1965年7月13日生まれ。東京都清瀬市出身。血液型はA型。
※身長160cm、B80(Dカップ)、W54、H85。※1984年時
ニコニコ動画では、主に全盛期である80年代の動画がメインである。
ひとりの少女からアイドルへ(~81年)
1965年7月13日、6人兄妹の5番目に生まれた中森明菜は幼い頃から歌に触れる機会が多かった。
歌手になることを夢見ていた母親から越路吹雪や美空ひばりが歌う昭和歌謡やシャンソンを教えられ、兄の影響で矢沢永吉などのロック・洋楽・ブラックミュージック、姉の影響で荒井由実などのニューミュージックなどを聞いて育つ。
また、生まれつき体が弱かったため、それをカバーするために小学校から中学校にかけてバレエ教室に通っていた。この頃に培った経験が彼女が歌う楽曲の多様性、振り付けでのしなやかな動きを創り出したといっても過言ではなかろう。
中学生時代、オーディション番組「スター誕生!」に応募。これは彼女が一番愛していた母親からの強い希望と、当時大家族であるがゆえに裕福ではなかった家庭事情により、「苦労している家族を少しでも楽にしてあげたい」という気持ちで応募したという。(その優しさが後の悲劇につながるきっかけとなるのだが…)
そもそも明菜自身は歌手としての人生を歩む意思があまりなく、世話焼きで子供好きなところを活かして保育士になることを夢見ていた。しかし、このスター誕生への挑戦が彼女の人生を大きく変えることとなる。
幾度かの挑戦を経て1979年、ついに予選を突破して本選に出場。その際明菜は岩崎宏美の「夏に抱かれて」を歌ったのだが、ある女性審査員から「この曲はあなたには大人っぽすぎる、年相応の曲を歌うべき」と言われ、不合格になってしまう。
翌年、2回目の本選出場を果たす。この時は女性アイドルの中でも注目度が高く、のちに明菜とともに音楽界を牽引していった松田聖子のデビュー曲である「裸足の季節」を歌った。アイドルソングであり、年相応な選曲であったにも関わらず、前回と同じ女性審査員から今度は「幼すぎる。童謡でも歌ったらどうかしら」と言われてしまいまたしても不合格。
最初の挑戦時とは全く正反対のコメントを同じ審査員から言われたことに明菜はかなり憤りを覚え、直接本人へ抗議しようとしたという。しかし、観覧に来ていた母親にやめるよう制された。
あまりに不条理な結果に対して明菜もさすがに悔しかったのか、今度は本人の強い意思で再応募。1981年に3度目の本選出場を果たす。常連出場者として番組のスタッフや審査員からも顔を覚えられていた明菜は山口百恵の「夢先案内人」を披露。
審査の結果、スタ誕史上最高得点の392点を獲得※1。レコード会社・芸能事務所による最終選考も見事クリアしいよいよ「歌手・中森明菜」のデビューが決定した。
※1.この時システム上の最高得点である99点の評価をつけた作曲家の中村泰士によると、常連出場ゆえに中村以外の審査員評価は低く、特に2度の本選で明菜を酷評した女性審査員は当初30点台をつけようとしていた。あまりの低評価に憤った中村が他の審査員に対して彼女の成長ぶりや将来性を力説。その結果、史上最高得点での合格へと繋がった。つまり、この時中村が強く説得していなければ、その後活躍する明菜の姿を見られなかった可能性が高い。
デビューに至るまでの紆余曲折(82年)
スター誕生合格の翌年となる1982年5月1日に「スローモーション」でデビュー・・・するのだが、デビューに至るまで様々な紆余曲折があった。
まず最初に議論されたのが「芸名」。
当時の所属事務所であったであった研音のスタッフからは「森アスナ」や「中森アスナ」といった三流アイドル臭漂う芸名を提案される。しかし明菜は芸名を拒否し「両親が名付けてくれた本名で歌いたい」と強く希望。結果本名である「中森明菜」で活動することが決定した。
次に問題になったのが「デビュー曲」。
1981年の暮れにアメリカ・ロサンゼルスでレコーディングを行った楽曲のうち、4曲が候補に挙がっていた。どの曲も雰囲気が全く異なるため議論は紛糾。
そこで明菜は母校の校内放送で候補曲を流し、アンケートを実施。1位となった曲はなぜかデビューアルバムの収録曲となり、2位の「スローモーション」がデビュー曲に選ばれた。この時のドタバタから衣装作りが間に合わず、初めてテレビ出演した際には私服姿で登場してしまうことに。
3つめの問題が「キャッチフレーズ」。
この頃の女性アイドルは、キャッチフレーズを与えられるのが慣例であった。そんな明菜に付けられたのは「ちょっとHな美新人(ミルキー)っ娘」。「H」は大人びた、「ミルキー」は美人とルーキーを掛けたものだが、のちに明菜本人いわく『ファンや番組の出演者などに「エッチなんですか?」と度々からかわれるので、「どうしてこんなキャッチフレーズにしたんですか!?」とスタッフに詰め寄った』とのこと。
これらのドタバタ劇に翻弄された彼女は、同期の小泉今日子や早見優などよりもだいぶ遅れた5月1日にデビュー。さらに同日はその年の新人賞を総なめにするシブがき隊のデビューとも重なってメディアの露出も乏しく、発売初週の売り上げ順位は50位台。その後じわじわと順位を伸ばしたが最高30位で終わり、華々しいとは言い難いスタートとなった。
「少女A」の快進撃からトップアイドルへ(82~83年)
