伊505とは、ドイツ海軍が建造したU-219を日本海軍が接収して改名した潜水艦である。
概要
UボートXB型から伊500型へ
伊505の前身は、航洋型機雷敷設用のXB型Uボート「U-219」。その名の通り機雷敷設に特化しており、24基の垂直式機雷敷設筒と6基の機雷格納筒を装備し、SMB型機雷66個を搭載可能だった。機雷搭載用のスペースに物資を積み込めば輸送艦に転用する事も出来た。沢山の機雷を搭載する性格上、全Uボート中最大の全長を誇る。要目は排水量1763トン、全長89.8m、全幅9.2m、喫水4.71m、乗員52名、安全潜航深度100m、燃料搭載量368トン。武装は53cm艦首魚雷発射管2門、10.5cm単装砲2基、37mm単装機関砲1基、20mm連装機銃2基、魚雷15本、機雷66発。
1940年8月6日に発注され、1941年5月31日にクルップ・ゲルマニア社キール造船所にて起工。1942年10月6日に進水し、12月12日に竣工。ウォルター・ブルクハーケン艦長が着任した。竣工日から1943年6月30日まで訓練を実施。7月1日、フランス・ボルドーに拠点を置く第12Uボート戦隊に配属。
1943年10月7日、キールを出発。大西洋に進出するため、前進拠点のクリスチャンサンに入港。10月22日に出撃し、イギリス本国を北に迂回してアイルランド西方を南下しつつ南大西洋を突破。U-91、U-510、U-170、U-103、U-172に燃料補給を施した。何事も無ければコロンボ・ケープタウン間の海域に機雷を敷設する予定だったが、急遽ボルドーに戻された。道中の12月12日、カナリア諸島南南西でU-172と会同し、燃料補給を実施。しかし暗号解析で連合軍に動きが読まれており、護衛空母ボーグがすっ飛んできた。U-219は逃走に成功したが、U-172はアベンジャー雷撃機の攻撃で損傷した。1944年1月1日、ボルドーに帰投。
母港ボルドーでU-219は輸送用潜水艦に改造され、新たに20mm4連装対空機銃とシュノーケルを装備。1943年夏頃に、同盟国日本占領下のペナン基地への輸送任務が企図されており、今回の改造はそれに基づくものだった。当時ペナンにはモンスーン戦隊と呼ばれる第33Uボート戦隊が進出していて、日独の共同戦線が成り立っていた。
1944年8月23日、U-195とU-180とともにボルドーを出港。U-219には帰国する2名の日本軍将校、酸化ウラン、新型兵器の設計図、12個の部品に分解されたV2号ロケット2基、モンスーン戦隊向けの魚雷39本が載せられていた。しかしその情報は連合軍によって傍受・解析されていた。9月28日、カーボベルデ諸島西南西で護衛空母トリポリ艦載機3機から5回に及ぶ襲撃を受ける。アベンジャー雷撃機から8発のロケット砲が撃ちこまれ、音響魚雷とソノブイまで投下してくる猛攻っぷりであった。U-219は果敢に反撃し、19時40分に1機のアベンジャー雷撃機を撃墜。3名のパイロットを戦死させた。これが大西洋において、Uボートに護衛空母が負けた最後の実例となった。U-219は空襲の報告をしようとしたが再び捕捉され、3日間に渡って攻撃を受けた。あまりにも激しい攻撃のため浮上できず、69時間も沈降して過ごさなければならなかった。荒天に紛れて浮上し、逃走。連合軍のレーダーは嵐に阻害され、ついにU-219を取り逃した。
10月1日、U-219は第33Uボート戦隊に転属。正式にモンスーン戦隊へと加わった。翌2日にはアベンジャー1機が出現し、U-219に投弾したが幸い外れる。ペナン基地を目指して長い旅を続けていたが、連合軍の空襲と潜水艦の跋扈でモンスーン戦隊がペナンから撤退。これに伴ってU-219の目的地も変更になり、新たな母港のジャカルタが入港先になった。12月12日にジャカルタへ無事入港。U-195も到着した。他のUボートとともに係留されたが、12月26日に日本の輸送船タイチョウマルが突如爆発。U-219自体は軽傷で済んだが、港湾施設に甚大な被害が及んでしまう。
1945年4月22日、U-219の帰国に備え、日本第10方面艦隊はスラバヤの第102工作部に受け入れ準備と船体の整備を命じた。しかし5月6日にドイツが降伏。生ゴムや錫などの南方産資源を積載し、帰国の準備が出来ていたが、急遽取りやめとなる。ドイツ海兵は一切の戦闘行為を禁じられ、身動きが取れなくなる。16時頃、トラックがやってきてUボートの武装を撤去。マストには帝國海軍の戦闘旗が掲げられた。この時、6隻のUボートが東南アジアに取り残されていた。帝國海軍は残余のUボートを接収し、U-219も例外なく接収された。ドイツ側は戦隊司令ドメス中佐、U-181艦長カート・フライワルド少佐、水雷長デェアリング中尉、機関長ヒレー少尉などを立てて交渉。引き渡しは順調に行われた。運用する乗組員は日本本土から派遣されたが、U-219の分までは用意できずドイツ海兵が維持していた。
伊505
1945年7月15日に伊505に改名し、帝國海軍籍へと編入。呉鎮守府第二南遣艦隊に配備されたが、そのまま係留放置。調査の結果、130トンの航空燃料と35トンの物資が輸送可能だと判断された。もし乗員の補充が間に合っていれば、インドシナや香港南部方面で重油や物資の輸送に充てられる予定だった。
そして1945年8月15日の終戦を迎える。9月12日にイギリス軍に降伏し、11月30日に除籍。翌1946年2月3日、スンダ海峡南方でオランダ駆逐艦スコーピオンの砲撃によって撃沈処分された。
関連項目
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