中村憲剛(Kengo Nakamura, 1980年10月31日 - )とは、日本の元プロサッカー選手である。
元サッカー日本代表。現在は川崎フロンターレのFROを務めながら、解説者としても活躍している。
175cm66kg。現役時代のポジションはMF。利き足は右足。
概要
東京都小平市生まれ。2003年に中央大学から当時はJ2リーグに所属していた川崎フロンターレに入団。以降、プロ生活の18年間を川崎一筋で貫いたクラブのバンディエラであり、チームの中心として3度のJ1リーグ優勝など、リーグ屈指の強豪に導き、公式戦676試合出場99得点という記録を残したJリーグの歴史に残る名プレイヤーの一人である。
現役時代はトップ下やボランチでプレーするゲームメーカータイプのMFで、視野の広さと戦術眼の高さを武器に攻撃を組み立て、1本のスルーパスで決定機を演出するプレーを得意としていた。
Jリーグベストイレブンには8度のベストイレブンに選出され、2016年には史上最年長となる36歳50日にしてJリーグ年間最優秀選手賞に選ばれている。Jリーグ史に残るプレイヤーの1人と言っても過言ではない。
Jリーグでの輝かしいキャリアと比べると日本代表では結果を残せているわけではないが、それでも国際Aマッチ68試合出場6得点という成績を残し、2010 FIFAワールドカップにも出場している。
プロ入り前の経歴
父、母、姉二人の6人家族の末っ子として生まれ、両親は子供のやりたいことを尊重し、小さい頃からきちんと責任を持たせるという教育方針だった。
サッカーを始めたのは小学1年生の時で、東京都府中市の府ロクサッカー少年団に所属。当時のプレースタイルはパサーというよりドリブラーだった。少年団の先輩に女子サッカー日本代表として活躍した澤穂希がいる。全国レベルの少年サッカーチームの中でも実力は高く、6年生の時に出場した東京都少年選抜サッカー大会では開会式にて選手宣誓を務めたほか、大会優秀選手10人の中に選ばれている。
中学は地元の学校に進学し、当初は別のクラブチームでプレーしていたが、体が細かったこともあって体格で上回る周りの選手に通用しなくなったことでやる気がなくなり、一度はサッカーを辞めている。それでもサッカーへの情熱を捨てきれず、2年生から学校の部活に再び入りサッカーを続ける。
高校は強豪の都立久留米高校へ進学。入学時は同級生の中でも体が小さく、華奢だったが、この頃からパサーに転向し、「頭を使ってプレーする」ことを意識するようになっている。3年生のときは主将も務めたが、高校時代の最高成績は高校選手権の都大会ベスト4で、全国的にも無名の存在だった。
高校卒業後、一般推薦枠で中央大学に進学。やはり無名の存在として入部したため、一番下の序列からのスタートとなったが、ここでもチームの中で自分は何ができるかを考えてきた結果、2年生になるとレギュラーを掴む。3年生時にチームが52年連続で守ってきていた関東リーグ1部の座から陥落し2部降格の屈辱を味わったが、4年生になり主将として2部優勝を果たし、1年での1部復帰を決めている。卒業後はプロを目指すが、2部に所属していたためJリーグのスカウトの目に止まらず、J1クラブのテストを何チームか受けたが、線が細かったため不合格となった。
クラブでの経歴
2003年、テスト生として参加していた当時J2リーグの川崎フロンターレに入団。プロ1年目の背番号は「26」だった。2003年シーズン開幕戦でスタメンに抜擢され、プロデビューを果たすと、4月9日のモンテディオ山形戦では初得点を挙げた。惜しくもJ1昇格は逃したが、34試合4得点という成績を残し、ルーキーイヤーとしては上々の1年となった。
2004年から背番号を「14」に変更し、現役生活をこの番号で過ごすこととなる。この年就任した関塚隆監督のもとでオフェンシブハーフからボランチに転向。これによってゲームメイカーとしての才能が開花し、長年川崎の武器となるジュニーニョとのホットラインが確立される。このときのチームはジュニーニョ以外にも得点力の高いFWが揃っており、司令塔としての中村の働きが重要なものとなっていた。結果、川崎の記録的な強さ(勝ち点100越え・得点100越えの「ダブル・トリプル」)とJ1復帰に大きく貢献した。後にこのシーズンを現在のプレーのベースを作った大きなターニングポイントになった年と振り返っている。
