丸岡城単語

マルオカジョウ
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丸岡城とは、福井県坂井市にあるである。重要文化財日本100名城日本さくら名所100定。別名「」。

丸岡城の特徴

丸岡城
重要文化財
日本100名城 36
日本さくら名所100
丸岡城
丸岡城 守外観
形式 平山
石垣の形式 面積
守階層 二層三階
守の高さ 12m
柴田勝豊
推定築 1576年
(正2年)

日本の中で現存12天守に数えられ、北陸地方守が現存する福井県の名である。推定建築年が1576年(正4年)で、現存12天守の中では日本最古の守であるとされていたが、2015年から進められていた坂井市教育委員会による学術調の結果、使用されている木材が江戸時代(1620年代)であることが判明し、日本最古の現存守ではなかったことが判明した。
現在は「公園」として整備され、守へは有料で拝観することができる。

丸岡城は標高27mの独立丘陵に建てられた。平山形式で建てられ、守は高さ12m、二層三階からなる独立式望楼守で建築された。
石垣戦国時代によく見られる野面積[1](のづらづみ)で組まれ、その高さは約6.2mまで達する。
屋根は笏[2](しゃくだにいし)と呼ばれる県産の石を使用した石瓦で葺いている。この屋根に石瓦を葺くスタイルは、現存十二天守の中ではである。ちなみに、石瓦の使用枚数は約6000枚あり、一枚あたり約20kg~50kgの重量がある。このため、守にかかっている石瓦の総重量は120トン以上あると推定されている。
また、瓦にも笏石が使用されており、東側のが「」の口、西側のが「吽」の口で彫られ、東西で「吽」の形になっている。

120トン以上もの重量が守にのしかかっているのにも関わらず、大柱となる通し柱[3]が一切ないのも石瓦と並んで丸岡城の特徴の1つとなっている。代わりに、1階の身舎[4](もや)と呼ばれる部分に6本の立柱が組まれ、これが守全体を支える役を果たしている。

1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震では守が倒壊してしまい、石垣も崩壊するという未曽有の被害が出てしまうが、元あったの建材の70%を使用して復元、石垣現在熊本城のように資料や写真を参考にして組み直し、1955年(昭和30年)に全修復に成功した。このことから、「不屈の名」としても知られている。

現在では丸岡城を宝にしようという運動が活発化しており、「丸岡城守を宝にする市民の会」という一般社団法人も設立されている。

また、守周辺には400本ものソメイヨシノが植えられており、は薄桃色じゅうたんから顔を出した守の色を見ることができる。この色が評価され、「日本さくら名所100選」に選定されている。ちなみに福井県ではこのほかに足羽・足羽山公園が選ばれている。
そして4月には丸岡城まつりが開催され、多くの花見客で賑わう。

丸岡城を再現したジオラマ
形のおが特徴的である。
実際に使われていた丸岡城の石瓦

丸岡城天守内の構造

守は二層三階構造となっており、階によってそれぞれ違った間となっている。

天守一階

守一階は身舎(もや)と入側(いりがわ)を配した間となっている。身舎は20坪ほどの長方形の部屋で武者走の内側にある。構造的には四部屋の形ではあるが、敷居、鴨居、引き戸が一切入っていない開放的な間となっている。また、この身舎中央には守の大柱となっている6本の掘立柱が並んでおり、これが守の自重を支えている。

身舎の周りに配した間が入側で、武者走(むしゃばしり)とも呼ばれる。幅は約1.8mあり、通路状の部屋となっている。この間には戦に関わる設備が勢いしており、敵をで狙い撃つとなる狭間(さま)、石を落として敵を妨する石落としの出を搭載している。

守入り口前には必ず縄をつたって登らないといけないほど急な階段があり、ここから二階へ行くことができる。

現在では丸岡城に関する歴史資料や実際に使用された石瓦のサンプル、重要文化財書が展示されている。

狭間 石落とし
二階への階段。どれだけ急な階段であるか一瞭然である。

天守二階

縄をつたって急な階段を登りきると、一階よりやや狭い二階が現れる。

二階は一階の約1/3にあたる12坪の広さしかない。また、周りに入側を擁さず、代わりに東西に破風部屋(はふべや)と呼ばれる破[5]内を利用した狭い部屋と、南北に切妻屋根の出部屋が配されている。出部屋は戦が起きた際、ここにこもって一階から上がってきたところを襲撃する場所であったと推定されている。

