二見(ふたみ)とは、
である。
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3の概要
熱海型砲艦
熱海型砲艦は1927年度計画で建造が決定。前型の運用実績と現地調査で得た情報をもとに、勢多型を改良した新しい砲艦である。勢多型は大型化し、重量過多になりつつあったため熱海型は小型化に務めた。軍艦の改良型が小型化するケースは非常に珍しい。しかし長期の航海に耐えられるよう装備が後付けされ、結局大型化してしまった。
ちなみに今までの砲艦は航続距離が短く、支那で活動するには上海や武漢まで分解状態で運び、現地で組み立てるのが主流だった。熱海型は砲艦にしては航続距離に優れ、初めて分解せず本土から支那へ自力回航した砲艦となった。また砲艦は外交目的によく使用されるため、菊の御紋を艦首に付けて軍艦扱いされた。
機関は勢多型同様混燃缶が採用されたが、運用実績から重油を減らして石炭を増やしている。
戦歴
1929年6月25日、藤永田造船所にて起工。9月11日に二見と命名され、類別等級を二等砲艦に制定。11月20日に進水し、同月30日に擬装委員長として掘勇五郎少佐が着任。12月7日、造船所内に艤装員事務所を設置して事務を開始。1930年2月22日、大阪港外で試験を実施。そして2月28日に竣工。佐世保鎮守府に編入され、第一予備艦となった。3月4日、大阪港を出発して呉に回航され、自力で揚子江に到着した。
要目は排水量206トン、全長46.3m、全幅6.3m、喫水0.92m、出力1200馬力、速力16.7ノット、乗員77名。武装は28口径8cm砲1門、機関銃6丁。艦名の由来は三重県の二見湾から。
1933年6月14日、砲艦保津とともに上海から重慶に向かって揚子江を遡行中、上流の万県手前で突如操舵不能になる。水路図には載っていない暗礁に乗り上げて座礁してしまったのだ。7月8日に離礁し、引き返して上海で修理を受けた。1936年6月1日、類別等級の変更により砲艦となる。同時に軍艦から除かれ、艦首の菊の御紋が外された。1937年8月に第二次上海事変が勃発。僚艦とともに二見も出撃し、増援部隊の上海上陸を支援。長江川を遡行して中国国民党軍を攻撃した。10月20日、支那事変勃発の長期化により第3艦隊第11戦隊に転属。これまでに何度か対空兵装と通信機能が強化されている。
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。上海を拠点に四方八方へ動き回り、支那派遣軍の作戦を支援。1943年1月7日、大通下流8海里で座礁した南需船第43号の救援を行う。7月6日午前9時、蘄春(きしゅう)県の水道右岸に塹壕を築く国民党軍を発見し、砲撃。約1時間後に陸戦隊を揚陸して制圧した。1944年10月10日、支那方面艦隊揚子江方面特別根拠地隊第23砲艦隊に転属。上海で入渠整備を受ける。11月28日、砲艦隅田から重油の補給を受ける。
戦況が悪化してくると後方の上海にも敵艦載機が飛来。1944年12月7日15時、九江にP-51戦闘機4機が出現し、初の対空戦闘を行っている。そこから毎日のように敵機が襲撃し、苦闘を強いられている。1945年5月24日、上海への回航命令が下り、25mm単装機銃2名と機銃手6名を供出。武漢に派遣された。5月29日には擬装と機関を持っていかれ、航行不能と化す。そしてこの状態のまま8月15日の終戦を迎えた。9月30日に除籍。
終戦を迎えても二見の戦いは終わらなかった。今度は中国国民党に接収され、永安(ユン・アン)と改名。第二次国共内戦に投入された。1949年11月30日、朔江で中国共産党軍と交戦して投降。そのまま拿捕され、珠江と改名された。その後、1960年代まで運用されて退役・解体された。
関連項目
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