82年夏、2ndシングルの「少女A」をリリース。ここから彼女の快進撃が始まる。
デビュー曲の清純派路線とは打って変わってツッパリ系、不良な雰囲気漂うこの楽曲は松田聖子路線に対抗できる「ポスト百恵」を求めていた当時の芸能関係者からも注目を集めた。
そして、デビュー以来地道に続けてきた地方のレコード販売店行脚が功を奏し、若い世代を中心に人気が急上昇。オリコンTOP10に初めてランクインし、当時の代表的な音楽番組「夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン」にも初出演を果たす。
ここで手応えを掴んだ明菜やスタッフは勢いそのままに3rdシングル「セカンド・ラブ」をリリース。元は「シルエット・ロマンス」のヒットで知られる歌手の大橋純子に提供する予定でに作られた楽曲とあって、大人びた恋愛の心情を描く難しい曲であったが、明菜はそれを難なく歌いこなした。
その結果、若年層だけではなく明菜よりも年上の女性を中心に支持を集めるようになり、見事初のオリコン1位(通算6週)、ザ・ベストテンで8週連続1位を獲得。ロングヒットにより翌83年の年間シングルチャートにもランクインするほどの売上枚数を記録。デビューからわずか半年ほどで一気にトップアイドルの仲間入りを果たした。
83年に入るとその勢いは衰えることを知らず、大沢誉志幸、来生たかお、細野晴臣ら有名音楽家から提供を受けた「1/2の神話」「トワイライト-夕暮れ便り-」「禁区」を立て続けにリリースしヒットを連発。さらに同時期にリリースされたアルバムの販売も好調だった結果、この年の歌手別総合売上1位を初めて獲得する。
また、同年の日本レコード大賞において、他の同期を差し置き「ゴールデンアイドル・特別賞」を受賞するなど、女性アイドルとしてトップの人気を誇っていた松田聖子と双璧をなす存在となった。
明菜プロデュースの誕生(84年)
1984年に入ると、いわゆる「明菜自身のプロデュース」を意識した作品が出始めるようになる。
最初にリリースしたシングルの「北ウイング」ではこれまでのツッパリ・清純派とも違った大人の恋愛を描いた作品。曲名は荒井由実の「中央フリーウェイ」から着想を得て明菜が提案したもので、当初のタイトルである「ミッドナイト・フライト」から大きく変更されている。北ウイングではジャケット写真も特徴的で、アイドル歌手の作品では当たり前であった顔のアップをやめ、全身を写したカットが選ばれている。
次の作品「サザン・ウインド」では安全地帯の玉置浩二が作曲。こちらもこれまでの明菜の路線とは一線を画すのびのびとした雰囲気かつ清涼感あふれる楽曲に仕上がり、当然のことながらチャート1位を記録。
その次にリリースされた「十戒(1984)」は「少女A」に代表されるツッパリ系作品シリーズの集大成とも言える作品。表情や振り付け(オラオラステップ・サビでのエルボー)も相まって「ツッパリ系アイドル」を代表する作品となった。
しかし、この作品を最後に明菜はツッパリ路線を封印。また、同時期に清純派路線の作品を多く手がけていた来生えつこ・たかお姉弟の提供作を減らし清純派路線も実質的に封印。「アイドル・中森明菜」から「歌手、アーティスト中森明菜」へと方向性が大きく転換することとなる。
その第1弾として、同年の暮れに発売されたのが「飾りじゃないのよ涙は」。作詞・作曲を井上陽水が手がけ、これまでの作品とは全く違ったアーティスティックな雰囲気と前衛的な歌詞が話題となった。ジャケットデザインも当時としては珍しいコンピュータでの加工画像を使用するなど、ますますアイドル路線からの脱却を提示していた。
歌謡界の頂点へ(85年)
1985年、「ミ・アモーレ」「SAND BAIGE-砂漠へ-」をリリース。前者はブラジルのリオ、後者はサハラ砂漠という異国情緒あふれる作品となっており、後者はアラブ風の衣装を身にまとってヴィジュアルの面からも作品のイメージを思い起こさせるように表現していた。
また、当時流行していた12インチサイズ(LPと同じ大きさ)のレコード限定シングルとして「ミ・アモーレ」の同曲別歌詞版である「赤い鳥逃げた」をリリースしこちらもオリコン1位を獲得する。
ちなみに作詞を手がけた康珍化曰く、実は「赤い鳥逃げた」の方が歌詞としては先に完成していたものの、後で送られてきた音源がラテン調だったことから、曲のイメージに合うようにと歌詞を変え「ミ・アモーレ」が誕生したという裏話がある。
一方、作曲・編曲を行った松岡直也によると、音源を送った後に届いた「ミ・アモーレ」の歌詞に「リオの街はカーニバル」「サンバのリズム」との記載があるのを発見。そもそもラテンとサンバはジャンルが全く異なっていたため慌ててサンバの要素を編曲に付け足したという。「ラテン」と「サンバ」に対するイメージの違いによって、このようなユニークなエピソードがあったことも押さえておきたい。
85年末に発売した「SOLITUDE」は恋愛倦怠期の女性をイメージした楽曲。この派手さのない、言ってみれば「地味」な作品だったからか、明菜ファンとして有名なマツコ・デラックスは「この曲によって既存のファンがファンを続けるかやめるかの踏み絵となった」とあるテレビ番組で証言している。