また、一階にある6本の掘立柱で守の自重を支えているため、本来あるはずの通し柱が一切が存在しない構造となっている。ちなみに四隅の柱と中央にある二本の柱は通し柱ではない。

二階にある出部屋

天守三階

最上階にあたる三階は、二階と同じ広さの間となっている。三階にも二本の柱が間中央にあるが、二階とは繋がっていない。外は柱を外に見せる塗り、周りに欄干のある縁側をつけた古な造りとなっている。長押[6](なげし)には飾り具がついているが、天井られておらず屋根組みがむき出しになっている。

戦の際は物見の役割を果たしたとされ、四方のから越前丸岡色がよく見える。

北方向には丸岡校「章館」を前身とする坂井市小学校が見える。
西方向は三方面となり、晴れていれば日本海が望める。またこの方面には泰澄が創建した称念寺や坂井市を代表する文人、中野重治の生跡がある。
南方向には福井市永平寺方面が望め、眼下には本多4代がられている本院、有馬られている寺が位置する。また、応天皇有馬晴信を祭とする神社もこの方向から見える。
東方向は勝山・白山方面となり、北陸自動車道丸岡高等学校が見える。


西

丸岡城歴代城主及び丸岡藩歴代藩主一覧

代数 代数
(ふりがな)
在任期間(在任年号)
※上段が就任年
 下段が退任年
在任年数 備考及び施策 日本の情勢
及び出来事
初代 柴田勝豊
(しばたかつとよ)
1576年(正4年)
1582年(正10年)
6年 丸岡城創建者
柴田勝家の甥
賤ヶ岳の戦い参戦
安土城(1576年)
本能寺の変(1582年)
2代 安井左近
(やすいさこんいえきよ)
1582年(正10年)
1583年(正11年)
1年
賤ヶ岳の戦いののち解任
賤ヶ岳の戦い(1583年)
3代 青山修理
(あおやましゅうのすけ)
1583年(正11年)
1587年(正15年)
4年 丹羽長秀支配下 小牧・長久手の戦い(1584年)
羽柴秀吉関白となる(1585年)
キリスト教禁教(1587年)
4代 青山忠元
(あおやまただもと)
1587年(正15年)
1600年(慶長5年)
13年 堀秀政支配下
関ヶ原の戦いののち解任
(1588年)
小田原の戦い(1590年)
豊臣秀吉が太となる(1590年)
朝鮮出兵 慶長の役(1597年)
豊臣秀吉死去(1598年)
関ヶ原の戦い(1600年)
5代 今村盛次
(いまむらもりつぐ)
1600年(慶長5年)
1612年(慶長17年)
12年 北ノ支配下
久世騒動で解任ののち、陸奥預けへ
江戸幕府開府(1603年)
徳川秀忠将軍となる(1606年)
6代 初代 本多成重
(ほんだなりしげ)
1612年(慶長17年)
1647年(正保4年)
35 丸岡誕生
一筆啓上の手紙に登場する「仙千代」本人
大坂の陣参戦
新江用を建設
大坂冬の陣(1614年)
大坂夏の陣(1615年)
発布(1615年)
徳川家康死去(1616年)
徳川家光将軍となる(1623年)
鎖国発布(1633年)
原・天草(1637年)
7代 2代 本多
(ほんだしげよし)
1647年(正保4年)
1649年(慶安2年)
2年 綱が将軍となる(1651年)
8代 3代 本多重昭
(ほんだしげあき)
1649年(慶安4年)
1676年(延宝4年)
27年
9代 4代 本多重益
(ほんだしげます)
1676年(延宝4年)
1695年(元8年)
19年 酒乱による愚政で 徳川綱吉将軍となる(1680年)
生類憐みの発布(1691年)
10代 5代 有馬清純
(ありまきよすみ)
1695年(元8年)
1702年(元15年)
7年 糸魚川から移封
11代 6代 有馬一準
(ありまかずのり)
1702年(元15年)
1733年(享保18年)
31 富士山噴火(1707年)
宣が将軍となる(1709年)
継が将軍となる(1713年)
徳川吉宗将軍となる(1716年)
享保の革(1716年)
12代 7代 有馬孝純
(ありまたかすみ)
1733年(享保18年)
1750年(寛延3年)
7年 重が将軍となる(1745年)
13代 8代 有馬允純
(ありまますずみ)
1750年(寛延3年)
1772年(安永元年)
22年 治が将軍となる(1760年)
14代 9代 有馬誉純
(ありまなずみ)
1772年(安永元年)
1830年(保元年)
58 丸岡校開設 天明の大飢饉(1782年~1788年)
徳川家斉将軍となる(1787年)
寛政の革(1787年~1793年)
15代 10代 有馬徳純
(ありまのりすみ)
1830年(保元年)
1837年(保8年)
7年 保の大飢饉(1833年~1839年)
平八郎の乱(1837年)
16代 11代 有馬温純
(ありまはるすみ)
1837年(保8年)
1855年(安政2年)
18年 徳川家慶将軍となる(1837年)
保の革(1841年~1843年)
ペリー賀来航(1853年)
定が将軍となる(1853年)
和親条約調印(1854年)
17 12代 有馬
(ありまみちずみ)
1855年(安政2年)
1869年(明治2年)
7年 丸岡城最後の及び丸岡最後の
丸岡知事
子爵に叙爵
茂が将軍となる(1858年)
桜田門外の変(1860年)
池田屋事件(1864年)
徳川慶喜将軍となる(1866年)
大政奉還(1867年)
戊辰戦争(1868年~1869年)
版籍奉還(1869年)

