九九式襲撃機(キ-51)とは、大日本帝國陸軍が運用した航空機である。略称は九九襲撃など。連合軍が付けたコードネームはソニア。
概要
数ある航空機の中でも「襲撃機」と冠したのは本機のみである。襲撃機は地上部隊の要請に応じて支援を行う機体の事で、現代で言う近接航空支援の先駆的存在である。地上の敵陣を攻撃するのが主任務のため超低空性能に特化しているという珍しい性能を持つ。超マイナー機だからか残されている資料は少ない。
開発の背景
度重なる日ソ国境紛争により、ソ連軍機甲師団との戦闘を見越していた帝國陸軍は地上部隊を支援する襲撃機の必要性を痛感。襲撃機とは敵飛行場と敵部隊への攻撃を目的とした、戦闘機に近い軽快さと低空性能を持った単葉機であり、戦闘機と爆撃機の中間に位置する全く新しい機種であった。
1937年、陸軍航空本部兵器研究方針改定に伴い、陸軍は三菱重工に対してキ-51の製造訓示を実施。1938年1月末に試作が命じられ、航空本部技術研究所から派遣された藤田少佐指導のもと開発計画がスタートする。三菱側は大木喬之助技師を主任に据え、既に制式採用が決まっていたキ-30(九七式軽爆撃機)をベースにしてこれを小型化する基本設計を作り上げる事に。指示書に従って三菱製ハ-26Ⅱエンジンと単発単座単葉低翼固定脚の機体を設計した。当時の陸海軍の新型機は引き込み脚が主流だったが、敢えて時勢に逆行した固定脚を採用。これは不整地での離着陸や整備性を優先する堅実な考えによるものだった。陸軍からの要求速度は420キロと控えめで、信頼と実績の瑞星エンジンを採用。後続機と比較して故障まみれのエンジンに泣かされる事も無かった。おかげで設計は順調に進んだ。
武装は7.7mm機関銃2丁、後部座席に旋回式7.7mm機銃1丁を装備。50kg爆弾4発または12kg爆弾12発搭載可能。いずれも対地攻撃に特化した武装だった。低空を飛行する運用上、敵の反撃を受けやすいとして防弾も考慮されている。試作11号機以降は6mmの防弾鋼板で急所や搭乗員を防護し、燃料タンクは防漏式に改められた。生産の際、この防弾鋼板が一番苦労する所だった。冶金学的には高性能な鋼板だったが、軍用だけあって形状採寸はうるさく言われたとか。
1939年6月に試作一号機が完成し、初飛行を実施。最も重要視された低空での飛行性能と操縦性は極めて良好。最高速度も要求を超える424キロを記録し、陸軍を大いに満足させた。さっそく三菱に11機の増加試作を命じた。しかし機体の振動や着陸時の失速性が問題視され、修正点に挙げられた。三菱は固定脚の緩衝ゴムを変更し、主翼端近くの前縁に固定スロットを設け、外翼前縁に2度の捻り下げ角を付けた事で問題を解決。9月から12月にかけて行われた改良型のテストは問題なく進み、1940年5月11日に制式採用された。本来であれば百式と命名されるはずだったが、当時はまだ皇紀2600年の命名基準を考えていなかったため、仕方なく前年の九九年と名付けた。
浜松基地で行われた九七式戦闘機との模擬戦では苦戦を強いられたが、低空域の戦闘になると逆襲。容易に背後を取らせなかった。いかに九九式襲撃機の低空性能が優れていたかを示すエピソードである。優れた機であったが、航続距離の短さと爆弾搭載量の少なさが数少ない欠点だった。
実戦
1941年3月頃から支那戦線に投入され、偵察、捜索、戦果確認、指揮、連絡、対地攻撃など多種多様な任務に従事して地上部隊を支援した。一式戦では50mより下は飛行できなかったが、九九式襲撃機は20mまで降下する事が出来た。
生産の過程で偵察機にも転用可能である事が判明、武装を変更した偵察型も誕生した。こちらは九九式偵察機と命名された。自慢の低空性能を活かし、戦車やトーチカの配置状況や輸送機関の情報を空撮して見事に持ち帰った。機体は非常に頑丈で、乱暴な操縦をしても平然と耐えていた。加えて整備性も良く、不整地への着陸にも耐えたので前線の将兵から絶大な支持を得た。ちなみに偵察機型も必要に応じて地上攻撃に参加した。いぶし銀の活躍をした事から「日本陸軍航空隊の軍馬」と呼ばれたという。
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発すると、マレー作戦に投入された。上空から英印軍の動きを監視し、隙あらば銃撃と爆撃を加えて戦力を削いだ。敵トーチカや防衛線を発見すると隊長機が両翼を振って合図をし、一気呵成に襲い掛かった。対空砲が放たれたが、良好な運動性能のおかげで被弾しなかった。上空には九七式重爆撃機が、眼下には九七式中戦車部隊と銀輪部隊が進撃。恐れをなした英印軍はたちまち後退していったという。襲撃機が空を旋回している限り、敵陣は位置の露見を恐れて発砲しなかったと伝わる。歩兵部隊の上を九九式襲撃機が通過すると、一斉に見上げて帽子や手を振った。帰還後の基地では、1分でも5分でも長く空にいてくれと懇願されるほど頼りにされていた。英印軍が誇る堅牢なスリム縦深陣地を突破できたのも九九式襲撃機の働きが大きい。
