夢のピットに詰めかけてアドバイスをしていた。
資料
人柄など
中本副社長が来る前のホンダは軍隊的で秘密主義で、偉い人があまり喋ってくれない企業体質だった。マックス・ビアッジも「私の在籍していた頃のHRCは軍隊のような構造でした。中本修平HRC副社長が来てから、フレンドリーな雰囲気になったんです」というほどであった。
そうした様子を大きく変えたのが中本副社長で、明るくオープンで、ジョークを交えつつ喋ってくれる。中本副社長とリヴィオ・スッポの2人がメディアに出て積極的に発信したおかげで、ヨーロッパにおけるホンダのイメージは大きく向上したと言えるだろう。
中本修平HRC副社長と仲が良かったヨーロッパの記者というと、マニュエル・ペチーノである。ペチーノさんのインタビュー記事は「nakamoto site:pecinogp.com」「nakamoto site:cycleworld.com」と検索すると多くヒットする。
ゴルフはあまり嗜まれないそうである。
マルク・マルケスとその友人の写真を撮ってあげている。
2015年カタールGPは、息子の結婚式に出るため欠席していた。2015年シーズンの暫定カレンダーが出たとき、カタールGPの日程は3月22日開催だったので、結婚式を3月29日に予定していた。ところが正式なカレンダーが決まったときにはカタールGPが3月29日開催になってしまい、そのときは結婚式の日程を動かせなくなってしまった。※この記事が出典
レプソルホンダのライダーと一緒にサッカーをしている画像がある。画像1、画像2
日本語メディアの記事がいくつかある。MotoGPライダーの年棒を喋っている記事もある。記事1、記事2、記事3
ナカモトサン
MotoGP・F1関係者の多くが「日本では、名前の後ろにサンを付けると敬称になる」ということを知っている。
そのため、中本元副社長も「ナカモトサン」と呼ばれていた。
MotoGPの記者会見に出るたび、司会を務めるニック・ハリスに「ナカモトサン」と呼ばれていた。
英語の記事に「Nakamoto-san」と書かれることが多い。このように検索すると、そういう記事が多くヒットする。
KTMと舌戦を繰り広げる
Moto3クラスは当初ドルナから「安価で車両を製造・販売し、貧乏なプライベートチームも参戦しやすくしましょう」との提案があり、ホンダもそれに応じていた。
しかしながらKTMはそれを無視し、「高くなってもいいから速いマシン」とばかりに開発を進め、車両価格が高騰していった。
これについて中本副社長は敢然と舌戦を開始、「KTMはおかしい、常軌を逸している」「KTMがMoto3を破滅させようとしている」 と批判した。
実際、KTMのMoto3ワークスのライダーの給料が、最大排気量クラスのステファン・ブラドルより高く、KTMの札束戦術はなかなか露骨だったのである。
それに対してKTM側も反論し、しまいにはKTMのステファン・ピエラCEOが「ホンダは大嫌い」「ヤマハとカワサキが好きだがホンダを負かすのはもっと好き」と言い出した。
日本では老若男女の全員が、舌戦や口論を「みっともない」「はしたない」「ダサい」「格好悪い」と認識するが、ヨーロッパにおいては舌戦や口論を敢然と行ったほうが株が上がるのである。F1で揉まれた経験のある中本副社長らしい機敏な舌戦だった。
この項の資料・・・記事1、記事2、記事3
お別れパーティーが開かれなかったので、名物記者に怪しまれる
中本修平HRC副社長にとって2016年11月13日(日)のバレンシアGPが、チーム関係者として参加する最後のGPとなった。
このとき、マニュエル・ペチーノというスペインの名物記者は、中本修平HRC副社長を温かく送り出すお別れ会が催されるものだと思っていた。ホスピタリティ(チームが設営する簡易食堂)で軽食をつまみながら和やかに歓談する、そういうパーティーがあると予想していたのだが、一切行われなかった。
そして11月14日(月)に会見が行われ、中本修平HRC副社長は後継に3名を指名して(桒田哲宏運営室長、国分信一開発室長、服部直樹管理室長)、その晩にさっさと帰国してしまった。
あまりにもそっけなく中本修平HRC副社長が帰っていったのを見て、ペチーノさんは胸に疑惑が生じたらしい。ライディングスポーツ2017年2月号で「中本さん引退の発表はすごく冷たい形式で行われた」と書き、1年後の2018年2月号では疑惑がさらに増幅して「中本さんとスッポのやり方はホンダのやり方から外れていた」「ホンダは従業員個人の過大な人気を許さなかった」と、まるで中本修平HRC副社長が追放されたかのようにおどろおどろしく書いている。
中本修平HRC副社長がそういう行動をとったのは、大体の想像が付く。お別れ会なんぞをうっかり開いてしまったら、まず間違いなく、ダニ・ペドロサやマルク・マルケスの花束贈呈が行われるであろう。さしもの中本修平HRC副社長も、目にうるっとくる。そこを遠藤智さんというカメラマンに激写され、トーチュウやライディングスポーツに鮮明な画像を掲載されてしまうのだ。日本には「偉い人が感激の涙を流したらガッチリ写真を撮り世間にばらまいて皆でそのことをからかう」という恐ろしい風習があるのである。
ここら辺の事情はおそらくスペイン人には理解不能であろう(スペインにはそういう風習はない)。誰か、この真実をペチーノさんに教えてあげなくてはいけない。
関連項目
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