丸岡城の歴史

戦国・安土桃山時代①~丸岡城築城のきっかけ

丸岡城が築されたのは1576年(正2年)、ちょうど織田信長越前朝倉氏を滅ぼし、一向衆を定した頃の時期である。築者は、当時北ノを治めていた柴田勝家の甥にあたる柴田勝豊(しばたかつとよ)である。

丸岡城には前身となるが築かれており、その場所は丸岡町豊原の山にあったとされる。一口でといっても一時しのぎの砦に近いものであった。その後、1576年に「まるこの」と呼ばれた現在の場所に本格的なを築いたのである。これが、丸岡城である。
された背景には越前の統一が進み、戦のためのというよりは、領内を握して治めるという的があったとされる。
現在守しか現存しないが、築時には広大な五形のおが広がっていたとされる。

戦国・安土桃山時代②賤ヶ岳の戦いと関ヶ原の戦いで代わる丸岡城主、北ノ庄藩誕生へ

しかし1583年に柴田勝家豊臣秀吉が対立し、賤ヶ岳の戦いが開戦する。丸岡城を築した柴田勝豊長浜防衛を命じられて入の防衛にあたった。代わって丸岡城には安井左近清(やすいさこんいえきよ)が代として命じられた。しかし戦では約2万人の大軍にを囲まれ、戦況は悪化。最終的に勝豊は、敵武将の大谷吉継の調略によって秀吉方に寝返ったのである。
そして戦は柴田方が劣勢となり、勝は北ノ(現在福井市)まで撤退。北ノ(福井)で籠するが、前田利家などの軍勢に包囲され、最終的には正室のお市の方とともに自害も焼き払われたのであった。

賤ヶ岳の戦い以降、秀吉の命によって越前丹羽長秀(にわながひで)が治めることとなった。丹羽長秀青山修理(あおやましゅうのすけ)を丸岡城に置いた。そして1587年(正15年)に子の青山忠元(ただもと)にの座を引き継いだのである。ここでしばし平和な世の中が続くかと思いきや、またしても日本を揺るがす大きな戦に巻き込まれるのである。