援護を担当した飛行第27戦隊は、2~3機編成の九九式襲撃機にローテーションを組ませて次々に出撃。イギリス軍の陣を見つけると50kg爆弾を次々に投下し、それが無くなると機銃掃射を加えた。九九式襲撃機の献身的な支援は、地上部隊にとって救いの守護女神であった。墜落して重傷を負ったパイロットのもとに友軍部隊の兵士が矢継ぎ早に訪れ、約30名から感謝された事も。敵の射撃が激しく、あわや壊滅かと思われた瞬間に九九式襲撃機が飛来して助けられたという話もある。敵陣のみならず水上の哨戒艇も攻撃目標となり、4機編成の九九式襲撃機が哨戒艇ガンバーを大破させている。乗組員は「Ju-87のような機体」と評した。12月13日にはバッファロー戦闘機と6機の九九襲撃が空戦を行った。しかし無理に空戦したため2機が撃墜された。翌14日にはリベンジに成功し、1機のバッファローを撃墜した。
シンガポール陥落後は蘭印作戦の支援に回り、スマトラ島やジャワ島の攻略を援護。日本軍に奪取されたカリジャティ島の飛行場を奪還しようと、オランダ軍は150輌以上の戦車と装甲車で反攻に出た。これを九九式双発軽爆撃機とともに迎撃し、西から侵入しようとする機甲部隊を阻止。狭い道路を一列になって通過中の機甲部隊を発見すると、最前列と最後尾の車両を撃破して身動きを封じるという大活躍を見せた。南方作戦も大詰めになったフィリピン攻略戦では、偵察機型がバターン半島を空撮。もたらされた情報は攻略成功に導いた。緒戦の快進撃の裏には、九九式襲撃機の確かな援護があった事は言うまでもない。
ビルマ戦線のメイクテーラ付近では、地上部隊が堅牢なイギリス軍陣地に阻まれて進軍が止まっていた。友軍は支援要請を意味する矢印を作り、上空を通過する九九式襲撃機に見せた。3機の九九襲撃が突撃し、装甲車と歩兵部隊を攻撃。ずらりと砲が並べられた敵陣地を破壊した。見事これが決定打となった。引き上げていく際、地上の司令部から「緊密な協力を感謝する」という信号が出された。搭乗員は揺れる機体の中で返信を書き、通信筒で投下。それを見た地上の人々が手を振ってくれたという。陸軍の快進撃とともに行動範囲を広げ、マレー、インドネシア、ビルマ、ニューギニア、フィリピンなどで活躍していった。操縦性の良さから内地では練習機に転用されたり、民間機用に満州へ売却されたり、要人輸送に使われたりした。
生産だけを行っていた満州飛行機に実績を付けさせるべく、性能向上型のキ-71が設計され、1943年頃には試作機が飛行していたそうだが、戦況逼迫により中止されている。計画によれば7.7mm機銃を12.7mm機銃に換装し、350馬力向上させて1300馬力にするはずだったという。九九式襲撃機の後継機キ-71の開発が行われていたが性能が向上せず、重量のみが増加して上手く行かなかった。
1942年9月頃、東ティモールの上空を第三飛行集団の九九式偵察機が偵察飛行を行った。その時に平らな高原地帯を偶然発見し、飛行場建設の適地と判断。ここを秘密飛行場に指定し、極秘裏に地ならしと工事を実施し、ラウテン飛行場が誕生した。森を切り開く際、わざと一部を残してカムフラージュとした。
戦局が悪化してくるとニューギニア方面で船団護衛を行ったり、対潜哨戒に参加したりと畑違いの任務にも投入されるようになった。1943年末より、独立飛行73中隊所属機はニューギニア近海で対潜掃討に従事。のべ88回出撃し、敵潜水艦7隻の撃沈を報じた事から1944年8月21日に第四航空軍から感状を賜っている。しかし損耗率も高く、稼動機は4機にまで減少していた。島嶼防衛戦に偵察機型が投入されたが、6個中隊のうち4個中隊が瞬時に壊滅。連合軍の新型機によって被害が急増し、制空権を奪取された後は昼間の飛行が出来なくなった。悲しいかな九九式襲撃機も旧式化が否めなかった。1944年に入ると艦船攻撃を視野に入れた急降下爆撃の訓練が、内地で行われるようになった。10月21日、フィリピン沖で重巡オーストラリアに対して第6飛行団の九九式襲撃機が体当たりを行い、大破。艦長以下30名を戦死させるという大損害を与えたが、これは特攻機ではなく通常攻撃機だった。
