井脇ノブ子とは、日本の教育者、政治家。元衆議院議員(1期)である。
概要
人物像 一人称は「ワシ(儂)」。座右の銘は「人間やる気だ、ガッツだ、根性だ!」。キャッチフレーズは「やる気、元気、井脇!」。
かつてはスカートやパンプスを身につけ女装していたが婚約を破棄して以来スカートは履かなくなった。現在はピンクのスーツでお馴染みであり、クローゼット の中には40着以上並んでいる。路上で記者になぜピンクなのか問われた際には日本の国花であるサクラの色をイメージしていると答えた。テレビ番組に出演し て漁港で撮影する際にはピンクの長靴を身に付けるなどピンクがトレードマークとなっている。
2009年9月15日、ニコニコ生放送の『生中』に生出演。2ちゃんねるなどから来た彼女のファンなどによってコメント欄はカオスな言葉で埋め尽くされ、「ガハハ」や「アワビ」、さらには自身のキャッチフレーズである「やる気」「元気」などの言葉が運営によりNGワード登録に登録されたが、彼女の出演によって番組が最高に盛り上がった。
また、ダイノジのノブとは親戚である。
幼少時代、家庭は非常に貧しく、また小学校時代には実兄に殺人の容疑がかかり(後述)、それを原因に苛めにあった。「差別の無い社会を」という母の言葉を機に教育者を志すことを決意した。
選挙活動を始めた当初は資金が無く、ポスターがガリ版刷りであった。
学生時代は競泳選手として活躍。 国民体育大会への出場経験も持つ。
28歳の時に婚約をしたが、結婚には至らなかった。ちなみにその婚約者はその後違う女性と結婚し、今は現役国会議員であると語った。
2014年11月政界を引退。小選挙区の自民党公認は、参議院を辞職した佐藤ゆかりとなった。
来歴
幼少期
漁師の9人兄妹の末っ子として、大分県南海部郡鶴見町(現佐伯市)で誕生。 性別は女であるものの男勝りな性格から金太郎というあだ名が付けられた。 家は決して裕福ではなく、海でアワビやサザエを採取して市場で売り家計を助けていた。 毎日朝4時から海に潜り、水泳の上達はその賜物である。 小学校のときには厚生大臣になるという夢を持つ。
学生時代
1964年、佐伯学園佐伯高等学校(現・日本文理大学附属高校)を卒業し別府大学文学部史学科へ進む。国体水泳選手出場、東京オリンピック水泳女子マネージャー、拓殖大学・日本女子大学・東洋大学水泳部コーチ、井脇珠算教室開設、井脇スイミングクラブ創立(校長兼コーチ)と華々しい学生時代を過ごす。
当時は学園紛争の頃で、大分大学の衛藤晟一等とともに大分大学学生協議会、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成、「学園正常化」を掲げ、全学連と対峙した。別府大学自治会会長を務め、後に全国学協副委員長にも就任。
第二時安保の際の学生運動では3万6000人の親分として議員会館を取り囲んだ。その結果議員会館と国会議事堂が地下トンネルでつながることとなる。
1968年、別府大学史学科卒業。政治家を志し大学院へ進む。同年9月、総理府主催第2回青年の船に団員として参加。
大学の総長であった中曽根康弘元総理の秘書となったのも大学院生の時期である。
教育者として
昭和46年7月 第1回少年の船実施(その後財団法人少年の船協会を設立し、理事長・団長を兼任。)
昭和55年12月 第1回難民キャンプボランティア活動隊実施(カンボジア・ラオス・ベトナム・インド・チベット難民キャンプのボランティア活動隊の団長として活躍)
昭和56年4月 国際ボランティア協会会長に就任
昭和60年4月 学校法人国際開洋学園を設立、理事長に就任、国際開洋第一高等学校学校長に就任
昭和62年7月 国際開洋カナダハイスクールを創立、理事長・学校長を兼任
平成元年6月 カナダ・アルバーター州にて第1回ジャパンフェスティバルを開催(現在まで13回実施)
平成2年4月 国際開洋第二高等学校(和歌山)を設立、学校長就任日本カナダ文化交流協会会長に就任
平成4年4月 日本の観光を考える百人委員会委員就任、財団法人国民の祝日を祝う会理事に就任、日中婦人学会会長に就任
平成4年12月 タイのワットサケオ身障者施設内に井脇ノブ子記念病院、井脇教育館(小学校)を建設
平成12年1月 沖縄平和記念賞受賞
平成13年2月 中日友好国際賞受賞・日本モンゴル教育賞受賞
平成13年4月 第68回日中友好少年の船実施(天津・北京6泊7日)
兄の殺人容疑事件
ノブ子が小学4年生のとき、清水港の突堤づくりの仕事で出稼ぎに行っていた兄の実雄が殺人容疑で逮捕されてしまう。給料日に仲間2、3人と遊びに行く途中で誰かがケンカをしている場面に遭遇し、それを制止しようとしたところ急所を蹴られて気絶し、仲間たちは逃走。この間何者かに返り血の付いた服を着せられ、実雄が気がついたときは既に留置所の中にいたという。
5年後(ノブ子が中学2年生のとき)に真犯人が警察に出頭し、実雄の無実が証明された。
選挙
1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に無所属で旧大分1区から出馬、落選。得票数は8,288票。
1995年7月、第17回参議院議員通常選挙和歌山選挙区に新進党より出馬、落選。得票数は140,570票。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙静岡3区、新進党より出馬、落選。得票数は70415票。
1998年7月、第18回参議院議員通常選挙静岡選挙区、自由党より出馬、落選。得票数は132,328票。
2000年6月、第42回衆議院議員総選挙比例東海ブロック、自由党より比例単独4位で出馬、落選。
2001年7月、第19回参議院議員通常選挙比例区、自由党より出馬、落選。得票数は13,994票。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙大阪11区、自由民主党より出馬、落選。得票数は98,613票。比例近畿ブロックで復活当選。
2009年8月、第45回衆議院議員総選挙大阪11区、自由民主党より出馬、落選。得票数は70,309票。
2012年12月、第46回衆議院議員総選挙大阪11区、自由民主党より出馬、落選。得票数は51,110票。
政界引退後
自由民主党の派閥である志帥会(二階派)に特別参与として在籍している他、様々なうさんくさい団体にて役職に就いている。
社団法人世界孔子協会 会長
陶山昭子博愛基金会 理事長
一般社団法人 新美術協会 特別顧問
The FUNDプロジェクト 顧問
NGO法人 アジア太平洋平和基金会 副理事長
ドクターキッドJP環境学博士事務所 顧問
少年の船での元教え子やスタッフ、開洋学園の元生徒など支持者が集まるパーティーを不定期で開催している他、同じサトミビル住民でもある橋本久美(ハシクミ)など他の政治家の選挙活動時に応援演説を行うなどの活動も行っている。
関連動画
関連生放送
関連リンク
関連項目
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