1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が争う関ヶ原の戦いが開戦。戦は東軍率いる徳川家康勝利1603年に家康の手によって江戸幕府が開かれたのであった。
一方で、越前丹羽氏に代わって結城秀康が治めることとなった。のちに北ノが置かれ、初代となった。丸岡城には家老今村盛次(いまむらもりつぐ)がとして置かれた。

江戸時代前期~久世騒動勃発、本多成重統治へ

江戸時代が到来していよいよ静の世が訪れるかと思いきや、臣同士の権闘争に伴う騒動が勃発してしまうのであった。

1612年(正12年)、秀康の死と久世領内(現在福井市森田周辺)で起きた農民一家殺人事件をきっかけとして久世騒動が勃発する。この騒動で今村氏は付家老本多富正(ほんだとみまさ)と対立。事態は武衝突や江戸へ直訴されるほど大きくなったのである。
江戸幕府も事態を重く見て裁定を実施。徳川家康や当時将軍の地位にいた徳川秀忠も立ち会うという異例の裁定となった。判決の結果、今村盛次は陸奥磐城預けとなり、本多富正は中仕置を命じられ、今村側の全面敗北という結果となった。

1612年(慶長17年)、今村盛次に代わって本多成重(ほんだなりしげ)が4万石で丸岡城となる。本多氏は徳から古くから使える臣で、徳配下の戦国武将で有名な本多忠勝となった本多成重は違いの親戚にあたる。
1614年(慶長19年)に大阪、1615年(慶長20年)に大阪が開戦すると成重も参戦し、武功をあげた。
内政では秀吉の太検地以来となる検地を実施し、年貢の是正を図った。また、加賀の浪士であった渡辺立(わたなべせんりゅう)から計画の提案を受け、「新江用」と呼ばれる用水路の建設を1625年(寛永2年)から行った。用九頭竜のある鳴鹿から約10kmもの用水路を開削するという大工事となり、4年の歳を経てついに工。丸岡一帯の水田開拓に大きく貢献したのであった。成重はのちにこの功績を称えて渡辺立に「」の名を贈った。

また、この頃には上である北ノ本多忠直が幾度も幕府に向かう乱行策を打ち出していたため、自制役として手を焼いていた。しかし、これを視してさらに乱行を重ねたため、見かねた幕府は1623年(元和9年)に忠直を易ののち居を命じた。
そして忠直配下であった成重は一度幕府直下の旗本を命じられるが、1624年(寛永元年)にめて丸岡城に任命された。また、一発布に伴って北ノを分し、4万3000石で丸岡初代に任命された。これ以降、成重は丸岡政に尽し、丸岡は最盛期を迎えたのだった。

1645年(寛永21年)、成重は嫡男の本多(ほんだしげよし)にの座を譲った。これ以降、本多政は成重含め4代続いた。

江戸時代後期~有馬氏による丸岡藩政、明治維新へ

本多政は約90年間続いたが、4代本多重益(ほんだしげます)の時に易されてしまう。原因は酒乱による愚政を行ったことであり、これがきっかけとして臣の間で権内紛が起こってしまったのである。

代わりに糸魚川から有馬清純(ありまきよすみ)が移封され、5代に任命された。
有馬氏はキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)から続く系で九州の有大名であったが、1690年に領内で発生した逃散一責任を取って糸魚川に移封され、現在に至っている。有馬氏による丸岡政は8代約150年間にわたって続いたが、天明飢饉が発生し財政状況が悪化するなど政は困難を極めた。
この中で、わずか4歳でとなった14代有馬誉純(ありまなずみ)は、学問を奨励し、博学な人材を育成することで政立て直そうと図った。その1つに丸岡城と隣接する地に丸岡校「章館」を設立し、将来の人材育成を充実させた。これが現在坂井市小学校であり、創立年としては内で3番に古い小学校である。ちなみに2020年の時点で創立216年を迎えている。また、誉純自身も勉学に励んで政に臨んだ。これが評価されて幕府の奏者番や若年寄に抜されるなど大出世を遂げている。
そして、地元の商である加屋の協を取り付けて、負債返済に尽。見事済し、丸岡の財政はみるみる息を吹き返していったのである。

