五式十五糎高射砲とは、大東亜戦争末期に日本陸軍が開発した世界最大の高射砲である。
概要
大東亜戦争も佳境に入った1943年、帝國陸軍はアメリカ軍が未知の巨大爆撃機(B-29)を開発しているとの情報を得る。その爆撃機は遥か1万m上空を飛行して悠々と日本本土を爆撃するだろうと考えられ、さっそくその迎撃方法が思案された。その最たる手段が新型戦闘機の開発であったが、いずれも頓挫や中止に見舞われ、結局既存機での迎撃を強いられた。また1943年に配備されつつあった新型の三式十二糎高射砲があったが三式は最大射高14000m。爆撃を阻止する為に、もっと手前で阻止する必要があるので、有効射高は8割と見積もると11200m。B-29重爆撃機を実用上昇限度はおよそ12000mであり、これは撃墜は可能だが迎撃するには余裕がない事が判明。この為、日本陸軍は新型高射砲を製作する事にし、1943年末より設計がスタート。これが五式十五糎高射砲の原型となる。
1944年4月、第一陸軍技術研究所は起案図を作成して大阪造兵廠に手渡し、大阪造兵廠が設計図を作成して日本製鋼所に手渡した。一番手間が掛かる砲身から開発に着手。少しでも工期を短縮するためか、12月下旬に三式十二糎を更に大型化する案が採択される。正確で強大な威力を求めた陸軍は国産化に成功したドイツのウルツブルグレーダーを投入。大阪陸軍造兵廠と日本製鋼所広島工場でそれぞれ開発が開始された。1945年2月に一号が東京・井の頭線久我山駅付近の対空陣地へ輸送。翌3月には二号も配備された。
資源が底を尽きそうになる中、海軍の協力や関係者の不断の努力により、1945年4月1日に五式十五糎高射砲の第一号が完成した。続いて二号も完成し、両方とも実弾発射試験に合格。無事制式採用された。運用は埼玉県大宮の高射砲第百十二連隊第一大隊第一中隊が担当、精鋭を集めた選りすぐりの部隊だった。陸軍では十二門の製造を考えており、既に三号の製作も開始されていたが、大阪大空襲により工場ごと焼失。
五式十五糎高射砲が配備されたのは東京大空襲の後で、なかなか実弾を発射する機会に恵まれなかった。7月末にウルツブルグレーダーの配線工事を終えた。終戦間近の1945年8月2日、川崎を爆撃して上空1万1000mを飛行するB-29の編隊5機に向けて最初で最後の実弾発射。砲撃時の衝撃は凄まじく、半径600m以内では撃つたびに家が振動したという。弾丸の炸裂による黒煙は、後楽園の高射第一師団からも視認できた。2門合わせて44発を発射し、2機が大破。かろうじて硫黄島に辿り着いたものの不時着(撃墜したとする資料もある)。アメリカ軍に久我山付近を飛行禁止にさせるほど驚かせたが、間もなく日本が降伏した事で役目は終わった。
終戦後、1門はその場で輪切りにされ処分。残った日本製鋼所製はアメリカ軍に接収され、空母の甲板に載せて本国で性能調査を受ける…はずだったが、途中で嵐に遭ってやむなく海中投棄している。対空砲陣地も今では無くなっており、当時を偲ぶ物は何も残っていない。
性能
目標捕捉から発射まで全て地下で操作可能で、射程距離は最大1万9000m。長大な射程距離を獲得するため、砲身は9mに及んだ。弾丸は90kgもあり、破裂すると半径30m以内の航空機を撃墜する。弾薬庫から揚弾機に載せるまでは人力(2名)で運搬しなければならなかった。しかし五式十五糎高射砲には自動装填装置が組み込まれており、一度揚弾機に載せてしまえば後はレバー操作で発射体勢に持っていく事が出来た。このため毎分6~8発という驚異的な装填速度を誇った。照準は電力と水圧を使った半自動式だが、万が一に備えて人力での操作も可能だった。全周射撃が可能で、仰角は0~85度。砲身は偽装網で覆われている。ちなみに装填機構自体は三式一二糎高射砲から引き継いでいるが、三式一二糎高射砲の装填機構は元を辿ると海軍の四十口径八九式十二糎七高角砲が元となっている。
要員は砲手6名、観測手5名、算定具手定員8名。砲撃する時は、耳栓をして口を開けておかないと鼓膜が破れた。
関連項目
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