84年~85年にかけての賞レースでは強さを発揮しグランプリや大賞を次々獲得。そして85年の大晦日には、頂点とも言える日本レコード大賞を、当時としては史上最年少となる20歳5ヶ月で受賞した。
この年の候補には大賞受賞経験のある細川たかしや五木ひろし、当時人気絶頂だったチェッカーズ、安全地帯、C-C-B、明菜の先輩にあたる河合奈保子や岩崎良美といったそうそうたる顔ぶれが揃う中で、明菜が選ばれた。
その他、日本歌謡大賞、日本ゴールドディスク大賞をそれぞれ1回受賞。その他にもFNS歌謡祭や全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリを獲得している。そして、85年から3年連続で年間トータルセールス1位を記録。83年含め単独で4回の年間トータル1位はソロ歌手歴代単独1位の記録である。
日本レコード大賞の受賞により、中森明菜はアイドル界の頂点だけではなく、歌謡界の頂点にも立つこととなったのである。
人気絶頂期と「明菜プロデュース」の進化(86~87年)
86年は人気も絶頂に達し、いよいよ「プロデューサー・中森明菜」の本領を発揮することになる。
シングルではまず最初に「DESIRE-情熱-」を発表。和装に身を包んだジャケット写真、そのジャケット写真とは全く違った和洋折衷の衣装、日本人形的な黒髪ボブカット、そして歌唱と特徴のある振り付けが話題を集めた。その姿は海外のアーティストからも注目が集まり、後年マドンナがこの曲の衣装と髪型をオマージュしたファッションで歌を歌ったこともある。
その次にリリースした「ジプシー・クイーン」では当時20~21歳とは思えない肩を露出した妖艶なドレスで登場し儚さを持った大人の女性を表現。年末リリースの「Fin」では帽子にロングコートを着用する都会的な女性をイメージしたパフォーマンスを披露。
シングルは大人の女性を描く作品をリリースする一方、アルバムでは実験的かつ濃密な作品が目立ち始める。まず「明菜史上最大の問題作」とも言われた「不思議」はあえてボーカルを演奏より聞こえにくくする加工を実施。購入したファンが「不良品ではないか?」とレーベルに問い合わせる騒ぎとなった。
「不思議」は昨今の音楽界では当たり前となったボーカルの特殊加工や歌声を「楽器の一部」として表現するなど、いわゆるアイドルと目されていた歌手が出す作品としては非常に特殊な作品である。それ故にプロデュースした明菜自身がこの作品の特殊な世界観を映像として表現することはできないだろうと考え、リリース当初は収録曲をテレビで歌唱することを断っていたという。
しかし翌1987年、番組スタッフの強い要望により「夜のヒットスタジオ」において「作品の世界観をできるだけ壊さないように」と彼女自身が衣装や演出、スタジオセットやカメラワークに至るまで全て指示を出した上で、収録曲「BACK DOOR NIGHT」「マリオネット」を披露。
「不思議」の収録曲としては最初で最後のテレビ披露となったこの歌唱は、あまりにも斬新なパフォーマンスで、その場にいた番組の共演者が一様に唖然、騒然としたという。
また、その次に発売した「CRIMSON」では「渋谷やニューヨークなどの都市で働く女性」をイメージした楽曲で構成されているのだが、収録曲10曲中9曲がウィスパーボイス歌唱。収録曲唯一のアップテンポ曲も、カセットテープ越しに楽曲が流れているところから始まるよう加工されている。この「CRIMSON」の収録曲の中には作詞・作曲を手掛けた竹内まりやのセルフカバーで知名度が広まった「駅」もある。
「アーティスト・中森明菜」の更なる挑戦(87~88年)
87年に入るとアダルティな方向性、より「女性らしさ」を強調した楽曲が目立つようになる。まず「TANGO NOIR」では小中学校時代に培ったバレエの経験が存分に発揮されており、重さ10kg近くあるドレスを身に纏いながらのけぞりやスピンといったビジュアル的にインパクトのある振り付けを行い話題となった。
「BLONDE」ではなんと上着からスカート、靴まで全部エルメスのスカーフを使った衣装で登場。バブリーなボディコン衣装だがケバケバしさのないセクシーな印象になってるのは彼女のオーラがそうさせてるからだろうか。
そして、良くも悪くも「少女A」「DESIRE-情熱-」並みに彼女のイメージを決定付ける楽曲「難破船」がリリースされる。
難破船はもともと加藤登紀子の持ち歌であったが、テレビで明菜の姿を見た加藤が「この曲は明菜さんが歌うべきだ」と思い立ち楽曲提供を提案。それを受けた明菜が快諾してリリースされた経緯がある。その際、明菜から加藤の元へ快諾の意味を込めた花束が届いたという粋なエピソードも残されている。
「百万本のバラ」を歌う加藤らしい切ない悲恋を描いたこの作品は、歌の世界に感情移入しやすかった彼女にとってかなりシンクロ度の高い作品だったようで、涙を流したり、あまりの緊張で手が震えてしまったりすることもあった。しかしその姿が多くの女性の心に響き、最終売上は87年の年間1位だった瀬川瑛子の「命くれない」を上回る売上枚数を記録している。