そして8代有馬純の時に明治維新を迎え、純は知事となった。置県後は知事を免じられ、子爵を叙爵した。

一方で丸岡城はとなってしまい、特徴的だった五形のおは埋め立てられ、再利用できそうなの建材は民間に売却されて解体されてしまうが、守だけは再利用できる部材が少なかったため、破格の価値で売り出された。ここで、地元有志の人々が丸岡城について調べると、現存するで最古の守であることが判明し、価値が再評価された。そして地元有志達が守を買い戻し、丸岡城保存に乗り出したのであった。

そして、1901年(明治34年)8月丸岡町によって町有化された。

大正~昭和時代~国宝指定されるも福井地震発生、天守倒壊するも奇跡の復元&国重要文化財指定へ

そして、大正昭和期に入ると明治の丸岡城保存運動甲斐も実り、1934年(昭和9年)1月30日旧文化財保護法の下で悲願の宝にされ、丸岡町を代表する文化財となったのである。ちなみに現在でもこの時に授与された認定守内に掲示されている。また、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけて第二次世界大戦が勃発したが、被害も受けず運よく被災も免れたのであった。

しかし、ここで福井県全域を揺るがす大災害が発生する。
1948年(昭和23年)6月28日マグニチュード7.1、当時の震度階級で最大震度6の福井地震が発生福井県石川県に大災害をもたらした。この地震で死者は3000人以上、負傷者は2万2000人以上にのぼり、3万6000戸が全壊する当時としては未曽有の大災害となった。

また、この地震丸岡城守が倒壊石垣も一部崩壊するという前代未聞の被害を出した。
もはや丸岡城は元通りに復元できないのか…当時の人々が意気消沈する中、1人の男が立ち上がった。
友影顕世(ともかげけんせい)、当時の丸岡町長である。顕世は町長としての責任と使命を強く認識し、丸岡城全修復に乗り出した。この時、79歳であった。
具体的に取った策は、まず上しての文化財保護委員会に復元再を陳情。また、北海道関東など全をまわって再建費用の調達に尽した。また修復にあたっては、1942年(昭和17年)の修復の際に修復工の竹原吉助によって作成された調報告書が参考にされた。

また、再建活動中の1950年(昭和25年)に、現在の文化財保護法の施行に基づいて重要文化財されたのであった。

そして1955年(昭和30年)3月丸岡城守と石垣は、元あったの部材70%を再利用して全復活を遂げたのであった。のちに顕世は名誉町民賞が贈呈された。また、丸岡城守そばには、友影顕世の像が建てられた。
ちなみにしゃちほこはこの時に取り替えられ、現在の木彫りのしゃちほこになった。そして、震災前の笏石のしゃちほこ現在の場所に降ろされ、文化財として展示されている。

平成~令和時代 日本100名城、日本さくら名所100選指定、そして現在へ・・・

こうして奇跡の復活を遂げた丸岡城は、1990年(平成2年)に日本さくら名所100選、2006年(平成18年)に日本100名城定され、町の一大観光スポットとして成長を遂げる。

また、2006年(平成18年)に丸岡町は三町、坂井町、春江町と合併し坂井市が誕生。丸岡城は坂井市管理となった。

そして、2015年(平成27年)に同じ現存十二天守松江城定を受けると、丸岡城でも2016年から定を獲得するための運動が展開され、市民の会が設立された。2017年には法人化され、一般社団法人丸岡城天守を国宝にする市民の会exit」が設置された。市民の会では丸岡城に関する資料の捜索や調を行い、丸岡城のデータベース強化に尽定を受けるための根回しを進めている。

丸岡城に関する豆知識・伝説

衝撃スクープ!実は「日本最古の現存天守」では"なかった"!!?[7]

丸岡城は「日本最古の現存守」があるとして全的に有名だが、実は最新の研究で当は日本最古の現存守ではなかったという事実明らかになってきている。
これは坂井市教育委員会が実施した約4年に及ぶ学術調明らかになったもので、2019年(令和1年)に表された。

