二本松義継(にほんまつ・よしつぐ 1552 ~ 1585)とは、陸奥の戦国大名である。二本松畠山氏9代当主。
概要
伊達政宗の引き立て役というイメージが強い戦国大名二本松氏当主。政宗の積極拡大策に巻き込まれて所領をほとんど没収されてしまい、起死回生とばかりに伊達輝宗を拉致するが、逃走中に人質の輝宗もろとも銃弾に斃れた。
生涯
ここまでの二本松畠山氏
元々は畠山宗家であり、南北朝時代に畠山高国が奥州管領に任じられて遠征するも敗れて没落、気がついたら二本松周辺を治めるただの一国人と化してしまっていた典型的な没落貴族、それが二本松氏。
父の代では蘆名氏(+伊達)と田村氏(+相馬)に挟まれる形になっており、両者の対立の中でひたすら生き残りに奔走していた。主に田村方に属していたが、1574年に伊達輝宗に降伏して蘆名方に移る。おそらくこの頃に父は隠居となり、義継が家督を継いだと思われる。(義国は1580年没)
波乱の前兆
同時期、小浜城主で田村氏に属していた大内定綱が伊達へと鞍替えした。定綱は近隣の二本松氏とも誼を結ぶべく自分の娘を二本松義継の子(のちの二本松義綱)に輿入れさせるなど、地盤固めに余念が無かった。対田村の目的が一致しているため、大内・二本松・蘆名は結びつきを強める必要があったのだ。
が、義継にとってはこれが悲劇の始まりとなる。
1584年、伊達輝宗が隠居して伊達政宗が家督を継ぐと、政宗は伊達家の方針を大きく転換した。蘆名氏とは手を切り、逆に妻の実家である田村氏と手を組んだのである。そして田村を裏切って独立した大内定綱は伊達・田村連合軍に攻め滅ぼされてしまった。
先述の通り二本松氏と大内氏は婚姻関係にあった為、義継は巻き込まれる形で政宗から攻撃されてしまう。もともと対田村で蘆名に近い立場だったので必然ともいえるが。
圧倒的な戦力差の前に降伏を願った義継だったが、政宗の出した条件はあまりにも過酷であった。二本松以外の所領はほとんどが没収され、完全に大名としての命脈が絶たれるレベルだった。戦国時代では珍しくないような気もするが、他家を従属関係におくことで勢力を拡大するのが基本だった奥羽においては衝撃的だったであろう。
困った義継は、旧来の穏健方針を持っているはずの隠居・伊達輝宗を頼る事にする。
粟之巣の変事
こうして輝宗や伊達成実が仲介役となるが、交渉はなかなかうまくいかずにいた[1]。憔悴していった義継は1585年10月8日、仲介への感謝を示すために輝宗のいる宮森城を訪れる。が、面会を終えて帰ろうとしたところで、見送りに来ていた輝宗を拉致し、二本松へと逃走した。
「ほっほっほっほっ。みごとな戦いぶりですね。でも、こうするとどうでしょう……」
とか思っていたのかは知らないが、輝宗を人質にする事で交渉を有利にしようという考えであったことは想像に難くない。しかし宮森城には伊達成実や留守政景も同席しており、彼らが兵を引き連れて義継を追い、阿武隈川近くの高田原で追いつかれてしまった。
そこへ駆けつけた政宗に対し、輝宗は「何を躊躇する! わし諸共義継を撃て!」と命じた事で、伊達軍の鉄砲一斉射を受けて義継は不名誉な死を遂げた。政宗の怒りは凄まじく、義継の遺体をメッタ斬りにして、そのバラバラ死体を今度は藤の蔓で繋ぎ合わせ、木に吊るして晒したという。なにそれこわい。
粟之巣の変事・余談
上記の通り輝宗が政宗に命じて父を撃つ、というのが最も有名だが諸説ある。追い詰められた義継が輝宗を殺害して、それを発端に射殺されたとする説。そもそも輝宗を巻き込むことまで政宗の謀略だったとする説。
ただ、実は伊達家の公式な記録としては輝宗の指示に従ったのは成実・政景たちであって、鷹狩に出かけていた政宗が到着したのは全てが終わってからだったらしい。まあなんにせよ、目論見の失敗した義継が伊達軍に撃ち殺された点は一切の揺らぎが無いのだが。
ドラマやゲームなどでは「(阿武隈川と思われる)河原や川の中で輝宗が人質に取られており、撃ち殺される」というシーンが印象的と思われるが、実際の現場は川から1km弱離れた原っぱだったりする(場所については粟ノ巣古戦場でググるべし)。だが1km先の阿武隈川を渡ってしまえば二本松城は目と鼻の先であった。
その後
義継と輝宗の死(主に後者)から伊達氏と佐竹氏など周辺勢力との関係は一気に悪化した。
二本松氏は息子・二本松義綱(国王丸)が跡を継いだが、直後から政宗の猛攻撃を受けた。これを救援する形で、佐竹義重率いる3万の大軍が反伊達を掲げて援軍に駆けつけ、人取橋の戦いが勃発する。圧倒的兵力差の前に伊達軍は半壊したが、色々あって佐竹軍は撤退していったため、政宗は危機を逃れている。
しばらくは義継の従兄弟・新城盛継の指揮で伊達軍相手に善戦したが、力尽きて降伏。二本松城を明け渡して会津の蘆名家へと亡命することとなり、戦国大名二本松氏は滅亡した。
後に蘆名家も滅亡したため一行は常陸の佐竹家へ逃れるが、そこで蘆名義広との諍いが原因で義綱は暗殺され、二本松氏の嫡流は絶えた。
この後、義継のもう一人の息子・二本松義孝は会津へと戻り、以降は上杉→蒲生→加藤と歴代の会津藩主に仕えた。畠山から二本松に正式に苗字を改めたのは彼の時である。子孫は水野氏に仕えた。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける二本松義継の能力一覧。
天翔記では「暗殺」を所持するなど、昔のシリーズでは(失敗に終わったとはいえ)人質事件を評価してか智謀の人という能力値だった。天下創世以降はイベントキャラに転落してしまう。創造で久しぶりに復活するも能力は一気に残念になった。
まあどうあれ、天翔記以来誘拐イベントは毎回必ず実装されており、殺される運命にあるのだが…。余談であるが、何故か信長の野望においてこの誘拐イベントは「人取橋の別離」という名称にされている。人取橋は関係ないのだが、いつまで経っても直る気配がない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 59 | 智謀 | 70 | 政治 | 51 | 野望 | 68 | ||||
天翔記 | 戦才 | 134(B) | 智才 | 150(A) | 政才 | 112(B) | 魅力 | 60 | 野望 | 68 | ||||
将星録 | 戦闘 | 54 | 智謀 | 77 | 政治 | 54 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 53 | 智謀 | 69 | 政治 | 52 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 53 | 智謀 | 60 | 政治 | 45 | 野望 | 75 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 62 | 政治 | 48 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 42 | 武勇 | 37 | 知略 | 30 | 政治 | 17 |
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関連項目
脚注
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