伊達行朝(1291~1348?)とは、南北朝時代の武将である。
なお、伊達行宗は後世勝手につけられた名前で、史料上は確認できない。
概要
奥州伊達氏当主で、南朝方の代表的存在。とはいえソースはほとんど江戸時代の編纂史料のため、本当かどうかはわからない事績も多い。なお、最近彼の前後で通字が変わっているため、もしかして系統変わった?ともいわれるようになった。
『太平記』には楠木正成討伐の幕府軍に伊達入道という人物がいるが、これが誰かは不明。とりあえず伊達行朝の初出は、既に40台に差し掛かった建武政権である。陸奥将軍府に8人の式評定衆として結城宗広らと名を連ねている。というわけで、史料的な裏付けは全くないが、倒幕側に積極的に貢献したことが想定できる。
奥州ではこうした彼らによって北条氏残党討伐が行われたが、中先代の乱の後、足利尊氏が離反する。『太平記』によれば、北畠顕家の軍勢に伊達氏も与しており、いったんは上洛したようだ。
しかし、再びこの軍勢が陸奥に帰ったあたりから、東国は北朝方との熾烈な争いが展開される。延元元年(1336年)12月には瓜連城が陥落したため、義良親王と北畠顕家らは、伊達氏の本拠である伊達郡霊山白に移ったのである。
そして、二度目の上洛である。この戦いにも伊達行朝は加わり、『新千載集』には彼の歌が残されている。とはいえ、北畠顕家は戦死し、おそらく伊達行朝は吉野に拠ったと思われる。
かくして東国の立て直しのため、北畠親房らが派遣されたが、この船団は遭難。伊達行朝は北畠親房らと常陸に到着したものと考えられる。伊達行朝は常陸国伊佐城を拠点にした。ところが、彼の動向は戦いではなく、高野郡をめぐった結城親朝との訴訟として史料が残っている。つまり、所領をめぐり、南朝内でも党派抗争があったのである。
この後、伊達行朝の動向は全くわからない。南朝での伊達宗遠の活躍が知られるが、伊達氏も徐々に北朝方についていった。伊達行朝が南北朝のどちらに最後にいたか、これがわからない。前近代は『大日本史』以来伊佐城が落ちたときに下ったとされるが、明治時代の大槻文彦などの異論もあるし、そもそも伊達行朝の息子自体南北朝に分かれていたからである。
関連項目
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