概要
今村均(1886~1968)は大日本帝国陸軍の軍人(最終階級:大将)である。高い統率力と鋭い戦略眼を兼ね備え、戦中・戦後の高潔な振舞いと相まって名将の評が高い。
経歴
太平洋戦争まで
宮城県仙台市生。少年期を新潟県で過ごす。若年より英才の誉れが高かったが、19歳のときに父を亡くし大学進学の夢を諦めざるを得ない状況となった。そんな折に天覧閲兵式を観た彼は、明治帝の姿を一目見ようと集まった大群衆の姿に感銘を受け、陸軍士官学校から職業軍人の道を進むことを決意したのである。
陸軍士官学校でも優秀な成績を収め、中尉昇進後には陸軍大学校へ進学、首席卒業者として恩賜の軍刀を拝領する。その後も順調に昇進を重ねて、日中戦争時は中国大陸で活動する第21軍指揮下の第5師団長(中将)を勤める。援蒋ルート遮断を目的とした南寧作戦において南寧攻略後の防衛戦を指揮、蒋介石直轄の総勢25個師団による反攻を耐え抜き、第21軍の逆襲に繋げることに成功した。
南方作戦
1941年11月には新設の第16軍司令に任命。対米戦において蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアあたり)攻略を目的として編成された軍であり、開戦後は最重要目標とされていたボルネオ油田地帯のほぼ無傷での確保を成功させた。その後の軍政統治期においては現地住民の生活に配慮した政策を採り、シンガポール等の他軍政地域で敷かれた過酷な収奪政策と一線を画した統治を行った。これにより住民の宣撫に大きな成果をあげている。
しかしその軍政方針ははっきり言って中央からのウケは悪く、一部の理解者を除いてフルボッコに言われてたとか何とか。
ラバウル
1942年11月、ソロモン・ニューギニア戦線全体を統括する第8方面軍司令としてラバウルに着任。連合国軍の反攻に対し、海軍ラバウル防衛部隊(指揮官:草鹿任一)と協力して抵抗しラバウルの徹底した要塞化・自給自足化を推し進める。飛び石作戦によるラバウルの孤立化・自滅をもくろんだ連合国軍の期待に反し、ラバウルは終戦まで日本軍の基地として保持され続けた。
終戦、そして戦後
敗戦国の将軍は勝者による復讐裁判にかけられるのが世の常。今村も例外ではなく、第16軍司令として裁かれるオランダ軍裁判では無罪となったものの、第8方面軍司令としてのオーストラリア軍裁判では禁固10年が言い渡される。巣鴨プリズンでの服役が決まった今村だったが、自分だけ安全な祖国で服役するわけにはいかないと多くの日本軍将兵が収容されているマヌス島(現:パプアニューギニア領)の監獄での服役を妻を通じてマッカーサーに直訴。その望み通り、残りの服役期間を敵地の監獄で過ごすこととなった。
刑期満了後、自宅の敷地の片隅に建てた謹慎小屋にこもって回顧録を執筆。その印税でかつての部下やその遺族たちを支援することに残る生涯を費やした。
エピソード
・幼少時より夜尿症とそれに伴う睡眠不足に悩まされており、陸軍士官学校でも講義中に居眠りしてしまうことが多発していた。鷹の爪を噛んだり小刀で自身を刺しながらなんとか目を覚まそうとするもなかなかうまくいかなかったが、教官たちも「おそらく眠りたくて寝ているわけではあるまい」として特に咎めなかったという。ちなみにその状態でも講義内容は完璧に把握していたとか。この居眠りの件は陸軍大学校側にも伝わっており、やはり居眠りは治らなかったもののあまり厳しく注意されることもなかったという。実際首席卒業なんだから仕方ない。
・蘭印作戦の緒戦、バタビア沖海戦において重巡「最上」の魚雷誤射で乗っていた輸送船が撃沈されてしまい、あやうく死にかけた上に3時間重油まみれで泳ぎ続ける災難にあう。救助後、謝罪にやってきた海軍代表に対し海軍の名誉のためにと誤射の事実を隠蔽することを提案したという。
・蘭印攻略後に政治犯として投獄されていたスカルノを解放し協力した。日本の軍政と矛盾しないかたちで民族運動を支援する意図があったと思われる。八紘一宇の理念の実現を彼なりに目指したのではないだろうか。
・山本五十六とは佐官時代からの博打仲間で、毎週末に持ち回りで自宅に招きあいポーカーにハマり倒していたとか。今村のラバウル着任によって旧友と再会することになりお互い非常に喜んだが、間もなく山本は戦死することとなる。
・そのラバウル海軍指揮官の草鹿任一は剛直を絵に描いたような人物であり、温厚で知られた今村もさすがにキレて会議の席上で怒鳴り合いになったことも数知れず。しかし二人とも戦後は旧部下を庇う行動に徹して晩年を過ごしているあたり、似た者同士のいいコンビだったのかもしれない。事実ラバウルは陥ちなかったのだから。
・ラバウルに従軍した一兵卒・武良茂は一度前線視察に来た今村に声をかけられたことがあり、後年「私の会った中で一番温かさを感じる人だった」と回想していた。後の妖怪漫画家・水木しげるである。
・陸軍教育総監部本部長時代に「戦陣訓」の起草に関わっており、「生きて虜囚の辱めを受けず」が彼のチェックの後に追加されたことは終生の悔いとなった。
・司馬遼太郎の「乃木無能論」に反論する文を読売新聞に寄稿したことがある。
・国鉄スワローズ(現:ヤクルトスワローズ)が本拠地を神宮球場にしようとした際に反対派に担ぎ出されたことがある。建設・拡張に学生野球界が多大な協力をしてきた神宮球場をプロ野球の本拠地とすることで学生野球側が追い出されるのではないかという大騒動に、隠棲していた今村が引っ張り出された構図である。ちなみに現在でも神宮球場の最優先使用権者は学生野球で、スワローズは学生野球がないときだけ間借りする格好である。
関連動画
関連静画
関連コミュニティ
関連項目
- 6
- 0pt