伯耆丸(ほうきまる)とは、ユニオン汽船の貨客船ハウラキを1942年7月12日に大日本帝國海軍が拿捕・改名したものである。1944年2月17日にトラック大空襲に巻き込まれて沈没。
概要
伯耆丸の前身はニュージーランドのユニオン汽船が保有する貨客船ハウラキ。船名の由来はオークランドのハウラキ湾から、伯耆丸は鳥取県西部の旧国名である伯耆国から取られている。ちなみに帝國海軍の中では鳥取県由来の船名を持つ唯一の船だったりする。
乗客12名(9名とも)の収容能力を持つとともに冷蔵設備を備えており、馬の輸送さえも可能とする多目的貨客船。また、ハウラキはウィリアムデニー&ブラザーズ社が最初に建造した大型ディーゼル船であると同時にニュージーランド海域に送られた最初のディーゼル船でもある。ブラスト噴射式の2つの大型8気筒4ストロークエンジンを搭載しているがこれは初期のディーゼル駆動船としては珍しいエンジンだった。
戦前は太平洋横断貨物貿易に使用。オーストラリアに初めてダグラスDC-2を輸送した栄誉ある記録も残している。第二次世界大戦が勃発すると、イギリス陸軍輸送省に徴用されて連合軍の物資輸送に協力。武装に関しては不明だが、砲手3名が乗船していた事が判明しているため、最低限の武装は持っていたと思われる。任務の途上だった1942年7月12日、日本海軍の特設巡洋艦報国丸と愛国丸に捕捉され、成す術なく拿捕の憂き目に遭う。ハウラキは日本海軍が拿捕した唯一のニュージーランド船舶であった。12月31日に伯耆丸へと改名し、本土近海にて輸送任務に従事する。1944年2月17日、トラック大空襲に巻き込まれ沈没。現在伯耆丸の残骸はダイビングスポットとして有名になっている。
要目は排水量7112トン、全長137.25m、全幅17.7m、出力4000馬力、最大速力12.5ノット、ツインスクリュー、乗員56名。
船歴
ハウラキ時代
1921年、ニュージーランドのユニオン汽船は、スコットランドの都市ダンバートンにあるウィリアムデニー&ブラザーズ社に貨客船の建造を発注。ダンバートン造船所で1039番船の仮称を与えられて起工。同年11月28日にハウラキ(Hauraki)と命名されて進水した後はホワイトインチまで曳航して工事を続行、1922年5月13日に竣工を果たした。船籍地はロンドンに設定。全力公試では12.44ノットを記録している。
戦前はシドニー、メルボルン、フィジー諸島、バンクーバーなどを巡航して太平洋横断貨物貿易に使用。主にシドニーやメルボルンを拠点とし、フィジーで砂糖を積み込んでバンクーバーに輸送、帰路は木材や一般貨物を輸送した。時々クック諸島ラロトンガ島に寄港する事もあったようだ。1920年8月4日にマリー湾・ブラウン湾間で座礁事故を起こしたものの大事には至らず。1934年8月5日にはスコットランドのロスシー沖で濃霧に遭遇して二度目の座礁事故を起こし、港湾局のタグボートによって離礁。ハウラキの座礁事故は翌日のオークランドスター紙で報道された。
1936年2月、ハウラキはオーストラリアで初めて運用されるホーリーマンズ航空向けのダグラスDC-2を貨物として積載し、カリフォルニアを出港。航空機はグリースで覆われ、海水から保護するため全ての開口部がテープで丁寧に留められていた。ニュージーランドに近づくと猛烈な強風に遭遇。航空機が甲板から吹き飛ばされそうになるも持ちこたえ、4月14日に無事メルボルンまで到着。栄誉ある大任を見事成し遂げた。
1939年9月3日に第二次世界大戦が勃発。開戦時に登録されていたニュージーランド船舶は186隻に上った。1940年にハウラキはイギリス陸軍輸送省に徴用され、アルバート・ウィリアム・クリースが船長に就任、主にニュージーランド人とオーストラリア人、少数のイギリス人が操船して「特別任務」に従事した。
1942年2月までは北米方面で活動し、それ以降はインド洋方面で連合軍の輸送任務に協力する。6月9日にシドニーを出港。メルボルンとフリーマントルを巡航している時にグレートオーストラリア湾で激しい嵐に遭遇し、両舷機関が焼けて航行不能となった上、乗組員の居住区や救命艇のストーブが浸水する被害が発生したため、フリーマントルへ入港して修理を受ける。
7月4日、中東向けの軍需品を積載してフリーマントルを出港。単身セイロン島コロンボを目指す。積み荷の中には、ニュージーランド海軍が自軍の軽巡に装備させるため、1941年9月から欲しがっていた対艦用レーダーSW型1基が含まれていた。
