久坂玄瑞(1840~1864)とは、幕末に活躍した人物である。
概要
藩医の家に生まれて、明倫館に入り蘭学を学ぶ。しかし1853年に母・富子、1854年には兄・玄機、父・良迪を相次いで失う。
1856年に九州遊歴の際肥後の宮部鼎蔵に勧められ、吉田松陰に接触。文通による攘夷をめぐる応酬の末に松下村塾に入門する。塾では高杉晋作とともに「竜虎」、「双璧」、晋作、吉田稔麿、入江九一と「松門四天王」と称され、松陰からは妹の文を妻にされるほど親しまれていた。
久坂玄瑞はその後も江戸・京都を往復して尊王攘夷運動に奔走していく。1861年に長州藩論が公武合体に傾くに至って、同士とともに反対運動を展開。翌年にはこれを破約させ、攘夷に転換させることに成功した。
1861年に高杉晋作、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)らと英国公使館を焼き討ちするなど攘夷志士の急先鋒として活動。朝廷の権威で幕府を追い詰める一方、1863年には関門海峡で外国艦砲撃を指揮していく。
さらに京都で宮部鼎蔵、真木和泉らと大和行幸、攘夷親政を計画したが、ついに孝明天皇の怒りを買い、八月十八日の政変で失脚。三条実美ら七卿とともに京都から追放された。
それでも攘夷を遂行するために奔走するが、1864年に池田屋事件を契機に真木和泉と上洛し、禁門の変を起こす。しかし敗北し、寺嶋忠三郎とともに鷹司邸で自害して果てた。
関連項目
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