会沢正志斎単語

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会沢正志斎とは、江戸時代後期の武士であり、後期水戸学を代表する思想の一人である。

概要

天明2年(1782年)5月25日水戸下にて生まれる。諱は安(やすし)。正志斎と号す。

寛政3年(1791年)、数え年10歳(満9歳)の頃、同年、尊王論の走りとなる『正命論』を著した藤田子となる。 俊才の誉れ高く、文化4年(1807年)、後の水戸こと徳川斉昭の撫育役に任命される。

尊王と攘夷

文政7年(1824年)5月水戸大津英国人の捕鯨員12人が上陸する事件が発生。命により尋問に当たる。(大津事件)

この尋問の際、英国をはじめとする西洋列強の危険性を感じ取った会沢は翌年『新論』を著す。

謹んでずるに、州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。固より大地の元首にして、万の綱紀なり。によろしく大に照臨し、皇化の曁ぶ所、遠邇あることなし。しかるに今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四に奔走し、諸し、眇視跛履、敢へて上駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや。
(会沢正志斎『新論』)

この『新論』において、尊王思想と攘夷思想が合一され尊王攘夷思想として、また太の世で脆弱化した幕政の革を提示するが、危険思想と見なされたための意向によって出版することが許されなかった。 しかし、有志によって筆写されて密かに出回り、後の幕末における尊攘志士達の典として読されていく。

藩政改革

文政9年(1826年)、師の藤田が死去すると、跡を継ぐ形で『大日本史』編纂機関である考館の総裁代役に就任。

文政12年(1829年)、水戸8代斉脩が死去すると、後継として11代将徳川家斉の21男である徳斉彊を擁立する動きが保守から出たが、会沢や藤田東湖武田斎・安らが徳斉脩の徳川斉昭を擁立して猛反発。保守の動きを抑え、徳川斉昭が9代に就任する。

斉昭就任後、全領検地、士の土着化、校の設立といった革を補佐し、保11年(1840年)、革の一環として設立された館の初代教授頭取となる。

化元年(1844年)、斉昭に対し政策に介入してくる仏教に対する弾圧を進言し、容れられるものの僧侶保守からの反発を受け、この件で幕府にを付けられた斉昭は強制的に謹慎、会沢も同様に謹慎処分となる。

5年後の嘉永2年(1849年)、斉昭が政に復帰すると同時に会沢も赦免される。

幕末

嘉永6年(1853年)、米国艦隊が来航。対応策を斉昭に提出する。安政2年(1855年)、教授頭取に復職。

安政5年(1858年)通商条約締結に反発する朝廷から水戸へ密勅が下され、これを幕府に返納するか否かで水戸内の尊王攘夷が鎮とに分裂。内部抗争によって裂が生じ始める。

『新論』に感化された人々が、自らの意図をえて反幕的な行動に出ている事を憂慮した会沢は、朝廷から送付された勅状を幕府に返納すべきと。鎮として収拾に努めようとする。安政7年(1860年)3月水戸浪士による桜田門外の変が発生。この時も暗殺者達を批判する明を発表する。

文久2年(1862年)、徳川慶喜に対して開策を示した『時務策』を提出。攘夷から開への事実上の転向宣言となる。

 血気の小壮は、大敵を引受なば打破て州の武勇を万さんなどともいふべけれども、兵法も、彼を知りを知るに非れば戦勝を制し難し。
を一切に拒絶といふこと、寛永の良法といへども、其本はの制にも非ず、又東照宮の法にも非ず、寛永中に時宜を謀て設給ひし法なれば、後世まで動すべからざる大法とはいへども、内の大勢一変したる上は、むことを得ずして時に因て弛あらんこと、一概に非なりとも難し。
(会沢正志斎『時務策』)

文久3年(1863年)7月14日に数え年82歳、満81歳で死去。

翌年元治元年(1864年)、水戸にて盟友・藤田東湖の子息である藤田小四郎が、尊王攘夷を旗印に水戸天狗党を率いて挙兵するが、幕府によって鎮圧。藤田以下350人以上が斬首される大惨事に至る。これ以降水戸歴史の表舞台から姿を消す事になる。

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会沢正志斎

1 ななしのよっしん
2017/03/22(水) 14:54:13 ID: ajJieKhSFJ
>>az4480066543exit_nicoichiba
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2 ななしのよっしん
2018/05/08(火) 18:37:38 ID: C3R7AsgewP
天狗党の粛清水戸が終わったように書かれているが、実際は天狗党の生き残りである武田次郎による報復虐殺と、明治になっても続いた内ゲバ抗争で明治維新どころじゃなかったらしいってのが相みたいよ。
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◆CBGbQXRNEo 2022/10/19(水) 00:19:58 ID: rzBiBrAgN5
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