報国丸による拿捕
1942年7月12日21時50分、セイロン南方にて通商破壊中だった帝國海軍の特設巡洋艦報国丸と愛国丸に発見される。ハウラキの船員が吸っていたタバコの火を報国丸の見張り員に目ざとく発見されたのが捕捉の原因だった。軍艦旗を翻す報国丸から威嚇射撃を受けて乗組員2名が死亡し、ハウラキは為す術なく停船させられる。かろうじて拿捕が迫っている事を意味する救難信号だけは放つ事が出来た。
報国丸より派遣された回航班はニュージーランド軍の士官、乗組員52名、海軍の砲手3名、乗客8名を船内に閉じ込め、船倉にあった大量のチーズ、ラム酒、ジン、ブランデー、シャンパン、ウィスキー、ビール、衣料品等の嗜好品を全て押収したが、担当者の中に技術系がいなかったためか対艦用レーダーSW型は何の機械か分からず放置している。この時に押収した新聞で、日本側は1ヶ月半前に行われたシドニー港攻撃の詳細と、戦死した甲標的搭乗員がオーストラリア軍に手厚く葬られた事を知った。
イギリス海軍はハウラキの奪還を豪語。警戒強化を予期した報国丸と愛国丸はココス島攻撃を断念したものの、ハウラキは奪還される事無くシンガポールに回航された。7月31日、ニュージーランドの首相官邸は「拿捕後ハウラキの乗組員が行方不明になった」と家族に電報を打った。
8月29日にシンガポールの第10特別根拠地隊に引き継ぎ完了。乗船していた回航班は報国丸に復帰した。押収された嗜好品はシンガポールの海軍部隊と山分けにした他、一部のウィスキーは東京の軍令部にも送られている。ここで乗客と乗組員の大半はチャンギの捕虜収容所へ移動。日本では馴染みの無いエンジンを動かすために機関長を除くエンジニアのみ船上に留め置かれ、ハウラキの運航は三井物産株式会社に一任される。続いて日本本土に回航するため東南アジアを出港。
ニュージーランド人のエンジニアたちは武装警備兵の監視下で機関室に閉じ込められていた。彼らは少しでも抵抗しようと、警備の隙を突いて特殊なエンジンを整備するための工具、機関室のスペアパーツ、機関図面、メンテナンスマニュアル等を船外へ投げ捨てている。この勇敢な行動で後に乗組員2名が大英帝国勲章を授与された。
11月27日から12月5日にかけてインドシナのサイゴンへ寄港し、台湾方面へと向かう。しかしここで思わぬ問題が発生。シンガポール停泊中に日本軍はボイラー燃料を補給したのだが、ハウラキはディーゼル燃料駆動であった。このため暑い気候では問題なく作動したものの、台湾から日本へ向かう途中では燃料が全く流れず、ほぼタールのようなボイラー燃料を流すために燃料ヒーターを作らなければならなかった。加えて冷却水や潤滑油圧も不足しており、目立った支障やエンジン停止を引き起こすほどの大問題にはならなかったものの、部品の過度な摩耗と信頼性の低下を招き、早期の交換が求められた。
特設運送船伯耆丸
12月31日に横須賀鎮守府所管、海軍省配属の特設運送船(乙)となり、伯耆丸に改名する。乙という事で連絡用の下士官が数名乗船する以外は三井物産の社員のみで運航し、武装は省略された。
1943年1月2日に門司を出港、1月4日から10日まで大阪に寄港し、1月13日に横須賀へ入港する。エンジンを動かしていたニュージーランド人乗組員23名は退船させられて横浜の捕虜収容所に移送。そして1月16日に整備訓令が下る。
6月1日より浅野船渠にて艤装工事を開始。ニュージーランド人乗組員の破壊工作で負った損傷の修理や、摩耗した部品の交換、艦橋にデッキを追加するなどの改造を行い、約5ヵ月後の10月30日に整備工事を完了した。他の拿捕船の艤装工事は最長でも2ヶ月かかっていないところを見るに、改造を並行しているとはいえ修理にかなりの手間を要したようである。
早速10月31日に横浜を出港し、11月3日に室蘭へ入港。本土近海での石炭輸送任務に従事する。石炭は唯一日本国内で産出可能な戦略物資であった。11月6日、戦時において海上捕獲の効力を確定するための特別裁判所である横須賀捕獲審検所はハウラキとその積み荷を「捕獲」と判定。正式に日本船籍となった。11月11日に川崎へと移動する。
