『人間不平等起源論』とはジャン=ジャック・ルソーが1753年に書いた文明批判の書である。
概要
本書のテーマはタイトルにもある通り、「人間社会における不平等はどのように生まれたか?」にある。ルソーは現代社会における政治的不平等を不正とみなし、その不正がいかにして生まれたかを人類史の原始にまで遡って解明する。
自然状態の人間
ルソーは不平等の起源をさぐるために、まずもっとも自然な状態にある人間を考える。いわば原始時代の人間だ。人間からあらゆる超自然的な観念や、人工的な能力を取り去ったときにあとに残るのは一匹の動物としての人間である。この動物は弱々しいけれど、他の動物よりも有利に自分たちを組織していた。
そしてそれゆえに彼らの欲求はシンプルで、それを満たすことも簡単であった。お腹が減ったら飯をたべ、疲れたら寝る。彼らの欲望はただ命を伸ばすだけの自己保存の欲求であった。彼らは本質的に動物なのだ。とはいえいつの時代も、ただ生きることが難しい。彼らは常に過酷な自然や病気に脅かされて、生き残るのは身体の強い者だけであった。
しかしこのような未開人でも他のイヌネコのような動物と大きく違うところがある。それは彼らが自由な意思をもっていることにある。動物はただ自然に従って自分の行動を決めるのに対して、未開人は人間であるがゆえに自由な意思に基づいて行動をとることができる。人間の持つ自由の意識。これこそが他の動物にはない、人間独自の魂の精神性なのである。
また、人間は自分のダメなところを改め、自分を完成する能力をもっている。しかし、この能力こそがくせ者なのだ。人間はこの能力をもっているがゆえに堕落するが、とりあえずこの未開の段階ではこの性質はまだ可能性でしかない。以上のように未開人は自然状態の中で生きるために必要なものはすべて本能の中にもっているのだ。
また自然状態においては人間は善人でも悪人でもない。自然状態では人間はなんの道徳的関係ももっていないし、また共通の義務ももっていないからである。しかし未開人の中にも「自己保存の衝動」と「憐れみ」という2つの感情がある。後者の「憐れみ」は道徳の基礎をなすものである。この「憐れみ」は自然の感情であって、人間が自己愛のための活動から離れ、他人との相互扶助や相互補助をしようとするためのものである。そしてまた「憐れみ」の感情は社会状態における法律や徳の代わりをなすものなのだ。
自然状態で生きる未開人には産業もなく言葉もなかったが、戦争や侵略も、不平等もなく、平和で幸福な毎日を送っていた。
不平等の起源と発展
では不平等はどうやって生まれるのか。ルソーは不平等には2種類存在するという。体力や精神力の差異から生まれる自然的不平等と、社会的な要素から生まれる政治的不平等である。前者は自然から生まれたものであるので、人間にはどうしようもない。そこで問題になるのが後者である。
この政治的不平等の起源を解き明かすのが本書の課題である。ルソーはそのきっかけは私たち人類の能力の発展と、自然の精神の進歩であったという。そこから生まれた格差が、所有権と法律によって固定化され、正当化される。それこそがルソーの考える人間社会の不平等の起源と発展であった。これを順に見ていこう。
自然状態において、人間は自己保存のために自然と闘争する必要性を学んだ。そして、それによって人間精神の数々の関係をあらわす観念が生まれたのである。これが人間の精神発達の第一歩であった。それらの観念がまた人間同士で、互いの利益のための行動のルールを作り出した。
こうした人間の精神の啓発につれて、産業も改良されていく。原始の産業といえばまず家屋の建築である。これによって人間は家族という概念を持つようになった。こうした人間同士の結合から最初の心情の発達が生まれた。またこの家族というものは私有財産の起源でもあった。さらには家族はやがて政治社会に繋がっていく重要な源泉となった。