2005年には念願のJ1リーグ初出場を果たす。初出場となった4月3日のガンバ大阪戦で対戦した遠藤保仁のプレーに衝撃を受けるとともに大きな刺激を受けることとなる。パサーとしてのスキルはJ1でも十分すぎるほど通用し、2005年8月24日J1第20節横浜F・マリノス戦でJ1初ゴールを記録。ジュニーニョとのコンビも試合を重ねるごとに破壊力を増し、J2で見せた川崎の攻撃力はJ1でも通用することを証明した。
2006年は、自身にとっても川崎にとっても大きく飛躍した1年となる。ジュニーニョと我那覇和樹の2トップがゴールを量産し、自身も2トップにパスを送りながら、ボランチの相方となった谷口博之との連携が増したことで前線へ飛び出す機会が増える。この年、中村と谷口のボランチコンビは、二人揃って二桁ゴールを記録するという偉業をやってのけ、最後まで優勝争いを演じることに大きく貢献。終盤に力尽き初タイトルこそ逃したが、チームは2位でシーズンを終える。この年、谷口と共にクラブ史上初のJリーグベストイレブンに選出された。ちなみに以後4年連続で受賞している。
2007年は我那覇がトーピング疑惑をかけられ出場停止にされるゴタゴタがあったが、ジュニーニョの得点王獲得に貢献。初出場となったAFCチャンピオンズリーグでも中心として活躍するが、ベスト8で敗れている。AFCの影響もあってチームは優勝争いに絡めず、決勝まで進んだJリーグヤマザキナビスコカップもガンバ大阪に敗れ、惜しくも準優勝に終わっている。
2008年も春先に造反したフッキが退団、関塚監督が体調不良で退任するなどゴタゴタが起きたが、リーグ最多の65得点を記録した強力な攻撃陣を巧みにリード。長男誕生の二日後となった9月27日の柏レイソル戦では、FKからの直接ゴールを決め、ゆりかごパフォーマンスで祝っている。最終節まで優勝争いを残す三つ巴の戦いを演じ、代表との掛け持ちとなりながらリーグ戦全試合に出場し奮闘したが、最終的に2位に終わり、またしてもタイトル獲得はならず。この頃から、川崎はシルバーコレクターという有りがたくない呼び名が付くようになる。
関塚監督が復帰した2009年は攻撃的なポジションで起用されることが多かったが、前年に続いて終盤まで優勝争いに加わりながら及ばず2年連続での2位で終える。ナビスコカップでも決勝まで進みながら、またもFC東京に敗れ、悲願のタイトル獲得はまたも実現せず。この年、事実上6年続いた関塚体制が終焉となる。
2010年は、怪我によって欠場した時期があり、チームも川島永嗣、鄭大世、レナチーニョといった主力がシーズン中に移籍したこともあって優勝争いからは早い段階で脱落することとなる。ACLでもグループステージで早々と脱落するなど、不本意なシーズンとなった。オフには海外移籍の話が持ち上がり、去就が注目されたが、川崎に残留することを決断する。
2011年は、3月11日に起きた東日本大震災の復興支援活動に尽力をする。しかし、この年は厳しいシーズンとなる。5月28日のJ1第13節ガンバ大阪戦で決めたFKによるゴールがやべっちFCの年間最優秀FK賞に選ばれたが、過密日程となった夏場に入って8連敗を喫するなど、まさかの残留争いに巻き込まれるほどチームは低迷。終盤までには立て直し11位でJ1残留は果たすが、4年連続で選出されていたJリーグベストイレブンからは外れることに。
2012年からは長年コンビを組んでいたジュニーニョがチームを去った中で川崎のキャプテンに就任。しかし、前年の悪い流れを引きずっていたチームは序盤から躓き、4月に相馬直樹監督が解任される。後任となった風間八宏監督からは「おまえ下手だな。もっと上手くなれ」と言われ、すでにリーグ屈指のMFとなっていた中村は衝撃を受ける。しかし、この言葉をきっかけにもう一度技術的なベースを作ることができ、後に40歳近くまでトップレベルでプレーし続けた礎を築く。その後、チームを牽引し全34試合に出場し5得点を挙げ、アシスト数はリーグ最多の13アシストだった。
2013年は移籍してきた大久保嘉人とレナトと共に川崎の攻撃の中心となる。開幕から6試合連続未勝利とスタートで苦しんだが、攻撃陣が噛み合うようになったことで猛烈な巻き返しを見せる。特に大久保とは、「彼の動きについていけば最短で点を取れるようになる」と語るほどの連携を見せるようになり、得点王獲得に一躍買うこととなる。チームも久々に上位でシーズンを終え、4シーズンぶりのACL出場権を獲得。
2014年も超攻撃的なスタイルの風間サッカーの司令塔として君臨し、優勝争いの一角に加わるチームを牽引。しかしJ1第31節清水エスパルス戦で左足関節骨棘障害を負い、戦線を離脱。不動の司令塔を失った川崎は大きく失速してしまい、6位でシーズンを終える。
