伊東甲子太郎とは新選組参謀、御陵衛士である。
概要
天保6年(1835年)、常陸国志筑藩士・鈴木専右衛門の家に生まれる。旧姓鈴木。通称大蔵、摂津。諱は武明。実弟に鈴木三樹三郎がいる。
家督相続後に父の不祥事により閉門。水戸で神道無念流や後期水戸学を学ぶ。
安政6年(1859年)頃江戸に出て北辰一刀流の伊東精一に学びその没後その娘と結婚し伊東に改姓。道場を継いだ。
元治元年(1864年)、藤堂平助に誘われ、鈴木三樹三郎らと上京。新選組に入隊。甲子の年にちなんで甲子太郎と改名した。
慶応元年(1865年)、参謀に就任。11月の永井尚志による長州尋問使に近藤勇らと同行。翌慶応2年(1866年)1月の尋問使にも同行した。この時伊東は広島で諸藩士と幕府の悪政について語り合い、滞在50日に及んだと同志である篠原泰之進の記録にあるが、後年に書かれた記録のため真偽不明。
同年12月の孝明天皇崩御に伴い、伊東は山陵衛士への転身を望んだ。翌慶応3年(1867年)の九州旅行後、帰京すると篠原ら同志の活動によって御陵衛士の拝命が決まっており、3月に新選組から分離した。
新選組から分離後の伊東は何度か朝廷に建白書を提出している。建白書の中で伊東は、長州への寛典論の他、国民皆兵・五畿内の朝廷による掌握・富国強兵といった内容のいわゆる「大開国論」を展開した。
11月18日、近藤に酒宴に招かれた伊東はその帰り道、油小路七条下ルにて新選組によって暗殺された。享年33。永倉新八の『浪士文久報国記事』によると殺害したのは大石鍬次郎・横倉甚五郎・宮川信吉・岸嶋芳太郎の4人とされる。
新選組を題材とする作品では悪役・裏切り者として描かれる場合が多い。
関連項目
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