佐々木只三郎(唯三郎)とは、幕末の幕臣、京都見廻組与頭である。
概要
天保4年(1833年)、会津藩士・佐々木源八の三男に生まれる。諱は泰昌、後に高城。実兄に会津藩公用人・手代木直右衛門がいる。
藩校日新館にて神道精武流剣術、大内流槍術を学び、また、歌人・鈴木大之進から和歌を学んだ。特に小太刀に長け、「小太刀をとっては日本一」と称された。
万延元年(1860年)頃、江戸に出府し、御書院番与力・佐々木弥太夫の養子になる。
文久3年(1863年)2月、浪士組(新選組の前身)の取締役出役に任じられ、京都に向かう。京都に着くと、浪士組の黒幕清河八郎が江戸で攘夷を実行すると主張して江戸に戻るとこれに同行。4月13日、幕府高官の密命によって清河殺害を指揮した。
元治元年(1864年)4月、幕府が京都見廻組を発足させると、6月に見廻組与頭勤方に任命された。慶応元年(1865年)12月、与頭に昇進し、実質的に見廻組を統括するようになる。
慶応3年(1867年)11月15日、見廻組隊士数名を率いて醤油商近江屋に潜伏していた坂本龍馬、中岡慎太郎を襲撃、殺害を指揮した。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いにて隊士約400人を率いて参戦。6日、被弾して紀州に逃れたが重傷のため12日に紀三井寺で死亡したとされる。近年見廻組隊士の回顧録が発見され、それによると戦いで重傷を追った佐々木は、紀伊由良まで逃げ延びて旧幕府軍艦の富士山丸に治療のため乗船したが間もなく死亡し、遺体は水葬したとされる。
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