2015年は、大島凌太とのボランチコンビの成熟度が増すも、シーズン途中でパフォーマンスが低下し、怪我以外でのスタメン落ちを経験する。それでも、途中出場で結果を残したことでスタメンに返り咲くことができ、結局公式戦42試合に出場するフル稼働のシーズンとなった。
2016年の川崎は風間体制5年目の集大成となったこともあり、開幕からリーグの主役となる。ベテランとなったが、プレーは衰えるどこかさらに洗練されるようになり、この年はトップ下の位置で躍動。7月の名古屋グランパス戦で負傷退場したことで一時離脱するも最終的には9ゴール11アシストを記録。創立20周年となったチームは年間を通して安定した強さを見せたものの、大事なところで勝てない悪い癖を払拭できず、またもあと一歩でタイトルを逃す。それでも、この年のJリーグの中心にいた中村は各方面から高く評価され、2010年以来となるJリーグベストイレブンに選出されただけでなく、歴代最年長の36歳でJリーグ年間最優秀選手賞を獲得。中村は「自分の力ではなく、まわりのおかげ」と周囲への感謝の言葉を述べている。
2017年に川崎の主将を小林悠に譲り、主将の座を勇退した。チームは鬼木達新監督のもとで新たなサイクルに差し掛かり、自身も守備のスイッチ役という役割も与えられるようになる。開幕からしばらくは上位になかなか食い込めず、第17節が終えた時点では6位に位置していた。しかし、新たなエースストライカーとなった小林を中盤からサポートすることで覚醒させ、じわじわと順位を上げていき気が付くと優勝争いに加わっていた。2位で迎えたJ1最終節の大宮アルディージャ戦で3得点の起点となって勝利に貢献。他会場では勝ち点2差で首位だった鹿島アントラーズが引き分けたため、得失点差で上回った川崎がクラブ史上初タイトルとなるJ1リーグ優勝を劇的な大逆転で勝ち取ることとなった。そして川崎一筋で長らく優勝に縁のなかった男が試合終了の瞬間崩れ落ちながら嬉し涙で栄冠を得た瞬間であった。この年、2年連続でのJリーグベストイレブンにも選ばれている。
なお、10月に前年の史上最年長(36歳50日)でのJリーグ年間最優秀選手賞受賞がギネス世界記録に認定されている。
2018年シーズンは、開幕戦のジュビロ磐田戦で珍しいヘディングでのゴールを決め、5月20日J1第15節清水エスパルス戦で2得点を挙げて勝利に貢献。また、この日で通算419試合出場し、大卒では藤田俊哉に並ぶ出場記録を達成。シーズン序盤はACLとの過密日程によって満足なトレーニングの時間が取れず、「チームのエンジンがかからない」という状況が続いていた。しかし、ACLで早々と敗退したことでリーグに専念できるようになり、ワールドカップの中断以降は勝ち点を重ねていく。第28節で首位に立った川崎はそのままトップの座を明け渡すことなく、最終節を前にJ1リーグ連覇を達成。前年と違い、このときは噛みしめるかのような喜び方をしていた。仙人を目指すとコメントするほど衰え知らずの老獪なプレーを評価された中村は、38歳にして3年連続8回目となるJリーグベストイレブンに選出される。
3連覇を目指す2019年シーズンでは、第2節の鹿島戦でFKによる直接ゴールを決めるも、他チームからの警戒がさらに強まったこととACLとの兼ね合いによって苦戦。10月28日には、北海道コンサドーレ札幌との争いとなったルヴァンカップ決勝に後半29分から出場。PK戦までもつれこんだ死闘の中、3人目のキッカーとしてPKを成功させ、クラブ初のルヴァンカップ優勝に貢献する。しかし、11月2日の広島戦で左ひざの前十字靱帯を損傷により全治7か月という大怪我を負って早々とシーズンを終えることとなる。
2020年、8月29日J1第13節清水戦で約10ヶ月振りの公式復帰戦を果たすと、この試合でシーズン初得点を決める千両役者ぶりを見せる。10月31日、40歳の誕生日にホームでの多摩川クラシコ(FC東京戦)にてキャリア史上初となるバースデーゴールを決め勝利。翌日の11月1日、同シーズン限りで現役を引退することを表明した。
クラブは開幕から圧倒的な強さで首位を独走し、史上最速でJ1リーグ優勝という偉業を達成果。その後、ホーム最終節浦和レッズ戦に出場し小林のゴールをアシスト。
そしてラストゲームとなる2020年12月天皇杯決勝。
本人は途中出場すら叶わなかったが、チームは初の天皇杯栄冠と二冠という快挙の中で現役を締めくくった。
日本代表