88年、彼女の人気も安定してきたこの時期はベリーダンサー風の衣装、蛇をあしらったマイクスタンドなどビジュアル面を強化した「AL-MAUJ」、デビュー以来頑なに拒否し続けたミニスカートを着用し、スパンコールやひまわり柄のボディコン衣装を身に付けエロティシズムをアピールした「TATTOO」をリリースし話題を集めた。
87~88年はアルバムでも意欲的な作品をリリース。全曲英語詞でPVはニューヨークを舞台にしたドラマ仕立ての「Closs My Palm」、惜しくもシングル化を逃した候補曲だけが収録され、そのどれもがファンの間からも評価の高い「Stock」、よりディープで濃密な男女関係を描いた「Famme Fatale」など、シングルよりもアグレッシブでアーティスト性の高い作品が生み出された。
バブリーで豪華なこれらの作品の数々に、多くの人々が彼女の勢いはまだまだ続くと思っていたことだろう。
崩れ始める心、そして…(88~89年)
1988年11月、通常の発売サイクルよりも2ヶ月遅れて「I MISSED ”THE SHOCK”」がリリースされた頃から彼女の身に少しずつ変化が訪れる。おとぎ話のようなドレスに身を包んだ彼女はこれまでの「明菜プロデュース」を存分に発揮していたのだが、時期を重ねるごとに少しずつ表情が暗く、笑顔を見せる回数も減り始めた。昭和天皇の体調不良による自粛ムードも影響していたのかもしれないが、時折やつれたような表情で歌う時もあり、多くのファンが彼女に一体何があったのかと身を案じた。
1989年になると目に見えてその変化が一気に目立つようになる。日焼けで彼女の痩せ方がいっそう目立ち、虚ろな目をみせることもしばしば。そんな中、約同年4月にリリースしたのが「LIAR」である。
その歌詞はまるで彼女自身の現状を表しているかのようだった。ほぼノーメイク、単色のドレスやワンピースで歌うその姿は、カラフル且つインパクトのある衣装や振り付けが特徴的だった「明菜らしさ」が完全に消えた、哀しきひとりの女性の姿をファンや視聴者に見せていた。
そして「不死鳥」と称された美空ひばりの死(1989年6月24日)から約2週間後の1989年7月11日、当時交際していた近藤真彦の自宅マンションで肘の内側をかなり深く切って自殺を図る。この時負った傷は神経どころか骨にまで達していたとされており、手の動きに後遺症がなく回復したのは奇跡だともいわれた。この出来事が原因となり、彼女は約1年間の歌手活動休業を余儀なくされる。
同じ89年にはトップアイドルとして切磋琢磨していた松田聖子の楽曲がオリコン1位を獲得できず連続1位記録がストップ。その時の1位は90年代に一世を風靡する小室哲哉の作品だったという世代交代を象徴するエポック・メイキングな出来事が起こっている。
昭和から平成へと変わった1989年は、「みんなで見て、聞いて、どの世代も知っている流行りの歌」が中心だった「歌謡曲」という一つの大きなジャンルが終焉を迎えた。
これ以降「個人で見て、聞いて、楽しんで、楽曲が好きな人だけで共有し合う」時代となり、「J-POP」「演歌」といった音楽ジャンルの細分化が一気に進んだのである。
復帰から「女優・中森明菜」の活躍とカバーへの挑戦(90~99年)
1990年7月17日、約1年ぶりに復帰第一弾シングル「Dear Friend」を発売し、シングルチャートで再び1位を獲得。累計54万枚を売り上げて年間チャート6位にもランクインする。
その後も「水に挿した花」や「二人静ー天河伝説殺人事件よりー」をリリースし、91年には幕張メッセでライブを開催するなど多くのファンを喜ばせたが、復帰後に移籍した事務所との契約トラブル、デビュー以来所属していたレコード会社ワーナー・パイオニアとの契約解消、マスコミによるバッシングなどの影響で音楽活動を1年半ほど中断する事態に。
思うように音楽活動ができなかった1992年、フジテレビ系月9ドラマ「素顔のままで」で主人公の一人・カンナ役を熱演。高視聴率をキープし続け、最終回では30%を超える視聴率を獲得するなど「女優・中森明菜」の一面を世間に知らしめた。この他にも「世にも奇妙な物語」「古畑任三郎」といった人気作品にもゲスト出演し、話題を集めている。
1993年に休止していた音楽活動を再開し、1994年には初のカバーアルバム「歌姫」をリリース。明菜自身が幼いころから好きだった楽曲を選曲し、千住明による豪華なフルオーケストラアレンジにより上質な仕上がりとなったこの作品は、人気歌手によるカバーアルバムとして世間の話題を集め、アルバムチャートで5位を記録。
このアルバムのヒット以降、バラードやフォークソング、ムード歌謡に演歌、男性歌手の楽曲とジャンルや性別の枠を超えた様々な名曲をカバーすることになる。
安定と熟成の21世紀、しかし…(2000年~10年)
90年代後半からはコンサートだけではなくディナーショーも開催するなど活動の幅を拡大。これまで抱えていた様々なトラブルも2000年以降に軒並み解決し、デビュー20周年の2002年、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。復帰第一弾にリリースしたカバーアルバム「歌姫Ⅱ」のヒットによる評価もあり「飾りじゃないのよ涙は」で14年ぶりに紅白歌合戦の出場を果たす。
