二上達也(ふたかみ たつや)とは、将棋棋士である。1932年1月2日生まれ。2016年11月1日没。北海道函館市出身。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号57。
タイトル戦登場26回、獲得5期(棋聖4期、王将1期)。順位戦A級通算27期、竜王戦1組通算3期。昭和を代表する棋士のひとりである。1989年から2002年まで将棋連盟会長を務めた。
若手のころは「函館の天才」や「北海の美剣士」と呼ばれた。弟子は10人以上いたが、プロになれたのは瀬戸博晴、羽生善治だけである。瀬戸はプロでは華々しい活躍はできなかった(とはいえ、棋聖戦本戦出場経験や予選で弟弟子の羽生を破ったこともある)が、羽生の兄弟子として面倒見が良かった。また、プロ級の卓球の腕前で知られ、自宅に卓球台がある(テレビ番組、「建もの探訪」に自宅が登場したことも)。
棋歴
17歳のときに北海道のアマチュア大会で準優勝して、1950年4月に奨励会に二段で入会。同年11月に四段昇段(プロデビュー)し、プロ入り後は5年でA級八段となる。奨励会入門から八段まで6年間というのは、今も破られていない最短記録である。
当時は大山康晴の全盛期であり、二上もタイトル戦で20回戦っているが、2勝18敗と苦戦した。しかし、大山の五冠独占を2回崩している。1980年の棋聖戦で米長邦雄を破り、14年ぶりにタイトル獲得。中原誠、加藤一二三相手に連続防衛して3連覇を達成した。
1989年に弟子の羽生善治に破れたのをきっかけに、1990年に引退。60を迎える前で、まだB1級という第一線にいる中での引退劇であった。それ以前に三度目のA級陥落を経験しており、「そろそろ潮時か」とは感じていたという。通算856勝752敗。
引退後も棋界に貢献し、1989年から2002年まで、7期14年にわたって日本将棋連盟会長を務め、女流棋界の活性化や海外への普及を行なった。
棋風・人物
守りを多少犠牲にしてでも、スピードを活かして相手を攻略する激しい攻め将棋を好んだ。その棋風を象徴するかのように、終盤の戦術に長けた棋士であり、そのスピーディーな寄せと鮮やかな詰めに定評があった。それゆえ、守り重視で、難攻不落の大山には分が悪かったという。しかし、本人曰く大山が振り飛車党であるために、対振り飛車に対する免疫ができたとのこと。また、銀使いの名手でもあり、相掛かりのガッチャン銀戦法には二上定跡という戦法名を残している。
棋界きってのクリーンな棋士としても知られ、戦前生まれの棋士に多かった盤外戦術を一切行なわなかったことでも知られる。
塚田正夫や内藤國雄らと並ぶ、プロ棋士有数の詰将棋愛好家でもあり、作品は優に1万点を超える。『将棋魔法陣』という専門家向けのマニアックなものから、実践向けの易しい問題まで幅広い棋風。スポーツ新聞でも15年間掲載を続けていたことから、知名度も高く、その明解かつ爽快な作風は、今も根強いファンが多い。
また、顔立ちだけでなく美声でも知られ、マイクを持ったら離さないほどのカラオケ好き。それゆえ「マイク二上」の綽名も持っていた。
関連動画
関連項目
外部リンク
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