この項目ではプロレスラーについて記述しています。
PeerCast配信者については「佐々木健介(PeerCast)」を参照してください。
佐々木健介とは、日本のプロレスラー。1966年生まれ、福岡県出身。
2011年にデビュー25周年を迎えた、健介オフィスの総大将。
概要
ジャパンプロレスに入門するが、団体が新日本プロレスに吸収されるのにくっついて移籍。しばらくは、パワーだけが売りで脳ミソも筋肉でできてるんじゃないかと思わるしょっぱいレスラーだった。
同時期にレスリング日本代表の肩書を引っさげ鳴り物入りで入門した馳浩や、ほとんど同期の「闘魂三銃士」である武藤敬司・橋本真也・蝶野正洋が新日本の、ひいてはプロレス界スターとして注目されていく中、地味だった健介は「パワー・ウォリアー」として独自の道を歩いていた。
しかし佐々木健介という素の素材では、地味で華の無い試合内容が多く「佐々木塩介」と呼ばる事もあったほど。得意技も、今でこそ嫁の北斗晶から伝授されたノーザンライトボムなどバリエーションが豊かになったが、当時はラリアットにサソリ固めという、師匠である長州力のコピーレスラーでしかなかった(両者とも、長髪であったり表記どおりの身長には見えないところであったりというところまでそっくりであった)。
しかしパワー・ウォリアーに変身すると、変態的な強さを手に入れていた。
かつてロード・ウォリアーズの一人であるホーク・ウォリアーと「ヘルレイザーズ」という、かの名タッグを髣髴させる名前のコンビを組んでいたときは、タッグマッチ40連勝という世界記録を達成している。まさに本人の最盛期であり、闘魂三銃士とともに新日本プロレスの90年代黄金期の立役者であった。
一方で、まっすぐな性格やファイトスタイルから、いい意味で不器用でありパフォーマンスも不得手であった。
この事が「正直、スマンカッタ」というAAネタを生み、揶揄されながらもファンに愛される所以となっていた。
しかし、長州にくっついてWJプロレス旗揚げに参加したことが人生を大きく変えていく。
WJが諸般の事情で崩壊するとフリーランスになり、2004年になるころには試合がほとんど無く過去の人扱い。
そして貧乏、ドン底…しかしこの頃の苦労が後の覚醒につながっていった。
同年に北斗晶、元WJ所属で"長男"として加入した中嶋勝彦とともに健介ファミリーを結成。全日本プロレスなどで暴れまわり、2004年のプロレス大賞で見事MVPを受賞する。
一方でDRAGON GATEなどに参戦し"楽しいプロレス”が出来るようになったり、2005年度ベストバウトを受賞した、NOAHでの小橋建太との激しい逆水平の打ち合いなどという、良い意味でパワーの無駄使いが出来るようにもなった。プロレスの幅が広がったのである。
健介オフィスを設立後でも、プロレス以外でもたびたびテレビにも出演する。2007年には団体化。中嶋の他に、現在全日本プロレス所属の宮原健斗やNOAHにも参戦している梶原慧など、個性あふれる選手を育成している。2012年には団体名を"DIAMOND RING"とし、健介自身も首の負傷などで試合数は減少したものの、精力的に活動していた。
そして2014年2月11日。この日のDIAMOND RING後楽園大会メインでの中嶋戦に敗れた健介は「もう、思い残す事は無い」という引退を示唆する発言をする。その2日後に正式な引退発表を行い、28年間のキャリアにピリオドを打つ事になった。引退試合、興行は行わないため前述の後楽園大会が健介最後の試合となっている。
IWGPヘビー級(新日本プロレス)・3冠ヘビー級(全日本プロレス)・GHCヘビー級(NOAH)と、プロレス界のメジャー三団体の看板ベルトをそれぞれ獲得し、グランドスラムを達成した最初のレスラーである。(健介がGHCヘビーを戴冠して達成した半年後、高山善廣が3冠ヘビーを奪取して同じく達成した。)
関連動画
関連項目
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