2004年にはユニバーサルミュージック内に明菜専用の音楽レーベル「歌姫レコーズ」を立ち上げる。この年以降に発売された彼女のシングル・アルバムは全てこの「歌姫レコーズ」からリリースされている。
2009年、シングルとしては3年ぶりとなる新作「DIVA-Single Version-」と2枚のカバーアルバム、1枚のオリジナルアルバムを発売。同年8月にはこちらも3年ぶりとなる単独ライブ「Empress at Yokohama」を開催。カバー曲を中心に披露し多くのファンや観客を沸かせた。
2010年、パチンコ「CR中森明菜・歌姫伝説~恋も二度目なら~」を発表。誕生日の7月13日には配信限定シングル「Crazy Love」を発売するなど、2012年のデビュー30周年に向けて精力的な活動を始めた矢先の同年10月に「極度の過労と疲労による免疫力の低下」が原因で再び活動を休止することに。
活動休止後は明菜本人が収録映像をセレクトしたDVD「中森明菜 in 夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン in 中森明菜」などがリリースされ、話題を集めた。
歌手活動再開に向けて…(2010〜14年)
2010年の活動休止以降、ファンクラブ会報の直筆メッセージ以外彼女の近況を知るすべが無かったため、多くのメディアが彼女の現在の状況と復帰に関する様々な噂を取り上げ続けていた。
また、連続テレビ小説「あまちゃん」のヒットなどにより小泉今日子を筆頭に80年代にアイドルとして活躍していた芸能人が再度注目を集め、その流れで明菜の復帰を期待する声も上がったが、復帰に向けての具体的な動きは全く見えない状況が続いていた。
しかし、2014年8月、現在所属しているユニバーサルミュージックとデビューから91年まで所属していたワーナー・パイオニア(現:ワーナー・ミュージックジャパン)が初めて手を組み「オールタイム・ベスト-オリジナル-」と「オールタイム・ベスト-歌姫-」を発売。4年ぶりの新曲となる「SWEET RAIN」が収録されたほか、「男と女の物語(日吉ミミ)」「恋の奴隷(奥村チヨ)」の2曲を新たにカバーし話題を集めた。
本人によるプロモーション活動は活動休止中のため一切行われないという異例の状況で発売されたが、「オールタイム・ベスト-オリジナル-」がオリコン週間チャートで3位にランクイン。シングルを含めると91年3月発売の「二人静-天河伝説殺人事件より-」(3位)以来23年4ヶ月ぶり、アルバム単体では89年7月発売の「CRUISE」(1位)以来25年ぶりに週間チャートTOP3入りを果たした。同時発売の「オールタイム・ベスト-歌姫-」も7位にランクインし、自身にとって31年7ヶ月ぶりとなるアルバム2作品同時ランクインも達成。
また、11月にはNHK「SONGS」で特集が放送された。80年代の映像と2009年の出演映像のみの構成だったが、視聴率は5.7%を記録。2014年当時の番組平均視聴率が3%程度だったことから、それだけ注目が高かったとも言える。
しかし、体調以上に精神面が回復していないとの声もあり、活動はまだ先の事だと噂されていたが・・・
4年4ヶ月ぶりの復活(2014~16年)
2014年12月、長い沈黙を破り、2015年1月に新たなシングルとアルバムの発売が発表された。
2015年1月21日にまず5年4ヶ月ぶりのシングル作品となる「Rojo-Tierra-(ロホ・ティエラ)」、翌週の1月28日にはカバーアルバム「歌姫4-My Eggs Benedict-」を発売。いずれもオリコンチャートTOP10入りを果たし、特にシングル曲の「Rojo~」は1994年発売の「月華」以来21年ぶりのシングルTOP10入りを果たした。
2014年12月31日、出場が噂されていたNHK紅白歌合戦に2002年以来12年ぶりに出場。紅白としては異例となるCDリリース前に新曲の「Rojo-Tierra-」を披露(ただし楽曲自体は放送当日にデジタルシングルとして先行販売)歌唱前の緊張した面持ちや言動から一転、堂々と歌うその姿はまさに「歌姫」の名にふさわしい歌唱だった。
さらに2015年1月9日には、NHK総合で紅白歌合戦出演時の裏側や新曲のレコーディング風景などを収録した特別番組も放送。番組内では「DIVA」以来6年ぶりとなるオリジナルアルバムの制作に取り掛かっていることを明かし、話題となった。
9月30日には記念すべき50枚目のシングルとなる「Unfixable」を発表。「Closs My Palm」以来となる全編英語詞の楽曲で、意欲的かつアーティスト性の高い明菜らしい作品となっている。
そして年末も差し迫った2015年12月30日、1年半以上の制作期間を経て6年4か月ぶりとなるオリジナルアルバム「FIXER」を発売。90年代以降の作品に多かった内省的な雰囲気とは一変し、希望や再生を感じさせる作品となっている。
ほぼノンプロモーションでの発売だったにもかかわらず、オリジナルアルバムとしては1995年発売の「アルテラシオン」以来となるオリコンチャートTOP10入りを果たした他、レコチョクのアルバムデイリーチャートで自身初となる1位を獲得。ウィークリーでも8位にランクインするなど根強い人気ぶりを発揮。
