九条政基(1445~1516)とは、15世紀から16世紀にかけて活動し、戦国時代初期の動乱の時期を生き抜いた公家である。
概要
五摂家のひとつ九条家14代当主。父は九条満家。九条家は、父・満家は政基が幼いころに亡くなったため、異母兄、もしくは年上の甥(ここら辺記録が混乱している)九条政忠が跡を継いでいた。しかし政忠は、満家との政基に跡を継がせるという約定を次第に無視していったようで、摂家であるにもかかわらず政基の元服は15歳と相当遅くに行われた。
1460年に政基は上階し権中納言になり、その後も出世を重ねて九条政忠と競合していく。結局この件は政忠が一度は折れて隠居し、1466年に政基は右大臣に昇った。
そして九条政基は1477年に左大臣になり、1478年に従一位関白となる。ただし、その後九条政忠が隠居の身でありながら関白位を望んで工作を行い、1487年前代未聞の関白となった。これは足利義政の強い推挙によるものらしく、この一代限りとしている。
1496年、九条政基は、息子の九条尚経とともに家司の唐橋在数を手打ちにするという事件を起こした。この結果、父子ともに勅勘を蒙って出仕停止にされ、1498年に勅免されたものの、これを機に剃髪した。その後政基は1501年から1504年まで和泉国日根野荘に下り、荘園支配に従事していった。この時の日記『政基公旅引付』は、戦国時代という動乱の中、領主として活動した公家の様子をおさめた記録として貴重なものであり、村々の争いやその調停に駆り出される政基の様子がありありと描写されている。
しかし、一条教房と異なり、そのまま在地化せず京に戻り、そのまま亡くなった。なお、細川政元の養子である細川澄之は彼の息子である。
関連項目
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