ここで従来の説を振り返ると、織田信長越前一向一揆定後、柴田勝家の甥である柴田勝豊が周辺の防衛の要として1575年(正2年)に丸岡城を築したとなっている。
しかし教育委員会が発表した説によると、江戸時代の寛永年間にあたる1624年~1644年頃に築したのではないかとされている。この説の決定的拠として、教育委員会が委嘱した福井工業大学客員教授吉田純一会長からなる「丸岡城調研究委員会」が守の部材を採取して年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体から年代調した結果が表され、ほとんどが1620年以降に伐採された木から造られた部材であると推定されたのである。

ちなみに教育委員会が発表した寛永年間に築した説を上記の歴史と照らし合わせるとちょうど本多成重の代であることが分かり、現在残っている守も柴田勝豊ではなく本多成重が築したのではないかと推定できる。

ただ吉田会長によると、あくまで守側の建造年が寛永年間で、その基礎となる石垣戦国時代に多用された野面積み形式になっていることから「前身となる守が存在した可性が高い」と摘している。しかし構造的に重要な役割を果たす通し柱は、上記年代調1626年以降に伐採された木材であるという判定が出たため、前身の守を修したのではなく寛永年間に新たに築された可性が高いという見解を出している。

2016年から定をしている丸岡城にとってこれは大きすぎる衝撃事実となってしまったものの、吉田会長戦国時代に多く採用された望楼守が江戸時代初期に造られたという事実に触れ、「建築様式が移り変わる時期に、(当時としては古い様式の)望楼で建てられたことは逆に意義がある」と述べている。

愛称「霞ヶ城」の由来

丸岡城には、称として「」(かすみがじょう)の名前が知られている。この名前には由来となった場所があり、それが丸岡城守そばにある井戸で、この井戸にまつわる伝説がその由来の根拠となっている。

そもそも丸岡城は、1575年(正3年)に織田信長越前一向一揆定後に防衛のために柴田勝豊が築したで、築後もたびたび一向一揆の残党が丸岡城に攻撃を仕掛けることが多かった。
しかし、この井戸の中から大蛇が現れて、に「かすみ」をかけての姿を敵から見えなくし、危機を救ったという言い伝えがある。この「かすみ」から「」と名付けられ、現在では「かすみ」の対へと昇され、全景ませるように満開のに包まれた丸岡城守の色が「」の称とリンクしている。

「人柱お静」伝説

日本のおの中には郡上八幡城彦根城吉田のように人柱を擁したという言い伝えが残る。丸岡城もその一とされ、「人柱お静」という伝説が残っている。

これは丸岡城築の際、守閣石垣が何度積んでも崩壊する事態が起きたため、人柱を擁して建てようと進言するものがあった。この進言は受け入れられ、人柱にお静という女性が選ばれた。お静は片姿のいで立ちで、二人の子供を抱えて貧しい生活をしていた。

お静は一人の子をにしてもらえるよう取りはからうことを条件に人柱になることを決意。守閣の中柱の下に埋められたのであった。それから丸岡城は完成したが、ほどなくして柴田勝豊が移封されてしまい、お静の子はになれなかった。

お静の霊はこれを恨み、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨があふれた。人々は「お静の」と呼んで、丸岡城にかけられたお静の呪いとして恐れた。そして丸岡城守そばに小さな墓を建て、お静を慰霊したのである。
現在では守そばにお静の慰霊碑が建てられて、人柱お静伝説を伝える碑文とともにられている。

また、俗謡に

ほりの藻刈りに降るこのは、いとしお静の血の涙

という一文が伝わっている。

丸岡城のしゃちほこ

丸岡城の現在しゃちほこ三代目にあたり、木彫りで造られたものを屋根に掲げている。福井地震守が倒壊する以前は、石瓦と同じ笏石から切り出して造られたしゃちほこ掲げていたが、地震発生後に屋根から落下し破損。現在は、修復されて重な文化財として守入り口前に安置されている。