11月18日15時30分、瀬戸内海の釣島灯台500mにて帝國海軍の徴用タンカー大榮丸と衝突事故を起こして双方とも中破。修理のため門司を経由して11月21日深夜に呉へと回航。11月22日から12月2日まで呉工廠で修理を受ける。12月3日に呉を出港した伯耆丸は朝鮮半島方面に向かい、半島南西部の荷衣島と大東湾で仮泊したのち、12月9日に大連へ到着。燃料を満載にして12月15日に出発し、10日後に大阪へと到着して燃料を揚陸。12月30日に呉まで戻った。
1944年1月7日に呉を出港して名古屋に回航。1月10日、帝國陸軍の徴用タンカー橘丸、瑞洋丸、新潮丸、輸送船若竹丸、特設運送船永田丸からなる第8110船団に所属して名古屋を出港。1月13日に横須賀へと入港した。現地でトラック基地の防備を強化するための航空燃料、爆弾、爆薬、トラクター2台、いすゞ九四式トラック4台、乗用車、掘削機、ブルドーザー2台、スチームローラー等を積載。
トラック諸島への航海
1月20日、石炭と軍需品を満載した伯耆丸は特設運送船幸和丸、陸軍輸送船さんふらんしすこ丸、第六雲海丸からなる第3120船団に加わり、海防艦隠岐に護衛されて横須賀を出港。給油のために立ち寄った館山にて新たに海防艦満珠が加わった。翌21日、第3120船団はトラック諸島に向けて出発。
しかし出港直後から米潜水艦の執拗な追跡が始まり、1月22日に満珠が敵潜を発見して爆雷20発を投下するも効果不明、23日にも数回の威嚇投射を行うなど緊迫の航海が続き、1月27日になっても米潜の追跡を振り切れなかったため急遽サイパンへの退避を決定。1月29日にサイパンの停泊地へ到着、その停泊地を満珠が警戒遊弋した。1月31日に船団はサイパンを出発。2月1日に満珠が再び敵潜を発見して砲撃と爆雷攻撃を行ったが戦果不明、2月3日にも爆雷を威嚇投射している。
幾度となく敵潜の脅威に曝されながらも2月4日に船団はトラックまで辿り着いた。
トラックの広大な泊地内では沢山の輸送船がひしめき合っていた。トラック基地には内地のような優れた港湾施設が無いため荷揚げ作業に時間を要し、順番待ちが生じていたのである。伯耆丸も物資を積載したまま待機をしなければならなかった。この事が伯耆丸の命運を分けてしまう。
最期
1944年2月17日未明、アメリカ軍は第58任務部隊の正規空母5隻と軽空母4隻を投入したトラック基地への大規模空襲を開始(ヘイルストーン作戦)。少なくとも150機に及ぶ敵艦上機が1時間ごとにトラック基地の飛行場、海岸施設、停泊中の船舶へ猛攻を加えた。伯耆丸もまた激しい空襲下で数回の襲撃を受ける。
午後12時45分頃、夏島東南にて伯耆丸はエセックス、ヨークタウンⅡ、バンカーヒル艦載機に襲撃され、バンカーヒル所属のアベンジャー雷撃機が放った航空魚雷が左舷船体中央部に直撃して大破。更にドラム缶に積まれていたガソリン、航空燃料、ディーゼル燃料が誘爆して船首部分を吹き飛ばされ、大炎上する。どうにか初日の攻撃は耐え抜いたが、夜明けを迎える頃、誰にも看取られる事無く水深61mの海底へ水平状態のまま沈没した。乗組員23名死亡。アメリカ軍が翌朝攻撃を再開した時には既に行方不明となっていたため、船首倉の弾薬に誘爆しての沈没なのか、エンタープライズ艦載機の夜間攻撃による沈没なのか、長らく判然としなかった。1km先にはかつて伯耆丸を拿捕した愛国丸も撃沈されている。こうして伯耆丸(ハウラキ)は第二次世界大戦で喪失したニュージーランド船7隻のうちの1隻となった。
翌日まで続いた徹底的な空襲で輸送船31隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、特設艦船4隻が撃沈、航空機約270機と地上施設が破壊され、トラック諸島は基地機能を喪失した。3月31日に徴用解除。
戦後の1946年4月2日、第二復員省総務局総務課がハウラキの拿捕から沈没までの経緯を冊子にまとめた。またハウラキの鐘がイギリスのゴダルミング大聖堂に寄贈されている。
伯耆丸の残骸は一時行方不明となっていたが1980年に発見。現在魅力的なダイビングスポットの一つとなっている。ダイビングスポットはチューク諸島の法律に保護され、物資の回収を始めとするあらゆる干渉が禁止。どうやら船倉の1つから航空燃料が漏洩しているらしく潜水中に火傷をした人もいるという。伯耆丸と海洋生物が織りなす幻想的な美しさは、環礁内の他の沈没船と比較しても上位のようで、特に珊瑚や魚好きのアメリカ人が魅了されているとの事。
関連項目
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