2016年2月24日、映画「女が眠る時」の公開に合わせ、映画のイメージソングでありアルバムの表題曲でもある「FIXER-WHILE THE WOMAN ARE SLEEPING-」をシングルカット、さらに両A面の新曲としてポルノグラフィティの新藤晴一が作詞を手掛けた「ひらり-SAKURA-」を収録し話題を集めた。
ステージ復帰とその後の活躍(2016年~2022年)
新曲やオリジナルアルバムをリリースし、2016年7月には1993年以降に発売されたシングルをアナログレコードに収録し、完全限定生産のレコードプレーヤーと合わせて販売するなどしていたものの、表舞台には姿を見せていなかった明菜。
しかし、2016年9月にこれまで年末の恒例だったディナーショーを2009年以来7年ぶりに開催することを発表。東京や大阪など全国7都市で久しぶりに生歌をファンの前で披露することとなり、発売されたチケットはすべて即完売。プレミアチケット化して話題となった。また、11月に新たなカバーアルバム「BELIE」を、さらに12月にはクリスマス限定盤として別収録作品を録音したアナログレコードを付属した「BELIE+Vampire」をリリース。
そして、12月4日から開催されたディナーショーでは、30分以上にも及ぶヒットメドレーや新曲、カバー曲披露など計80分以上のステージを披露。有名芸能人も軒並み観覧に参加する中、堂々と「明菜、復活」をファンや観客の前でアピールした。
デビュー35周年に当たる2017年も引き続き精力的な活動を続け、11月に80年代のユーロビート洋楽をカバーしたアルバム「Cage」と、角川映画の主題歌をイメージしたオリジナル楽曲で構成された「明菜」を同時リリース。2014年以来の2作同時オリコンTOP10入りを果たした。
また、「CLUB NIGHT」と称して年末恒例のディナーショーを全国14都市で開催。予約開始わずか30秒でチケットが完売したほか、前述の新アルバムの楽曲やヒットメドレーで構成されたおなじみのステージで観客を沸かせ、デビュー35周年を締めくくった。
以降の活躍も期待されたものの、体調面での不調が再び起こってしまい事実上の活動休止状態が4年以上続くことに…。
デビュー40周年に下した決断と新たな挑戦(2022年~)
時代が平成から令和へと変わって以降、再度80年代の楽曲をクローズアップされる機会が増えたことで明菜の楽曲やパフォーマンスへの注目が集まることに。
デビュー40周年となる2022年には過去発売されたCDの再販やコンサート映像のテレビ放送が積極的に行われた。特にNHKのBSプレミアムと総合テレビ(地上波)で2度にわたって放送された「伝説のコンサート 中森明菜スペシャル・ライブ1989」は、1989年4月に開催した「AKINA EAST LIVE」をリマスター化したもので、当時発売された全シングルを披露する集大成的なセットリストにSNS等で話題を集めた。
テレビ放送等でにわかに注目を集める中、2022年8月30日に突如Twitterのアカウントが開設され、新たな個人事務所「HZ VILLAGE」の設立と新公式サイトの立ち上げを発表。
ツイートを読み込み中です
https://twitter.com/akinan_official/status/1564444243757711361
この突然のTwitter開設に「本物なのか?」と疑う声も一部で見られたが、アカウントプロフィール欄にリンクされている公式サイトにて直筆のサインと未出の本人写真がアップされたこと、その後のメディア取材で実際に事務所が設立されたことが確認されたことで、本人が活動再開に向けて行動を起こしたことが明らかとなった。
その後数か月間は特段の動きはなかったものの、12月中旬に以前の所属事務所が運営するファンクラブがサービスを終了。その後、2022年12月24日に公式サイトのリニューアルと新たなファンクラブ「ALDEA」の設立を発表し、3日後の27日に新ファンクラブの運用がスタートした。
初のツイートにもあった通り万全な体調ではないためすぐの活動再開とはいかないものの、次の活躍に向けて本人の強い決意を見せながら、新たな時代へと明菜は進む。
山口百恵との関係
中森明菜と似た存在だとよく言われるのが山口百恵である。
山口百恵は1980年に引退しているため山口百恵と中森明菜が活動を共にしていた時期はないものの、「少女A」や「十戒(1984)」を歌う中森明菜の姿は「プレイバックPart2」や「ロックンロール・ウィドウ」などの「ツッパリ路線」を確立させた山口百恵のスタンスを受け継いでいるとされ、「ポスト百恵」の一人として名を知られていった。
山口百恵の存在は明菜にとっても大きなウェイトを占めており、デビューのきっかけをつかんだ「スター誕生」では「夢先案内人」を披露。デビュー後も音楽番組の企画で「イミテーション・ゴールド」「絶体絶命」などを歌唱したほか、カバーアルバムに「愛染橋」「秋桜」「いい日旅立ち」「謝肉祭」を収録している。また、山口百恵の「結婚してそのまま引退する」という去り際にも憧れを抱いていたという。
山口百恵の方も「ザ・ベストテン」で「北ウイング」をカラオケで歌うのが好きだということが当時の近況として伝えられたり、2006年に中森明菜が「いい日旅立ち」をカバーすることになった際、その話を聞いた山口百恵が