ユース年代、オリンピック代表とこれまで日本代表とは縁が無かったが、2006年8月に就任したイビチャ・オシム監督に初めて日本代表に招集されると、10月4日のガーナ戦で途中出場し、フル代表デビューを飾る。10月11日のアジアカップ予選、インド戦で初スタメンを飾ると、自身「思い描いていた通りのシュート」と振り返ったミドルシュートを決め、代表初ゴールを記録する。このときのオシムとの出会いを後のサッカー人生における大きな出来事と語っており、オシムに認められたことで大きな自信を得ることになる。オシムからの信頼を得たことで代表に定着し、2007年7月におこなわれたAFCアジアカップ2007では、全6試合にスタメンで起用されている。
オシムが病に倒れたため、2008年から日本代表監督を引き継いだ岡田武史監督のもとでも常連として呼ばれることとなる。しかし、中盤には中村俊輔や遠藤保仁、長谷部誠など同年代の強力なライバルが揃っており、出場した試合はほとんどが海外組が不在のときとなっていた。2010年南アフリカW杯の出場権を獲得したウズベキスタン戦にはスタメンで起用され、岡崎慎司の決勝ゴールをアシスト。その後の親善試合ではスタメンで起用されることが多くなっていた。しかし、東アジア選手権で敗れるなど、国内の批判を浴びる岡田JAPANの道のりは険しいものとなっていた。
2010年6月に開催された2010 FIFAワールドカップの出場メンバーに選出されるが、本番直前で岡田監督が守備的な戦術に変更したこともあり、控え組となってしまう。4試合目となったベスト16のパラグアイ戦で後半36分から出場しようやく出番が回るが、結局出場したのはこの試合の39分間のみとなった。
その後、しばらくの間代表からは遠ざかるが、2011年10月11日のブラジルW杯アジア三次予選タジキスタン戦で1年ぶりに復帰。スタメンで起用されると、1ゴール3アシストの大活躍を見せ8-0の勝利に貢献。だが、スタメンを固定化する傾向のあったアルベルト・ザッケローニ監督のもとでは控えという立場となり、2013年6月のFIFAコンフェデレーションズカップ2013に2試合途中出場したのを最後に代表での試合出場は無くなった。翌年の2014 FIFAワールドカップのメンバーから落選し、予備登録にとどまった。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2003 | ![]() |
川崎フロンターレ | J2 | 34 | 4 |
2004 | ![]() |
川崎フロンターレ | J2 | 41 | 5 |
2005 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 29 | 2 |
2006 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 34 | 10 |
2007 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 30 | 4 |
2008 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 34 | 4 |
2009 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 32 | 4 |
2010 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 27 | 4 |
2011 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 30 | 4 |
2012 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 34 | 5 |
2013 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 29 | 7 |
2014 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 30 | 3 |
2015 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 33 | 2 |
2016 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 31 | 9 |
2017 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 32 | 6 |
