丸山 眞男(まるやま まさお,丸山真男,1914−96)とは、日本の政治学者・思想史家である。
東京大学法学部名誉教授,日本学士院会員。「近代主義」者を自称。
戦後最大の知性のひとりと目され,戦後日本・民主主義形成期に多大な影響を及ぼした。
丸山眞男とは何ものか
戦後日本の思想家を語るうえで,丸山を〈山手〉側に,吉本隆明を〈下町〉側に整理するような安易な見解もしばしば見られるが,苅部直(1965–,東京大学法学部教授)によると,丸山は両者の境界領域とでもいうべき環境で育ったという。
四谷第一小学校,東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校),第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て,東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。
1937年(昭和12年),東京帝国大学法学部を卒業。はじめは父に倣ってジャーナリストを志望していたが,在学中の懸賞論文が評価され,帝大法学部に助手として採用される。当初は,西洋政治思想史の研究を希望していたが,南原繁(1889–1974,最後の帝大総長)の導きに添って,日本政治思想史の研究を開始した。
これは,反西洋近代の国粋主義および亜細亜主義が,急速に台頭しつつあった当時の状況を前に,あくまでアカデミズムの側から対抗するという側面もあったという。1940年(昭和15年)には助手論文を提出し,帝大助教授に着任。
1944年(昭和19年)に結婚。帝大助教授という立場にありながら招集されるも,将校として扱われることをみずから拒否し,陸軍二等兵として朝鮮へ送られる。
除隊後,再招集を受け広島へ向かうも,原子爆弾の投下により被爆。晩年まで,その饒舌で知られた丸山も,広島での原爆体験については,あまり語っていないという。
1945年(昭和20年),敗戦に伴い復員。翌年には既に「超国家主義の論理と心理」を発表し,活発に活動する。1950年(昭和25年)には,東京大学法学部教授に着任。また,60年安保の強行採決に抗議する。
1960年代後半には,全共闘運動のうねりのなか,学生らによって戦後民主主義の欺瞞の象徴として糾弾され,71年には東大を退職。74年,名誉教授。78年には日本学士院会員となる。
1996年(平成8年)8月15日,奇しくも「終戦の日」に死去。
『丸山真男集』(岩波書店)を刊行中の死であった。
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関係書籍
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