人間が社会を持ち、その精神と心情が発達するにつれて、人間は徐々に物事を価値で評価するようになっていく。価値評価のはじまりは、グループの中でダンスや歌が上手い人が尊敬を集めることであった。ここに自尊心という心情が人間に芽生えた。しかしそれは一方で不平等の第一歩であり、悪徳の始まりであった。この自尊心から虚栄と軽蔑が、不名誉と羨望が生み出された。
とはいえ、自給自足の技術で暮らす原始の状態では人間はいまだ自由であり、幸福なままであった。私有財産を確立し真の不平等が生まれたのは、人が生きるための労働において大勢の他人の手を借りるようになってからである。そしてそれを本格的に促進したのは冶金と農業の発達であった。これが私有財産の観念を人々の間に根付かせ、社会の中に分業を生み出したのである。
こうして人間の価値は単に財産の量だけでなく、その特殊な才能、長所などによっても見られるようになり、そのため、人間は他人から尊敬されるにたる人にならなければいけないという感情を持つようになる。ここから見せびらかしと人を騙す詐術が生まれ、それにともなってあらゆる悪が社会にでてきたのである。
人間の最初の所有からは競争と対抗が発生する。それは利益の対立であり、他人を犠牲にしても利益を得たいという隠された欲望である。人間は貪欲的になり、野心的になり、また邪悪なものになった。こうして人間社会に戦争状態が生まれた。
国家の誕生
こうした戦争状態を緩和し、制御することは政治の問題である。そもそも財産というものは正当に得られたものではなく、おおよそが略奪によって築き上げられたものである。そうした財産を戦争状態の中で守るために、財産所有者が考えたことは、何らかの結社(国家)をつくることであった。彼らは人々に向けてこういうのである。「互いに争うのを止めよう。法を作りそれに従おう。そして住民を守り、外敵を撃退し、私たちを結びつける権力を統一しよう」
こうして社会と法律というものが生まれた。しかしこれは人間の自然の自由を永久に破壊し、そして私有と不平等の法を固定化させるものに他ならなかった。これにより、全人類は、少数の富裕層の野心のために労働と隷属と悲惨にさらされることとなった。このようにして生まれた政府は、財産を持たないものが持つものに騙されて契約して生まれた権力である。この契約は富者の利己心が支配していて、不正なものである。
原始の国家は君主制であれ、貴族制であれ、民主制であれ、その為政者はすべて選挙で選ばれた人物であった。その後、為政者に富が問題でなくなり、その才覚などが重要視されてくると、選挙のプロセスが面倒になり、やがて政治の世襲化が行われるようになる。つまり政治の不平等とはまず富者と貧者の区別を、第二に強者と弱者の区別を、第三に主人と奴隷の区別を生み出した。
この三番目の状態は政府が完全に解体されなかったり、合法的な基礎の上に再建されない限りずっと続くものである。またこの第三段階においては、専制政治が共和国の廃墟の上にたつ怪物としてあらわれる。ここでは人民は主張も法律ももたず、ただ彼らの上には実力を持つ僭主だけが存在する。
そしてこのとき以来、風俗や徳は問題ではなくなってしまう。なぜならば、道徳に何の希望も持たない専制政治が支配するところでは、専制は他の主人の存在を許さないからである。僭主がなにか命令を下せば、議論が起きることもなく奴隷たちは盲目的にそれに従う。それが唯一の徳なのだ。そして、これこそが不平等の最終地点である。
しかしこの段階ではすべての人間はふたたび平等を取り戻す。彼らは何者でもなく、臣民は主人の意思以外に法を持たず、また主人はその情念以外には何の規則も持たない。ここでは善の観念と正義の原理は自然状態と同じように消え失せてしまっている。すべては主人の法だけに従うことになり、一つの新しい自然状態が生まれる。だが、そんなものは度を過ぎた腐敗から生まれたものであり、純粋な自然状態ではない。
関連項目
- 『人と思想 ルソー』中里良二
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