「1度、明菜さんに歌って欲しいと思っていた。明菜さんでよみがえるなら最高にうれしい」
と語るなど、山口百恵にとっても中森明菜はとても特別な存在だったという。
松田聖子との関係
1980年代のアイドルとしては松田聖子と双璧をなす関係だった明菜。
松田聖子がいわゆる「ぶりっ子」という表現に象徴されるように可愛さ、女の子らしさを強調した楽曲が多かったのに対して、中森明菜はデビュー当初を除いてクールさや大人の女性をイメージする楽曲が特徴的で、曲調・雰囲気に「明」と「暗」がはっきりと分かれていた。
それゆえ、当時は「聖子派」と「明菜派」で意見が分かれ、男女入り乱れた論争に発展することも珍しくなく、マスコミもそれに便乗して「聖子と明菜は犬猿の仲」といった形で面白おかしく取り上げていたが、それは全くの事実誤認である。
元々松田聖子の方が1980年デビューと芸能界の先輩であり、中森明菜がデビュー前に受けた「スター誕生」の予選では松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌っている。また、中森明菜はトーク番組「おしゃれカンケイ」(94年)において
と発言していることなどから、中森明菜にとって松田聖子はアイドルとしての目標であり、芸能界の良き先輩でもあり、アイドル群雄割拠の時代を共に歩んだ戦友として認識していたのは間違いないだろう。
中森明菜と賞レース
前述の通り80年代の彼女はあらゆる賞レースに名を連ね、その多くで大賞やグランプリを獲得している。だが、あまりにも彼女の人気が絶大過ぎたからか、これでもかと様々な賞を受賞している。
例えば現在、ショー形式の番組として年末の風物詩となっている「FNS歌謡祭」。90年までは音楽賞番組として放送されていたのだが、新人賞を除く80年代中盤から後半までの彼女が獲得した賞は以下の通り。
「グランプリ」…85,86年(2年連続)
「最優秀歌唱賞(事実上の準グランプリ)」…87,88年(2年連続)
「最優秀ヒット賞」…84~86年(3年連続)
特に最優秀ヒット賞は唯一3年連続受賞の快挙を成し遂げるなど主要な賞を制覇しているのは一目瞭然。
そして、現在でも続いている音楽賞の代表格「日本レコード大賞」。デビュー年の82年は人気も実力も抜群だったにもかかわらず、最優秀新人賞どころか新人賞さえ受賞できず(明菜本人曰く「事務所が強いところが【新人賞に】いく」)。しかし翌年からこれでもかと様々な賞の獲得オンパレードとなる。
まず83年、デビュー2年目の人気アイドルが受賞する「ゴールデン・アイドル賞」を受賞。前年に新人賞を受賞させなかったことに対する罪滅ぼしかどうかは不明だが、売り上げが全歌手の中でもダントツだったとの理由で彼女だけ「ゴールデンアイドル特別賞(TBS賞)」も受賞。
84年、すでにこの年の全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリに輝いていた彼女は当然のことながらレコード大賞の最有力候補に名を連ねる。結果は残念ながら後半の音楽賞で追い上げてきた五木ひろしが大賞を獲得。ただ、選考委員会は当時人気絶大だった彼女の存在を無視することはできず(選考委員の投票結果でも1位が五木、2位が明菜だった)、急きょ「最優秀スター賞(事実上の準大賞)」を設けて受賞させている。
85年は前述の通り「大賞」を受賞。翌86年は「大賞」の他、「最優秀スター賞」から名称を変更した「ベスト・アーティスト賞」を受賞。「準大賞」扱いだった「最優秀スター賞」がルーツの「ベスト・アーティスト賞」を受賞したということは、この年の選考で彼女が圧勝していたことを暗に物語っていることが伺える。
87年は前人未到の3連覇への期待もかかっていたが残念ながら大賞受賞ならず。しかし、80年の山口百恵、84年の都はるみといった人気と実力のあった引退歌手だけが受賞していた「特別大衆賞」をなぜか瀬川瑛子とともに受賞。瀬川は「命くれない」が年間シングルチャート1位を獲得した功績、明菜は歌手別総合売上1位やこの年リリースした曲全てが年間トップ10入りしたことなど、人気がトップクラスであることが認められての受賞だったと言われている。
ご覧の通りわずか5年の間に大賞どころか急ごしらえの賞を設けられてまで表彰されまくった彼女。84年と87年は大賞に匹敵する賞を受賞しており、色々な大人の都合さえなければ3連覇どころか4連覇できる土壌は整っていたともいえる。
歌手「中森明菜」
玉石混交の80年代アイドルの時代において、低音とビブラート(明菜ビブラート)、ウィスパーボイスを始めとしたアダルティな歌唱、圧倒的なまでの表現力を引っさげた彼女は特異な存在であったと言える。
彼女に楽曲を提供した加藤登紀子からは「魔女」、井上陽水からは「歌姫」と評価したことから彼女を元祖・歌姫と称する人もいる。また、少女Aを手掛けた売野雅勇からは楽曲ごとに変幻自在のパフォーマンスを披露する姿から「シンガー・アクトレス」とも評した。
彼女の総売上枚数は約2400万枚以上。明菜の楽曲売上のほとんどは80年代(それもデビュー~1度目の活動休止までの7年間)のものだが、当時は現在のCD不況と同じようにレコードからカセット・CDへ音楽ツールが移行しつつあった他、貸しレコード店の台頭などにより作品の売上枚数が全体的に伸び悩んだ時期(※)。