2018 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 33 | 6 |
2019 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 20 | 2 |
2020 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1 | 13 | 2 |
個人タイトル
引退後
2021年1月23日川崎フロンターレのFRO(Frontale Relations Organizer)に就任したことが発表され、クラブのアカデミー、普及・育成部門を中心に活動することとなる。
2021年4月9日、日本サッカー協会とロールモデルコーチとして契約。前年に就任した内田篤人に次いで二人目となる。4月12日からのU-17日本代表合宿に参加している。
その他、DAZN、NHK BS1Jリーグ中継解説者や、NHK総合テレビジョン「サンデースポーツ」サッカーコメンテーター(2022年4月から)を担当。
2024年12月15日、等々力陸上競技場において「明治安田 presents 中村憲剛 引退試合」と冠がついた引退試合を開催。
プレースタイル
1本のパスで決定的な場面を作る必殺のスルーパスを得意としており、川崎がジュニーニョ、大久保、小林と3人の得点王を生み出したのは中村の力が大きい。ディフェンスラインの急所を見抜く視野の広さとFWの動き出しに合わせて欲しいタイミングでピンポイントで合わせる技術の高さに裏打ちされている。中村のパスは若手時代からジュニーニョにここへパスをよこせと要求され続けたことで磨かれてきたと言われている。
若い頃は何がなんでもスルーパスを狙う傾向が強かったが、年を重ねるにつれてゲームの展開に合わせて試合をコントロールする術を身につけており、様々な意図を持ったパスでチーム全体を動かし、急ぐときとゆっくりボールを動かすときの緩急を生み出している。基本的に2つか3つくらいのプレー選択肢を持つようにしているらしく、その場で最適解を選んで決断できる。そして、正しい選択をするために相手のシステムやスタイル、特徴を頭に入れてプレーしており、試合の中で情報をアップデートもさせている。味方も敵も含めピッチ上で起こっている事象を把握し、見極めてそれを動かすことが中村憲剛のゲームメイクの秘訣といえる。
また、ゲームメイクをしながらここぞというときは自分でゴールを奪うこともできる。キック技術の高さを活かしたミドルシュートやフリーキックによる直接ゴールは言うまでもなく、スペースを見極めて自ら前線へ飛び出し使われる側へと変貌することもできる。
弱点はずっと指摘されている通り線が細いためフィジカルコンタクトに弱いことである。もっとも、ベテランになってからは視野の広さや相手をいなす技術によって弱点をカバーできるようになっている。また、守備においてもポジショニングと読みでフィジカルの弱さをカバーしている。
余談・エピソード
スペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナのサポーターであることでも知られている。
漢字から勘違いされることがあるが、名前は「けんごう」ではなく「けんご」である。この事からネット上では剣豪という愛称で呼ばれることもある。
都立久留米高等学校のサッカー部の古い先輩に、志村けんがいる。
2004年以降一貫して背番号14を愛用しているが、14番として有名なヨハン・クライフを意識しているわけではなく、数字の並びがかっこいいからとのこと。
中村の憧れの選手であるヴィッセル神戸のアンドレス・イニエスタが2020年5月に「やべっちF.C.」に出演した際、Jリーグの神選手として中村の名前を挙げている。イニエスタは「中村憲剛が試合に出るとチームのリズムが決まります。サッカーをよく知ってるし、ゲームによく絡んでいます。高いテクニックを持っていますし、仲間を活かすプレーをする選手です」と評している。これを受け、本人は自身のツイッターにおいて「光栄の極みです」と歓喜の気持ちをつづっている。
サガン鳥栖でプレーしていたフェルナンド・トーレスも2019年に出演した「JリーグTV」において、日本人で好きな選手の名前に中村の名前を挙げている。
やべっちF.C.の企画で、2014年から毎年シーズン開幕前にチームメイトが考えたゴールパフォーマンスをそのシーズンのゴールパフォーマンスとすることが恒例となっている。
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