伊賀光宗(1178~1257)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
概要
伊賀氏は秀郷流藤原氏の一流で、伊賀光宗は藤原朝光(伊賀朝光)を父、二階堂行政の娘を母として生まれた次男である。兄は伊賀光季、妹は北条義時の後妻で北条政村、北条実泰の母である伊賀氏であった。
北条氏の縁戚関係によって早くから重用され、源実朝殺害の直後、兄の伊賀光季は大江親広とともに京都守護の座に就く。一方光宗も1213年に和田合戦の勲功として甲斐国岩間を拝領し、侍所所司を経て1219年に政所執事となったのである。
承久の乱で伊賀光季が後鳥羽院方に殺されたものの、幕府、および伊賀氏は乱後の混乱を何とか乗り切ろうとしていた。しかしそこで起きたのが1224年の北条義時の急死である。この時伊賀光宗、および伊賀氏は陰謀を図った。まず伊賀氏の娘婿で源頼朝の甥である公家・一条実雅をまだ幼い藤原頼経(九条頼経)に代わって将軍位につける。そして北条政村を執権につけて外戚として幕府の実権を握ろうとしたのだ。
この伊賀氏の変に対して北条政子は北条泰時を執権につけるために先手を打った。幕内の最大勢力である三浦義村を説得し、味方につけたのである。こうして伊賀光宗は北条政村の烏帽子親である義村の抱き込みに失敗し、政所執事を解任されて所領を没収され、信濃国へと配流された。
しかし北条政村、北条実泰はこの後も何の問題もなく北条氏の有力一門、政村流、金沢流として続いていき、1225年には伊賀光宗も赦免されて帰参し評定衆に列するまでに復活したのである。ただ一条実雅は越前に配流され、1228年に変死している。
とはいえこの伊賀氏の変も異論があり、政権の完全掌握を目指す北条政子が伊賀氏に属した家督継承に介入し陰謀事件をでっちあげて伊賀氏を排除した、という見方を一部の学者が唱えている。
関連項目
- 0
- 0pt