「丸目長恵」(まるめ・ながよし 1540 ~ 1629)とは、日本の戦国時代に活躍した武将であり、剣豪である。
概要
九州の肥後国八代の出身で、当時から相良氏の領内でその支配を受けていた。15歳の初陣で父とともに武功を上げ、以後「丸目」性を授けられた。16歳の時に天草に居を構えていた天草伊豆守に師事し、兵法修行に打ち込むことになる。数年後には上洛し、新陰流ソードマスター上泉信綱(当時はまだ秀綱)に師事。信綱とともに足利将軍家(義輝)に兵法上覧を行い、感状を授けられた。
その後いったん肥後に帰国していたが、再度上洛。ところがその時はソードマスターが不在で、いろいろ持て余したのか近畿の各地に「兵法天下一」の高札を立てて回っていた。ナイス度胸である。でも生き残ってるって事は真剣勝負に勝っていたのであろう。後にこのことを知ったソードマスターは、信綱名義で印可状を発行。ここに晴れて新陰流の剣士として独り立ちした。
そしてまた帰国。この時から多数の弟子がいたようだ。が、武将としての声望はイマイチで、ネックベアード島津家久に吊り上げられたりしている。まぁ相手がチートだからね、しょうがないね…というわけにもいかず、主君である相良氏から結構こってりと怒られている。ストレス解消のために九州各地の兵法家をシバキ倒していたところ、ソードマスターから「そっち(九州)は丸目ちゃんに任せるから宜しく!」と新陰流の伝授役を仰せつかった。
そんなこんなで(兵法では)九州無双状態となった長恵は、ソードマスターに褒めてもらうために再度上洛。が、時既に時間切れでソードマスターは亡くなっていた。ショックを受けた長恵はしばらくの間兵法修行にのみ打ち込み、数年後にオリジナルの流派を立てた。すなわちタイ捨流である。ソードマスターの薫陶を受けたとはいえ、長恵自身も割と合戦経験者であるからか、後年の新陰流よりもっと実践的で、介者剣術に近い感じだったとかなんとか。
ソードマスター亡き後、事実上天下指折りの剣士となっていた長恵は、九州一円に多数の弟子を持った。立花宗茂をはじめとする武家はもとより、町人百姓にも大人気であったらしい。時代がグッと下がって江戸になると柳生新陰流も広まってくるが、それもごく一部の上流階級の話で、九州=タイ捨流と言われるほどあちこちに根付いていった。さすが修羅の国である。
長恵自身はその後も特に武家として立身出世したわけではなく(それでも一般人から見れば大出世だが)、のんきに開墾をしたり、馬術や手裏剣の研鑽を積んだり、お茶とか舞踊とか笛などの教養にも目覚めたりしながら過ごしたという。89歳で没。
ちなみに、長恵の子孫は現在も熊本県八代市に住んでいる。道場・長恵の墓も八代市にあり、現在も日々研鑽が重ねられているようだ。興味のある人は関連項目の外部リンクへどうぞ。
関連動画
タイ捨流の剣術の解説動画。サムネのいい笑顔は丸目宗家第十三世師範、山北竹任氏(平成25年逝去)。
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関連コミュニティ
関連項目
- タイ捨流
- 新陰流
- 上泉信綱
- 剣豪
- 戦国時代の人物の一覧
- 【兵法タイ捨流剣術 道場八代龍泉館】(外部リンク)
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