特に明菜の人気が絶頂と言われていたのは85~87年とレコード売上が最も落ち込んだ時期のため、レコード・CD全盛の時代であれば更に売上枚数を伸ばしていた可能性もある。
(※83年の「さざんかの宿(大川栄策)」から89年の「Diamond(プリンセス・プリンセス)」までの約6年間、ミリオンヒットを記録したシングルは1曲も存在しておらず、87年に至っては年間1位の「命くれない(瀬川瑛子)」ですら41万枚しか売れていない。)
「トップアイドル」「歌謡界の頂点」と呼ばれる存在になると、人気を保つために似たような楽曲を歌い守りに入ることが多い。にもかかわらず、彼女は常にアグレッシブに多様性のある楽曲を選び、時には前衛的で万人受けしないであろう作品をリリースし続けた。それらすべてが チャートの1位を次々に獲得していることから、80年代の彼女の人気がいかに絶大で、揺らぎの無い存在であったかを物語っている。
小さい頃から体が弱く、喉の調子が悪い状態でTV出演をしたこともしばしば。ザ・ベストテンで「セカンド・ラブ」を歌った際には風邪の為に思うように声が出ず、悔し泣きをしてしまう場面も。「夢のふち」でミュージックステーションに出演した時は、常に張り上げて歌い息切れをマイクに拾われたこともある。
ただ、歌唱を一つの作品として「魅せる」「演出する」という点では完璧主義とも言える姿勢で常に取り組んでいるのは有名で、例えば1983年の全日本有線放送大賞の中継で「セカンド・ラブ」を歌うことになった際、楽曲の歌いだしが要望した通りに変わっていなかったことで激怒。その後の立食パーティでスタッフ1人1人に料理を手渡し謝罪して回った(※1)他、コンサート中に親衛隊の声援が大きすぎるのを注意し、静かにさせた上でもう一度歌い直す(※2)など様々な逸話がある。
(※1:ちなみに原因を作ったのが中継アナウンサーを担当していた辛坊治郎。このエピソードはのちに辛坊自身のラジオ番組で語っている)
(※2:2015年11月14日放送のMBS「ヤングタウン土曜日」で明石家さんまが語ったエピソード。さんまはその様子を見て明菜を「かっこええなぁこの子、プロ中のプロや」と感心したとのこと)
人物「中森明菜」
当時の週刊誌には「性格が悪い」「ヤンキーである」など面白おかしく書かれていたが、いずれも事実と異なる。入学した定時制高校に”特色があった”だけで、彼女本人はヤンキーではない。それどころか、環境に馴染めずスタ誕合格前には自主退学している。
デビュー当時から極度のアガリ症で、心配性で、家庭的で気配りができ、やや神経質で情緒的で甘えられるより甘えたいタイプであったそう。この辺りが災いしたのか、他人に対し誤解を与える振る舞いも少なくなく、デビュー当初から同期の中でも小泉今日子や石川秀美・堀ちえみなど一部を除いて距離を置かれていた(某16だから~♪の人は露骨に嫌っていた)。そのため「友人はいない」と本人は語る。
10代の頃から辛い料理が好みで年齢を重ねるにつれ激辛料理も好みになったとか。お酒はカクテルや日本酒が好きで、そこそこ飲める方。愛煙家であり、プロモーションビデオやドラマ「素顔のままで」で喫煙する姿を見せている。いっぽう私生活は至って質素で、全盛期ですら立ち食いそばやバーゲンなどを頻繁に利用していたと本人は語っており、実際にその様子をファンや店員から目撃されている。
実は地声は高く、アニメ声(本人はアラレちゃんと主張)を出すこともできる。これは50代を過ぎた現在でも変わらず、ハスキーな声で歌を歌ったかと 思えばMCで急にアニメ声で話す(2006年のコンサート参照)など、初めて見る人にとってはその声域の幅に誰もが驚くかもしれない。時代が時代ならアイドル声優にもなれた可能性すらある。
1983年の大阪コンサートで「誰も何もしないでだま~って座ってると、何も喋れないんですね」とファンも喋るように促していたが、しばらくしてファンが暴走盛り上がると「黙って、私が喋れなくなるから黙って」と一言。彼女、実はツンデレである。
復活のシンガーアクトレス
1992年に放送された「MJ-ミュージック・ジャーナル-」(フジテレビ)で、歌手活動が休止状態だった彼女の特集が組まれた。その際、番組はこうエールを送った。
「中森明菜は、今『時代』と言う名の天の岩戸に籠っている。我々は今必死で祈り続けるばかり。今一度、貴方に輝いて欲しいから…」
そして、93年久々にシングル曲を発表した際には、彼女をこう表現した。
「中森明菜は歌謡界における『アラモの砦』である。」そして、「今、天の岩戸が開く」とも。
偶然ではあるが、この言葉と同じ状況が、21世紀の今再び起こり、その当時以上に大きなうねりとなって、多くの人々からの関心を寄せることとなった。
そして今、歌姫は再び「天の岩戸」を開き、人々の前へ姿を現した。
著名なファン一覧(一部)
余談
ちなみに、コラムニストで「おたく」という言葉を命名したことで知られる中森明夫は彼女の名前をもじったペンネームである。
関連動画
カバー曲
関連項目
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