また初代にあたるしゃちほこは現在と同じ木彫り製で、三代目はこのしゃちほこを踏襲して造られている。1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)に行った守大修理の際に二代の笏石製のしゃちほこに替えられた。ではなぜ笏石のしゃちほこに替えたのか。その理由は、第二次世界大戦の影が関係しており、当時はの入手が困難であったため、やむなく笏石のしゃちほこ屋根に掲げたわけである。

「一筆啓上」本多重次が長篠の合戦場から妻へ書かれた日本一短い手紙

丸岡城の1人で初代丸岡本多成重といえば、「一筆啓上」で知られる本多重次(ほんだしげつぐ)の日本一短い手紙の文中に登場する人物として知られている。

父親にあたる本多重次は、戦国安土桃山時代に活躍した徳臣の武将で、「鬼作左」の異名で知られる猛将である。この手紙1575年に開戦した長篠の戦い中から幼少期の成重を子守していた妻に宛てられたもので、このように書かれた。

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 肥やせ

この文中に登場する「お仙」[8]こそが、のちの本多成重のことであり、重次からどれだけ寵されていたかうかがい知ることができる。

ただ、この手紙は残念ながら現物が発見されておらず、その手紙が書かれたことを示す資料が現存するのみである。

なお、丸岡城には守そばにこの一筆文が書かれた句碑が安置されており、「一筆啓上碑」と呼ばれている。また、お付近には2015年(平成27年)に開館した「一筆啓上 日本一短い手紙の館」があり、この手紙に関する資料が常設されている。

また、1995年から益財団法人丸岡文化財団」が催する「一筆啓上賞」というコンテストが毎年開催されている。
このコンテストは、発表されるテーマを元に1字から40字以内でかに宛てた手紙を作成して応募するという内容のイベントで、厳正な審ののちに優秀作品に選ばれると、大賞にあたる「日本郵便株式会社 社長賞」、次点賞にあたる「日本郵便株式会社 北陸社長賞」、ほか「住友賞」と「坂井青年会議所賞」、「佳作賞」のいずれかが贈呈される。

文化人にも愛された丸岡城

丸岡城は明治から昭和にかけての近代文化人にもされ、俳句や著書などにも登場している。この中で三町出身で高浜虚子の写生分「」のヒロインとして有名な俳人の森田愛子は丸岡城を見てこのような俳句を残している。

守の 中の暗さや 花曇(はなぐもり)

この俳句の丸岡城の様子を見て詠ったもので、「花曇」は3月下旬~4月上旬頃の曇りを表す季となっている。この俳句守の中の暗さや雰囲気をその曇り風景に例えて表現している。また、「花曇」は丸岡城の称である「」と意味がかけられており、の丸岡城を表現した素晴らしい俳句となっている。

他にも中野重治の著書「なやさしさ」や司馬遼太郎の著書「街道をゆく 越前の諸」にも丸岡城にまつわる談話が登場し、数多くの文化人が丸岡城の守を訪れて著書にの印を書き残している。

丸岡城の御城印

丸岡城では、御印の販売を行っている。御印とは日本で販売されるいわば「お御朱印」のようなもので、おごとに違ったデザインが楽しめ、おマニアの間で収集対の1つとなっている。

丸岡城では御印が2種類あり、1つはとなった柴田氏、本多氏、有馬氏の家紋御朱印背景にあしらい、筆字で「重要文化財 丸岡城」で書かれたタイプ、もう1つは、筆字で本多重次の一筆啓上の手紙文が書かれた御印を販売している。また、右写真のように期間限定で限定デザインをあしらった御印を販売している。写真の御印は2020年9月限定で販売されたデザインで、菊や赤とんぼ満月夜空などを思わせるようなデザインとなっている。
期間限定版御印の販売期間の告知は、益財団法人の「丸岡文化財団」が公式サイト上で告知している。

丸岡城で開催されるイベント・お祭り

丸岡城では毎年さまざまなイベントお祭りが開催される。

丸岡城桜まつり[9]

