「仁木義治」(にき・よしはる 1565 ~ 1653)とは、阿波守護細川氏に仕えて勝瑞城下に住み、落城後に隠棲していたところを蜂須賀家政に招かれて商人として活動した「昔阿波物語」の著者。
阿波仁木氏
仁木氏(にっきし/にきし)は元を辿れば足利氏の分流にあたる家なのだが、他の分家・庶流と比べるといまいちパッとしない。伊賀守護を務めた家もあるが、阿波の仁木氏は伊勢を領地としていた家で、徳川四天王・榊原康政で有名な榊原氏もここから分かれた流れ。戦国時代になると京都から阿波に移り住み、上大野城や英城(はなぶさじょう)を拠点としていた。
1552年、阿波守護の細川持隆が三好四兄弟の三好実休・十河一存によって勝瑞城下の見性寺にて暗殺される事件が発生。三好氏が細川氏を凌ぐ勢力を持つことに危惧した久米義広が翌1553年に挙兵すると、英城の仁木高将も立ち上がったが、三好実休によって鎮圧されて高将も戦死した。
上大野城の仁木伊賀守&仁木式部大輔は三好に属し生き延びていたが、1582年に長宗我部元親に攻め落とされた。
人物
仁木義治は英城の仁木高将に連なる人物と推測されるが、詳しい関係は不明。持隆に代わって息子の細川真之が擁立されると彼に仕え、四国一の文化都市と言われていた勝瑞城下に住んだ。
一大の巨人・三好長慶が死んで畿内の覇者・三好家が衰退すると、土佐より放たれた野の虎の姫若子・長宗我部元親の勢いの前に上大野城の仁木一族は滅亡し、勝瑞城も陥落する。これを機に仁木義治は隠棲した。
その後、豊臣秀吉より阿波一国を与えられた蜂須賀家政に招かれた仁木義治は、商人「呉服又五郎」として家政に仕え、紺屋司に任命され、新たに建設された徳島城の城下町繁栄に貢献した。のちに隠居して、三好家・十河家時代の出来事などを記した貴重な史料である「昔阿波物語」を著した。
「昔阿波物語」の著者ってだけで「信長の野望」に出れてたりするのかな?
※その他「仁木義治」の詳細はWikipediaの該当記事・・・がありませんでした。
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▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング四国編でワースト3位で登場。
※でも最下位の一条兼定の3倍の能力値だったりするので(合計:124)、単に武将数の少ない四国ゆえの順位と思われる。(他の地方ならワーストランク入りはしない程度の能力は持っている)
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 22 | 知略 | 8 | 政治 | 72 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 14 | 知略 | 9 | 政治 | 69 | 教養 | 72 | ||||||
革新 | 統率 | 14 | 武勇 | 8 | 知略 | 32 | 政治 | 70 | ||||||
天道 | 統率 | 14 | 武勇 | 8 | 知略 | 32 | 政治 | 70 | ||||||
創造 | 統率 | 59 | 武勇 | 25 | 知略 | 38 | 政治 | 68 |
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関連項目
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