伏龍(ふくりゅう)とは、大東亜戦争末期に用意された日本軍の特攻兵器である。
概要
戦局の挽回が困難になった戦争末期、帝國陸海軍は来るべき本土決戦に備えて多様な特攻兵器を考案。そのうちの一つが伏龍として結実する事となる。考案者は黒島亀人参謀。
アメリカ軍は日本本土近海や瀬戸内海で機能する数少ないシーレーンを破壊するべく、1945年3月よりB-29を使った機雷の敷設を開始し、関門海峡、瀬戸内海西部、神戸港といった重要な航路・要港を封鎖しようとしてきた。大日本帝國海軍は「潜水員が機雷を爆破処理して掃海」という方法で対抗を試み、技術的な問題を解決するべく横須賀海軍工作学校研究部が不眠不休で努力。3月中旬頃には実用化の目処が立つ。これを見ていた軍部が潜水器具に特攻兵器の価値を見出し、どうにか兵器に転用出来ないかと打診、工作学校で実験を行って4月頃に報告書を提出した。すると隠密性に優れ、各種武器を携行出来る事から画期的考案と評価され、5月26日に「伏龍」と命名されて制式採用されるに至った。
さっそく3000人分の量産命令が下るとともに伏龍特別攻撃隊が編制され、菊水作戦終了後に余っていた飛行予科練出身の特攻隊員から志願を募って6月に480名が選抜(名目は特別攻撃隊というだけで配備先が伏龍である事は伏せられていたという)。志願者は横須賀対潜学校や由比ガ浜にて本格的な訓練を始め、10月末の実戦配備を目標に戦力化を目指した。
しかし伏龍の訓練は死が伴う過酷なものだった。潜水服を着た状態だと視界が極端に悪く、足元しか見えない上、陸上からの誘導通信もない。頭上を通過する敵艦艇を攻撃するには第六感が必要と言えた。より問題だったのが呼吸をするための空気缶。3~4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神し、缶内に海水が入ると高熱のガスによって肺が焼かれて死ぬと言う、想像を絶する問題装置だったのだ。これが原因で多数の殉職者を出してしまった。総数こそ明らかになっていないが、少なくとも横須賀では10名が殉職している。更に6月10日、土浦航空隊を狙った爆撃に巻き込まれて教員や隊員281名が無念の戦死を遂げてしまう。このような事故多発の状況を鑑み実戦配備困難の声が出始めたが、黒島参謀は強行して配備を進めた。
本格的な敵の上陸を迎える前に終戦を迎えたため伏龍は実戦投入されずに役目を終える。
運用法
伏龍は先端に15kg機雷(仮称五式撃雷)を括り付けた35mの竹槍を持って、5m間隔で整列して海底で待機。本土へ上陸しようとする敵艦や舟艇の船底に機雷を吸着させ、撃破するというのが主な運用法である。
潜水服の着用は地上で行うのだが、五式簡易潜水具は68kgもあり、地上では走ったり伏せたりする事が出来ない。五式撃雷を引きずりながら海中に入り、背中の150気圧気備器と空気清浄缶から酸素を吸入する。鼻で息を吸い、口から吐いてパイプに排気するのだが、もし逆をしてしまうと清浄缶から苛性ソーダが逆流し、肺を焼かれて死ぬ。軽く頭突きすると潜水服内の空気が抜けて海底を歩ける仕組みとなっている。背中から転倒してしまうと命綱の清浄缶が破損して死ぬので45度の前傾姿勢で移動する。潜水時間は8時間ほど。浮上する時は吸気弁を少しずつ開き、調節しながらゆっくりと浮上する。
海底では待ち伏せが基本で、頭上を敵艦船が通過すれば機雷を吸着させるのだが、近距離での爆破となるため潜水員も死ぬ。もし上陸前に熾烈な準備砲撃が行われれば役割を果たす前に死ぬ。常に死神と相乗りしているかのような極限状態を強いられるその運用方法から人間機雷とも言われる。
関連動画
関連項目
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