坂井市丸岡観光協会催で、毎年4月上旬から中旬にかけて開催されるイベントで、福井県まつりとして人気を呼んでいる。

祭り名の通り、開催時期は丸岡城のソメイヨシノが開する時期にあたり、満開になると称の「」の通りにんで見えなくなるほど包まれた丸岡城の全景が楽しめる。
そしてまつりではおライトアップが行われ、夜空に映えると薄ピンク色色が訪れた人々を魅了する。

丸岡古城まつり[10]

10月第2週に開催される祭り丸岡まつりである。この祭りはおのみならず丸岡一帯を封鎖して行われる一大祭りで、メインとなる「時代行列」(五万石パレード)を中心に、「総踊り」や「丸岡隊演武」、「おじゃれまき」などさまざまなイベントが開催される。

アクセス・利用案内

休館日・営業時間

利用料金

大人 個人 450円
団体
(30名以上)
360
小人
(小・中学生)
個人 150
団体
(30名以上)
120円

アクセス

関連動画

関連静画

関連商品

関連コミュニティ・チャンネル

関連項目

関連リンク・参考サイト

記事作成にあたり参考にした資料

※「・・・〇〇」の付記は各見出し名に対応する。

脚注

  1. *石垣建築方式の1つ。戦国時代安土桃山時代にかけて重用された方式で、自然石を加工でバランスよく積み上げる方法。加工されていないため、ところどころに細かい隙間ができるのが特徴である。その反面、はけが非常によく、で崩れにくいメリットがある。
  2. *福井県で産出される緑色を帯びた凝岩。
  3. *建築において大柱となる柱で、通常は階を突き抜けて組むが、丸岡城はそれ自体がしい構造となっている。
  4. *入側(通路)で囲まれた室内のこと。
  5. *簡単に言うならば、寺社や屋根にある三角形の小屋根のこと。破風部屋はその中にあり、現代で言うならば屋根部屋に近い間である。
  6. *守三階写真に映っているに配した柱で、日本建築ではよく見る構造の柱。構造を補強する役割がある。
  7. *丸岡城の天守、最古でない可能性 戦国時代でなく江戸時代の建築(福井新聞 2019年3月27日付)exit
  8. *幼名が「仙千代」と名付けられたため、「お仙」と呼ばれた。
  9. *丸岡城桜まつり(坂井市公式サイト)exit
  10. *丸岡古城まつり(坂井市公式サイト)exit

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丸岡城

1 ななしのよっしん
2020/09/17(木) 15:05:19 ID: kFS4gtt7Ku
おお・・・なんというの入った記事…
作成者さんお疲れ様です

守は現存最古のものと言われていたけど最近の調でそうでない可性が高いことが判明しちゃったんですよね…
2 初版の人
2020/09/17(木) 16:01:48 ID: QiYyvIWiP2
>>2
そうなんですよね。私もこれ書くときの前調ビックリしました。個人的にはしてほしいですね。
3 ななしのよっしん
2020/09/17(木) 17:21:02 ID: jnuUaOogJI
最古ではないと判明したものの慶長期としては古い様式で建造されていて史研究上重要と言うことで宝をしているようです
ちなみに以前から江戸時代の建造では?という摘はあったので現存最古の様式とか微妙に濁した言い方がされたりしてました
4 ななしのよっしん
2020/09/24(木) 20:15:41 ID: 6xdTUcOMXk
すごいな…まるで博物館を見学しているような気分になれる記事だ
チャンピオンおめでとうございます
5 ななしのよっしん
2020/09/25(金) 08:37:35 ID: I274pFcvoH
なんやこのへの情あふれる記事は…
6 神浜
2020/09/27(日) 07:13:28 ID: Vv2TOrFSoh
チャンピオンおめでとうございます
これはすごい・・・
7 ななしのよっしん
2020/09/28(月) 22:51:01 ID: fknQ/eD3j8
wikiえてる
おめでとうございます
8 ななしのよっしん
2020/10/19(月) 21:41:06 ID: qHxzC4aYgC
こどもの日小学生だと入場無料になったけど今もやってるのかな

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