「伍奢」(ご・しゃ ? ~ 紀元前523年)とは、中国の春秋時代の楚の政治家であり、中国最強のリベンジャー「伍員/伍子胥」の父である。名は「伍椒鳴」とも。
概要
楚の重臣を担った名家の出身で、祖父は楚荘王(熊旅/熊侶)の元で邲の戦い(ヒツの戦い)に参加した「伍参」で、伍参の子の「伍挙」の子として産まれる。
紀元前547年。父の伍挙が、罪を犯して亡命した「子牟」の娘を妻に迎えていた頃から、「楚康王(熊招)」より子牟の逃亡の手助けをしのではないかと疑われてしまい、伍挙は鄭の国に出奔し、晋へ亡命しようとした。その途中で誼を通じていた「公孫帰生」に会って楚に骨を埋めたい旨を伝えた事から、公孫帰生が楚の」屈建」に交渉し、楚康王(熊招)の許可を得て伍挙を迎えに行く役目を伍奢は担った。
「楚平王(熊弃疾/熊居)」の時代になると、伍奢は太子「熊建」の教育係である太傳に任ぜられた。
紀元前527年。かねてより太子の熊建と仲が悪く、度々楚平王(熊弃疾/熊居)に讒言していた「費無忌」が、熊建の妻となる公女を迎えに秦の国に赴いた際に、公女が美貌であった事から、熊建ではなく楚平王(熊弃疾/熊居)に献上してしまった。
さらに費無忌は、妻になる人物を勝手に父に献上されてしまった事を熊建が恨んでいるだろうと思い、楚平王(熊弃疾/熊居)に讒言して熊建を国境の守備にあたらせるようにした。
私が秦の公女をお入れして以来、太子(熊建)は私を恨んでいるので、王にも恨みを抱かぬはずがありません。
王におかれては、ご用心なされますよう。
と、太子の熊建が嫁を横取りされた腹いせに反乱を企てていると吹き込んだ。
楚平王(熊弃疾/熊居)は、熊建の太傳であった伍奢を呼び出すと、反乱を企てている件について問い詰めた。伍奢は、
王は、たかが小人の口先だけで骨肉の子を疎んぜられませうか。
と答えた。
しかし、費無忌が
ここで殺さなければ後悔する事になります。
とさらに楚平王(熊弃疾/熊居)に吹き込んだ為、伍奢は捕らえられ、誅殺されかけた熊建は宋の国に亡命した。
費無忌はさらに、
伍奢に二人の子がおり、殺さなければやがて楚の禍となりましょう。
父を放免するという口実で二人をお召しになれば、必ず来ましょう。
とさらに楚平王(熊弃疾/熊居)に吹き込んだ為、楚平王(熊弃疾/熊居)は、
二人の子を呼び寄せたなら、生かしてやろう。
しかし息子二人がこなければ生かしてはおけん。
と伍奢に持ちかけた。
伍奢は、
伍尚は来ましょうが、伍員(伍子胥)は来ないだろう。
伍尚は生まれつき廉直で、節義に死ぬことも出来、親孝行で情け深い。
父が許されると聞けば、死ぬのを何とも思わずに必ず来ましょう。
しかし、伍員(伍子胥)は生まれつき知恵があって謀を好み、勇気があって功を誇る男です。
必ず殺されると知ったら、絶対に来ないでしょう。しかし楚の憂いとなるのは伍員(伍子胥)でしょう。
と答えた。
伍尚と伍員/伍子胥の兄弟の元に使者が送られたが、伍奢の予想通り、やってきたのは兄の伍尚だけだった。
伍尚が、
父が許されると知って行かないとのは不孝である。
父を殺されて報復しないのは無謀である。
事を謀って行動するのは知である。
お前は去ったほうがいい。私は死地に赴く。
伍員(伍子胥)が逃げたとあらば、楚にとって危うい事だ。
と言った。
こうして伍奢と伍尚の親子は費無忌の讒言が元で殺され、死者に鞭打つ中国最強のリベンジャーが誕生してしまったのだった。
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