1945年1月1日、アメリカ軍がルソン島に上陸。同月16日、第四航空軍司令の富永恭次中将は無断で台湾に後退しようとし、百式司偵(二式複座戦闘機とも)をチャーターしたが離陸時のトラブルで失敗。飛行場が不整地であり、上手く飛び立てなかったのだ。代用機に選ばれたのは、不整地に強い九九式偵察機(第32戦隊所属)であった。16時、第30戦隊の一式戦2機の護衛を受けながらエチャーゲ南飛行場を離陸。敵の制空権下を突破し、撃墜されること無く台湾まで富永中将を送り届けた。
厳しい戦況の中にあっても、九九式襲撃機は最前線で最後まで戦い続けた。1945年4月24日21時にフィリピンのアメリカ軍を攻撃。投下した1発の爆弾が米第732中隊の軍需品集積所に直撃し、弾薬に引火。多数の死傷者を出した他、丸ごと焼失させる戦果を挙げた。8月6日午前8時過ぎ、海軍見張り所からの通報を受け、バリ島テンバッサル飛行場から出撃した対潜哨戒仕様の九九式襲撃機がロンボク海峡で米潜水艦ブルヘッドを発見。偶然レーダーが妨げられていたブルヘッドは反応に遅れ、その隙を突いて60kg爆弾2発を叩き込んだ。ブルヘッドは消息不明となり、のちの捜索でも発見できなかった事からアメリカ軍は喪失と判定した。これが第二次世界大戦最後の喪失艦になった。8月13日から14日にかけて、満州国境を突破してきたソ連軍に対し攻撃を敢行。終戦まで戦った。
特攻機に
戦争末期になると例に漏れず特攻機に使用され、319機が250kg爆弾を搭載できるよう改造された。改造には時間を要したという。旧式化していた上、数もあった九九襲撃は最も多く使われた特攻機となった。足が遅く、航続距離も短い本機を特攻隊員たちは「空飛ぶ棺桶」と揶揄した。差し迫った戦局は、地上部隊の支援とはかけ離れた任務を九九襲撃に押し付けてしまったのだ。
1944年11月6日、鉾田で鉄心隊が結成。あてがわれた機体は、訓練用に2500時間も飛んだ老朽の九九式襲撃機だった。航続距離が短いので鉾田、大阪、九州、沖縄、台湾と各拠点を転々としながら11月16日にマニラ郊外のカローカン飛行場に到着した。最初の特攻は12月5日、鉄心隊がカローカン飛行場から出撃し、スリガオ海峡の米輸送船団へ向かった。午前11時にレーダーに捕捉され、護衛駆逐艦とP-51によって5機が撃墜された。残った3機が対空砲火を突破し、中型揚陸艦LSM-20に突入して一瞬で撃沈せしめた。他の1機はLSM-23の船腹に突入し、大破に追いやった。最後の1機は操縦ミスをし、軌道が逸れた。が、機体を縦にして当たり判定を広げ、船首の5インチ砲に主翼をぶつけた。飛び散った破片で6名の乗組員を殺害、12名を負傷させた。12月18日の特攻ではミンドロ島の上陸支援をしていたPT-300を撃沈している。
1945年1月4日には護衛空母オニマー・ベイに突入して撃沈(一式戦説あり)。陸軍唯一の空母撃沈記録となった。続く6日にはルソン島沖の軽巡洋艦コロンビアに突入し、大損害を与えた。同月8日には重巡洋艦ルイビルに突入。大破させたうえ、セオドラ・チャンドラー少将を戦死させる副次効果を生み出した。3月27日、沖縄近海で戦艦ネバダに突入した。
最後の特攻は7月26日、マレー半島プーケット沖で行われた。終戦時には90機が残っていたという。
1939年から1943年にかけて2385機が生産された。九九式襲撃機は目立った戦果こそ無いが、影の功労者とも言うべき戦績を着実に積み上げた傑作機であった。
戦後
戦争が終結した後、東南アジアの各地に九九式襲撃機が残された。
インドネシアにあった残余機は、元日本兵の指導によってインドネシア軍が運用した。そのうちの1機がインドネシア空軍中央博物館に展示され、一般公開されている(偵察機型)。シンガポールのセントーサ島にはエンジンの残骸がある。内地では1944年に立川製作所で作られた九九式襲撃機のプロペラが、航空自衛隊岐阜基地の正門前から発掘された。現在は名古屋航空宇宙システム製作所の小牧南工場に展示。
支那戦線に残された機体は、共産党軍に接収された。第二次国共内戦中、山奥に隠れていた関東軍第二航空軍独立第102教育飛行隊300名は国民党軍に降伏しようとしたが、誤って共産党軍に投降してしまう。共産党軍から飛行教育を強く要望され、隊員の安全を条件に引き受けた。1946年3月1日、東北民主連軍航空学校が開校。使用された練習機は各地で接収された日本機で、その中には九九式襲撃機の姿もあった。
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